■太陽帝国「楽屋裏」 その2
 アイヌ国家の形成

 複数(8つ)の王家による選王制度。家柄や血筋だけでなく、各個人が実力を持たざるを得ない貴族の存在。国民皆兵型の屯田兵制度。
 上記3つが国家としてのアイヌの根幹でしょう。しかし、多くがアジア型中世国家とは言えない要素と制度です。
 また、古代民族としての宗教を持ったままのアイヌ達ですので、国家としての組織、制度を人に例えれば、純朴な人が国家という鎧をまとったと表現できるでしょうか。
 オフィシャルでは、アイヌの制度の多くはモンゴルの制度を基本としていると説明してあります。つまり中華世界においては、遅れた制度ということです。
 事実、中華帝国で伝統階級としての貴族というものは、この頃には実質的に存在しなくなっています。その代わり半ば世襲化した官僚や農村豪族が責任階級としての役割を担っていますが、歴史を見るかぎり彼らの責任階級としてのモラルの低さは、一部を除いて目を覆わんばかりです。
 そして中華帝国的腐敗を避け、効率的な国家を組み上げるための方便が、最初にあげた三つの事になります。
 また中華世界の皇帝は、天意を受けて世界(中華世界)を治めるという意識が第一にきます。最初に「天」など見られては、地に足が着いた権力とは言い難いでしょう。
 もちろん絶対的権力としての君主の成立は、西欧的な状況から導いていけば、西欧列強のような発展も見込めるかもしれません。しかし、アイヌの住む狭いテリトリー内で中華的な制度を採用する事は害悪にしかならないと判断しました。
 中華的な政治システムは、あの広大な地域を支配し、人の海を統治するからこそ必要な制度です。小さな地域・コミュニティーで採用してしまうと、一時期の朝鮮半島のような、国家、民族として最低な状態が簡単に出現します。日本列島がシヴィラゼーション的に成功したのも、擬似的な中華システムから比較的早期に脱却して、独自の制度、社会を作り上げたからでしょう。たいていの国家や民族には、一定のモラルを持った責任階級が必要なのです。
 かといって日本のコピーも問題です。できても徳川型武家政権のデッドコピーになる可能性が高くなります。斬進はできても、ドラスティックなシヴィラゼーションはなかなか期待できません。いずれ日本に飲み込まれる事でしょう。
 中華もダメ。日本もダメ。朝鮮など参考にすらならない。基礎になるのは旧支配者のモンゴル。先進地域が二つともダメとなったので、初期のアイヌ勢力を国家というよりは、軍事と経済を基本に置く政治システムとして作り上げました。また上に立つリベリオン達に、国家と言うより企業や軍隊のような合理的組織を作らせたのは、独自の統治システムを持たせるためです。
 そして、モンゴル的軍事(屯田兵)社会と企業集団的中央組織というファクターが、アイヌの国家、政治システムとしての最初の背骨であり背骨と鎧になります。
 その象徴として、「選王制度」、「責任階級としての貴族」、「国民皆兵型屯田兵制度」を作り上げました。あとは、すべての国家に共通する「国家と宗教の関係」もはずせないでしょうか。
 順に見ていきましょう。

 選王制度は、似たような制度を探せば世界各地にあります。
 ローマ帝国は、血統を重んじつつも形式的には先帝が後継者を選びます。神聖ローマ帝国は、形式として6つの選帝公が存在していました。オスマン帝国は、多くの皇太子を立てて競争の末皇帝を選びだし、皇帝となった者以外を殺すという非情な制度を持っています。ポーランドも一時期独自の選王制度をもっていました。モンゴルでは、先代が亡くなった後に一族の会議を開いて次代のハーン(王)を選んでいます。
 どれも単純な世襲制度とは言えません。ですがどの制度も、無能な統治者の出現を避けるため、もしくは妥協の産物としてできた統治制度です。
 この中でアイヌが詳しく知っている制度は、一族会議で次代の王を選ぶモンゴルの制度です。
 また単なる世襲が、時として暗君や傀儡を容易に生み出すのは、ローマや中華大陸の膨大な記録を見れば明らかです。いっぽう、司法組織としてのみの政府の政治的基盤が脆弱なのは、鎌倉幕府を見れば明らかです。かといって、絶対君主と官僚による近世的な統治など、時代を考えれば考え出される余地がありません。
 そこで幾つかの王家を立て、各家で選ばれた王太子をさらに競争させて選ぶようにすれば、という考えが出たとしています。
 これなら血統による王族の象徴性も維持できるし、暗君、愚帝が立つ可能性も低くなる。世襲に伴う権力闘争も、当代の王を出した家を次代では選ばないとすればある程度避けられる。もちろん王といえど、制度を変えることは決して出来ない。以上のように設定しました。
 いっぽう、原始社会的雰囲気を残すアイヌの政治制度は、直接民主制度による村長の選出、その村長の中から地域代表を選出sるという形になっています。ここからも、モンゴル的制度を受け入れやすい素地はあるのではと考えました。
 かくしてアイヌでは、アイヌ本土のそれぞれを代表する八つの王家が並び立ち、選王制度を作り上げてもらいます。
 なお、王家の数を8つにしたのは、日本的国家の側面を数字の上で強調するためです。本来なら10王家になるはずでした。(この時点で、某SF小説をインスパイアしたわけではありません(笑))
 もともとアイヌの住む北海道地域(南樺太、千島列島含む)は8つの大きな地方集団のような緩やかなコミュニティーがあり、新たな封土とした北樺太と北奥州が加わって10個です。
 ですが10という数字は、十進数の計算式以外では日本で好まれる数字ではないでしょう。仏教世界でもあまり見かけません。
 八こそが最も安定する数です。仏教にも八葉などという言葉があります。
 そして地方集団の名残として、各王家の名前に地方集団名そのものを当てはめてみました。これは別段手抜きしたわけではなく、王家が治める地域の名前をそのまま語るのは世界的にもよくあることです。しかもアイヌは、明確な名字(家名)を持たないモンゴルから、進んだ文化・文明を得ています。名字にこだわりは少なく、この流れに落ち着く可能性は高いでしょう。
 なおアイヌの王制、政治組織は、初期においてはどれほど強固な体制を作ろうとしても中世的なものになるでしょう。しかし、王に権力を集中した1551年の新王朝成立以後は、実質的には絶対王制です。選王制度とあわせて考えても、実質的には「帝国」になるでしょう。
 理由の一つは、王家の上位に存在する唯一の者が国家を治めているからです。他の政治地域(中華や日本)から政治的・精神的に完全に独立しているので、この点においても帝国としての側面を強めています。
 形式的には、複数の王家が競い合って国家・民族全体の絶対者を選ぶ絶対王制という複雑な形ですが、実質は限られた血統から世襲大統領、つまり一代限りの皇帝を出す制度です。
 また16世紀以後、自分たちから株分けして新たに国家を作ったりもしてますので、アイヌ王を「皇帝」とする「帝国」の側面を強める筈です。事実チコモタイン朝(1551〜1789)は、実質的な「帝国」であり、政策も覇道的な要素を強くしました。
 もっとも当人達は、そんなもの作る気はないし、作ったつもりもないと否定するでしょうけどね。

 さて次に、奇妙な国家を支える責任階級としての貴族ですが、中世以後の中華世界では西洋で一般的な貴族、豪族はほとんど存在しません。意図的に抹殺されました。
 中華世界独特の皇帝という存在が、伝統的支配階級としての貴族を必要としないからでしょう。皇帝には、実利によって手足のごとく動く官僚、軍人、宦官さえいれば良いのです。そして人工的な特権階級が、自らの権力維持と私腹のため汲々として、中華的国家を最終的に蝕んでいく事になります。これでは、健全な責任階級とは言えません。ですが中華世界での制度は、広大で本来雑多な民族集団が割拠する中華を一つにまとめるために必要なシステムといえるでしょう。
 いっぽう、もうひとつの巨大なアジア世界のインドでは、凄まじいばかりの細かさを持つ階級制度があります。バラモンやクシャトリアなどという名称を聞いたことがあるかと思います。すべてを含めたインドのカーストと呼ばれる身分制度には、大別して貴族や武士に相当する階級が存在します。現代のインドでも、カーストのくびきからは逃れられていないそうです。
 ですが、インドの制度をアイヌが詳しく知る機会はありません。さらに言えば、インドの制度を必要とするほどアイヌ人の数そのものが多くありません。だいいち建国当初は単一民族なので、インド、中華ほど強引な統治制度は不要です。
 いっぽう近在の日本では、「武士」という名の農村豪族から発展した世襲と土着を尊ぶ伝統的支配階級が古代王朝の後半に誕生、以後発展します。ですが、旧来の意味での「貴族」も、旧都の京を中心に勢力を残したままです。
 特にアイヌが国家を作る頃は、まだ両者の間に決定的な力の違いは出ていません。天皇が一時的に権力を取り戻した「建武の新政」がその証です。「武士」と「貴族」の差が決定的となるのは、応仁の乱以後、戦国時代に入ってからです。
 またモンゴルには、血統を尊ぶ貴族社会が存在しています。
 しかも騎馬民族の特徴で、前線に立ったり軍を率いたりしています。これは王族に類する人々ですら例外ではありません。遊牧社会では、指導者自らが力を見せることが権力維持の条件の一つといえます。
 そしてアイヌ達の最初の組織は、企業的な職能集団でした。当然ですが、民族を解放に導いた彼らが高い階位の貴族、責任階級として台頭していきます。
 かくして、母体となった組織とモンゴル的社会が融合した結果、アイヌに「責任階級としての貴族」が出現します。
 彼らは、時には戦い、時には純粋な経済面で国を富まし、技術を発展させ、しかるべき制度を経た上で政治へと参画します。
 そして自らの持つ豊かな財力で、一族郎党に自らの状態を維持させ(徒弟教育の強化)世襲貴族としての地位を確立。被支配階層に対しての自らの存在を知らしめることができます。
 また、国の統治者が実力主義で選ばれる以上、その下の者が単なる世襲では締まりが悪いという感情面も否定できないのではと思います。
 いっぽう、その貴族の階位ですが、西欧のそれとは全く違います。参考としたのは、日本の明治の頃のものです。
 たとえば英国では、「デューク(公爵)」、「マーカス(侯爵)」、「カウント(伯爵)」、「バイカウント(子爵)」、「バロン(男爵)」、「ナイト(騎士)」と分かれていきます。その中のデュークは、王族に連なる者がなります。欧州では、時代や地域によってデュークやマーカスなど上位に位置する位の貴族が、一国の王であることも稀ではありません。公国や大侯国、侯国がそれにあたります。
 ですが、日本の明治政府が取り入れた欧州風の貴族制度は、旧大大名に公爵の称号を贈ったりするなどかなり違うものでした。 日本の場合は、「皇族」というさらに上位の存在(階級)が別にあったからという理由もあるでしょう。
(それ以前の京都と朝廷を中心にした身分制度は、古代王朝時代のままで古すぎるので割愛します。)
 そしてアイヌの場合は、早い段階で西欧ともアジアとも違う責任階級の形成を始めます。おそらくは、日本の公家やはるか昔の中華帝国のそれを参考にする事でしょう。欧州の制度が伝わるのは、自ら欧州まで足を伸ばすまで待たねばなりません。
 このため、徹底的に開き直ってファンタジックな名称としました。階位・階級による役割の違いも、分かりやすく分類しました。正直、日本の支配階級制度と違うものが有ればそれでよかったのです。

 そして貴族にも連動してくる「国民皆兵型屯田兵制度」ですが、これはモンゴルの制度の直輸入です。いや、直伝というべきでしょうか。騎馬民族国家では、国民皆兵は当然すぎる制度です。
 また、建国当初のアイヌ人の人口は非常に少なく、アイヌが狩猟・採取民族の状態から遊牧民族のモンゴルの支配を受けます。シヴィラゼーション的にも、モンゴル的な兵制をアイヌが持つことに大きな問題はないでしょう。
 また、成立の経緯からアイヌ貴族の数が少なく、武士や騎士のような国や王に仕える土豪が明確な形で存在しないのも、屯田兵や国民皆兵を補強します。
 そして建国から最初の大規模な激突の間まで、屯田兵として過ごした中産階級や自作農達が武士や騎士のような階級へと進化していきます。これは、国家が大きくなり、国民の数が増えることで補強されていきます。
 国が大きくなれば、産業が発展し分業が進むのは道理。アイヌ自体が、農耕から放牧、漁業、商業など自分たちですべて行うようになるのも、職業と身分の分化を促進するでしょう。
 国民のすべてが放牧するような騎馬民族でない限り、長期にわたる国民皆兵は近代以前ではなかなか成立しません。

 いっぽう、国家としての軍隊は、巨大な経済力がなければ維持できません。国家軍(国民軍もしくは常備軍)を近世以前でまともに作り上げた国や組織が極めて少ないことを思えば、どれほど軍隊が非生産的な存在か分かるというものです。
 だからこそ、戦争の際のみ兵役に付く屯田兵(この場合半農半兵で、日本の戦国時代ではごく普通の兵士といった方が適当でしょうか)の存在が欠かせません。
 また、アイヌのかなりの部分が、モンゴルの支配により騎馬民族的な生活習慣が取り入れられています。中世的国家である限り、屯田兵の維持は容易でしょう。
 ですが、経済面で屯田兵を維持できるのは一時期だけです。おそらくは、国家が発展し、新たな軍人階級である「士族」が形成されるまででしょう。
 屯田兵が維持できない主な理由は、アイヌに建国時から多くの火薬兵器を持たせているから、つまり屯田兵では維持できない高価な軍備と装備を持つからです。騎兵は、馬の放牧産業が大規模にあればある程度維持できますが、硝石の産地を抱えない地域での火薬兵器の維持は、通常の経済活動とはなかなか結びつきません。しかも大規模な産業(農業と商工業)の必要性も出てきますし、何より大規模な消費社会が必要でしょう。大量の火薬兵器の運用は、近世以降によってのみ可能な筈です。
 となると、早期に絶対王制的な政権と、国王の軍隊を作り上げる必要が出てくる素地が出てきます。もしくは、国家と国民軍の関係を作り上げるしかありません。しかし、中世世界の段階で国家と国民軍を作っては文明進化をさせすぎです。
 この時代に実現できる政治形態の限界は、王にすべての権力を集中する絶対王制まででしょう。
 かくして、軍事組織の編成が異常な文明進化をアイヌにもたらします。これが国民皆兵から一気に階級社会発展、国王の軍隊へと結実。この極端さが、アイヌを目立たない世界帝国へと押し上げていきます。

 最後に、国家と宗教の関係を見ましょう。
 もともとアイヌには、すべての自然物を「カムイ」と表す精霊崇拝の原始宗教しかありません。有名なイオマンテ(熊送り祭)に代表されるように、生け贄を使うかなり原始的な自然崇拝です。
 文字を持たない口承文化なので、時代、地域によっての差もかなりあります。
 いっぽうモンゴルも基本的に自然崇拝です。いっぽうで、彼らが持ち込んだ中華文明には、儒教という抽象的な道徳観念に似たものが発達しています。この頃の中華世界では、仏教はすでに刺身の鍔です。近在の日本では仏教が盛んですが、自然崇拝・精霊崇拝の延長線上にある神道も共存しています。一神教のキリスト教やイスラム教は、アイヌの知識階層が存在を知っているというレベルでしょう。
 そして国家は、国家と国民意識をまとめるための宗教を求める筈です。西欧での絶対王制がそうだったように、です。

 古代から中世においてのアジア世界の多くがそうだったように、国家宗教に一見うってつけなのが仏教です。仏教の教えが、支配階級に都合の良い部分が多いからです。
 しかしアイヌ民族そのものが、宗教(神)と王権を強く結びつけるほどの宗教的価値観を持つまでには至っていません。神など超自然的な存在とは、自然と共に存在するものです。敬いこそすれ、崇めたり救いを求るものではないでしょう。支配者となったモンゴル人も、自らの宗教を強引に押し付ける可能性は低くなります。歴史上からかなり確実です。奥州北部に落ち延びたリベリオン達に至っては、抽象的なものより自らの力のみを頼りとしています。
 いっぽう、仮にアイヌの王と自然崇拝を結びつけても、できあがるのは天皇家のような祭祀的存在になりかねません。それはあまりに古代的な王権であり、アイヌが求める権力ではありません。現実的なものが強く付随していなければ、国家としての宗教なんてものは不要なのです。
 そして短期間で結果を求めたアイヌ達は、現実権力としての国家建設に邁進します。よって、自らの持つ精霊崇拝を民族全体として体系化する程度に止めてしまいます。
 つまり当面の政権は、抽象的権威に頼らない中世的国家という事になります。そして抽象的権威を求めない代償として、先に挙げた選王制度や責任階級の側面を強め、現実的な集団として強大な国家建設へと突き進んできます。
 そして宗教そのものは民間信仰として発展し、政教分離による国家と政府ができあがります。

 かくしてアイヌでの国家宗教の発展は遅れ、権力者、支配階級は、宗教的権威を補うべく責任階級としての王族、貴族を発展させることになります。
 民族性から権力としての宗教が成立しにくい以上、上に立つ者も安易に権力の上に胡座をかくわけにはいかないのです。
 形としては、帝政時代のローマの一時期に近いかもしれません。
 後に西欧的な絶対王制が成立しますが、こちらも宗教的権威は小さなものになります。せいぜい明治日本レベルになるでしょう。アイヌが求めるのは、常に現世において力を持つ権力、という事になります。
 そして世界的に見ると歪な政教分離の状況こそが、穏やかな暮らしから突如苛酷な現実に立ち向かわなければならなかった人々の歩んだ道のり証と言うことになります。


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