■太陽帝国「楽屋裏」 その3 アイヌの発展と、日本とアイヌの激突
「対外戦争」は、シヴィラゼーション上で是非とも必要なファクターです。特に近代的な文明圏や国家を作り上げるつもりなら、複数の中規模国家の乱立と共に外国との大規模な戦争は必須事項といってよいでしょう。 異なる価値観を持つ者同士が本気でぶつかり合う事で、互いを意識する必要があるからです。生存競争と競争意識こそがシヴィラゼーションのゆりかご足り得ます。 また戦争行為そのものが、シヴィラゼーションを加速させるヘビーファクターとなり得ます。 統一政体の強化、無理な生産拡大、再生産を生まない動員、徴用、戦闘、略奪、強姦、殺戮……。多くはそこに生きる人々にとっては悲劇でしかありません。しかし、暴力的な変化の強要が、人と人の作り上げた社会を一つ上のステップへと押し上げていくのは、歴史上の必然です。欧州文明が最大の例でしょう。 欧州地域は、適度な大きさの地域に適度な規模の国家が数多く存在し互いに対立したからこそ、最も早く文明の発展ができた筈です。逆に中華地域を含む東アジアの発展が停滞したのは、中規模国家の乱立という状況が成立しなかったからではないでしょうか。 秦の始皇帝許すマジです。彼が中華を統一して焚書などという思想統一なんてしなければ、あの大陸には多数の国家が乱立して、日本なども巻き込んだシヴィラゼーションの加速は西洋を上回ったかもしれません。 まあ、中華大陸のことはともかく、日本とアイヌの戦争について順番に見ていきましょう。
さて、日本とアイヌの最初の激突を1455年〜47年に選んだのは、史実のアイヌ史において日本とアイヌの戦闘が道南(現在の函館から松前のあたり)で行われているからです。クライマックスの戦いの序曲で登場したアイヌ側指揮官のコシャマインという名も、史実のアイヌ側の主導者として文献に出てきます。「コシャマインの戦い」として記録にも残っており、主に函館・松前近辺の日本人とアイヌ人が戦ったとされています。(結果は日本の勝利。) しかしこの世界のアイヌは、1345年の時点で自らの国家を成立させています。しかも、アイヌが国家として成立してから、特に外国からの干渉もなく一世紀が過ぎています。 建国から一世紀という時間を、すべて生産と勢力の拡大に注ぎ込めば、シヴィラゼーションは適度に進みます。北海道は、農地として根気強く開発を進め牧畜や漁業を促進すれば、技術の高くない当時でもかなりの人口を抱えることが可能です。また、産業の拡大に伴い商業が発達して外国勢力との取引が大きくなれば、それだけである程度の人口を養うこともできます。 特に農業など一次産業の発展に伴う人口拡大によって、アイヌの国家としての基礎体力は計数的に上昇するでしょう。ここからは少し数字の勉強です。 モンゴル軍が来る以前のアイヌは、近隣の部族を含めて、北海道(モショリ)、樺太、千島で合計して約3万人です。すべてが狩猟と漁業、採取を行う縄文文化的な生活を送っています。 その後70年間のモンゴルの支配を受け、いくらかの移民とアイヌ自身が農耕技術を身につけたことにより、モショリ内の人口は10万の単位に上昇します。モンゴルの支配の間に農業と放牧、より大規模な漁業や、様々な二次産業も身につけます。街や都市も誕生しているでしょう。支配するモンゴルにとっても、潜在的に豊かな土地を開発する事は自らの利益になります。何より、日本侵略の為の橋頭堡として、モショリを確固たる足場にしなければなりません。原住民の農耕社会建設による集団化を足がかりとした造船業の拡大は必須事項でしょう。 特に三度目の日本侵略にこだわったフビライの御代の間は、元帝国が大きな努力をモショリに傾ける筈です。対日侵攻拠点としての函館、小樽などの街は造船の街、港町として大きく発展しているかもしれません。 そしてモショリを奪回したアイヌは、自らの国家を強固にするためあらゆる産業をさらに振興させ、人口の拡大に努めるでしょう。建国後、生み出した財を国家の拡大に懸命に注ぎ込んだとすれば、人口はさらに計数的拡大をすることも可能です。20年で一世代として百年で五世代。人口増加率が2%を維持できれば約7倍以上になります。 しかもアイヌは、北海道や樺太だけでなく、北奥州地域、オホーツク海沿岸部やアムール川流域も征服によって飲み込んでいきます。飲み込んだ地域の人口の拡大、商業圏化も間違いありません。最初に領土とした奥州北部(青森、秋田、岩手)の当時の人口もどんぶり勘定で10万人あります。日本列島全体の飢饉の際は、強固な国家を作り上げて飢饉を回避しようとするアイヌ目指して、奥州南部などからの流民(移民)も発生するでしょう。 かくして、建国時に生まれた赤子が国一番の長老となる頃、数字の上でアイヌは百万人の人口を抱える国家へと成長します。 百万人という数字は、戦国時代でいえば百万石大名、地方の大諸侯レベルでしかありません。ですが欧州に目を向けて見れば、一時期世界を席巻したポルトガル王国とほぼ同じ人口です。少し後に出現したネーデルランドも人口的には小国です。8万人の常備軍を作り上げたフリードリヒ大帝のプロイセンも、当時の人口は200万人です。欧州的視点から見れば、百万人という数字はそれなりな国家規模といえるでしょう。ましてやアイヌには、日本以外本当の意味での天敵は存在せず、北海道・オホーツク、さらに時期によってはアムール川の富も独占できます。天敵の日本についても、中央政府・産業中枢・人口密集地帯は、当時の視点からアイヌの大地を見れば遙か彼方です。日本中央としても、モショリ(北海道)はおいそれと大戦争を起こせる場所や相手ではありません。 またアイヌの域内には砂金や金山も豊富にありますから、産業、経済発展もかなり楽です。独自の貨幣制度すら作り上げることも夢ではないでしょう。富を生み出す、北方独自の物産にも事欠きません。一説には、江戸末期の松前藩(北海道)が生み出す富は、百万石大名に匹敵、場合によっては二百万石とも言われますから、史実の蝦夷以上の地域を飲み込むアイヌの経済力が大きくなる可能性の方が高くなります。しかも幸いな事に、消費地帯としての日本列島の経済も拡大傾向にあり、中華中央に対しても辺境での密貿易も十分可能でしょう。 そして経済が拡大すれば、人口の上昇も自然と発生していきます。商取引の主な相手は、アムール川流域の各部族と日本です。 人口も、日本の中央から離れて経済的に貧しい奥州南部から、かなりの数の日本人が流れてくるのではと思われます。モショリ(北海道)は、お米の栽培に固執しなければ、基本的に豊かな土地です。戦乱の頃や、頻繁に発生する飢饉の時に、日本から流れてくる人の数はかなりの多くなるでしょう。なにしろ、エミシュンクル(奥州北部)と日本は地続きです。 そして地続きという事象が、日本の中央に安易な侵略を呼び込むことになります。
いっぽう、史実と同じように強固な統制力のない室町幕府に、十万人単位の大軍を奥州北部まで進撃させることが出来るのか? 正直、かなり難しいと思います。 ですがこの世界の日本は、建武の新政の頃から「アイヌ」という異分子を近隣に抱えている事を知っています。奥州北部の豪族は軒並みアイヌに滅ぼされるか吸収され、境界線近辺にある日本側の豪族などは戦々恐々としつつも交易など行っています。 また、アイヌがかなり豊かな存在らしいとも知っています。アイヌは豊富な金と北の物産を用いて、日本との貿易を活発に行っているせいです。北の大地から京の都にまでもたらされる様々な物産は、日本全体の商業活動すら活性化させるのは間違いありません。日本中央部には、我々の世界より早く塩漬けや薫製のシャケやニシン、昆布など北の物産が大量にもたらされているでしょう。日本人にはあまり馴染みのない高級毛皮や獣の肉なども、沢山もたらされている事でしょう。 おそらくこの世界の奥州は、アイヌと日本中央との中継交易により史実よりも豊かで発展しているはずです。先述したように、北にもう一つ政治と経済の重心が存在するため発生する変化です。アイヌから伸びる北の街道や港、中核都市も、ずっと整備されていると考えて間違いありません。これは時代を少し遡った奥州藤原氏の作り上げた平泉が多くを語ってくれると思います(ちなみに、平泉跡はエミシュンクルの一部としてアイヌのテリトリーとなっている)。 そして、古い言葉で「北狄」とされる北の蛮族の存在に、日本の中央が過剰反応するのは自然な成り行きと言えるのではないでしょうか。中華的価値観において、辺境は中央に服属させてこそ価値があるものなのです。 そして異民族による蛮族国家の持つ富を目的として安易な侵略に傾くのも、統制力の弱い室町幕府なら安易に行いそうな事に思えます。 またオフィシャルでは、室町幕府が様々な内政問題を一気に解決するため、安易な侵略に走ったとしてあります。国際状況を見ずに、短期的な国内状況だけで外交と戦争をもてあそぶのもまた日本的と言えるでしょうか。 ですがここで重要なファクターが一つあります。 日本が対外戦争を攻撃側として経験し、日本中央政府とその官僚組織(とは一部言い難いものだが)が、安易な外征で大失敗を犯すという事です。 アクティブな方向で外国を意識するというのは、日本の歴史上であまり存在しないファクターです。特に成功した侵略戦争というものは、平安時代の一時期の蝦夷(東北南部)、隼人(九州南部)の服属の時の攻撃(戦争)があるぐらいでしょう。しかも古代、中世の戦いは、後の日本では内戦の一つ程度に捉える節が大きくなります。 対して外国勢力との戦争は、古代において朝鮮半島南部の国家「百済」救援として行われた「白村江(はくすきのえ)の戦」とそれぞれ二度に渡る「元寇」と「朝鮮出兵」だけです。 これに極めて限定的に「和冦」を加えてもよいかもしれませんが、和冦は日本の中央政府が行ったことではありません(だいいち、日本人の割合は二割程度というのが現在の定説)。 そしてこの世界の日本が最後に経験した外国勢力との戦闘が、アイヌが建国前に行った「蝦夷の国崩し」と呼ばれる奥州北部の喪失です。 つまり日本側の政治目的は、蛮族からの領土奪回になります。実に政治的に甘美なファクターといえるでしょう。 守護大名の肥大化と自らの内政腐敗によって安定を失いそうになった室町幕府が、安易な外征で国内問題を解決するのに目を向ける先として相応しい場所足り得ます。
さて、アイヌ、日本双方の状況を最低限見たところで、「享徳の役」そのものに移りましょう。 果たして、どのような戦いが展開されるのか。 オフィシャルでは、アイヌ側に大陸的な大城塞と大陸馬による騎兵集団の使用、火薬式前方投射兵器の多用という戦闘をさせました。 多くは、モンゴル軍の戦い方を発展させた形をしていますが、当時の日本列島には存在しない戦い方ばかりです。 また、アイヌは日本とは全く違う軍制・装備・組織を以て戦いに臨みます。 順に見ていきましょう。
「大陸的な大城塞」ですが、これは中華地域からの情報、土木建築技術、政府の強い統制とマンパワーがあれば建設可能です。事実、中華大陸では紀元前に周囲数キロもある巨大な城壁で覆われた城塞が当たり前のように出現しています。日本には存在しない焼きレンガが、大量に用いられている事も珍しくありません。万里の長城が最大の象徴でしょう。 そしてアイヌ達は、火薬式前方投射兵器、つまり初期型の鉄砲や大砲、ロケット砲の大量使用を前提に、自分たちの大城塞を建設しようとします。おそらくは、少し後に欧州で出現する星型の火力要塞の原型に近い存在が出現する筈です。 鉄砲や大砲を大量に使う以上、高く薄い城壁は必要ありません。破壊されるだけですから、遮蔽物は分厚い土盛りがあれば事足ります。人を近寄らせたくないのであれば、広く深い堀を持たせれば事足ります。こちらが投射火力で敵を撃退する以上、近寄らせる必要性は皆無です。もちろん、木造要塞も御法度です。門扉など城塞の一部のみ、焼きレンガや巨石を用いて必要以上に丈夫に作ればよいでしょうか。 また、多数の火力を効率的に集中するには、どうしても星形や多角形に近い形へと収れんします。 そして極めて先進的な城塞に寄る守備兵達は、騎士や武士を中心とした一族郎党による戦闘技術に熟練した小集団の集合体ではありません。一人の指揮官を頂点とする画一的な指揮系統を整理して、多数の「歩兵」を一斉に指揮する形が相応しくなります。個人の武勇や腕力は二の次です。極端な話し、機を見るに敏な人物であれば、指揮官は女子供でも構わないのです。 いっぽう相手側の日本軍は、応仁の乱や戦国時代での戦いを経験していないので、「やあやあ我こそは〜」と名乗りを挙げてから小集団で突撃してきます。戦いを形式や儀式として重んじるためです。アイヌが合理的戦争をするモンゴルから冷徹な戦争を教わっている事を思うと、もはや悪い冗談です。 ですが戦争が始まれば、日本側も考えを改めざるを得ません。なにしろアイヌは、武士が名乗っているあいだに鉄砲で射殺してしまうからです。 戦闘が長引けば、日本側も結論は一つになっていくでしょう。日本史上では、応仁の乱で出現した足軽(歩兵集団)が少し早く登場する可能性は十分あります。 またアイヌ側は、日本人(シムサ)よりも人的資源が少ないことを熟知しています。総人口の差は十倍以上ある筈です。 当然ですが、犠牲を最小限にするためにも、安易な野戦は選択できません。よしんば野戦をするとしても、自らの消耗を最小限とするために騎兵が投射兵器を用いる包囲殲滅戦や遊撃戦を行うのが常となります。相手の弱点を常に突きつつ戦うほか、数に劣る側が勝つことなどできないからです。 そして弱点を突く野戦の切り札である「大陸馬による騎兵集団」ですが、日本は日露戦争頃まで私達が昨今の映画などから連想するような騎兵集団を持っていませんでした。 大きな理由は、日本列島という場所が大柄の馬が出現しない環境だった事が強く影響しています。平坦な場所が少なく険しい山や急流が多い日本の地形が、大規模な馬の運用も妨げています。 よく源義経が騎兵運用に長けていたとされますが、彼が騎兵突撃したのはごく僅かの主従や武士達だけによるものです。数にして数十騎と言われています。騎兵部隊と呼べるほどの数ではありません(ナポレオンのワーテルローの戦いで、ネイ将軍は5000騎の騎兵で突撃したそうです)。そして彼が当時の戦争常識である、最初の名乗りや矢合わせを行わずいきなり戦闘に及ぶという、一種の奇襲戦法を多用したからこそ成立した戦い方です。誰だって予期せぬ攻撃には脆いものです。 また、戦国時代の織田信長による桶狭間の合戦が騎兵運用の最たる例とされる事もありますが、諸説ありハッキリしません。ハッキリしているのは、信長が何らかの迅速な敵本陣奇襲もしくは強襲に成功したという事でしょう。 同時期の武田騎馬軍団にしても、馬の産地だった甲州を本拠地にしていたため兵士(武士)の騎乗率が高かったに過ぎないと思われます。少なくとも数千もの騎馬武者の大集団という事はあり得ません。経済的、物理的に数千の騎兵用の馬を用いるなど不可能です。数万の大軍の中で千騎も揃えば御の字でしょう。他の戦国大名しても騎馬の群は作ったが、突破戦闘の主体として用いた記録は見かけません。伊達政宗の騎馬鉄砲もイメージだけが先行しているように思えます。 それ以外にも、過去の記録に「○○何万騎」という言葉がありますが、単にその地方の土豪(武士)の数を誇張&丼勘定した記録に過ぎません。 たとえば、源平合戦の頃の奥州藤原氏に本当に二十万騎もの騎馬軍団が存在すれば、日本征服どころか世界征服できます。少し後のモンゴルの騎馬軍団の実数は、半分の十万騎に過ぎませんからね。 そして過去の記録が示すように、明治以前で馬に乗ることが出来るのは、領主としての武士が主力になります。加えて、金持ちの武士が部下に与えるぐらいです。とてもではありませんが、集団としての騎馬軍団の編成には至りません。 しかも少数の騎馬部隊も、西欧で言うところの重騎兵もしくは騎士にあたります。なにしろ馬格が極端に小さい日本馬の背に、数十キロもある甲冑を着込んだ武士が馬に乗っているのです。軽快な機動力など発揮できるものではありません。 また、戦国時代に発展した兵科は、足軽と呼ばれる槍兵や弓兵(+銃兵)です。歩兵であり騎兵ではありません。偵察部隊としての物見ですら歩兵を含んだ編成が常で、軽騎兵が発達したとはいえません。日本列島では、常に各種歩兵を中心にして軍隊が編成されていたのです。 西欧で言うところの「騎兵」は存在しません。断言しても良いでしょう。農耕社会の日本に遊牧民族的騎兵を出現させるには、武士階級以外による巨大な支配力を持つ中央集権国家の存在が必要でしょう。
いっぽうアイヌは、13世紀半ば〜14世紀半ばの約70年の間にかけてモンゴルの直接統治を受けました。 モンゴルの統治の間に、北海道(モショリ)の平地の多くの森は焼き払われ、伐採されて放牧地や牧草地、牧畜地となっています。当然、大陸から多数の馬や家畜が持ち込まれているでしょう。馬などの家畜は、モンゴル人にとって生活のすべてと言っても過言ではありませんからね。 そしてモンゴル人が生活のすべてを家畜に注がねばならなかったように、馬を大量に維持することは多数の経費と手間を必要とします。農耕主導の国家なら、馬を揃えるよりも戦争の際に農民から兵隊を動員する方がずっと安上がりです。 馬なんて、偉そうなヤツがそれらしく乗っていれば良い、御輿のようなものかもしれません。日本で騎兵がなかった実態も、突き詰めれば金持ち(武士)しか馬に乗れなかったからに過ぎないのでしょう。 これは欧州においてもほぼ同様で、13世紀にモンゴル人に欧州の一部が蹂躙されておきながら、本当の意味での騎兵集団はなかなか登場していません。 もちろん、中世的伝統階級(貴族、騎士)が、純粋な騎兵の成立を阻止したという理由もありますが、やはり経費がかかりすぎて大国ですら騎兵の維持に苦労しています。中でも騎兵の育成が困難な地理・気候条件のスペインでは歩兵が発達してています。そして、槍兵と銃兵を組み合わせたテルシオが生まれて近代軍制の萌芽となりました。 欧州で騎兵が本格的に運用されるようになるのは、騎士が歩兵集団に否定され、産業の発展に伴い近代軍制(歩兵、騎兵、砲兵が存在する三兵編成)が登場する16〜17世紀を待たねばなりません。 そしてアイヌは、中長期のモンゴル統治で馬を養うための社会資本と習慣の二つが揃っています。モンゴル駆逐後も、そのまま生活の一部としている者もいます。彼らを徴兵するだけで、簡単に騎兵(軽騎兵)が編成される事でしょう。しかも、モンゴルが彼らの師匠なのですから、騎兵の運用ノウハウすらあります。 もっとも、モンゴル馬の大きさは、サラブレットとポニーの中間ぐらいです。写真や映像で見る限り、競馬や今の時代劇に出てくる馬よりずっと足が短く毛深いので、なんだか可愛く見えます。馬格は本来の日本馬より大きいのですが、西洋馬のような巨体にはほど遠く、アラブ種のようなスマートさはありません。あの姿を見る限り、全身を鉄で覆う甲冑を着込んだ重騎兵は、アイヌ軍の中にも出現しないでしょう。出現する騎兵はモンゴルと似た、シンプルな革製の鎧による重騎兵と、弓をたずさえた軽騎兵による騎兵集団です。 なお、アイヌの鎧はモンゴル直伝になるので、日本やチャイナのようなゴテゴテしたものではなく、一体型のシンプルなデザインになるでしょう。具体的には、鉄の兜にスタッド・アーマー(各所を鉄で補強した革鎧)やチェイン・メイル(重厚な鎖帷子)の前後に分厚い衣服を着る形式になると思われます。日本の鎧甲とは随分出で立ちに違いがでる事でしょう。 まあ、ようするにワンピースとスリーピースの違いのような感じですね。
いっぽう、アイヌ軍の主戦力の一つとなる火薬兵器群ですが、アイヌには日本が火薬兵器を有するより有利な点があります。 一つは、皆さんもよくお分かりと思いますが、鉄(砂鉄)の豊富な釜石一帯を自らの領土に組み込んでいる事です。これにより、兵器(+農工具)を生産するための鉄の生産はよほど大規模化しない限り問題ありません。一部は、モショリ本土でも可能です。火山地帯である日本列島には火山が生み出した砂鉄が豊富にあり、豊かな山々は数十年のサイクルで伐採可能な薪・炭燃料となります。この点は、照葉樹の多い日本が有利でしょうか。 アイヌが日本に対して有利な点は、自然環境ではありません。彼らの産業と食料が強く関係しています。 今までの解説、オフィシャルで触れてきた事から、アイヌが家畜を大量に飼育することはご理解いただけているでしょう。そして、家畜は大量の糞尿を排出します。言うまでもありませんが、糞尿=アンモニア(硝酸アンモニウム)=硝石の原材料です。 そうです、欧州の湿潤な国々同様に、家畜小屋で硝石の原材料を取得するのです。これは家畜を多用しない農業が主体の日本では真似のできない事で、アイヌが大量の火薬を使用する為の欠くことの出来ない重要なファクターとなります。もちろん、戦国末期から始まった日本の硝石取得の方法よりも効率がよく、火薬の価格低下と、ある程度の大量使用を可能としてくれます。アイヌが火薬を用いるようになればなるほど放牧は姿を消し、農作物の栽培と掛け合わせた牧畜が広まる事でしょう。 オフィシャルでアイヌに大量の火薬兵器を簡単に持たせたのも、アイヌが牧畜を重視すればこそです。
かくして、戦国時代を迎える前の旧来の東洋型中世的軍隊と、自分たちも意識しないうちに近世的軍制へと移行しつつあった軍事力の激突へと発展します。 システムの違う軍団同士がぶつかり合えば、双方に混乱が発生するのは必然。そして、数に劣る側が優れたシステムを用いているのですから、互角に戦えるのも問題ないでしょう。コルテスやピサロのように、圧倒的な数的劣勢下で圧勝してしまった歴史もあるほどです。 しかも自らの劣勢を知るアイヌは、防戦か、せいぜいが攻勢防御しかおこないません。防御側という兵力倍増要素を加味すれば、アイヌ側の勝率はさらに上がります。 完全な中央統制力のない室町幕府が、泥沼化した戦いの中で大敗を喫すれば、なし崩しに戦乱が終息するのも大きな問題はないと判断しました。 それに当時の日本の中枢部である近畿圏から奥州北部は遠すぎます。兵站維持も難しく、室町幕府と各大名は長期の大軍遠征に耐えられないでしょう。ましてや、この時代に冬の戦争は不可能です。毎年春から秋にかけて戦争を行うという、現代の視点から見れば暢気な総力戦が行われる事でしょう。
最後に、忘れてはならないファクターをもう二つ紹介して次に進みましょう。 何より忘れてはならないのは、日本側から見れば無軌道な侵略戦争でしたが、アイヌ側から見れば紛れもない祖国防衛戦争という点です。 劣勢な側の祖国防衛戦争ほど、民族の団結を強固にする戦争はありません。しかも成功した祖国防衛戦争であるなら尚更です。 日本の日露戦争よりは、フランスのジャンヌ・ダルク伝説が時代的にも近く良い例かもしれません。 もっともアイヌの場合は、一度崩壊した戦線を立て直すばかりか、大反抗の切っ掛けとなった無名指揮官を防衛戦争の象徴としました。アイヌに固有名での救国の英雄を作り上げなかったのは、アイヌの作り上げた国家がこの時代は個人ではなく組織を重視しているからです。 為政者側としても、誰かが活躍したという伝説を作るより、国民みんなが活躍したおかげで祖国が守られたという方が、この当時の統治方法としては相応しいと判断しての風聞の流布となります。同時に、この時の戦いに立った王族、貴族の数が多すぎて、個人や特定の一族を賞賛する事は国家団結に害をなすと判断しての結果とも言えるでしょう。 いっぽう総力戦の象徴として、ファンタジーとしての女性の活躍が文献に残っているというくだりを載せています。 女性が活躍したという点については、本来社会的に守られるべき女性が戦わねばならないほどアイヌが追いつめられていたという側面を強調するための手段です。 もっとも日本では、室町時代の頃は女性が広く社会進出していたと考えられています。歴史的な文献や絵巻物にも、女性が商売や旅をしている姿が数多く残されています。当時の日本においては、社会的に女性が暴力から守られ、広く活動しやすくなっていたと判断すべきでしょう。事実、女性の社会進出が強く戒められたのは、日本型封建社会が完成した江戸時代において顕著で、他の時代では女性の社会進出には比較的寛容です。アイヌにも、日本の風潮が伝わって影響を与えているかもしれません。 しかし、この当時の国家が女性も積極的に軍事利用する事は、あまり考えられないでしょう。 もちろん、女性を登場させるというファクターそのものが、ファンタジーやライトノベル的状況を作るというお遊びが皆無とは言いません。ですが、不利な戦いで女性が出てくるというのは、たいていロクでもない背景があると思います。
なお、ここで両者を戦わせる事は、日本人とアイヌ人双方にとっての心理的、政治的ガス抜きにもなります。さらに攻撃側の日本が敗退するので、互いの関心も一時的に薄れるでしょう。 結果として、日本は政治的混乱をひどくさせて史上空前の内乱へと雪崩れ込み、それを見て安心したアイヌは外への膨脹に傾いていきます。 アイヌが日本に攻め込まないのは、日本に必要以上に圧力をかけることで一致団結するのを恐れるために過ぎません。大国は、混乱していてこそ価値があるのです。
※:戦闘そのものについてはここでは取り上げません。内容そのものが物語的要素が多すぎて、筆者の胸先三寸でどうとでもできますからね。