■太陽帝国「楽屋裏」 その4 アイヌの膨脹「リムレイルの西征」
近隣大国との防衛戦争に勝利した後、近隣にはたいした外敵がいない状態。しかも先の戦争で生み出された大量の軍事力が存在。国家の中央統制は戦時の挙国一致態勢の流れで強まったままで、民族としての経済的拡張傾向が強い。 大規模な侵略、進出が発生するには、十分なファクターではないでしょうか。気分的には、スペインのレコンキスタ終了後に似ていると思います。 ここでは大規模な侵略を象徴する「西征」という言葉を置いてみました。ついでなので、堅固な政治勢力にぶつかるまで果てしなく大陸と大洋双方を突進してもらう事にもしました。 その行き着いた先が、バルト海とメキシコ湾です。 我ながら、なんとも風呂敷を広げすぎたと感嘆してしまいます。 当然ですが、ファンタジー要素が強くなってしまいました。 ここではこの「おとぎ話」を、最低限のレベルですが、どうすれば成立しうるのか、アイヌの足跡を追いながら見ていきましょう。 まずはバルト海を目指す道のりです。
15世紀末から16世紀初頭にかけてアイヌの近在には、日本、明、ダッタン(モンゴル)が国家として存在します。朝鮮半島を除外したのは、多くの時期で中華帝国の付属物と化しているうえに、外に対してアクティブでないからです。同様に、今回はゲームに参加する意志のない国や地域は除外します。その点は、内乱状態の日本も同列です。アイヌが明の属国状態である朝鮮と、戦国時代の日本と本格的に接触する可能性は極めて低くなります。 そして、日本、明、ダッタンのすべてが、好意的に見て安定期、悪く見れ停滞期、日本の場合は混沌期に入っています。 しかもアイヌが進出したいであろうアムール川流域とオホーツク一帯に強い政治勢力はありません。この頃には明の勢力は減退しており、アムール・満州の勢力圏を大きく失っています。 自然、樺太島を勢力圏にするアイヌが、再びアムール川流域に進出する事になります。進出する手段は、川を遡りきるまでは船で、途中からは馬でということになるでしょう。 アイヌは、軍事主導で国家、民族、経済のシステムを組み上げているので、効率や組織力、規模は現地の先住民レベルの及ぶところではありません。満州地方の遊牧民族に対しても同様です。軍事力も、火砲の大量運用で中世型騎兵に圧倒的優位に立っています。オスマン朝やロシアのように、進出地域を服属していくのは問題ないでしょう。ただの騎兵の群など、火力と野戦築城で押しつぶせばよいのです。 しかもアイヌは、自ら作り上げた合理的な軍事組織と、モンゴルを祖として発展した文明、組織の双方を持っています。国力が付けば、周辺部の騎馬民族的服属と略奪こそ是とするでしょう。 そしてアイヌは、交易者としての側面を元から持っており、モンゴルから文明と戦争を学び、この世界においては勢力の拡大に伴いその傾向が強くなります。 つまり膨脹傾向も強いということです。 さて、本当に膨脹できるのでしょうか。
アイヌがアムール川を遡り、東シベリアを西進すると、最初にぶつかる大きな政治勢力が当時ダッタンと命名されているモンゴル人たち。かつてアイヌを支配した人々の子孫が作り上げた国家です。 この頃でもモンゴルは、モンゴルの乾いた草原を中心に大きな勢力を持っています。というより、彼ら以外モンゴル平原に住もうという人々はいません。史実で彼らの政治勢力が衰退するのは、同じ騎馬民族の女真(満州)族の台頭と、騎兵を簡単に駆逐できる火薬兵器が広範に普及する17世紀に入ってからになります。 そして、モンゴルと対面したアイヌは、彼らの台頭を押さえ込める優れた前方投射式の火薬兵器を兵器体系に組み込み、モンゴルに匹敵する騎兵部隊も持っています。その上船にも長けているのですから、始末に負えない連中といえるでしょう。やろうと思えば、清国がしたようなモンゴルに対する侵略戦争も可能ではと思えます。チャイナ中央に打って出ることも可能でしょう。 なお、モンゴルの人口は、馬、山羊などの家畜の放牧という彼らの生活基盤のおかげで、どの時代であろうとも総人口は百万人程度です。すでにアイヌの方が上回っています。ダッタンが統一した意思を持ったとしても、動員できる軍事力はいつの時代であっても人口的限界から騎兵10万騎までになります。しかも、一つの敵に対してすべてを動員することは事実上不可能です。南の強大な漢民族に対する備えを怠ることはできないからです。各地の自分たちとは少し違う騎馬民族も無視できません。 万が一モンゴル人がアイヌと戦端を開いても、民族の存亡に追いつめられるまでは、全体の半分も動員できれば良い方でしょう。 もっともアイヌは、モンゴルとあまり戦争する気はありません。アイヌの第一目的は、戦争による領土拡張ではなく安定した交易路と交易相手の開発だからです。このためチャイナへ進出する気もありません。それにモンゴル人は、かつて自分たちを支配した連中ですから、アイヌ側の警戒感も強くなることでしょう。警戒心は復讐心を上回る可能性が高いはずです。 そしてアイヌは、日本との戦争の過程で大量の優れた前方投射型火薬兵器を兵器体系に組み込んで装備しています。モンゴルも火薬の威力はある程度知っている筈ですので、モンゴルに対しても十分な抑止効果を生むでしょう。このあたりはオフィシャルでも触れていました。 なお、マクロレベルの視点として、アイヌがモンゴルを侵すと直接中華勢力と接触せねばならず、それを避けるためにもモンゴルと戦端を開かなかったという理由があります。 ですが、本当にモンゴルと新たな騎馬民族であるアイヌが激突しないのでしょうか。おそらく、衝突する可能性の方がずっと高いでしょう。 しかし、少しだけ解決策があります。 アイヌが船を多用するという事です。
アイヌは陸路の進出強化に合わせて、夏の間に北極海を迂回してシベリアの河川を自らの交通路に使います。自らの国土に近いアムール川も頻繁に往来している事でしょう。 船なら大量の荷物を一度に運ぶことができます。北極やシベリアの厳しい寒さを前に使用期間は極めて限られますが、馬で集積地まで運べる物資の量など知れているでしょうから、短い夏の間に船で一時期に運び出せば問題ないでしょう。 そして北極海に注ぐ大河を利用するという事は、アイヌの勢力圏が自然と北寄りになるということです。 シベリアには、エニセイ川、レナ川、オビ川などの大河が適当な間隔で連なっており、ユーラシア北部を陸路踏破するまで船を使う手はかなり有効です。事実、欧州ロシアでも運河で南北が貫かれたり、主要交通路として河川が多用されている実例があります。かつてのモンゴルが馬でシベリアやロシアの大地を進撃したのも、河川が凍り大地の固まる冬の間でした。あの広大な土地は、夏は大河で仕切られているのです。逆を言えば、河川を利用して大陸奥地まで船で入っていけるのです。 しかも西シベリア低地は、夏の間、特に春と秋はまったくの泥の海、逆に冬は凍てつく不毛の荒野です。夏の一時期だけ、河川が利用可能です。季節によって馬と船を使い分けをしなければならず、アイヌがモショリ(北海道)に大量の文物を持ち帰ろうとすれば、夏の北極海を乗り切れる丈夫で輸送力の高い船を使わねばなりません。アイヌが河川を重視する可能性は十分あるでしょう。しかも夏とはいえ、流氷の漂う危険な北極海での船舶の運用です。必然的に造船技術、航海技術が発達する.事でしょう。 アイヌの西征には、シヴィラゼーション上船舶・航海技術を引き揚げるという副次的な目的もあったのです。この間にアイヌは、きたるべき大航海時代の準備をしているのです。もちろん、当人達が気付くことはありません。当人達は大まじめに西への進撃を続けます。船も西進のための手段に過ぎないのです。 では次に、アイヌが目指すダッタン(モンゴル)のはるか西の彼方を見てみましょう。
アイヌが征服したユーラシア北部の国家は、そのほとんどが同時期もしくは少し後に消滅していく国々ばかりです。 ユーラシア北部の国家が消える最大の原因は、毛皮による富を求めたロシア人が東へ膨脹したのが原因です。アイヌが少しばかり先んじてそれらの国々を蹂躙していっても、歴史上大きな問題は発生しないでしょう。中央アジア、現在のカザフスタン近辺をロシアが征服するのは19世紀に入ってからになりますが、この地域も歴史に大きな影響を与えることはありません。 アイヌの大膨脹を16世紀前半から後半にかけて設定したもの、ロシアの膨脹開始の直前に合わせたからです。逆に、ロシアンコサックができた事を、大遠征軍を持つアイヌができない筈がないというのが、遠征の根拠になっています。 それにシベリアの北寄りの大地には、遊牧、放牧を行う原住民以外存在しません。国家があるのは、中央アジアからロシア南部にかけてだけです。そしてアイヌ遠征のゴールとなる地域には、北から順にロシア大公国、ポーランド王国(リトアニア大侯国)、クリミア汗国、オスマン朝があります。 ただし、オフィシャルで大きな間違いが二箇所あります。 一箇所目は、ロシアが完全に閉じこもってアイヌと交易も戦争も行わず、アイヌもロシア人を無視してそのままポーランドに殴りかかったくだりです。 16世紀半ば頃、欧州ロシアの大地は北部にモスクワ大公国があり、そのまま南にくだってウクライナ東部辺りでクリミア汗国の領有地域が続いています。交易拡大のための遠征なので、能動的な戦争を是としないとしたアイヌの進撃は、ウラル山脈を越えたところで止まらないといけないのです。アイヌがクリミア汗国の東側にあるアストラ汗国を服属させたとしても、ロシアかクリミア汗国のどちらかと戦端を開いてウクライナの一部を押さえない限りキエフへの道は開けません。 しかもアイヌは、クリミア汗国の後ろにいるオスマン朝と国交を開いているので、あからさまなクリミア汗国への侵略はできません。オスマン朝の影響が強いので、すべてを従属下に置くのも難しいでしょう。 となると、北のロシアを適当に叩いて欧州への道を開かねばなりませんでした。 この点、私が参考にした資料が少し曖昧で、モスクワ大公国とクリミア汗国の中間地域が空白地帯と映ったので深く考えずにアイヌをねじ込ませ、そのまま西進を続けてキエフの街に襲いかからせました。
いちおう後付設定をすれば、モスクワ大公国に従属していたウクライナ北東部地方の諸侯、領主達が、アイヌに単独で従属したとすれば良いでしょうか。当時のロシアは雷帝イヴァン4世の御代。強権・独裁傾向の強い、田舎者たるモスクワのやり方を嫌う地方領主も多いでしょう。同時に、オスマン朝を快く思わないクリミア汗国の地方領主がアイヌに好意的で、一時的にアイヌに従ったとすれば良いでしょう。場合によっては、アイヌをかつてのモンゴル帝国の再来と位置づけて、いざ鎌倉とばかりに軍勢を率いてアイヌ西征軍のもとにはせ参じているかもしれません。それに当時から欧州勢力の圧迫を受けていたクリミア汗国にとって、新興のロシアを牽制し、欧州を打破できる軍事力を持つアイヌの味方になる方が利益は大きいでしょう。 そして、上記のような欧州ロシアでの曖昧なアイヌによる統治体制は、アイヌが同地域を早期に立ち去る際にも、直接統治できない地域を嫌って立ち去る理由にもなるでしょう。 次に二箇所目の間違いですが、ポーランド王国とリトアニア大侯国の合併が1569年(ルブリンの合併)だった点です。 つまり、アイヌが欧州に押し掛けた頃、リトアニア大侯国はキエフを都とした独立国だったのです。史実においてポーランドと合併するのはアイヌが押し掛けた十数年後、リトアニアがキエフを失うのは、17世紀に入ってからです。 しかもアイヌ西征軍は西進を続けて、バルト海を臨んだり、ワルシャワ前面にまで迫っている事になるので、リトアニア大侯国の領土はほとんどすべて蹂躙・征服している事になります。 こうした事象を追いかける限り、アイヌ西征軍は、一国丸々欧州の国を攻め滅ぼしていると結論づけられます。 そこで、同じように後付設定すれば、リトアニアはアイヌ西征に際していち早くポーランドと同盟・合邦。キエフ陥落直前に王族の一部が脱出。アイヌが去ったあとに、ポーランドの助力を得て国土の多くを回復。以後、ポーランドとの同君連合となったとすればよいでしょうか。17世紀の間は、ポーランドは東欧随一の大国としてロシアに対抗できるぐらいの国力があったので、ロシア人に先んじてウクライナを奪回しても大きな問題もないでしょう。
さて、設定上の不備はさておき先を続けましょう。 西征開始からオスマン朝との関係を開くまでおよそ半世紀。約50年で、アムール川上流からバルト海にまで至らなくてはなりません。途中二度にわたって西進を停止するので、タイムスケジュール的にはモンゴルと同じか厳しいぐらいでしょう。 しかしアイヌは、モンゴルと違って馬だけでなく船を活用します。その分輸送力はモンゴルよりも大きく、海や河川も障害とはなりません。数年越しの腰を据えた侵攻計画を立てれば、本国から圧倒的物量の兵力を送り届けることが可能です。これこそが、大型船を多数有する文明国の利点です。あの中華大陸で簡単に10万人単位の軍団が舟艇機動している事を思えば、その規模が少しは分かっていただけると思います。(まあ、中華大陸での誇大な数字は、割り引いて考える必要もありますが。) そして巨大な輸送力を使い西へと進撃する兵力の方も、中世から近世に向かっているレベルの欧州を圧倒する兵力量です。ユーラシアに点在するモンゴルと同質の遊牧国家とは、動員規模、組織力、軍事技術が違います。騎兵に対しては、各種火力装備が圧倒的威力を発揮する事でしょう。 しかもアイヌには、世界に先駆けて事実上の三兵編成(騎兵、歩兵、砲兵)を取らせています。急速な進撃を行う先鋒の軍団などは、これも世界に先駆けて成立する大規模な騎兵と騎兵砲を中心とした先進的な機動兵団と化している事でしょう。 統制の取れた国家が生んだ先進的な軍隊こそ、大規模な侵略の原動力足り得ます。 もちろん、ナポレオンの頃ほど洗練された三兵編成とはなっていないでしょうが、宗教改革で揺れている頃の欧州の軍事力なら、兵力さえ十分なら圧倒できます。まだイスパーニャ軍がテルシオを開発するかしないかの時代です。 大量の火砲が敵陣を混乱させ、敵の戦列を崩し、歩兵の集団が敵を叩いて各種騎兵がトドメを刺す。この時代の東欧で、10万人の大軍団にそんな戦闘されたらたまったもんじゃないでしょう。 では、アイヌ西進の原動力の一つとした数についても少し見ましょう。
16世紀に入った頃のアイヌ本土(北海道(モショリ)、樺太島、北奥州、千島列島)の総人口は、約200万人と概算できます。オフィシャルにあった、約300万人という数字は少し誇大でした。 享徳の役の頃から40年で人口が2倍に拡大した理由は、外郭地の領土化とすべての産業拡大によりやしなえる人口が大幅に増えたためです。逆に初期設定より人口を減らす理由は、芋(ジャガイモ、サツマイモ)、トウモロコシがまだアイヌ本土にもたらされていないからです。これらの農作物がもたらされ広く栽培される17世紀には、アイヌの人口は爆発的増大しますが、それまでは人口拡大は極端なものとはならないでしょう。 人口の内訳は、農業と商業の活発な本国が過半数を占め、本国以外のアムール川流域やシベリア満州の一部の従属部族と、それらの地域の入植地の人口が丼勘定で10〜20万人ほど。 上記ファクターから、1503年のリムレイルの西征の兵力が出てきます。 最大動員兵力は、すべて騎馬民族と考えれば全体の1/10の20万人。アイヌ本国が文明国へと急速に発展しつつあると考え、さらに欧州的な状況とすると5〜8万程度の動員が限界です。 ここでは、上記二つの中間ぐらいの状態と考えるので、最大動員数で10〜15万人ほど。うち遠征に気兼ねなく使えるのが5万人。最大数で全体の半数程度にあたる7〜8万人程度でしょう。 すべては丼勘定ですが、大きな問題はないと判断しています。フリードリヒ大帝の頃のプロイセンは、200万人の人口で8万人の常備軍を出現させています。それ以前の軍制がまだいい加減な時代ですが、国家の統制力があり国力さえ付いてくれば動員は十分可能です。 そして西征当初の遠征軍は、戦闘部隊が2万人。初期の主力は騎兵。余裕で動員可能な数です。距離も比較的近いので、ちょっとした遠征ぐらいの気持ちで出兵に許可が出る可能性も十分にあります。 モンゴル同様馬を人の数の数倍連れていれば(モンゴルは一人の兵士に馬を5頭も連れていた。)、兵站部隊の数は火力を維持するための5000人もいれば十分でしょう。モンゴルと違い、馬、騎兵の数が限られていると考えれば、兵站部隊、後方支援部隊を含めた数は3万人ぐらい。これに本国からの補給線を維持する部隊(船舶含む)を考えると最大で5万人程度が遠征に必要となるでしょうか。まともな軍隊が遠方で火力戦をしようと思えば、どうしても十分な数の兵站組織が必要です。 しかしこの頃のアイヌは、衣食住に関する兵站をそれほど重視していないでしょう。なぜなら彼らは、騎馬民族に戦いの多くを教えてもらっているからです。
騎馬民族は略奪と現地調達、自給自足が基本の軍事組織しか持ちません。かつて欧州に至ったモンゴル軍など、一人一人が複数連れる馬たちと現地での略奪に自らの兵站のすべてを委ね、まともな兵站組織を持っていたのかと疑問すら覚えるほどの軍団編成をしている時があります。 そしてアイヌは騎馬民族としての特性を人工的に植え付けられているので、同質の部分は多分に持っているはずです。 さすがにモンゴル軍ほどの馬は持たないでしょうが、一時的に放牧に適した場所で逗留しつつ、一気にユーラシア大陸北部を横断していく筈です。 もちろん、馬を多数引き連れるだけで兵站維持はできません。先ほどから書いているとおり敵地での略奪が必須です。 略奪を軍事行動の常道とすれば、軍隊に最も手間の掛かる兵站物資、兵の衣食住に関する兵站部隊の数はかなり少なくなるでしょう。アイヌ達は、躊躇なく侵略した地域からの略奪で自らの軍を維持する筈です。 それに16世紀の軍隊なら、略奪が基本行動の筈です。戦国時代後半の日本の状況の方が世界的に異常なのです。兵の衣食住、物資運搬の為の苦力(奴隷)、それに男性社会特有の性の問題。軍隊には様々な浪費物が必要なのです。 しかもアイヌの西征には、さらなる問題もあります。 進めば進むほど周辺を飲み込む事で軍の規模が拡大して、同時に本国との距離も開いていく事です。 さらには、戦争を繰り返すことで軍制が加速度的に進歩して、歩兵が軍の中核を占めるようになってもきます。
西征開始時点で、兵站部隊を含めて3万人ほどで始めた遠征が、四半世紀後の次の遠征では、従属下においた現地の遊牧民族を主力としつつも10万人を動員。16世紀半ば、オスマン朝と握手する頃には、総数15万人以上もの大軍に膨れあがっています。 20世紀の数百万の軍隊が延々と戦線を作って向かい合う戦争をイメージする人には意外かもしれませんが、当時の感覚からすれば10万もの大軍は、まさに地を埋め尽くすような悪魔の軍団と写ることでしょう。 理由は軍の過半が常に一箇所に固まって、密集しているからです。大軍団としての視覚イメージは、我々の目から見ても強烈な筈です(ロード・オブ・ザ・リングなど、昨今のハリウッド映画を思い浮かべてください。ゲームのファイナルファンタジーでもいいかもしれません。)。 15万人の内訳は、アイヌ直属軍が最大で約7〜8万人、征服地域の従軍者が約5万人、同盟諸国が約2〜3万人。 15万人のうち純粋な戦闘部隊約10万人、後方支援部隊が約5万人。馬の数に至っては、人よりも多い20万頭以上。ウラル山脈から東欧に至るまでに征服した国、同盟を結んだ国を含めると、さらに数万の人や馬が戦列に加わります。後方兵站を維持する組織や人々を加えると、さらに数万人が軍に協力しているでしょう。 しかも地域的な事を思えば、アイヌ軍以外の主力は騎兵部隊です。広大な地域の侵略戦争と言うこともあって、アイヌも騎兵を重視しています。軍隊としての存在感、威圧感は数字以上に増すでしょう。15万人の大軍団があげる土煙は、遠く彼方からも自然災害がやってくる時のように遠望できる筈です。 甲冑を身にまとい、初手用の片手持ち鉄砲もしくは抜刀突撃用の太刀を携えたアイヌ軍の重騎兵。複合弓を主武装とした遊牧民族の伝統的軽騎兵。そんな彼らが先鋒と軍団の中核を占めています。 当然ですが、騎兵だけではありません。近代へ向かっているアイヌ軍の主体は、各種歩兵と砲兵へと進歩しています。機動性を重視するアイヌ遠征軍では、半世紀の遠征の間に機動性の高い火砲(軽量の大砲と鉄砲)も登場している事でしょう。つまり、日本との戦争から一世紀の間の戦争の連続で、欧州よりも軍制が進歩してしまっているのです。統一した意思を持つ国家が200年も続けば、出現可能な軍事力です。 軍団先鋒を進むのは、偵察のためいくつも編成された軽騎兵の小集団。そのすぐ後ろに続く数千騎の規模を持つ騎兵打撃集団。多数の馬で引かれている砲兵とロケット砲兵。兵站物資を馬牽部隊に預けて、長槍や鉄砲一つで整然とした隊列で進む歩兵達。軍団の後ろに続く、様々な物資を満載した無数の馬車とその護衛部隊。騎兵の為の換えの馬やその他兵站維持のための家畜を無数に引き連れるどこか牧歌的な一群。さらにその後方や外周をついて来る、様々な商いを行う人達。 きらびやかな装飾の旗や幟を無数にはためかせつつ傲然と進むアイヌ本陣。本陣を取り囲む、光り輝く鎧をまとって騎乗する親衛隊。平原を埋め尽くす大軍団の各所に林立する、各部族、同盟諸国の旗、旗、旗。 これから対決するキリスト教徒達から見れば悪魔の大軍団に他なりませんが、ロシアの平原いっぱいに広がるような遠征軍の様はさぞ壮観な事でしょう。民族大移動に匹敵するような光景が出現している筈です。 実のところ、西征は東洋の軍隊がロシアや欧州を再び蹂躙する光景を出現させるためにだけに、アイヌによる大遠征をさせたような側面もある程です。 そしてこの大軍団が、欧州で最初に牙にかけるのが、当時ポーランドと合併を模索しつつあったリトアニア大侯国の都キエフの街です。
なぜ破壊する街としてキエフを選んだのか。理由は二つ。一つは地理的にウクライナ地方の戦略要衝だから。もうひとつは、かつてモンゴル帝国が徹底的に破壊した街がキエフだからです。 だからこそキエフの街を一瞬で包囲し、一夜で街を焼き払わせました。おそらくはバクーやチュメニあたりから運んできた露噴する石油すら用いている事でしょう。 また、街を焼き払わせたのにも理由があります。 一つは、敵に与える心理的衝撃を期待した現実的側面。もう一つは、籠城された場合騎兵主体の軍隊が弱いという側面。そして指揮官をあえて女性にして、彼女の差配により街を灰燼に帰すという人としての皮肉を見せるための側面です。 女性に街を焼き払わせるというのは、劇的情景を求めた末の回答でしたが、いちおうの理由はあります。 蛮族の巨大な侵略者。大悪魔。魔女。そんな言葉をキリスト教民族や国家の文献や民話で目にします。特に魔女という言葉は中世欧州世界では多用されますが、実際女性に率いられた侵略者や破壊者などというものは古今東西まともには存在しません。それを現出させたかったのです。 また、女性に街を焼き払わせるという、当人にとっては業苦、第三者から見ても悪夢となるであろう行いをさせる事で、人の業と戦争、そして歴史への皮肉にはなりはしないかと考えたからという面もあります。
街に押し寄せる、地を埋め尽くすかのような侵略軍。 軍列から進み出る、きらびやかなな出で立ちの女性指揮官。 その周りで倒れるは、かつての街の守護者たちの躯。 女性指揮官の手が振り下ろされると同時に始まる攻城戦。 敵を射すくめる猛烈な銃撃。塔をうち砕き、城壁と建造物に穴を開けるための砲撃。石油やアルコールを詰め込んだ壺を町中に投げ込む投石機。放たれる無数の火矢。轟きと共に飛翔するロケット。やがて発生する大火災。うち砕かれた城門を乗り越えるアイヌ軍。うち倒される守備兵。蹂躙される住民。焼け陥ちる王宮。その後一週間もの長きにわたり燃え盛る全市。燃える街を後にして進撃を再開する侵略軍。後に残されるは、黒く朽ち果てたかつての大都市。炭化するまで焼かれた街の住人たち。 人を悪魔や魔女として描写するのに、これ以上はない情景ではないでしょうか。 いまだ中世的世界から抜け出していない時代にあって、ヒューマニズム的行動の介在する余地のない悪夢の筈です。
さて、キエフの街を灰燼に帰した大遠征軍ですが、その歩みはアイヌ本国の遠征中止の命令が下るまでの数ヶ月は止まりません。 本国からの使いが来るまでに、各地で弱体な東欧諸侯の小規模な軍勢を各個撃破し、行く先々の街々を蹂躙し、ポーランドの都ワルシャワ前面にまで迫り、バルト海を望み、進路を南に向けてウィーンに向かう者もあります。ベラルーシとウクライナ主要部を押さえていた筈のリトアニアなどは、ほとんどすべての国土が軍靴と馬蹄に蹂躙され尽くしています。 果たして、そこまで欧州勢力は不甲斐ないのでしょうか。
確かに13世紀前半の欧州は、イタリア北部など一部を除いて世界の田舎地域でした。文明、文化のレベルは、ローマのなし得た栄光など感じられないほど後退していました。 欧州代表として立ちはだかったポーランド重騎兵たち(騎士の集団)は、モンゴルの馬と弓を用いた軽快な機動戦と包囲戦の前に手もなく破れています。しかもこのポーランド重騎兵は、当時欧州最強をうたわれた精兵達です。彼らと神聖ローマ軍以外は、歴史に名を残さないぐらいケチョンケチョンにやられています。ドイツ騎士団も同様ですし。ハンガリー王国など、十万の大軍で挑んでも歯も立ちませんでした。 おかげでモンゴル軍・バツーの遠征の時は、たった半年で東欧のほぼ全土が蹂躙されています。ロシア侵攻から2年でドイツまで至っていますから、あと二年も遠征が続いていればモンゴル軍はピレネー山脈やドーバー海峡をその目にしていたかもしれないと思わせるほどの不甲斐なさです。 すべては、合理的に集団運用される騎兵の大集団という、先進的軍隊がもたらした偉大なる勝利でした。常に合理的な戦争を行うモンゴル軍に、個々で突っ込んでくる欧州の騎士達が太刀打ちできるものではありません。 ですが、時代は16世紀半ば。欧州はペストの脅威も過ぎ去り、数百年続いた寒冷期も乗り切り、産業も発展し、宗教改革も進み、今まさに大航海時代を迎えんとしています。 シヴィラゼーションも他の地域の追随を許さないほど加速しています。火砲、航海術など、その後世界を席巻していく優れた技術も揃いつつあります。軍隊も、スイス傭兵の戦術によってローマ以来の歩兵集団が復活しています。歩兵集団の登場により従来型の騎士が否定され、火砲の発達がテルシオを誕生させます。スペイン、ポルトガルはいち早く大航海時代へと乗りだし、世界各地で好き放題しています。 人の面では、アイヌが欧州に到着した時期は、オスマン朝のスレイマン大帝の武威が欧州・イスラム世界でその名を轟かし、フェリペ二世やエリザベス女王が生まれ育っている頃にるでしょうか。 しかし欧州は、東洋に比べて人口過疎地帯です。総人口1000万人を抱える国など、農業の盛んなフランスぐらいしかありません。ロシアもまだまだ欧州辺境の小さな田舎国家です。神聖ローマ帝国も域内すべて合わせて、どうにかフランスと同レベルの人口です。大航海時代を切り開いて一時期世界を二分したポルトガルは、総人口たったの100万人。地中海に覇を唱えたヴェネツィアなど、その実態は都市国家に過ぎません。例外は、国土と国力が桁違いに大きいオスマン朝ぐらい。他はせいぜい数万の軍団を動員できるかどうかです(オスマン朝は、コンスタンチノープルで16万、ウィーンで13万の遠征軍をしたてている)。 東欧や北欧の国力や人口資料は少ないのですが、少し後のフリードリヒ大帝時代のプロイセンで総人口200万人。北のスウェーデン王国は、グスタフ王の時代で2万程度の遠征軍を揃えるのがやっと。常備軍という考えがほとんどない当時は、それ以下の状況と考えられます。 そんな世界に、ユーラシア大陸深くから10万人もの先進的な戦闘部隊を引き連れた軍団が現れたインチキみたいなもんです。しかも彼らは、火力、機動力を兼ね備え、全体として統一した意思と優れた軍事組織を持って動いています。山岳部での戦いならともかく、平原での戦いで後れをとる事はないでしょう。 しかも史上空前の侵略と略奪に燃えていて、「ウィーンに行きたいか〜っ!」「キリスト教徒は怖くないか〜っ!!」「ウオォーッ!!!」というぐらい士気も旺盛です。敵の一部もしくは主体も、職業傭兵で戦意が低く、蹴散らすのは容易でしょう。
また、半世紀かけてユーラシア大陸を横断してきたアイヌ軍は、長距離を駆け抜けて来るという物理的問題もあって、とにかく機動性重視です。また騎馬民族を粉砕するため、集中性と機動性の高い火砲も重視します。強固な城塞や首都を蹂躙するための攻城砲にも事欠かないでしょう。 そして機動性を確保した軽量な野戦砲が登場すれば、スウェーデンの英雄、グスタフ・アドルフの戦術が実践可能です。 グスタフ王は、軽量な野砲の砲弾に麻袋に詰めた鉄砲の弾の塊を用いています。およそ8発程度の鉄砲の弾を詰めた麻袋を砲弾として多数の砲から一斉に投射されると散弾のような効果を発揮し、近距離まで接近したドイツ諸侯の兵を粉砕しました。他にも初期の榴弾も登場して、それまでにない殺傷力を発揮しています。砲兵のターゲットが、明確に歩兵と騎兵に向いた何よりの証拠です。 彼の戦術は、新開発の軽量な野砲、新式の銃、新たな用兵方を用いていますが、基本的に発想の転換でしかありません。同じ装備を持っていれば、どの軍隊が採用してもおかしくないでしょう(仮想小説の多くはやりすぎですが)。 しかもアイヌは、ユーラシア横断の際に、各地の騎馬民族との戦争でそれなりの苦労をしてきている筈です。野戦での前方投射兵器の発展が促進されるのは自明の理でしょう。原始的なロケット砲なんて持ち歩いていますしね。 攻城砲も中華式の焼きレンガで作られた頑健な要塞の破壊を目標として整備されるので(アイヌが知っている一番丈夫な城塞が中華製だから)、まだまだ中世型の城塞の多い東欧各地の要塞や城壁を破壊するぐらいワケありません。百年前のコンスタンチンノープルを再現するだけです。
勝ちに乗じ、数に勝り、組織力があり、技術もほぼ互角か勝るぐらい。兵站の心配は、現地で略奪するのでノープロブレム。強引にここまでの条件を揃えてしまえば、地の利以外でアイヌ側が負ける要素は見あたらない筈です。 しかも当面立ちふさがるのは、欧州世界でも遅れた東欧諸侯。ポーランド(+リトアニア)以外は、オスマン朝におびえる東欧の小さな諸侯ばかり。 宗教改革が完全に納まりきらない時期での異文明の侵略を前に、神聖ローマ帝国は相変わらず統一がとれていないことでしょう。大国フランスもまだ遠くの事なので動きは低調でしょう。ロシア人は、誰とも接触せずにモスクワに篭もりっきりです。 イスパーニャというよりハプスブルグ家は色々と神経をとがらせるでしょうが、イスパーニャが世界中でアイヌと接触し始めており、ハプスブルグ家の牙城ウィーンを伺うトルコも気にせねばならず、ウクライナのアイヌばかりを気にしているワケにもいきません。 アイヌの大軍が、東欧にずかずかと踏み込む事を止めるのは難しいでしょう。だいいち10万(15万)もの侵略型の野戦軍など、当時の欧州のどの国も揃えることは不可能です。 ワルシャワ前面にまで迫ったアイヌ軍主力の情報に、ポーランド王族はただ主に祈ることしかできないでしょう。
しかし、もうすぐ欧州の主勢力と対決というところで、アイヌは唐突に歩みを止めて、しばらくすると東に帰っていきます。 実利を重んじる民族性、強力な絶対王制を持つ国家という側面を作品上で見せるため、あえてここでアイヌにすべてを放り出させたのですが、遠征の突然放棄が一番の問題になります。 なぜなら、遠征軍はアイヌ人以外の方が多いぐらいです。略奪上等な連中に、遠くアイヌ本国が遠征を止めろと言っているからもう西に進まない、といっても納得いかないでしょう。 だからこそ、世紀の大略奪をこの次においてみました。
「これ以上侵略と略奪をしないのだから、今占領した場所から根こそぎ持っていくぐらいしないと納まらないだろう」
それが大遠征の中止に対する結論でした。 次はアイヌのもたらした騒動の後始末です。
※追記: これも後で気付いたのですが、史実ではロシアがイビル・シビル国(シビル汗国)を滅ぼすのですが、この「シビル」が「シベリア」の語源です。つまり、ロシアでなくアイヌが「シビル国」を滅ぼしたのなら、ロシアは「シベリア」に別の地名を付けねばなりません。かといって、同地を「アイヌ」を地名にするのは、世界史をできるだけいじらないという主旨に反します。 だから、見なかったことにしました。 まあ、アイヌ属領シビルとでもして、名前を残しておけばいいのかもしれませんけどね。
(改名するなら、「アイニア」になるのかな? なんかファンタジーっぽい名前だ(笑)。)