■太陽帝国「楽屋裏」 その5
 東洋の大悪魔が残したもの

 時系列的には、メキシコでのアイヌの活動を先に触れるべきですが、話の続きで大遠征の補足説明と、結末、顛末を先に書いていきます。

 さて、1554年夏に突如遠征を中止したアイヌ西征軍は、1570年には遠征最後の発起点となったウラル山脈まで帰っていきます。歴史上では、1571年にレパント沖海戦が発生してスペイン艦隊にオスマンが敗北。パワーバランスが白人文明優位に傾き、スペインに無敵艦隊が誕生する頃です。
 アイヌがウラルまで後退してしまうと、欧州はアイヌのことなど忘れて内輪もめに精を出す事でしょう。
 またアイヌ自身は、1630年頃にはバイカル湖まで後退していきます。歴史上では、欧州でドイツ三十年戦争が行われ、中華大陸でも王朝交代の激しい混乱期の頃です。当事者以外、ユーラシア大陸北部の事など見向きもしない時期といえるでしょう。
 以上の事を踏まえて、少しばかり整理しましょう。

 アイヌが東欧の一部まで占領していた期間が1551年から約2〜3年程度です。この期間は、アイヌの大遠征軍が東欧や欧露西部で大略奪している期間と同じです。次いで欧州ロシア南部にいたのが約10〜20年ほどです。そして西シベリアや中央アジア北部を領有していたのが、約1世紀の間という事になります。
 さらに半世紀ほどの間、東シベリアのすべてを領有しますが、満州族(女真族)の台頭によりアムール川一帯を失うと、17世紀後半以後は東シベリア東部に引っ込んでしまいます。
 次に、欧州ロシアを中心にした国家関係の整理です。
 アイヌは、ロシア王国(モスクワ大公国)の東と南の過半を領するまで西方に拡大しています。いくらか領土も奪っているでしょう。アイヌの下には、モンゴル系騎馬民族国家の末裔が作ったアストラ汗、クリミア汗があります。さらに南部には、当時世界最強の国力をを誇る大国のひとつ、大帝国オスマン朝トルコが控えます。
 欧州東部に転じると、北から順にモスクワ大公国(ロシア)、ポーランド王国(+リトアニア大侯国)、東欧諸国(過半が公国や侯国の中小規模国家)、オスマン朝(バルカン半島部)になり、さらに中欧に神聖ローマ帝国、ハンガリー、ハプスブルグ家(ウィーン)などが存在します。
 史実上なら、ロシアがそろそろ膨脹を開始する頃です。東欧、中欧のそれぞれ南部は、オスマン朝最盛期を前に青息吐息です。リトアニアと合併してウクライナにまで拡大したポーランドは、絶頂期を迎える頃です。
 そんな状態に突入する直前の欧州東部に、15万人の遠征軍を引き連れたアイヌが、ウラル山脈の向こう側からこつぜんと出現して荒らし回ります。政治的、心理的衝撃は、かつてのモンゴル軍の欧州遠征軍出現に匹敵するでしょう。だからこそ「セカンド・インパクト」という名を贈りました。しかしモンゴル軍同様、インパクトはインパクトだけで終わります。
 アイヌは一度、欧州に大きな攻勢を行うも、かつてのモンゴル帝国同様に中途半端な状態で自ら引き下がります。そればかりか、たった数年で東欧東部から一切合切を持ち去って欧州ロシア奥地にまで戻り、欧州人たちが気付いたらウラル山脈の向こうに去っていきます。
 そしてアイヌが中欧の侵略と欧州ロシア統治を行わない代わりに実行したのが、東欧での『史上最大の泥棒行為』です。

 さて、騎馬民族が略奪行為をするとき、いったい何をするでしょうか? また軍隊が「現地挑発」するときの行動パターンは? 侵略軍が占領地で行う蛮行は何?
 一過性、一時的なものであれば、ヤルことはどれも似たようなものです。この場合の「ヤル」は様々な意味を持ちます。戦地で武器を持った異国の男の集団など、悪魔の集団となんら変わり有りません。歴史がすべてを証明しています。だからこそ、高潔な人物や規律正しい組織が必要以上に賞賛されるのです。ファンタジーを排した戦争の実態などそんなもんです。
 しかしアイヌの『史上最大の泥棒行為』は、上記したすべてと少し違っています。しかも悪い方向で違っています。
 国家がすべてを統制して、腰を据えて遠く本国へ運び込む事を目的に略奪を行っているからです。もちろん無意味な虐殺や思想矯正、民族浄化、政治虐殺などをする時代でもありませんから、第二次世界大戦のような大虐殺はないでしょう。疫病の蔓延や宗教的虐殺もないので、新大陸でのような悲劇もないでしょう。行われるのは純粋な根こそぎ略奪です。オフィシャルにもあった、強制移住も含めた略奪になります。
 そうしたアイヌの国家事業としての略奪行為を、各所で国から派遣された役人達が帳簿を付けながら、膨大な規模の輸送組織によって、あれこれと東に向けて運び出しているとしました。
 すべてを運び出すために、陸上だけでなく水路と海路も大いに活用されている事でしょう。強制移住や略奪される側からすれば、泥棒行為や魔女や悪魔の所行どころか、魔王が直接出てきてすべてをその手にすべてを掴んで持ち去るに等しい行為です。
 作品内では、アイヌに好意的な体裁を取っていたので最もソフトな書き方にしましたが、実態は「はた迷惑なモーゼ」どころではないのです。もっとも、何も知らない第三者が見れば、大地を埋め尽くすような民族大移動に匹敵する光景が広がっているかもしれませんが。

 しかしアイヌの東欧遠征は、世界史レベルでのシヴィラゼーション上で見ても大きな意味、大きな変化があると考えています。異文化、異文明、異民族の接触。それらは必然的にシヴィラゼーションの加速と、侵略した側された側双方に文化の交流と発展ももたらすからです。
 アレキサンダーの偉業を最大の例として、歴史が証明しています。もちろん、いきすぎた侵略と略奪は、スペインによるインカ、アステカの侵略ように他文明の完全な破滅をもたらします。しかし、適度な戦争と侵略・征服は、多くが文明の発展をもたらしています。
 また戦争は、人口拡大の最大の媚薬足り得ます。攻める側は兵士たちが自分が死ぬかも知れないので祖国で子孫を残して、征服された地域では征服活動の一環として民族同化、つまり強姦が大量発生します。
 アイヌがはた迷惑なモーゼとなって、東欧各地から肥沃なウクライナや果ては自らの近隣にまで大量の移民を連れてきたのも、結果的に自分たちが新たな支配領域の人口を短期間で増やしてしまった事が原因の一つです。そして文明国の支配者たるもの、被支配民の面倒はちゃんと見なくてはいけません。大航海時代から帝国主義時代の欧州人の一部所行こそ、ガバメントやドミニオンの資格なしと言えるでしょう。
 そしてアイヌが、一時的支配しただけの地域から、自らの比較的安定した支配地域に強引に移民を推し進める理由はもっと単純です。
 自らの支配領域の人口拡大。それ以外にありません。
 しかも、遠征軍が征服したばかりの旧リトアニア地域の欧州ロシア南部(ウクライナ)から西シベリア南部にかけては、肥沃な黒土(チェルノーゼム)の広がる大地です。気候も大陸北部という地理環境を思えば湿潤な方です。すべてを遊牧地・放牧地にしておくなど、経済的にもったいない事この上ありません。
 新たな支配地域に民を植え付け、農業をさせ、産業を興し、人口を拡大して税収も増大させ、人々を徴発して社会資本を建設し、軍隊を編成して国家の防壁とするのです。
 また、本国につらなる場所にも、優れた文明でテコ入れすることで、人の住める場所となる新天地はいくらでもあります。
 なにしろアイヌは、一時的であれユーラシア大陸北部すべてをその手にしているのです。
 これ以後は、書き出すと長くなりそうなので、表題を箇条書きにしてから順番に触れていきたいと思います。

 ・東欧主要地域すべての減退による勢力均衡
 ・オスマン朝のアイヌ出現による無理な遠征とウィーン重視
 ・遊牧騎馬民族の軍事力、文明の進歩
 ・ロシア膨脹の半世紀遅延
 ・騎馬民族国家吸収の際のロシアの文明進歩による勢力是正
 ・シベリアでのアイヌの妨害
 ・ロシア領内のアイヌコミュニティーの残存

 「東欧主要地域すべての減退による勢力均衡」は、アイヌという異分子介入による東欧全体のパワーバランスの変化を、逆にアイヌの干渉(平等な破壊と略奪)で相対的にゼロにするためです。
 もちろん東欧全体が大きく変化すれば、欧州全体の歴史、引いては世界史すら変化する恐れがあります。それは可能な限り避けねばなりません。何より私の面倒が増すからです(笑)
 そして、アイヌが一時的に占領下に置いた東欧・欧露全域からの大略奪を行うので、地域全体の人口と経済力も低下します。結果として、数世紀前のペスト流行後のような状況が訪れ、欧州の他の地域が支配下に置きたがるファクターを低下させておきます。豊かでなければ、興味を持つ者も少なくなるでしょう。
 逆に、人口と国力の低下は、他国が侵略しやすいファクターを作る事にもなりますが、近隣にはもともと人口の少ない北欧(主にスウェーデン王国)、常に国家的統一のとれない神聖ローマ帝国、彼らのファンタジー通りに東方の蛮族と戦わされたドイツ騎士団領(後のプロイセン)、オスマン朝に怯えるウィーン(オーストリア・ハプスブルグ)しかありません。しかもアイヌに侵略されたポーランド王国は、この時期リトアニアを飲み込んで最盛期を迎えています。ポーランドの国力は、リトアニア地域(ウクライナ・ベラルーシ地域)がアイヌに蹂躙されて半減しますが、歴史が大きく変化する可能性は低いでしょう。ポーランドの天敵のドイツ騎士団領、チュートンの騎士達もアイヌに一蹴されてポーランドどころではありません。ロシアもアイヌによって拡大を停滞させられています。
 そしてアイヌが押さえたベラルーシはアイヌの大略奪と移民政策、そしてアイヌの退去によって一時的に空白化します。その反対に、アイヌが東欧侵略の策源地としたウクライナ主要部は、移民・開拓政策によって数年後には侵略前より豊かになるでしょう。
 しかしアイヌは、1570年にこつぜんとウラル山脈の向こうに帰っていきます。理由の多くは、本国の海洋交易への傾倒による予算削減と、直接支配が難しいから欧州ロシアに愛想を尽かしただけです。結果、時を置かずしてポーランド、ロシア、クリミア汗国にウクライナ地域は再び組み込まれるでしょう。特にアイヌに友好的なクリミア汗国が、アイヌが征服したウクライナの大部分を一時的に引き継ぐ筈です。
 この史実とは少し違うクリミア汗国の存在は、勢力拡大を始めようとしていたロシアを押さえるのに大きな役割を果たすでしょう。ロシアもウラル山脈の向こうのアイヌや、近隣の抵抗勢力にまず対処しなければならず、西欧・中欧勢力の後ろ盾を得てくる可能性のある東欧侵略よりも、タタールやシベリアに対する防衛を優先するでしょう。
 そしてウィーンが怯えるオスマン朝ですが、当時のオスマン朝は多方面に膨脹しすぎて、物理的に今以上の領土拡張は難しくなっています。かつてのローマ帝国と似た状態です。加えて、大航海時代の幕開けにより貿易利潤も低下しています。
 そんなスレイマン大帝による膨脹期の末期に「オスマン朝のアイヌ出現による無理な遠征とウィーン重視」というフラグ発生で再び欧州に目を向けるとき、政治的要求からウィーン(欧州中央部)に常に目を向けねばならず、東欧や欧州ロシアに向かうファクターが低下しています。
 オフィシャルでは、特にオスマン朝について表記しませんでしたが、上記のような理屈をぼんやりと考えていたからです。
 また、この時代最も偉大な統治者たるスレイマンにアイヌを合わせたかったという私個人の気分から、アイヌとオスマン朝を同盟させました。しかし、アイヌがオスマン朝に与える物理的な影響は大きくはありません。
 理由は、オフィシャルにある通り、アイヌが遠征を中断して引き返してしまうからであり、オスマン朝にもウィーンに再度大軍を送り込むだけの余力が見あたらないからです。オスマン朝はウィーンを重視するが、十分に手を出すだけの力はこの時点ではないのです。
 アイヌがイスラム勢力に大きな変化を与えるのは、アイヌから領土を引き継ぐ形になる一時的にクリミア汗国が、ウクライナ全土に広がる事ぐらいでしょう。しかもクリミア汗国は、騎馬民族という自らの文明的後進性によって、結局欧州勢力によって是正され、勢力縮小するはずです。

 いっぽう、アイヌに従ったり同盟して欧州くだんりまでやって来た「遊牧騎馬民族の軍事力、文明の進歩」ですが、彼らの変化が一番大きいのかもしれません。
 馬と弓しか戦争の手段でしかないような状況に、大量の火砲、歩兵の集団運用などの優れた軍制が最大数十年にわたり与えられるからです。
 あまり産業を持たない騎馬民族ですから、火砲などの高度な生産力を必要とするファクターを全面的に取り込むのは難しいでしょうが、軍事制度については限定的に導入可能です。歩兵の大規模導入には、欧州から移民させてきた白人農民達も利用できるでしょう。しかも遊牧民族たちは、ウクライナ東部から中央アジアに至ってアイヌの衛星国や従属地域として存在するか、以前からの独立国(もしくは独立部族)です。
 特に、当時モスクワ大公国と称していたロシアの周りには、アイヌが征服した、イビル・シビル国、カザン・ハン国、リトアニア(ウクライナ西部)が連なっています。ウラル山脈南西側のアストラ・ハン国も実質的にはアイヌ領でしょう。その向こうにあるカザフスタン北部からオホーツク海に至る地域はすべてアイヌ直轄領です。アイヌ領大シベリアとでも言うべき大封土が広がっています。アイヌが命名するなら、ポロナイ(大きな沼)やツングーシュンクル(ツングース族の地方)といったところでしょうか。
 アイヌが征服したロシア近隣地域から立ち去るのが1630年頃です。その後半世紀の間に北海道(東シベリア東部)にまで後退しますが、それまではアイヌ領もしくはアイヌの強い影響下にあるテリトリーとなり、ロシアの東進を物理的に阻止します。
 国家の膨脹を始めたいロシアにとっては、さぞ頭の痛い問題となるでしょう。膨脹どころか周りの敵の半数が強大化して、国家存亡の危機にすら思えてきます。
 以上のようなアイヌによる変化によって、「ロシア膨脹の半世紀遅延」としました。

 アイヌがウラルを越えた1551年からウラルの向こうに去っていく1570年は、ロシアでは初めてツァーリ(皇帝)となったイヴァン4世の時代です。史実のロシアは、この時期に近隣諸国を征服して領土の大幅な拡張を行い、ウラル山脈を越えてシベリア進出を果たしています。その後ロマノフ王朝誕生の大混乱を経て、1630年頃にバイカル湖、さらに数年後には太平洋にまで至ります。ポーランドの半分(ベラルーシ、ウクライナ西部地域)を飲み込み、中央アジアを征服したのが19世紀も半ばに差し掛かろうという頃ですが、17世紀にならねばロシアが大膨脹できないのは間違いないでしょう。
 しかも、アイヌが十万もの大軍を率いてロシア近隣をウロウロする時期に、領土拡張(毛皮獲得のための勢力圏拡大)や戦争をしようという気は起きないでしょう。当時のロシア(モスクワ大公国)では、十万の大軍に手もなく押しつぶされるのがオチです。無闇に抵抗しても、モンゴル風に合理的にモスクワの街ごと抹殺されるだけでしょう。
 しかし、「人」という無視できないファクターが、問題を一つ発生させるかもしれません。それは、当時のロシアがイヴァン4世の時代だからです。彼は「イヴァン雷帝」とも呼ばれ、ロシア史上最大の暴君(tyrant)とも言われている程です。
 彼は初期の頃こそ内政改革に努めるまずまずの名君ぶりでしたが、後年は親族まで殺す(息子を殴り殺す)ほどの暴政を行い、自らの異名に相応しくすべての近隣諸国と戦争を引き起こしています。カザン・ハン国を1552年に滅亡に追いやり、アストラ・ハン国は1556年に併合しています。イビル・シビル国も同時期に飲み込み、シベリア進出の足がかりを作りました。
 欧州諸勢力との戦争には敗北して、その後はシベリア開拓に専念。晩年は自らの暴君ぶりによって国に混乱をもたらすも、我々の良く知るロシアの基礎を作り上げたと言えるでしょう。
 しかし、すべてをアイヌが取り上げてしまいました。これは一大事です。
 彼が軍事的に外に向けて行動しようとした矢先に、東方の蛮族アイヌがウラル山脈の東から大挙出現。鎧袖一触でロシアの近隣諸国を次々に征服、服属していきます。ロシアにとって、タタールの恐怖再びと映ること間違いありません。ロシア人の恐怖を象徴化する意味もこめて、ロシアには貝のごとく国内に閉じこもってもらいました。雷帝ですらヒッキーになるほど、アイヌの軍事力は脅威だったわけですね(笑)
 ですが、喉元過ぎればなんとやら。しかも彼らはロシア人。脅威がなくなれば膨脹に転じるのは、大陸人としてむしろ必然でしょう。しかしロシア周辺には、アイヌが征服して立ち去った後には新たな国家や勢力が成立しています。ロシアの大拡張は大幅に遅れる可能性があるどころか、世界史が狂ってしまう可能性があります。
 それでは困ります。世界史上、ロシアは軍事国家として強大でなくてはいけません。
 そこで登場するのが、「騎馬民族国家吸収の際のロシアの文明進歩による勢力是正」フラグです。歴史は、時代の流れによっても修正されねばなりません。
 ロシアが近隣と戦争すれば、基礎体力の差から相手が欧州やオスマン朝でなければ勝利する可能性は高いでしょう。ロシアは、中小の騎馬民族国家の一つや二つを征服するぐらいの国力、軍事力は元々有しています。
 そしてロシアが征服した国には、自らにはない軍事制度があります。多くは、欧州中央で登場し始めている三兵編成の基礎概念のようなものですが、当時のロシアは欧州から欧州と認めてもらえないほどド田舎国家です。文明レベルも欧州中央から大きく遅れています。優れた軍制の獲得は、慈雨のごとき効果を発揮する可能性も十分にあるでしょう。うまくいけば、その他文明の利器や優れた制度のいくつかも獲得できるでしょう。それこそが、征服とシヴィラゼーションがもたらす最大の果実の一つです。
 しかもウラルからシベリアに至る場所は、アイヌが一度一つにまとめ上げた地域です。征服が軌道に乗れば、一気に東に押し出すことも難しくありません。
 かくして17世紀半ば、ロマノフ王朝成立の後にようやくシベリアの遠征に乗りだしてもらいます。

 しかし、西欧諸国との交易に欠かせない毛皮を求め東進するロシアの前に、進めば進むほどアイヌの色合いが濃くなる国々や勢力が次々に出現します。一部には、アイヌが連れて行った東欧系白人による国やコミュニティーまで出てきます。そのうち、鉄砲や大砲を持った騎兵も集団で登場してきます。北極海やシベリアの大河には、アイヌの狩猟船団や軍艦がウロチョロしている事もあるでしょう。
 「シベリアでのアイヌの妨害」の発生です。
 最終的には、バイカル湖やアムール川流域、東シベリア(北海道)でアイヌそのものと激突して、彼らの東進は終わります。
 ようやくの事で領土が大きく広がったとはいえ、ロシアは欧州の田舎国家です。人口や国力など体力面ではまだまだ弱いので、はるか東に大軍を派遣するなど以ての外です。かといって、コサックレベルで本格的な列強の軍事力を打破する事は不可能というのが大きな理由です。史実でも17世紀後半に清に一蹴されて、ネルチンスク条約を結んでいます。
 また、副次的な理由として、17世紀半ば以降は最後の中華帝国となる清朝の成立が、史実同様にロシアの東進とアジアでの南進を阻みます。
 北東アジアにはアイヌと清の存在があるので、帝国主義の時代に入るまでロシアが太平洋に出ることは不可能と判断しました。逆に、アイヌが去っていく事で、政治的列強空白地帯となるバイカル湖に至るまでのシベリア征服は十分可能とします。いかに16世紀から17世紀にかけてアイヌが征服した地域とはいえ、もともとが文明的に遅れた地域です。欧州仕込みの軍隊が押し寄せてきたら、旧時代の軍事力で防げるものではないでしょう。
 一部完全に騎馬民族として土着化したアイヌが残っているかもしれませんが、アイヌ本国から離れた存在です。距離の問題もあって、アイヌ本国からは実質的に切り捨てられるでしょう。
 なお、何度も言っていますが、アイヌがシベリアを切り離す理由は自国の効率的な交易のためです。
 陸の交易路は、海に対して輸送コストが高くなります。だからアイヌは、文明の発展に伴い交易は海を介して行うようになります。しかも一時的に毛皮も刈り尽くしたシベリアは、アイヌ本国にとって旨味のある場所では無くなっているのです。西シベリアの南にある中央アジアは、土地的にかなり魅力的ですが、やはり本国から遠すぎます。メキシコ同様に、現地人もしくは連れてきた白人を使って国家を成立させてしまうかもしれません。(この点は別の章で触れてみたいと思います。)
 東シベリア東部が例外的に維持されているのは、本国から近いだけでなく、各地の金鉱の存在とオホーツク海やカムチャッカ半島の漁場確保のためです。そうした利を生まない他の地域が、トカゲの尻尾切りで捨てられるのは必然でしょう。
 しかし、アイヌ・コミュニティーとでも呼ぶべき存在が、ロシア領内の各地に残る可能性は十分あります。

 さて、最後に「ロシア領内のアイヌコミュニティーの残存」ですが、このファクターは歴史に何か影響を残すでしょうか。おそらくは、ロシア帝国が揺らぐまで大きな影響はないでしょう。ロシアの膨脹に合わせて飲み込まれていくだけです。そう判断したので、全く触れませんでした。触れたのは、日露戦争から始まるロシアの混乱と分裂が始まってからです。
 20世紀に入り、ロシア帝国は民族自決と社会主義革命の機運上昇によって混乱が本格化します。第一次世界大戦中に起きたロシア革命の結果、ロシア帝国の残骸とソヴィエト連邦の成立によって、ロシアは分裂します。その中で日本帝国は、日露戦争、ロシア革命、第二次世界大戦という節目節目で次々にロシア領を割譲し、ロシアの民を数百年ぶりに自勢力圏に飲み込んでいきます。
 そこには、数百年前に東に移民した東欧系白人達の末裔の存在も無視できないでしょうが、逆にロシア領内に残ったアイヌ系の末裔の人々も重要な役割を果たすことができます。
 民族の意志として共有できる価値観があることは重要でしょう。誰しも、自らの安定のために同類を求めるものです。
 そうしたファクターがあるからこそ、シベリア割譲による政治的混乱は特に触れませんでした。

 さて、一通り流れを見てきましたが、最後に民族や文化の接触と混濁化について触れて次に進みましょう。
 東洋と西洋の接触といえば、バルカン半島から中東地域にかけてが様々な意味において有名です。また、東欧のかなりの部分も、様々な民族が入り交じった地域といえます。かつての世界的な港湾都市や大帝国の都があった場所も、文化と民族の交流点といえるでしょう。
 北欧のフィンランド人やハンガリーのマジャール人などは、今ではすっかり欧州系の姿となっていますが、DNAを調べるとちゃんと民族大移動前の(中央)アジア系の特徴が出るそうです。言語にもアジア系の名残が見られます。
 いっぽう民族の混濁化という点なら、日本人そのものも含まれる場合もあるようです。
 最後の氷河期は大陸棚が地表に露出しており、様々な民族が獲物や新天地を目指して各地を往来。氷河期が終わって海面が上昇した頃、ポリネシア系、南中華系、北方騎馬民族系、ツングース系など様々な地域の人々が行き着いた先が、ユーラシア大陸の端っこにある日本列島だったからだそうです。
 そして様々な人種が混ざり合って誕生したのが、今の日本人の祖先達です。今でも日本人の姿が東アジア系の単一民族として単純に画一化されていないのが名残と言えるのではないでしょうか。また、蒙古斑という身体的特徴が、日本人の祖先の一部が遠路はるばるどこから来たのか物語っています。
 少し話が逸れますが、日本三大美人の産地と言われる地域を見ると、さらに興味深い点が見られます。
 日本三大美人の産地と言えば、北から秋田、京都、博多。理由はそれぞれですが、人種が混ざり合う要素が多分にある場所ばかりです。
 京都は長い間(実質的に明治に入るまで)日本の中心だったから、日本中から様々な人が入り込む。博多は大陸の玄関口な上に、京都から都落ちした人の行き着く先。秋田では、DNAを調べると遠くかなたの白人系の民族がここにたどり着いたというデータがあります。秋田犬も、欧州をルーツとする遺伝子を持つそうです。また、小話レベルかもしれませんが、江戸時代初期にこの地に転封になった大名が、かつての領国から美女千人を選りすぐって連れてきたという逸話があります。まあ最後のは余録ですね。
 いっぽう世界的にも、混血の進んだ地域の人は美形が多いそうです。逆に言えば、民族の混濁化は必然的に美形を生みやすい環境だそうです。とある元外交官によれば、中東のシリア人が最も美しいそうです。(イスラム圏なので、女性の顔を拝むのは至難の業でしょうけどね。)
 はたして、東欧系の人々を総人口の一割も迎え入れたアイヌはどうなるでしょうか。
 文化や文明に関しては、中身でもかなり触れていたと思います。 
 優れた異文化の収奪も、騎馬民族としての避けられない性です。
 アイヌにも欧州にあった三圃式農業の原型などを取り入れさせていますし、その他建築、音楽、芸術、その他諸々、手には入る限りのものは奪えるだけ奪って取り入れているとしました。交易によって、直接欧州の先進地域から手に入れた文物も多数あるでしょう。
 また、当時の世界帝国であるオスマン朝トルコから、交易と交流により得られる文物の価値も計り知れません。トルコの軍楽隊を見た欧州人がオーケストラの楽器群を作り上げたような変化が、遠く東洋の果てで起きるかもしれません。
 いっぽう民族的混血については、建国から発展の経緯と一世紀にも渡る侵略戦争で、民族的混血に対する拒否反応もなしとしました。この点大きな問題はないと思います。
 そして、アジアの僻地でのアジア系とヨーロッパ系の人種融合こそ、今回の目的の一つといえるでしょう。

 なお、白人のアイヌ化には個人的目的がありました。
 それは、大量の金髪碧眼の人々が日本語もしくはそれに類する言語を母国語にするという、逆転現象の出現を狙ったものです。
 民族全体で美形が増えるかどうかはともかく、アメリカの東洋系とは全く逆の状態を作り上げることは、日系勢力を世界帝国とする重要なファクターなのではとも思います。



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