■太陽帝国「楽屋裏」 閑話休題1:
 17世紀から20世紀にかけての中央アジア情勢
 草原の国「キルギシア王国」

 実は、すっかり見落としていた点がありました。「太陽帝国」そのものから関係が薄くなるので閑話休題としましたが、少し触れておきたいと思います。

 見落としていたのは、現在の中央アジア・カザフ地域の情勢の変化についてです。
 教材系の資料をいくつか見る限り、同地域の16世紀後半から19世紀にかけて、明確な「国家」というものを確認できません。おおむね「キルギス部」と呼ばれていますが、どの日本国内の資料を見ても「キルギス部」は国家とは定義されていません。この地域には、現在のカザフスタンの祖となった「カザフ・ハン国」が16世紀中頃に成立しましたが、教科書レベルの資料だと今のカザフスタン全土に広がるだけの、小さな騎馬民族のコロニーが各所に存在するのみと言っても良いぐらいです。地域によって、一時期清帝国に朝貢したり、ロシア国籍を取っていたりもしていたそうです。国家や民族としてまとまりに欠けていたのは事実なのでしょう。結果として、18世紀後半から19世紀にかけてロシア帝国に併合されています。
 しかしこの世界のカザフ地域は、1530年頃からアイヌの侵略を受けて、10年程でアイヌ領化しています。その後、最低でも半世紀はアイヌ領となります。最長、アイヌがバイカル湖から去る17世紀半ば頃まで、一世紀近くもアイヌもしくはアイヌに連なる勢力が居座っています。なにしろ現地民族が頼りないのですから、アイヌが何らかの形で強力に統治するより他ありません。でないと、アイヌが望むアジア交易路が維持できないからです。しかも中央アジアは、古来よりシルクロードの交易路がいくつも存在しており、アイヌの目指す交易相手を得るために欠かすことができません。
 しかしアイヌは、海の道を手に入れた事で方針を変化させます。大陸からの段階的な撤退です。
 ですが、いかにアイヌ本国がユーラシア大陸の遠方部を切り捨てると言っても、一世紀も一つの勢力が居座れば国家が成立するには十分な時間です。それどころか、国家が勃興から滅亡を体験してもおかしくない時間です。しかも侵略戦争に飽きたアイヌ達は、回れ右したかのように各地で地に足のついた国家建設に熱心になります。
 そして地理的に西シベリアとカザフステップの境界線のあたりは、100キロ単位の幅で東西にかけて延々と黒土(チェルノーゼム)地帯が広がっています。今でも現地は農耕地帯です。ヨーロッパのパン籠と呼ばれたウクライナから続く黒土地帯の延長が、シベリアと中央アジアの間を横断しているのです。開発さえしっかり行えば、16〜17世紀でも十分に大人口を養えます。
 そしてそんなところに、連れてこられた人々がいます。
 東欧系(主にスラブ系)の白人達です。
 アイヌに連れてこられた彼ら東欧系、スラブ系の人々が、中央アジアの黒土地帯にも居着いて開拓するのはほぼ確実でしょう。何しろウラル山脈から東で農業ができる場所はここしかありません。しかも18世紀以降ならいざ知らず、17世紀の前後一世紀はそこは紛れもなくアイヌ領です。アイヌの国力・軍事力により治安は安定しており、アイヌも現地経営のため開拓に乗り出すでしょう。それどころか、スラブ系の人々が来る前から、積極的に農業を始めている可能性も十分あります。
 アイヌ自身の経験からも、農業なくして発展なしという事です。

 さて、上記のような経緯からカザフの地に新たに国家ができるとして、どんな国になるでしょうか。
 まずは国名ですが、アイヌ支配時期は「アイヌ領キルギシュンクル」、独立後はヨーロピアン・チックに「キルギシア」としましょう。支配者がアイヌ又は白人である以上、中央アジア風の「〜スタン」とはならないでしょう。また、カザフンクルやカザフニアにはなりません。カザフの名が定着する前にアイヌが滅ぼしています。この世界では、カザフは出現しないのです。
 言語は、多数派のスラブ系言語をすべての白人系民族が使えるようにした簡易言語の仮称キルギシア語。文字は、かな文字と言いたいところですが、ラテン文字(ローマ字)です。ラテン文字より汎用性に欠けるキリル文字は使いません。そして文字と言語により、独自のアイデンティティーを育むことができます。
 住民の多数派は当初は現地民族ですが、農業を始めた東欧各地から移住させられた白人が、オフィシャルの流れからだと30〜50万人ほどいます。農業と放牧ができる土地柄なので、アイヌ本国や本国周辺地域からの移民もかなりの数があるでしょう。丼勘定で合計50万人の移住者を加えて国造りがスタートします。
 農業を主に行えば、移住者たちは一世紀の間に倍増します。黒土地帯という肥沃な土地柄とアイヌによるテコ入れがあれば、数倍に膨れあがる可能性すらあります。国として300年も続いたら、せっせと農地を広げて1000万人ぐらいに膨れあがっているでしょうか。独自に国家の近代化に成功すれば、もっと大きな国になっているかもしれません。近世の中央アジアでそれだけ人口が増えれば十分大国です。独自の軍隊を作り上げ、中央アジア全土を征服しているかもしれません。近世的な農業と商工業を持ち、三兵編成の軍隊も持てれば、近隣の騎馬民族でどうこうできる勢力ではなくなります。
 宗教は、現地ではイスラム教が広がっていますが、比較的ゆるやかなイスラム教徒といえそうです。モンゴルの支配の頃に一時的に薄れたせいかもしれません。また新たな支配者のアイヌも、国を挙げてイスラム教を保護しません。このあたりのアイヌの統治方針はモンゴル風です。
 そして移住してくる東欧系白人たちのかなりが、カトリック系キリスト教徒です(正教徒も含むが)。ちなみに、今でもリトアニアやポーランドは熱心なカトリック教国です。対してアイヌは、自然崇拝を基本とした原始的な宗教なので、現地に強く根付くことはないでしょう。そして、農業とそれに連なる産業態勢を作り上げた民族が多数派となり、勢力を広げるのは必然です。
 アイヌが立ち去る頃には、中央アジアの広大な地域にカトリック教を信奉する白人と北東アジア系が多数派を占める国もしくは地域が成立している事でしょう。当初イスラムを信奉していた現地部族・民族の多くも、現地政府の方針に従い改宗が進み、過半数がカトリック教に染まる可能性すら考えられます。かつてのペルシャのように宗教税(人頭税=ジズヤ)を設ければ効果てきめんでしょう。
(王権とキリスト教を関連づけ、王権に直結するキリスト教は無税、王権とつながらない他の宗教には税金をかけるなど、課税への屁理屈は何でもいい。)
 国の制度は、アイヌが立ち去るまではアイヌを頂点とした植民地統治に近くなるでしょう。もっとも絶対数の少ないアイヌは、現地に貴族や支配者を介した間接統治を主に用いる傾向を与えています。中央アジアでも同じ事をするでしょう。中途半端な利益に固執するより、経営コストは可能な限り下げるに限ります。この姿勢こそが、企業的性質を持つアイヌの国家としての側面になります。
 そしてアイヌたちが中央アジアから立ち去る時、現地との今後の交易も兼ねて、自分たちの影響力を保持した政府、国家をうち立てます。
 王族や貴族は、アイヌ、移住した白人、現地部族から勢力順に選ばれた後に混血が進められ無国籍化します。キリスト教の影響が強ければ、一世紀ほど経過した時点でかなり欧州風になるでしょう。近世はまだまだ宗教=文化の時代です。
 域内の人口は、現在のカザフが約1500万人なので、多めに見てその3分の2程度の1000万人が近代化以前の最大数になります。近隣地域を服属させていれば、さらに増加しているでしょう。
 構成民族は、農業の普及で増えた白人が数によらず主流派になります。多数派は、現地民族と白人、アイヌの混血と現地民族になるでしょう。乾いた土地にわざわざ農業しにくるアイヌは少ないでしょうから、アイヌが連れてきた白人達が主人公です。というより、せっかく得た農業予定地を活用するため白人を大量に連れてきたようなものです。ほとんどが立ち去るアイヌは、支配階層の一部に残る程度で少数派になっているでしょう。
 文化の基本は、国教ともなるカトリック系のキリスト教です。これにアイヌと現地民族の風俗が混ざり合います。この世界の21世紀に広がる風景は、東欧の一部やトルコに近くなるでしょうか。
 国の重心は、当初は草原寄り。特に首都にあたる場所は、アイヌ本国に近い東方山岳部に近くなるでしょう。草原では都市の大人口を養う水源が不足します。その後、農業の発展に伴って遷都。草原と農耕地帯の中間部の、どこか大河のほとりに新首都を構えるでしょう。
 草原と広大な農地の各所には、イスラム風の文化も取り入れた建築様式のカトリック教会がそびえ立ち、都にも現地風俗に東欧文化を混ぜ合わせたような巨大なカトリック教会と壮麗な宮殿が出現するに違いありません。モスクをそのまま流用する施設もあるでしょう。見た目はトルコのものに近くなるのでしょうか。
 もっとも、主な施設や都市は建国と同時に、建設もしくは改造がスタートします。軍事施設も例外ではありません。高い城壁を持ついかにもな中世的城塞は存在せず、主要都市は広大な土塀と堀を持った近世的要塞で防衛されます。旧来からある遊牧民族的な都市や施設も徐々に改築・改造されていくでしょう。
 農業から手工業へと産業を振興させて火砲を中心に装備した常備軍が保持できれば、近隣の騎馬民族程度では歯も立ちません。アイヌ本国に負けないぐらい奇妙な国家として、中央アジア中央部に広がっていく事になります。
 産業については、近代産業をのぞく主産業と産業分布が現在のロシアとほぼ同じになります。当初の南部から中央部にかけての放牧から、北部地方の農業に産業の重点がシフトします。
 資源や工業原料が豊富なので(鉄、銅、石炭などが豊富。灌漑農法で綿花も大量に栽培可能。羊も昔から放牧している。20世紀後半に入れば、石油も世界有数のウランも天然ガスもある)、19世紀半ばまで国家として生き残れれば産業革命の可能性も十分あります。
 もっとも、海はアラル海とカスピ海がありますが、外洋とは繋がっていません。二つの内海は海の幸(キャビアも捕れるぜ)をもたらしてくれますが、交易の道とはなりません。ボルガ、ドンなどの大河を伝ってでも黒海へ進出しなければ、発展には常に足かせがつくでしょう。なにより近代的な交易相手が、ロシアかオスマン朝しかいないのは後々問題になるでしょう。ロシアと激しく対立して西シベリアを北上できたとしても北極海です。

 そしてシヴィラゼーション上、この新たな国家「キルギシア」の行く末も見なくてはなりません。

 「キルギシア」と命名した奇妙な白人による草原国家が、大きな問題に直面する時期は大きく7度あります。
 一つ目は、アイヌが完全に立ち去る頃。二つ目は、キルギシア自身の拡大期。三つ目は、ロシア東進の頃。四つ目は、東トルキスタン(ウイグル地方)でジュンガル帝国が拡大する頃。五つ目は、19世紀頃のロシアの膨脹時期。そしてソヴィエト時代と第二次世界大戦の頃です。
 まずは、アイヌが完全に立ち去る17世紀後半ですが、アイヌが中央アジア地域を切り捨てた時点で現地の人々がアイヌからの独立を図ります。現地でキリスト教の影響力が強ければ、自主独立はむしろ必然です。
 近隣がイスラム、有色人種、騎馬民族というファクターしかないので、白人達が自らのアイデンティティーを守るためにも必要だからです。でないと、周辺に飲み込まれて移住させられた白人達は一巻の終わりです。
 しかも既に現地に根付きすぎているし、ウラル山脈の向こうにはロシア人が広がりつつあって故郷への帰還は簡単には無理です。新天地たる中央アジアの草原に腰を据えるしかありません。
 幸い土地は開発さえしっかり行えば、故郷だった欧州北東部より豊かなほどです。小麦、ひまわりなどを栽培し、羊や山羊、豚を家畜とするという形になりそうですが、一次産業は安定しています。南部では、灌漑農業で綿花栽培も可能です。羊の放牧などはもとから行われています。自らとアイヌが持ち込んだ東洋的な文物や先端科学によって近隣も圧倒できます。
 あとは政府さえしっかりしたものを作れば、100年単位での存続が可能でしょう。国力を養えば、中央アジア、西シベリア全土に広がる広大な帝国を作り上げる可能性すらあります。
 そして、国家黎明期にたいていの国が経験するのが、国家の領土的拡大です。
 キルギシアは、アイヌの西シベリア、中央アジアを引き継ぐ形で国家を形成していくので、征服にかかるコストは最小限で済みます。17世紀半ばぐらいにならなければロシア人もウラル山脈を越えてくる事はなく、むしろ欧州ロシアへ打って出る事も十分可能でしょう。アイヌが一時的に領土や属国としていた地域を飲み込むと仮定すると、コーカサスのあたりまで領土にできます。
 また、交易のためにも外海を求めるが常ですので、黒海目指して西進するのは必然的とすら言えます。
 そしてキルギシアには、周辺騎馬民族を服属させられるだけの軍事力がすでに存在しています。ロシア人がシベリアに押し掛けて来るまでに、草原の大帝国を建設する可能性はかなり高いと見てよいでしょう。
 しかしアイヌと入れ替わるように、17世紀半ば頃から西シベリアにはロシアンコサックが多数出現します。もっとも彼らは、南の草原に興味ありません。彼らの興味は、西シベリアの獲物から得られる毛皮です。キルギシアが西シベリアを切り離しているなら、彼らを無視するかのように、どんどん東に進んでいくだけに終わるでしょう。
 しかしシベリアの毛皮は、16世紀に一度アイヌが刈り尽くしているのでなかなか利益が上がりません。キルギシアもコストパフォーマンスの点から手を引いていれば、アイヌ撤退後は国家と呼べる物もありません。ロシア人の東進スピードは史実よりずっと早くなるでしょう。一度事業を始めた以上、利益を得るまで歩みを止めることなどできないからです。
 なお史実上のロシアは、19世紀まで中央アジアを本格的な領土化していません。シベリアへの領土拡大は、あくまで欧州中央と交易するための毛皮を求めての事でした。中央アジアに自分たちとは違うキリスト教国が新たに成立していても、交易こそ行えどあからさまな侵略には至らないでしょう。それに18世紀に入るまでのロシアに、遠隔地で戦争する国力、軍事力はありません。
 そしてキルギシアがロシアの東進が当面無害であると安心した頃に、今度は東が騒がしくなります。一時期清帝国にすら対抗したジュンガル(今の東トルキスタン。(=新疆ウイグル))の英雄ガルダーンの台頭です。
 ガルダーンは、チベット仏教からも信任を得て広大な草原の帝国を短期間で作り上げ、清へと挑戦していきます。歴史上最後の騎馬民族の台頭です。近隣のキルギシアにも、何らかのアプローチはかけてくるでしょう。何しろキルギシアは、アジア唯一のキリスト教国です。
 もっともガルダーン率いるジュンガルは、モンゴル系の騎馬民族です。当然騎兵が主体で、近世においては軍事的に遅れた存在になります。火力装備を持ち近世型の要塞を構えておけば、大きく侵略される事はないでしょう。事実、火力装備(火縄銃と軽砲)を充実させた清国に徹底的に敗北して殲滅され、今では極めて少数派の民族と化しています。
 キルギシアとしては、清国とジュンガルの戦争にかこつけて、双方を天秤にかけつつ、最終的にはジュンガルの領土を東から奪い取る方向に進む事になるでしょう。キルギシアが東で色々しても、清に中央アジアまで遠征して近世的な戦争する力は物理的にありません。キルギシアにとって隣国となった清国は軍事的・政治的にはやっかいですが、互いに距離がありすぎて物理的にどうこうできる相手ではありません。
 キルギシアにとって大問題は、やはりと言うべきか強大化したロシア帝国の南進になります。

 ロシアが中央アジアに膨脹を開始するのは、18世紀に入ってからです。本格化するのは、19世紀に入りナポレオンの脅威が消える頃からです。しかも19世紀から始まる膨脹は、資源や市場を求めての帝国主義的膨脹なので、非白人系独立国の侵略は当たり前です。相手が弱ければ白人国家でも容赦なしです。史実でもロシアは、ポーランドを列強と分割しています。スウェーデンからフィンランドも分捕っています。バルト三国も併合しています。オスマン朝も押し切られました。長年続いたクリミア汗国も滅ぼされます。19世紀中には、中央アジアのすべてを飲み込んでいます。太平洋でも日本に接触してきたりしています。黒海沿岸で起きたクリミア戦争なども、ロシア膨脹の象徴です。
 やはり19世紀のロシア膨脹が、キルギシアにとっての国家存亡の危機になりそうです。
 しかし、キルギシアに史実のケースが当てはめられる事例がなかなか見あたりません。カトリック教国の併合だと東欧各地を飲み込んだ例がありますが、キルギシアは中央アジア一帯に広がるかなりの規模の国家です。例とするなら衰退直前のポーランドぐらいの国家規模があるでしょう。
 しかしポーランドが亡国したのは、ロシアばかりでなくポーランドの近隣諸国すべてが突っつき回した結果です。ロシア一国でなし得た事ではありません。ロシア単独の力で併合したのは、近隣の弱小国ばかりです。
 いっぽう、アジア勢力に対してはクリミア戦争のように、相対的軍事力が弱体で与しやすいと判断すると問答無用で殴りかかっています。反対に太平洋では自分たちの勢力が小さかったので、清国が他者との戦争でめちゃくちゃ弱いと分かるまで手は出していません。日本に対しても、投入できる軍事力が極めて限られていたため、けっきょく話し合いで事を進めています。
 ロシアとキルギシアのケースを史実に求めるとするなら、オスマン朝トルコとロシアの関係が近いでしょうか。
 そんなロシア相手に、キルギシアはどこまで太刀打ちできるのか。また、ロシアの脅威に共に立ち向かってくれる国があるのか。
 まずは太刀打ちできるかどうかですが、19世紀以降でキルギシアからロシアに戦争を吹っかけても待っているのは亡国だけです。少しばかり国を大きくしたところで、膨脹した後のロシアとは人口と国力が違いすぎます。接する国境線も広すぎて、防衛戦争すらしたくないのが本音でしょう。それに周辺は異教徒の国ばかりで、キルギシアにとって小競り合いレベルの戦争は絶えない可能性が十分あります。逆に、外交で巧く立ち回り中央アジアで数百年も安穏としていたのなら、ロシアに対してすら科学技術、軍事技術の面で大いに不安があります。
 スウェーデンのように、中立外交を中心にして耐え凌ぐにしても難しいでしょう。何しろ中央アジアで孤島状態のキリスト教国なので、近隣で共に立ち向かってくれそうな国はなかなかありません。代わりにローマ教皇やフランスなど欧州列強が、遠くからロシアにあれこれ文句を言う可能性はありますが、物理的な支援は距離と地の利の問題から最小限でしょう。カトリック教が維持できるのなら、ロシアによるキルギシア併合も受け入れる可能性も十分あります。
 いっぽう、かつての宗主国にあたるアイヌ王国が本腰を入れて支援しても、海にも面せず他国に囲まれた国となるので軍事力を伴った関係や支援はほとんど無理です。経済交流にも限界があります。かつての同胞という心理面とロシア膨脹阻止という国益に従っても、近代的な制度や技術を輸出するのが精一杯なのではと思われます。
 キルギシアが国家として帝国主義時代を生き残る道があるとするなら、ロシアと戦争をせずに20世紀に入るまで領土を切り売りしてでもやり過ごすか、史実日本のように自らも抜本的な改革で一気に近代化して、強引に列強の末席に名を連ねるしかないでしょう。逆に、民族として最低限の生き残りを図るなら、一定段階の限界を超えた時点で属国化されてしまうのが穏当かもしれません。例としては、列強の支配下にあった東欧各国のような状態ですね。

 しかしキルギシアが20世紀まで独立を維持できれば、インドを飲み込んだ大英帝国がアフガニスタン経由で中央アジア情勢に割り込んでこれます。ロシアが中央アジアでまごついていれば、これ幸いとジョンブル達がやってくる事でしょう。カトリック教国ということで、フランスが首を突っ込んでくるかもしれません。
 そして中央アジアに白人系のキリスト教国がロシアの前に立ちふさがっていれば、西欧列強が錦の御旗を立てて援助してくれる可能性が高くなります。カザフの地理的位置は、ロシアのアジア南進を押さえ込むのに理想的です。インド、中近東の安定のためにも、出来る限り支援するでしょう。
 資源も豊富だから良好な関係を結べれば御の字だし、なにより西アジア、南アジア侵略がし易くなります。ロシアが本格的にキルギシアを滅ぼしに掛からない限り、特にイギリスにとって損するファクターは小さいはずです。
 そして第一次大戦後には国連などもできて、白人国家・キリスト教国の民族自決も認められるので、キルギシアの継続的存続まで後一歩です。
 しかし、仮にロシア革命(第一次大戦後)までキルギシアが存続できたとしても、ロシア革命の後に貪欲なソヴィエト連邦が襲いかかってくるでしょう。こいつが一番の難問かもしれません。
 もちろん、キルギシアにそれなりの国力があり近代的な軍事力も備えていれば、1920年代はソ連も手出ししないでしょう。第二次五カ年計画が終わるまでのソ連に、大きな国力、特に軍事力はありません。
 しかし相手は貪欲な共産主義国です。しかもこの世界のソ連は、ロシア帝国時代にようやく獲得した極東をすべて失い、革命時にロシア帝国の富裕層の資産逃亡をかなり許しているので、計画経済を実行するための国内資金が不足しています。史実以上に、略奪を目的とした弱小近隣諸国の併合には熱心になるでしょう。
 キルギシアに対する姿勢は、フィンランドやポーランドに対する態度に近くなると思われます。資源も豊富ですから尚更でしょう。
 そして最後の関門として、ソ連が本格的な膨脹をしかける第二次世界大戦がやって来ます。
 もっとも、この世界の第二次世界大戦でソ連は負け組です。
 遅れて火事場泥棒よろしく裏庭参戦したのに、日本帝国に大敗を喫してバイカル湖一帯を喪失。おまけに、他の同盟国が先に降伏して四面楚歌です。
 第二次世界大戦の時点でキルギシアが残っていれば、日本側(三帝同盟側)について時期を見て参戦して、ソ連の側面を攻撃してもいいでしょう。シベリアで日本帝国の大軍を前にしたソ連には、いやな敵となること間違いなしです。三帝同盟側の爆撃機基地とか作られたら、ソ連シベリア軍は喉元を締め上げられるようなものです。なにしろ、国境近辺に延々とシベリア鉄道が連なってますからね。しかも、ウラル山脈もバクー油田も目の前。いやな位置に存在することになります。

 そして20世紀半ばまで激動の歴史を走りきらなければ、中央アジアに出現した人工国家が永続的に存続する可能性はかなり低いと判断できるでしょう。
 ロシアが強大である限り、近隣諸国に明日はありません。

 いっぽう17世紀初頭だと、いくつかの過程を脳天気に積み上げると全く逆の状況が想定できます。これはこれで大問題です。
 オフィシャルでは、1570年にウラル山脈の東側にアイヌは撤退しますが、独眼竜の御代(17世紀前半)まで大幅な撤退はありません。
 つまり欧州に再び押し出せる位置にある、西シベリア、中央アジアはアイヌ領です。
 いっぽうロシアは、雷帝ことイヴァン4世の死後、国は荒れ、内戦に陥ります。史実では、1606年から1612年にかけては国家存亡の危機とすら言えます。ツァーリが空位だった期間が2年もあったといえば、危機の度合いが分かるでしょうか。歴史の偶然が積み重なれば、ロシアがスウェーデンやポーランドに併合されていた可能性すらあったのです。
 そしてロシアの大混乱を、ウラル山脈の東側からアイヌが眺めている事になります。
 西征終了から半世紀もたてば、ウラルから東のチェルノーゼム地帯の白人達も落ち着いて人口も大きく増加している頃でしょう。アイヌ自体も最盛期といえる国力をいまだ維持しています。1598年には南蛮征伐も終わって、その気になればもう一度欧州に押し出すぐらいの軍事力は捻出できます。問題は軍隊を動かす予算ですが、よほど国家予算が欠乏しているのでなければ、短期間なら出兵も可能でしょう。
 そして、アイヌが連れてきた連中の主力がカトリック教徒というファクターが加われば、正教徒に対する攻勢に出ようとする可能性がかなり高いのではと考えられます。同じカトリック教国のポーランドなどからもお誘いがある事でしょう。
 西からポーランド、東から国家形成前のアイヌ・カトリック連合の挟み撃ちにあえば、ロシアが消滅している可能性が十分にあります。なにしろポーランド軍に長期間モスクワを占領されるほど、一時期のロシアは混乱していますからね。もうひと突きあれば崩壊してもおかしくないでしょう。
 そして、この想定の向こうのロシアの大地には、北に大スウェーデン王国、西に大ポーランド王国、東に大キルギシア王国という3つの国が出現し、いまいち統制の取れない国家としてダラダラとした数百年を過ごすという事になりそうです。
 そして、ロシア帝国の膨脹という要素がなくなれば、世界史は大きく違ったものになったでしょう。

 まったく、バタフライ効果とはよく言ったもので、一つを変えてしまうと方々に目をやらなくてはいけません。
 見落としていたというか忘れていた場所に、以上のような多数の歴史改変のファクターが眠っていようとは思いもよりませんでした。
 では、この節の最後に、仮設定上のキルギシア史を載せて、本筋に戻りたいと思います。

●キルギシア史
 ・キルギシア前史

1502年 アイヌ、「西征」開始
1534年 アイヌ、キルギス部侵攻(第二次西征)
1543年 アイヌ、キルギス部平定
1544年 アイヌ領キルギシュンクル成立
1544年〜45年 アイヌ、中央アジアをさらに南進して勢力拡大。カスピ海東岸を完全征服。
1551年 アイヌ、西征再開(第三次西征)。ウラル山脈を越える。
1551年 アイヌ、イビル・シビル汗国、カザン汗国征服、アストラ汗国服属
1552年 アイヌ、オスマン朝トルコと同盟
1552年 キエフ陥落
1552年 アイヌ西征中止。強制移民と大略奪開始
1555年 アイヌ、ウクライナ地方より撤退。後はクリミア汗国に引き継がれる。
1560年頃 中央アジアの白人入植開始
1570年頃 アイヌ、ウラル山脈の東に撤退
1600年頃 中央アジアの黒土地帯での白人人口拡大顕著化
1605年 
アイヌ、キルギシュンクルの自治決定。外府(総督府)から大封(自治政府)へ行政権移行。現地に多数の貴族を封じる。
1608〜12年 
キルギシュンクルの白人勢力がロシアの内紛に干渉。ロシアの一部領土を切り取ることに成功。以後、アイヌに対する独自性を強める。アイヌも追認。
1616年 
アイヌ、海洋交易拡大のため、維持コストのかかる西シベリア、中央アジアからの撤退を決定。現地国家の建設が本格化。

 ・キルギシア歴
1628年
キルギシア王即位宣言、キルギシア王国成立。アイヌより、西シベリア全域、中央アジアの北半分を移譲される。
建国宣言と同時に、ドイツ三十年戦争で揺れる欧州情勢を見て西への拡大、故郷への回帰を目指した領土拡張を開始。
1635年
ロシア・キルギシア戦争(小競り合いのみ)
1638年
キルギシア、コーカサス主要部獲得。ボルガ河、ドン河南部を押さえつつ黒海に進出しアゾフ海に港を開いて、オスマン朝や欧州諸国とも独自の交易を始める。
戦後は、ローマ教皇やフランスに強く働きかけ、自らの存在を欧州世界にアピール。
同じ頃、利益の出ない西シベリアから撤退。同じ労力を他地域の開発と侵略に傾注。アイヌとの連絡路だけがしばらく維持される。
1648年
キルギシア、ドイツ三十年戦争の総決算、ミュンスターでのウェストファリア条約に出席し、欧州諸国に国家として認められる。
17世紀中頃
ロシアが西シベリアに進出。キルギシアは、オビ河上流部のテリトリーの確保以外は傍観状態。ウラル山脈南部から現オムスク市にかけてが、当面の国境線となる。
いっぽうで、キルギシアは欧州への回帰のため無理な西方進出を行い国力を消耗。キルギシアのさらなる膨脹に対しては、ロシアだけでなくオスマン朝、ポーランドまでが妨害。黒海北東岸への進出が限界線となる。
また他方では、中央アジア北部へも進出し、ペルシャ近辺の山岳地帯まで領土に組み込む。
キルギシアの絶頂期。
17世紀末〜
膨脹限界に達し、以後停滞期へ。
ロシアとボルゴ川と川の要衝現ボルゴグラード(ツァリーツィン)を巡って何度も争う。
18世紀中頃
キルギシア王家に中興の祖出現。国内改革を行い、傾いた財政を再建。産業振興、内需拡大を行う。また、領土もいくばくか回復。
18世紀末頃
ロシアの干渉が活発になる。ポーランドなどロシア周辺国と連合してロシア封じ込めを画策するも失敗。ポーランドは内政の失敗もあり完全に衰退。キルギシアも度重なるロシアなどとの小競り合いで黒海沿岸部、ドン河流域を失い、欧州との直接的接点をなくす。以後、西アジア諸国との友好関係建設に努め、カスピ海=ペルシャルートで世界とつながり保つ。
1789年〜
フランス市民革命。アイヌ宮廷革命。
キルギシアでも改革機運が高まり、一部の民主化改革が実現。議会が設置されるも、直接王制は変わらず。
19世紀初頭
ナポレオン戦争では、伝統的反露政策からフランスを支持。フランス敗北によって国威低下。以後衰退期に突入。
1815年
ウィーン会議 キルギシアも出席。再度、近隣諸国との国境確定。
19世紀初頭
ウィーン会議後、ロシアの南進顕著化。18世紀後半よりロシアへの対抗からオスマン朝や中央アジア諸国と連合するなどして対抗するも西方領土を次々に失う。
この時期にコーカサス全域を喪失し、欧州との直接の連絡線完全喪失。
1840年
アヘン戦争で隣国清が大敗。キルギシアは国威回復のため、清属領の東トルキスタンへの政治的浸透開始。
1854〜57年
「クリミア戦争」 黒海でロシアが敗退。キルギシアもオスマン朝支援で参戦。
しかしその後、ロシアは別ルートでの南進と国威回復のため極東や中央アジアに矛先を向ける。
1857〜60年
「アロー号戦争」 同じカトリック教国ということでフランスとの仲介を清国に持ちかけ、見返りとして東トルキスタンの西部を清国より割譲。東トルキスタン全域の経済植民地化も認めさせる。一時的に国威回復。
いっぽうロシアも清国と英仏の仲介の代金に、アムール川北岸と沿海州を割譲させる。
19世紀後半
ロシアの脅威と国威回復を追い風に、政治、産業の近代化を開始。豊富な国内資源を使い産業革命を推し進め、政治的にも従来の直接王制から立憲君主国への脱皮を図る。
1871年〜 
ドイツ帝国成立によりロシアで対独強化政策が次々に行われる。結果、キルギシアはロシアの中央集権強化、領土拡張のあおりを受けて領土をさらに割譲される。現オムスク市など重要都市喪失。
現在の国境線がこの頃ほぼ定まる。
19世紀後半 
国威回復のため、国内と東トルキスタンでの遺跡調査を大幅に推進。多数の貴重な遺跡が見つかり、世界中から探検隊が押し寄せるなど世界中から注目を集める。王都に巨大博物館建設。一部を英仏独に譲渡。
1891年 
ロシア帝国、シベリア鉄道敷設開始。キルギシアへの圧力と内政干渉をさらに強める。
1894年 
キルギシア国王暗殺。ロシア政治介入し、事実上の傀儡王が即位。キルギシアの混乱始まる。
1895年 
キルギシアの傀儡王が爆殺。民族主義的な暴動が起き、ロシア大使館など襲撃。ロシア軍干渉の口実を与える。
1897年
ロシア軍が自国の利権防衛のためと軍の常駐開始。ロシアは西欧諸国から非難されるも、軍を増強し内政干渉を強める。
1898年
キルギシア全土で反ロシア暴動。国境に待機していたロシア軍が越境し、戦争状態に移行。ロシア軍は数ヶ月でキルギシアの主要部を占領。キルギシアの発達した交通網が仇となる。
1899年 
ロシアの完全な傀儡となった新たなキルギシア王が、ロシアへの服属を宣言。ロシアはキルギシアを併合。
キルギシアのロシア併合に前後して、王族や貴族、民族資本など多くが国外に亡命。主にイギリス、フランスとアイヌ王国に亡命する。
事実上の併合に際してキルギシア国内で市民の強い反発があるが、ロシア軍が武力で沈黙させる。世界各国が非難。(以後、キルギシア以南の中央アジア諸国も前後してロシアに次々に併合)
キルギシア国内は鉄道、道路など社会資本が発達していたため、ロシアの南進が急加速。ロシアは中央アジアからそのままアフガニスタン、ペルシャに浸透。イギリスがロシアへの警戒感を上昇。イギリスは、キルギシアの地理的価値を見直す。
1902年 シベリア鉄道部分開通
1902年 日英同盟締結
1904年 シベリア鉄道完全開通
1904〜05年 
「日露戦争」 日本側に義勇軍としてキルギシア人が多数参加。戦時国債購入など資金援助も行う。
1905年 
ロシア国内で政情不安発生。キルギシア再独立運動も活発化。日露戦争中には、日本帝国内にキルギシア自由政府発足。(自由政府は、日露講和時の争点の一つとなるがそのまま存続。(秘密結社などになられるよりは政治的に制御しやすいため。))
1914年 
第一次世界大戦勃発 ロシア政府は、戦争への全面協力を条件にキルギシアの自治復活を約束。
キルギシア人の多くが連合軍としてロシア戦線に参戦。
1917年 
「ロシア革命」 ロシア帝国軍にあったキルギシア軍は、革命勃発の戦線崩壊を受けて祖国へ帰国。再独立と民族自決に動く。
裏では、ロマノフ王家救出に活躍。
1918年 
キルギシア再独立宣言。王家がキルギシアに返り咲き、立憲君主国としての独立復活を宣言する。共産主義革命の波は阻止される。
1920年 
ベルサイユ会議にてキルギシアの再独立が確認。世界中から独立が承認される。
白軍も援助し、ロシア帝國復活すら支援。
1921年 
ポ=ソ戦争でポーランド側に荷担。後の交渉でソ連から一部領土を奪回。ソ連政府から恨みを買う。
逆に、中央アジア諸国やペルシャとの関係改善。トルコ共和国ともいち早く国交を結ぶ。
1921年 
ロマノフ王朝完全滅亡
1922年 
キルギシアは、ソヴィエト連邦成立すれど参加せず。立憲君主国として独立を維持。(キルギシア以南の中央アジア諸国も独立しロシアと決別)
1920年代
東トルキスタンを支援して、中華民国からの独立を助ける。
1930年代 
キルギシア、軍事力を復活させたソ連の露骨な圧力、干渉に苦しむ。日英の反共同盟に加わるなど、各国との連携と再独立後の富国強兵政策によって何とか切り抜ける。
1930年代後半 
キルギシアはソ連、共産主義勢力との対決姿勢強める。資源とのバーター取引で日英から大量の武器を購入するなど軍備増強開始。
1940年代前半
「第二次世界大戦」 キルギシアは当初は中立維持。日ソ戦開始と共に日英独の枢軸側に参加。ソ連を側面から攻撃して貢献。講和会議では領土の一部を奪回。
1940年代後半
第二次世界大戦の結果、キルギシアは日本帝国の国境が再び近づいてきた事もあり、日本(アイヌ)との関係を強化。日本に属していた旧ロシア帝国勢力と和解。
1950年
「第三次世界大戦」
キルギシアは日英独枢軸陣営に参加。ソ連と激しく戦う。

以後、現代に至る。



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