■太陽帝国「楽屋裏」 その6
 ノヴァ・イスパーニャ半壊(アズテック遠征)

 アイヌは、大陸への大規模な遠征と領土拡張を開始すると同時期に、太平洋の遠方へも乗り出します。その象徴として、北米進出とメキシコ侵略を置いてみました。
 もちろん、全く根拠もなく、アイヌを北米へと行かせたわけではありません。

 元からアイヌは、交易民族や海洋民族としての性質を持っています。船の規模こそ大きなカヌーレベルですが、モショリ(北海道)を中心に、樺太島、東北地方北部、千島列島を行き交い、それぞれの地域の同族と様々な物産をやり取りしています。そればかりか、アイヌの活動圏はアムール川やオホーツク海一帯にすら広がります。ツングースなど東シベリア各地とアイヌの染め物や土器の文様が似通っている事が、アイヌと東シベリア諸民族とのつながりと今に伝えています。
 人口規模の差を考えれば、中世の日本人よりも海洋民族・交易民族としての性格を持っていたと言えるかもしれません。
 そんな海洋民族的性質を有するアイヌが、モンゴルの侵略と支配、自らの反抗運動の中で優れた文明を獲得すればどうなるか。
 欧州でのバイキングたちがそうだったように、竜骨を持った船を建造して高い航海性と大きな積載量を持たせ、さらなる遠方に向かう可能性は十分にあると考えられます。

 さて、アイヌが海を使って遠方に赴くとして、いったいどこに向かうのか。ここで日本が浮上してきます。
 アイヌのエミシュンクル(奥州北部)の南の地域には、日本人の勢力圏が広がっています。日本と違う文化を持つ琉球にたどり着くまで2000km以上の彼方です。外洋航行可能な船を持っていたとしても、中継点を持たずにおいそれといける場所ではありません。
 かといって、室町幕府から戦国時代初期の日本で、地域全体で安定した交易や中継点を求める事は難しい。それどころか、交易以前に日本は仮想敵国第一位です。アイヌが交易や拡大を望んでも、なかなか果たせるものではありません。南への拡大が難しいのなら、北、そして目の前に広がる東の海へ目を向けるのは当然の事でしょう。
 いっぽう、アイヌが北に目を向けてみると、そこは自らの領土にして肥沃な漁場です。もしくは交易のための毛皮を得るための狩猟場。交易以上に重要な生活の場です。
 漁業と狩猟の拡大によって、15世紀半ばの段階で冬は流氷に覆われるオホーツク海は自らの内海化。カムチャッカ半島を経由して、アリューシャン列島にも手が伸びています。魚介類や毛皮を追っていけば、16世紀に入る頃には北極海に出る海の道も見つける事でしょう。この世界にベーリング海峡なんて名は存在しません。アイヌ風の名称が付けられています。
 そしてアリューシャンの海にいるラッコの毛皮は、18世紀に欧州で高値で取引される高級毛皮です。東シベリアに生息する陸上生物(北極狐、クロテン、トナカイ)の毛皮や肉を効率的に本国に運ぶためにも北の航路開拓は必要です。アイヌが北寄りにシベリア進出する理由も、毛皮獲得というファクターが重きを成しています。
 また、漁業の拡大は、通常はサケやマスなどの食糧確保が主になりますが、照明用油を取るための鯨漁もするようになれば、北の海での漁業はなお一層盛んになることでしょう。
 上記のように、交易以外でもアイヌが北の海で活動し、勢力圏を広げるべきファクターは随所に転がっています。
 特に鯨とラッコを追っていけば、必然的にカムチャッカ半島=アリューシャン列島=アラスカへと順番に進出していく事になります。史実では、ラッコを追い求めるロシア人が辿ったルートです。
 しかもアイヌにとって、それぞれの地域の住人は自分たちに近い人々です。特にオホーツク沿岸部やカムチャッカ半島は、比較的早期に自分たちの「国土」、「国民」と化しています。カムチャッカ、アリューシャン、アラスカ、北米本土(便宜上そう分類する)に居住する人々も、氷河期に移動しながらもそれぞれの地に残った人々の末裔です。人類の足跡を辿るように、かつての自分たちによく似ているが少しだけ違う民族を追って北米大陸に至る事になります。
 そして、自らの力で大型船を手に入れたアイヌがようやく行き着く最初のゴールが、現在のバンクーバーやシアトルの辺りです。
 ここに至るアラスカやカナダ北太平洋岸までは気候的にも寒冷で、山が直前まで迫ったリアス式海岸ばかり。肥沃な沿岸部は、バンクーバーに至るまでありません。
 そしてバンクーバーやシアトル一帯に至ったアイヌは、船の上から地平線の彼方まで続く森を見つけます。ポロニタイモショリの発見です。
 なお、アイヌ語でポロは大きい、ニタイは森、モショリは大地を現します。意訳すれば大きな森の大地、「大森大陸」とでも表現すればよい名称になります。大味な命名ですが、日本人の命名基準も現地名の自国語化か適当な命名しかしていないので、ご近所さんがする事も似たようなものでしょう。

 16世紀初頭ポロニタイモショリに至ったアイヌは、現地に居住する人々との活発な交流を開始します。主な交流手段は交易。新大陸にない文物と新大陸でしかない文物を交換です。
 旧大陸人よりよほど朴訥な人々との間に、旧大陸人的考えに染まるアイヌ側から卑劣な進出(侵略)を行わない限り、大きな争いは発生しないでしょう。
 そしてアイヌは、建国からしばらくの間の近隣での征服活動を少しばかり反省していますから、しばらくはおとなしく商売するだけに止まります。
 しかし、旧大陸人の一派になるアイヌが新大陸に至ることで発生する悲劇的なフラグがあります。
 新大陸での「疫病発生」です。
 史実においても、新大陸のネイティブ激減の主因は、旧大陸からもたらされた疫病です。特に、旧大陸人にとっては何でもない「風邪」(正確には軽度のインフルエンザ)が、各地で猛威を振るいました。地域によっては、ほんの数週間で村一つが消え去ったという話しも伝わっています。致死率も風邪とは思えないほど高く、ペストの致死率(罹患後の致死率は最大で90%)に並ぶ勢いです。
 今の中南米にネグロイド系(黒人)が奴隷としてアフリカ大陸から大量に連れてこられた主因も、カリブ海沿岸、メキシコでの鉱山採掘やプランテーション経営のための人的資源が、現地人ではとうていまかないきれなかったからです。
 それもこれも、苛酷な労働と疫病の蔓延というダブルパンチで現地人が激減したためです。
 インカ帝国が実質的に滅びた主因も、20世紀に入ってようやく撲滅された天然痘が、白人によって持ち込まれて猛威をふるったからだそうです。
 15世紀末、コロンブスが新大陸を発見する前の北米大陸には2000万人ものネイティブがいたと言われますが、カリブ海沿岸では、百年も経たないうちにどこか別の場所から人を大量に補給しなければ産業が維持できないほど人口が激減していました。北米の人々もいつのまにか数えるほどに減ってしまいます。
 そして史実で白人がもたらしたバイオハザード(疫病災害?)とでも呼ぶべきものが、アイヌが進出したニタイモショリ(北米大陸西岸北部)でも発生します。
 アイヌの交易船が最初にやって来て、しばらくしてから再度同じ場所に来たとき、かつて取引をした人々は彼らの村ですべて白骨死体になっているというような可能性も十分にあります。
 旧大陸人にとって小さな咳をする程度の風邪でも、免疫がなければカタストロフは容易に発生するのです。そして長期の航海での交易船は、疫病を育てるのに打ってつけの環境となっています。
 そして原因が分からないが、豊かな土地に誰も住んでいないとなれば、自分たちが足場を築くことに躊躇はしないでしょう。アイヌにとって新大陸の交易拠点も必要ですし、できうるなら効率的な作物栽培もしたい。狩猟が自分たちでできるなら、それに越したことはない。
 投入できる軍事力と総合的な損得勘定の結果から、現地住民との必要以上の争いは避けたいが、自らの富の拡大は行うのは国家、民族、そして人間として当然の行動です。
 後は同じ事の繰り返し。少しずつ陸路内陸に足を向けていけば、最初は原住民との交易。次に疫病で現地人口が激減。そして誰もいなくなった場所の開墾、入植地の建設、次なる奥地への進出へと続いていくでしょう。アイヌの数が一定数に達したら、今度は現地での民族同化の開始です。
 時には少しの行き違いと、疫病の運搬者としての評判から現地勢力との争いも発生するでしょうが、火薬兵器を多用し馬を持つアイヌに、局地的な物量以外で負ける要素はありません。馬もなく鋳造技術も低く、文字すら持たないネイティブが、アイヌに戦争を吹っかけたら待っているのは白人に対した時と同じ敗北だけです。
 しかし新大陸の新参者の白人とアイヌには、決定的な違いがあります。
 それは、アイヌが白人(イスパニック系を例外とする)のように現地住民を排除・殲滅したり隔離したりせずに、自分たちの中に取り込んでしまうことです。その上取り込むばかりか、アイヌが新たな土地を自らの勢力圏としてしまえば、その地域すべての居住者を自国民化しようとします。
 このアイヌの同化政策は、中華大陸で恒常的に行われてきた行動の再生産で、日本もやってきたことは規模と程度こそ違えど同様です。騎馬民族的性格を持つアイヌといえど、農業主体の産業が構築されれれば同じ行動を取る可能性は高いでしょう。
 また、アイヌは元々精霊崇拝から発展した宗教しか持たないので、征服的な布教活動をしない点も大きな違いでしょう。しかもネイティブのトーテムとアイヌのカムイは、似たような価値観から生まれてきた精霊崇拝の産物です。共存も白人よりは楽な筈です。
 なお、タイムスケジュール的には、アイヌがポロニタイモショリ(北米大陸西岸北部)に進出したのが1505年。交易から入植地の安定化にかけた時間が約60年。1568年に北米の他の地域にも積極的に進出を開始し、メキシコを征服したスペインとワースト・コンタクトするのが1574年です。
 その間新大陸の歴史は大きなターニング・ポイントを迎えます。

 1492年、クリストファー・コロンブスの「新大陸発見」から約四半世紀。1519年にスペインのエルナン=コルテスが、メキシコのアステカ帝国に侵略を開始。その12年後の1531年、今度はフランシスコ=ピサロが、南米大陸山岳部に広がるインカ帝国を侵略。
 どちらの現地国家もたった2年で滅亡に追いやられ、アステカからカリブ海、インカに至る広大な地域がスペイン帝国の手に落ちます。西洋では大航海時代の最初のピークの到来と、スペインの黄金期を作り出す歴史の大転換です。
 しかし当時のアイヌは、中央アジアから北米西岸北部が自らのテリトリーです。交易相手も新大陸の他の地域の事は多く知りません。もしかしたら、アイヌの進出した地域とスペインが進出した地域を全く別の場所と認識しているかもしれません。少なくとも、新大陸随一の古代国家が欧州諸国の野蛮な侵略に蹂躙され文明を破壊されているその時も、アイヌは北米の片隅をせっせと開拓し貿易を進めるに止まっています。
 もっともアイヌも、ユーラシア北部で好き勝手している時期なので、他人のことをとやかく言えません。詳しく知ったところで、自分たちの懐が痛まないのであれば、「あ、そう」ぐらいにしか思わないでしょう。
 いっぽう、アイヌが北米で積極的な拡大に転じなかった理由に、この時期のユーラシアでの勢力拡大がありました。
 アイヌの足跡をユーラシアに転じて見ると、1551年の新王朝成立と同時に欧州大侵攻が開始されます。もっとも欧州そのものに本格的攻勢を取ったのは、ポーランド、リトアニアに対する戦争だけです。その後3年ほどでウクライナ東部に引き揚げ、さらに1570年までにはウラルの向こうに帰っていきます。
 こうしてユーラシアでは拡大から計画的縮小に移り、余力が新天地の北米大陸に向かい、開発本格化の矢先にスペイン軍が攻撃をしかけてきます。

 オフィシャルでは、いとも簡単にアイヌに勝たせて、スペインはユカタン半島より南に叩き出されてしまいましたが、果たしてそんな簡単にスペインが敗北するでしょうか。
 1575年といえば、レパント沖海戦から数年後の事。スペイン帝国が絶頂にあった時期です。
 アルマダばかりでなく、テルシオを持つ陸軍もその精兵を謳われていました。
 対するアイヌは、15年程前には15万人もの大遠征軍を東欧に出現させています。アイヌ本国南部の日本はいまだ戦国時代まっただ中。そろそろ織田や武田といった中央を指向する勢力が出現していますが、アイヌ本国に圧力をかけられる政治勢力は存在しません。他勢力との衝突も最小限で、軍事力に余裕があります。
 その上、北米西岸北部には確固たる足場を築き、十分な動員力も、兵站能力も確保しています。ガレオン船も導入して輸送力も大幅に強化。東欧の侵略で軍事技術、軍事制度共に絶頂期に達しつつあります。アイヌ側が戦争のイニシアチブさえしっかり握っていれば、略奪上等のスペイン軍より遠方で大軍を動員するのは容易いでしょう。
 また、この頃のメキシコ地域は、疫病でネイティブが激減し、銀の鉱山自体も一時的に掘り尽くしている時期なので、スペインにとっての重要度がこの一時期だけ大きく低下しています。加えて、スペインのドル箱は、南米アンデスにあるポトシ銀山です。
 東欧を侵略しテルシオすらうち破ったアイヌ相手に、総力を挙げたノヴァ・イスパーニャ(メキシコ)奪回戦争をしかけても益するところは少ないと判断する可能性は十分ある筈です。
 それどころか、ここで得体の知れない東洋の大帝国アイヌと手打ちにしておかないと、アイヌが図に乗ってメキシコ湾岸やカリブ海、インカ地方へ進軍してくる可能性は大と判断するでしょう。
 そうなってはノヴァ・イスパーニャ崩壊の危機です。しかも、自分たちが異民族との戦争で消耗しては、欧州でのパワーバランスも変化して立場も不利になります。
 そこまで考えなくても、メキシコへ肩入れしすぎては欧州が疎かになると考えるでしょう。
 対するアイヌにとっては、結果的に濡れ手に粟でつかみ取った領土とはいえ、メキシコ全土は統治するには過ぎたる大きさです。メキシコを真面目に統治しようと思えば、今以上の領土拡大は当面難しくなるでしょう。何しろ当時のアイヌ本国近辺の総人口は、多めに見ても200〜250万人程度しかありません。
 しかも、メキシコ一帯を制圧すればメキシコ湾とカリブ海にも進出可能ですから、当面交易を行うだけなら今以上の進出は不要です。スペイン、ポルトガルとは今以上争っても、損するばかりです。
 また、本国とメキシコとの距離は、太平洋をまるごと横断しなければ到達できないほどの遠方です。単純な距離なら欧州より遠いぐらいです。行きすぎた戦争には自ずとブレーキがかかるでしょう。
 かくして、1577年にキューバ島のグアンタナモでアイヌとスペインに妥協が成立したと結びました。
 もちろんこの時代に長期的な友好関係や安定は望むべくもありませんが、アイヌ、スペイン双方ともに17世紀半ばに入ると停滞や衰退時期に入るので、大きないさかいが発生する余地は少ないでしょう。

 そしてアイヌは、新たに得た広大な土地で新国家建設という大実験を開始して、北米の他の地域の関心を一時的になくし、アイヌ単独での膨脹も終焉を迎えます。

※メキシコ銀
 メキシコの有名な鉱産資源に「銀」があります。
 スペインの侵略によって欧州世界で発見され、以後欧州経済にとって大きなウェイトを占めるようになります。特にスペインの太平洋貿易の最重要品目になります。カリブ海に海賊が蔓延る原因の一つにもなっています。キャプテン・ドレークだって、頻繁に銀を多数積み込んで居るであろうスペイン船を襲っています。
 18世紀から19世紀には、メキシコ銀貨として欧州世界で流通する4分の1がメキシコの銀だったとする資料もあります。
 しかし、先住民が強制労働と疫病で激減した1570年代は、銀が大幅に減産しています。
 減産は、既存銀山を掘り尽くした事も大きく影響しており、スペインの興味が一時的薄れる好機です。
 先にも書いた事の繰り返しになりますが、このスキにアイヌに分捕らせました。
 そしてアイヌが銀鉱山の事をしばらくひた隠しにしておけば欧州の興味も低下し、再び欧州が気付く頃にはメキシコ自身が再興されて、安易に手が出せなくなります。
 結果、メキシコ銀は日系国家側の重要な輸出品目となり、パックス・ニッポニアを支えていく原動力になります。日本列島内の金銀鉱山、北太平洋沿岸の金と合わせれば、世界の三分の一以上の金銀をコントロールする事ができ、欧州が手を出したくても出せないだけの国力を日本列島に与える原動力になります。
 しかも、産業革命を成し遂げたイングランドが押し入ってくる頃には鉱山の多くも利が薄くなっており、日本列島に大戦争吹っかけてまで分捕る価値が下落しています。
 いっぽう、メキシコ銀の原産地となるアズトランは、数百年の地道な国土開発と銀の威力と、南北アメリカ大陸の要的位置という地の利もあって、金融国家として隆盛していく事になります。



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