■太陽帝国「楽屋裏」 その7
 戦国時代末期と文禄の役

 1592年、アイヌの勢力拡大に致命的一撃を放つ事件が発生します。日本との二度目の全面戦争。「文禄の役」です。しかも続けて、日本と協同戦線で東南アジアを侵略する「慶長の役」まで発生します。
 その背景には何があるのか、ここでは表面的事象以外の面を少し追っていきましょう。

 史実の日本史上では、1582年に日本統一に最初に王手をかけた織田信長が倒れ、1590年に信長の後を引き継いだ形の豊臣秀吉が日本全土を統一します。日本統一後の秀吉は、1592年と1595年の二度、朝鮮半島へ無定見な出兵を行い、1598年の秀吉死去により朝鮮出兵は中途半端なまま終了します。
 しかしこの世界では、14世紀半ばからアイヌという異分子が日本の端っこに存在します。15世紀半ば、応仁の乱直前には、アイヌ側にとって民族の存亡を賭けた大戦争まで行いました。しかし応仁の乱以後の日本は、アイヌの事など忘れたように戦国時代に突入、百年以上かけて豊臣秀吉の天下統一へと結実します。
 果たして本当に日本はアイヌのことを忘れていたのか、逆にアイヌは日本の混乱を横目に見ながら日本以外での勢力圏拡大に傾倒していたのか。
 単純に考えれば、不倶戴天の敵が内乱で混乱しているのだから、アイヌ側が日本列島に押し出すのが妥当に思えます。はるか彼方への大遠征にかまけるよりも、まずは足場固めが先。だいいち、アイヌが南方と交易するためには、日本が邪魔でしようがありません。
 しかし別の見方をしましょう。この場合の単純な図式は、日本が大陸、アイヌが島国と置き換える考え方です。島国にとって安定した大陸は自らの存在を脅かすもの。ならば、分裂して混沌化しているのが一番、というわけです。
 しかも戦国時代の大諸侯となると、その勢力は百万石単位に達します。防衛戦争となれば3万や5万の大軍を出現させて防ぎにかかるでしょう。単純な軍事力で押しつぶすには時間が掛かりすぎます。アイヌにとっても近い関東平野の半分を押さえた後北条氏など、実質的に百年も現地を統治し、ミニ国家としての体裁を持つまでに至っています。
 しかも、日本人に日本対アイヌという図式を思い出させて結束させることは、アイヌにとって利益になりません。基礎体力の大きな隣国は、分裂してこそ価値があるのです。
 また、アイヌの最大目的は交易の拡大です。自国に害の及ばない隣国の内乱は、またとないビジネスチャンスです。日本にはなるべく長く内乱を続けて欲しいと願い、画策するでしょう。

 いっぽうの日本から見ると、戦国時代のアイヌは不気味な隣国です。
 当時のアイヌは、絶頂期に向けてひた走っている時期です。意志統一された政府、清廉な官僚、強力な軍隊、優れた産業、高い民度の国民を持つ理想的な国家です。その程度の情報は、交易商人などから戦国領主たちのもとへ漏れ伝わってくるでしょう。
 しかしアイヌは、自分たちに向けて押し出すことなく、日本人にとって全くの異境である大陸北方へとせっせと足を向けています。あげくに南蛮と戦端を開き、はるか彼方の新大陸にまで進出していると側聞できます。
 日本に対して行っていることと言えば、自らの優れた武器や世界各地の文物を様々な勢力に売却したり、情報収集を熱心に行うぐらいです。奥州では日本側からしかけた小競り合いに乗ったり、日本中央と奥州や関東を切り離す政治工作を行っているが、それもアイヌ本国の防衛という今までの行動の延長線上です。
 16世紀半ばごろになると、船を使っての南方での交易のために日本各地の港にせっせと商館を作ったり、小さな島を占領したという話しも聞くが、軍事的行動は常に最低限です。
 南蛮船と同じようなアイヌ船が戦端を開くのは、自らが海賊の襲われたときぐらい。日本各地の様々な勢力を明に暗に支援するが、それも特定の誰かに肩入れするというような事はなし。領土欲や日本中央での牽制など、経済権益以外で求めることは毛ほどにもない。
 日本人の目が、日本=天下(世界)という図式である限り、何がしたいのか分かる人間は少ないでしょう。せいぜい、金儲けに精を出したいだけなのではと写るかもしれません。
 しかし、物事を日本以外、世界全体で見られる人物から見れば、アイヌの目的が日本の混沌化による自国近辺の安定化と、混乱を利用した自らの交易拡大にあると考えるでしょう。
 そしてアイヌの目的を最初に見抜くのが織田信長になります。なんだかんだ言っても、彼しかいないでしょう。彼以外にも南蛮交易を積極的に拡大する諸侯はいますが、日本=天下という図式以上でものごとを見ているとはあまり思えません。堺、博多、京などの交易商人の中には例外に含まれる人々もいますが、彼らに直接的な軍事、政治的権力はありません。日本を本当に変えることは無理でしょう。
 もちろん織田信長も海外に対する認識度合いは、資料が少なく早逝したため未知数ですが、キリスト教の政治的利用、商業と海運重視の姿勢などを見る限り、他の諸侯より世界(海外)を見ていたと考えられます。また、信長の近くにいた後の支配者(秀吉、家康)が後に天下統一を成し遂げた点、彼らの政策からも、信長が最も早く海外に目を向けていたと取れるのではと考えられます。後の支配者達は、信長の優れた生徒達だったのです。信長世代がいなくなると日本が農業主導の閉鎖国家になった事からも、信長の先進性が伺い知れるかもしれません。
 そこで日本統一が見えた頃の信長に、アイヌの日本服属(朝貢)を要求させました。理由はいくつかあります。
 一つは、アイヌに朝貢をさせることで日本の心理的屈辱を晴らさせると同時に、信長が朝廷をないがしろにしていないというポーズを取る事。一つは、日本人に日本以外の世界に目を向けさせる事。一つは、アイヌを日本に取り込むことで日本の活動圏、勢力圏を一気に拡大すること。一つは、日本全体を強大化して、来るべき南蛮との勢力争いに備える事。
 以上、うまくいけば、信長にとってばかりでなく日本にとっても損をすることはありません。アイヌがにべもなく朝貢を拒絶しても、信長が旧勢力の象徴である朝廷をないがしろにしていないというポーズは残りますし、日本人の目を再びアイヌ(+海外)に向けさせる点も無視できないでしょう。本能寺の変も、朝廷の意を受けた明智光秀の所行という陰謀説ではなく、裏で糸を引いたのが実は信長に恐怖したアイヌだったというイフも十分に起こりうる想定でしょう(笑)

 さて、戦国時代の一つのクライマックスである本能寺の変以後ですが、この頃からアイヌの行動は、自らの変化によって大胆さを増します。また、活動を活発化させなければならない理由も発生します。
 理由は二つ。遠征軍の帰国による本国近辺の軍事力増大と、彼らのもたらした文物の利用開始による人口爆発です。アイヌ本土や北海道(東シベリア)にまで連れてこられた、大量のスラブ系住民の存在も無視できないでしょう。
 遠征軍の帰国は、早くには1560年頃に欧州遠征軍の帰国により始まります。彼らは1570年にウラル山脈より西に撤退。その後一部が北米大陸に渡り、1577年にスペインからメキシコを分捕ってしまいます。
 そしてスペインからの遠征軍が帰ってくる1576〜78年には、アイヌ本国の軍事力がさらに増大します。少しぐらい日本中央と軍事衝突しても、十分対抗できる軍事力を確保します。
 織田信長中心の戦国史なら、桶狭間の合戦から安土築城の頃です。そして信長没後、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げる1590年頃には、領土としての遠隔地の安定化も進み、アイヌ本土と近辺では新たな農業方式(三圃式農業)と革新的な農作物(トウモロコシ、ジャガイモ)の導入により急速な人口拡大を経験します。
 特に、新たな農作物であるトウモロコシは、16世紀初頭に北米大陸でネイティブより得られる作物なので、1世紀近くたったこの時には、アイヌの栽培可能な勢力圏に広く分布しているでしょう。最低でも、牧畜には欠かせない作物(飼料)になっている筈です。ジャガイモについては主に南米の作物なので入手時期は微妙ですが、メキシコからの遠征軍が帰ってくる時に、スペインから分捕ったものをもたらすのが最も早い登場になるでしょうか。
 そしてトウモロコシ、ジャガイモが大量栽培されるようになった時点で、アイヌの人口爆発が本格的に始まります。
 特にジャガイモの登場によって、当時米の栽培できなかったモショリ(北海道)以北の地域では、1580年代から以後半世紀に総人口が二倍に膨れあがるほどの人口増加を経験する事になるでしょう。
 アイルランドやドイツでの極端な例を見るように、亜寒帯地域で最も人口包容力を持つ作物の入手は、それ程の変化を北の大地にもたらす筈です。
 ジャガイモが近代ドイツを作ったというような言葉があるように、ジャガイモの登場はアイヌに次なる発展を約束する筈です。同時に、アイヌに入植地として利用するための、本格的な領土拡大を要求するようにもなるでしょう。
 そうした人口拡大の過渡期に発生するフラグが、日本中央部での豊臣秀吉による天下統一と、彼の政権による無理解からくる高圧的な対アイヌ外交です。

 1592年、日本近海に集まっていたアイヌの軍船が、日本の各地を一斉に攻撃。「文禄の役」が勃発します。同時にこの戦争は、アイヌと日本にとってのセカンド・ウォーの勃発でもあります。
 戦争期間は実質的には8ヶ月程度。休戦まで含めても翌年の春、つまり1年程度で戦争は終わります。しかも東北地方での戦争ですから冬はお休みなので、実質的には夏と春に少し派手な戦闘を行っているだけになります。形としては、大坂夏冬の陣に近いかもしれません。
 戦争の形は、アイヌ側が先制攻撃で日本列島すべてを、圧倒的海軍力で海上封鎖。後手後手にまわった日本側が、陸路アイヌ本土のエミシュンクルを目指すという形にしました。そしてアイヌ側の強固な要塞線「カムイ・ライン」で戦線が膠着します。
 前回の「享徳の役」との違いは、アイヌの国力が大きくなっている点、特に海軍力で日本側を圧倒している点が大きな違いでしょう。
 そして日本とアイヌの海軍力に決定的な差を与えているのが、ガレオン船(外洋帆船)の存在です。いちおう、このガレオン船を極めて大雑把に触れておきましょう。

 ローマ帝国の時代から使われている手漕ぎの軍艦が、一般的にガレー船と呼ばれます。映画「ベン・ハー」の海戦シーンが有名でしょう。日本の安宅船も大型ガレー船です。ガレー船を強化して大砲を多く搭載したのが、1571年のレパント沖海戦で活躍したガレアス船です。
 つまり、16世紀半ばまでの地中海でも、軍艦と言えば大量の魯によって小回りの利くガレー船だったのです。小回りがきかなければ、船首の衝角で相手の舳先に突っ込めませんからね。
 いっぽう商船の方は、ローマの時代から初歩的な帆船を用いています。航海技術の限界から沿岸沿いに進む船舶に過ぎませんが、これがガレオン船へとつながっていきます。
 東洋では、チャイナのジャンク船と呼ばれるものも、基本的には沿岸運航用の船に過ぎません。日本の海外交易用の朱印船も、ジャンク船の一種に類別できるでしょう。日本の場合、キール(竜骨)を備え、複数の船内デッキを持つなど丈夫な構造を持ったり複数の帆を持つ大型船は、西洋の技術を見てから建造されたものになります。江戸時代の千石船に至っては、遠洋航海用の船として評価するにも値しません。
 いっぽう、バイキング船として知られる見るからに竜骨を持った船から発展していった外洋航海用の船と、ローマ船から発展したキャラベルの長所を兼ね備えた船がカラックと呼ばれる船です。これが我々の良く知る「帆船」の原型になります。コロンブスの頃の帆船は、概ねこのカラックです。このカラックをさらに発展させた新世代の船がガレオン船、我々のよく知る「帆船」になります。
 つまり、戦国時代後半、信長の時代に現れた南蛮人の操るガレオン船は、欧州世界でも最新鋭の船という事です。そしてそのガレオン船を比較的早期にアイヌが保有し、16世紀末に大艦隊と大船団を編成します。

 アイヌの船の発展は、モンゴルの支配による中華文明の到来から始まります。もたらされる船は、チャイナ式のジャンク船です。当時のアイヌにとって革新的な技術と労力を必要とする船ですが、北の海での運用に適しているとは言えません。
 その後、狩猟や漁業を目的としたオホーツク海開発、シベリア開拓、北極開拓の過程で必然的に技術が向上します。海では別に日本やチャイナと激突しないので、軍艦であるガレー船よりも商船や大型漁船が発展します。形状は、海の特性を考えるとバイキング船に近くなるでしょう。その後、東シナ海で日中の商船に遭遇。これらの長所を取り入れつつ技術向上を図ります。
 そして16世紀半ばにインド辺りでポルトガル船に出会う頃には、自ら欧州でのカラックやキャラベル(初期型帆船)に相当する船を自力建造するまでに発達しているとしました。
 そしてポルトガルの小型ガレオン船を見て、一目でそれが自らの船より優秀と見抜くでしょう。
 オフィシャルでは、様々な恩恵をポルトガル人に与えて技術を入手したとしましたが、実のところそこまでしなくてもよいかもしれません。
 交易の際、ポルトガルのガレオン船にアイヌの船大工を何人か送り込んで船を細かく見せてもらえば、後は比較的簡単にガレオン船の自力建造にたどり着く可能性があるからです。
 既にアイヌ本国に建造施設と基礎技術は既に十分存在し、建材も本国内やオホーツク海、アムール川流域一帯から無尽蔵に入手可能です。船員も既に初期型の帆船を運用しているので再教育は簡単です。だからこそ、半世紀にも満たない間にアイヌを完全な外洋国家化させました。
 いっぽうで、大艦隊と大船団建設には莫大な資金(+資材)が必要になります。だからこそ、利益は上がれど利益に似合うだけのコストとマンパワーを必要とするユーラシア交易と領土化からの撤退を進めたという理由もあります。
 なお、アイヌにとって重要なのは、船そのものよりもガレオン船に搭載されている羅針盤に象徴されている航海技術の方にあると見るのが自然でしょう。これのあるなしで、外洋での行動には大きな差が出ます。当時の天測技術だけで航海のすべてを補うことは難しいでしょう。

 さて、話をセカンド・ウォー戦争に戻しましょう。
 「文禄の役」の個人的な目的は、時代劇として登場する日本軍と、世界中への遠征ですっかり無国籍化した異形の軍隊との激突を出現させる事にありました。
 かつての享徳の役のアイヌ軍は、日本的でなかったとしても東アジア的である事に違いありません。アイヌ軍は、モンゴル軍のコピーのような出で立ちをしていたと想定できます。ですが今回のアイヌ軍は、西は東ヨーロッパ、東はメキシコにまで遠征しています。新たにガレオン船で編成された交易船団の活動範囲は、おそらく全世界に及んでいるでしょう。最低でも全太平洋、インド洋に及んでいる筈です。
 軍隊を構成する人々の中にも、ユーラシア北東部の人種ばかりでなく、新たに国民として組み込んだ金髪碧眼の各スラブ系や褐色の肌を持つインディオ系、インディアン系のアイヌ人も見られるでしょう。場合によっては支配階級ごとアイヌ本国近辺に移住した人々もいますので、欧州風そのままの出で立ちの軍隊が戦列に加わっているかもしれません。切支丹大名どころか、十字の意匠を施した甲冑を着込んだ東欧風の騎士達と南米のジャガー戦士が並んでアイヌ軍として登場しているかもしれません(笑)
 まあ、アイヌに白人が含まれる点は、北狄から南蛮人(白人)が敵として現れるというのも、戦国時代の南蛮人という奇妙な名称に対する皮肉を演出したかったんですけどね。

 なお、アイヌ軍全体の装備も、出で立ち以上に戦国時代の日本からはみ出ています。
 単に火薬兵器の技術レベルが高く軍制が進歩しているだけでなく、剣や鎧の装備の外観も無国籍化しているに違いありません。
 装備は、自らの一世紀の間の侵略戦争と欧州から分捕ったり買ってきた技術で向上しています。風俗も、北ユーラシア各地のものが入り混じっています。アイヌ兵の乗るお馬さんも、欧州の馬格の格段に大きな馬が導入されて、モンゴル馬により改良された筈の日本馬を今回も圧倒します。ホントにイヤな連中です。
 なお、アイヌ軍の全体的雰囲気は、一時期のロシアやオスマン朝に近くなるでしょうか。といっても、主に日本、モンゴル、チャイナ、中央アジア、東欧、北米西岸、中米の風俗が混合したものですので、無国籍度合いはかなり強い筈です。発想の貧困な私としては、どんな出で立ちなのか想像すらできない程です。
 多少は分かりやすく言えば、昨今のファンタジーRPGの異世界に出てくるアジア風の国家に近いかもしれません。
 特にアイヌの住む地方は、日本やアジアでも北方に位置するので、元から重厚な装備や装束が目立つでしょうから、なおいっそうの異彩を放っている事でしょう。金髪碧眼の王子様やお姫様どころではない筈です。
 もちろんRPGと違って魔法なんて便利で派手なものはありませんが、その代わりに家畜産業の大きさに比例した無尽蔵なほどの火薬式前方投射兵器を有しています。
 対する日本軍将兵からすれば、異世界の軍隊を相手にするのと何ら違わない気分でしょう。
 アイヌ式火力要塞は、魔王の城となんら変わりないインパクトを放っているはずです。

 対する日本軍は、戦国時代の終末期に位置する、この時代の世界有数の陸軍を持っています。有名な関ヶ原の合戦では、あまりにも鉄砲足軽の比率が高まりすぎて、長槍で突撃する足軽の数が足りなかったという逸話すらあるほど極端に高い鉄砲装備率を誇っています。もっとも大砲の装備数に関しては、火薬の原料となる硝石の希少性からか、鉄砲装備率の割合から考えると極めて少ないようでした。
 なお、日本で大砲が戦場で登場するのは、九州大友氏の国崩しが恐らくは最初です。同時期の信長の鉄鋼船への搭載も有名でしょうか。しかし、信長から20年近く経過した関ヶ原の合戦では、西軍は三成が3門持っていたという資料がある程度で、たいして役には立っていません。攻城戦でも大砲が有効に機能したのは、限定的な意味ですら大阪冬の陣などごく限られた例しか見受けられません。
 少なくとも、大砲で物理的に破壊された城というものは僅少です。かのオスマン朝がコンスタンチノープルの城壁を巨大な大砲で撃ち破ったのが何時だったかと思うと、日本での大砲運用は全くなされていないとすら思えます。
 しかし、アイヌが大量の火砲を構えて待ちかまえる大城塞に、数万の日本軍は突撃していきます。
 機関銃や遠距離重砲こそありませんが、日露戦争での旅順もかくやという地獄絵図がカムイ・ラインのそこかしこに出現する事でしょう。
 しかも今度の二国間戦争は、日本にとって不利なことばかりです。
 特に海上交通が使えない点と、海岸に面する街道がアイヌ側の通商破壊戦でまともに使えない点は、兵站面で致命的な失点となります。アイヌ側に数万の騎兵軍団がいることなど、戦場での些細な違いに思えるほど不利な要素です。史実での文禄の役であったように、前線の軍団が食料で苦労するという光景すら容易く見えてきます。
 しかも最初の突撃で惨憺たる結果を出したアイヌ軍の主要な城塞は、幅100メートルもの空堀を構え、要所は巨石や焼きレンガで堅固に構築されています。要塞各所からは、鉄砲だけでなく大砲、天雷と呼ばれる炸裂弾、場合によってはロケット砲すら飛んでくる始末です。豊臣方からすれば、やっぱり魔王の城に攻めるようなものでしょう。
 かといって要塞を無視して迂回進撃しようとすれば、機動性と集団性、組織力において懸絶した騎兵軍団が現れるので、歩兵主体の日本側に為す術無し。野戦でも大砲を大量運用するアイヌ軍相手では、戦国時代編成の日本軍では太刀打ちできません。じゃんけんで二つの手しか使えないようなもんです。
 いちおうこの世界の戦国時代の日本でも、享徳の役の教訓とアイヌ馬(モンゴル馬)の導入により本格的な騎兵が発達したとしてありますが、日本列島という立地条件が数千、数万の騎兵軍団の出現を阻止する事は間違いありません。対するアイヌ側は、日本列島で馬を大量に養える要地を押さえ、大陸の放牧・遊牧拠点にも事欠きません。そればかりか、世界中で大規模な騎兵運用を常道としてきているので、戦場での装備、戦術の先進性も疑うべくも無し。おまけにアイヌは、世界中の戦争で鍛え上げた歩兵、砲兵、騎兵の三兵編成でケンカを売ってくるのですから、多少騎兵を有していようが戦国時代編成・装備の日本軍が苦戦することは間違いないでしょう。なにしろ日本側には、野戦用の大砲がありません。

 最後に、文禄の役での双方の軍団編成の違いを簡単に見て、次の慶長の役に進みましょう。
 双方、兵団の基本単位は、旅団単位(約5000名)を基本として見ていきます。
 戦国時代末期の日本軍は、槍、弓、鉄砲が基本兵科です。これに武士(重騎兵)、騎乗士(軽騎兵)、黒鍬(工兵)、荷駄(補給)などが加わって戦国スタイルの混成部隊を構成します。このうち、黒鍬(工兵)、荷駄(補給)は、純粋な戦闘部隊に含めません。(含めた場合は8000人程度の集団になるでしょう。)
 戦闘部隊の比率は、槍4:弓2:鉄砲3:武士・騎乗士1=計10ぐらいでしょうか。時期と場合によって鉄砲の装備率が違うことがありますが、この世界の日本軍の場合は、比率で挙げられるぐらいに騎兵が増えて槍兵、弓兵が減る編成になるのが違いでしょう。
 いっぽうアイヌ軍は、外征軍(野戦軍)と国内軍(城兵軍)で編成が大きく分かれます。外征軍は騎兵主体。国内軍は鉄砲兵、砲兵主体です。
 外征軍は、抜刀突撃する重騎兵、弓と軽鎧の軽騎兵に欧州的な槍兵、鉄砲兵が加わります。
 違うのは、欧州同様弓兵が副兵科になっている点と、騎兵の比率が大きく違う点、そして大規模な砲兵部隊を持つ点です。
 この時代の欧州では既に弓兵は廃れており、欧州でも戦争をしているアイヌも同様の筈です。日本でも鉄砲に取って代わられつつあります。
 それはともかく、歩兵の主力はあくまでアルケビュースやマスケットを装備した銃兵と機動性重視のため中程度の槍を持った槍兵です。銃兵の護衛と機動性の確保のため、長すぎる槍は既にアイヌにとって不要です。
 比率は、騎兵2:砲兵2:槍2:鉄砲4=計10ぐらいでしょうか。
 国内軍は、国境線の要塞守備が基本なので、騎兵は偵察や連絡用部隊以外持ちません。主力は鉄砲と大砲。防御力も要塞そのものが担うので槍兵も副兵科。要塞修理のための工兵は増えますが、備蓄物資を使うので輸送部隊がいらず最小限で済みます。
 戦闘部隊の比率は、砲兵3:鉄砲6:その他1=合計10ぐらいでしょう。
 以上、どの比率も極めて大雑把なものですが、単純な兵器の装備率を比較するならこの程度の数字に落ち着くと思います。
 そして、騎兵の方が歩兵に対して強いという事と、アイヌ側の守備軍が要塞に寄って防戦に努めるという要素を加味すれば、日本側に勝機はありません。兵站も大きく阻害されていますからね。
 オフィシャルにあった戦術的な描写や展開は、設定面においては余録のようなものと思います。
 近世以降の戦争とは、結局のところシステムとシステムの激突の筈です。

※文禄の役の問題点
 オフィシャルでは、秀吉の弟である小一郎秀長が史実より長く存命しています。
 彼は実直な人格者で優れた政治家で、長年の経験により戦も巧く、経済や兵站にも秀吉以上に深い理解を示したとされています。にも関わらず、常に兄のため豊臣家のためにと働きます。個人的な野望や野心を持ったなどいう逸話は、毛ほどにもありません。晩年も秀吉のため、自分の領国での蓄財に励んでいたそうです。
 戦国武将としては少しばかり魅力に欠けますが、私人としても公人としても非の打ちどころのない、当代きっての人物といえます。彼なくして秀吉の天下統一はあり得なかったでしょう。秀吉を皇帝とするなら、秀長はさしずめ宰相といったところでしょうか。それとも秀吉の半身というべきかもしれません。
 彼が秀吉と同じぐらいの時期まで生きていれば、豊臣政権も日本の歴史も違ったものになったのではと思えるほどです。
 そしてこの世界では、秀長が長生きしてもらいました。しかも秀吉より半年ほど長く。
 史実では結核で倒れて1591年に亡くなっていますが、ここでは歴史の流れの違いによって結核になるのが遅くなって1599年に没しています。
 ハッキリ言って、彼が存命な間は徳川家康の本格的な出番は回ってこない可能性が多分にあります。巨大な豊臣家の大黒柱として秀長が存在する限り、家康といえど簡単には太刀打ちできないでしょう。
 しかも彼は、不要の殺生や悪政をたびたび秀吉に讒言し、海外出兵にも強く否定的です。長らく生きていれば豊臣政権の内政強化も急速に図られた筈です。

 そう、秀長がこの世界で長く存命なら、文禄の役を豊臣側から起こす可能性が非常に低くなると言う事です。片腕どころか半身とまで頼んだ秀長が存命なら、秀吉が精神的均衡を失う可能性も低くなるでしょう。
 つまり文禄の役は、アイヌが日藍の政治的ガス抜きのために引き起こした戦乱と定義する方が自然になるかもしれません。
 そして、日藍が迅速に講和できた最大の理由が、秀長存命とすれば良いのかもしれません。


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