■太陽帝国「楽屋裏」 閑話休題2: 戦国時代の家畜・畜産
この世界では、「応仁の乱」によって始まった日本の戦国時代は、豊臣秀吉の天下統一によって終焉を迎えます。その後、アイヌと二度目の戦争になる文禄の役、東南アジアへの侵攻となる慶長の役、関ヶ原の乱、江戸幕府開府、大阪の陣を経て戦乱は完全に終息し、江戸時代へと雪崩れ込みます。期間としては約150年の長きにおよび、日本史上空前の大戦乱だったと結論してよいでしょう。 先の「その7」では、アイヌと日本の関わりについて重点を置いてみましたが、ここでは日本を中心に見ていきたいと思います。
さて、この世界では秋田、岩手以北にアイヌという巨大な「外国」が地続きで存在し、応仁の乱の直前には享徳の役という名を与えられた大戦争も経験しています。 戦国時代でのアイヌの国家規模は、総人口で100〜400万人(時期によって違う)、16世紀半ば以降の領土は当時の日本人には想像も出来ない広大さ、実質的な国力は戦国末期で日本列島の半分以上に匹敵します。 しかしアイヌは、自らの外交選択によって日本に対しては防衛戦争以外しかけてきません。近くの朝鮮半島は、外征能力はまったくありません。巨大な国土と国力を持つ明国も、大国故の内憂外患があって限定的な貿易以上に日本と関わりを持とうとはしません。 必要以上の外圧を受けなかった日本列島では、中央統制を無くした室町幕府が応仁の乱によって権威を失墜し、それまでに力をもった地方勢力を中心にして群雄割拠の時代へと雪崩れ込みます。戦国時代の到来となります。 なお、世界レベルで狭いとされる日本列島で群雄割拠が成立した主な理由の一つに、中世から近世のレベルで日本列島そのものが、峻険な山々と急流によっていくつもの地域に分断されていたという点が挙げられます。 しかも日本列島では、馬の大きさが小さかったため輸送手段としての利用が遅れて大規模な陸上輸送が生まれず、内戦という事で外洋海運も発展しませんでした。まさに井の中の蛙の戦争とすら表現できそうです。 ですが戦国時代の日本では、室町時代半ばよりの農業技術の発展によって余剰生産物が生まれて商業も発達します。余剰生産物と商業の発達は、諸侯に大軍の動員を可能とさせます。大軍の移動には街道の整備が欠かせず、街道整備などインフラの整備も進みます。諸侯達は、大軍を編成するため自らの国力を増すために国内開発を熱心に行い、治水、治山、鉱山開発を熱心に行います。しかも当時の日本列島は、世界的に見ても第一級の金銀の産地で、諸侯達は当時のレベルでは膨大と表現してよい金銀を利用して財力を養って各地で戦争を頻発させます。 しかも日本列島全体が農業、商業、鉱工業の全てが拡大傾向にあるので、諸侯達は人手不足、資金不足に陥ることはなく、戦争を年中行事のように行うようになります。 かくして、日本列島では年中行事で大規模な戦争しつつも経済的に発展するという、世界レベルで見ると極めて奇天烈な状況が出現してしまいます。 しかも戦国時代を通じて戦闘の規模と経済は拡大の一途を辿り、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げる頃には、独裁者秀吉が用いる軍勢は大きな努力を傾けなくても10万人にも達します。天下分け目と言われた関ヶ原の合戦では、日本全土で総数50万人もの兵力が動き回ったとすら言われます。 日本国内でこれほどの大軍が運用された理由は、日本独自の戦争形式と、戦争が事実上の内戦だったからだといえますが、実現された数字は素直に評価するしかないでしょう。 そして戦国大名の一つの到達点が、日本各地に登場する巨大な城塞です。 今では安土桃山時代の壮麗な建造物の多くの実像を知ることはできませんが、安土、大坂、伏見などの城は、世界レベルで見ても最高クラスの建造物だった事は疑いありません。 戦国時代の日本が成し遂げた目に見える形での成果です。
しかし、この世界ではアイヌという北の大国が地続きでふんぞり返っています。おそらく日本列島主要部での大戦乱と発展そのものに、アイヌが深く関わることでしょう。 もっとも、アイヌの側から日本列島に戦争を仕掛ける気がない以上、交易面で欧州や自国の技術や文化を伝え、物産をもたらすという行動と影響が主になるでしょう。そして、もたらされる技術の中には、産業の発展と戦争に関わる技術が多数含まれると考えられます。なんと言ってもアイヌは、少なくとも17世紀までは戦争と貿易が大好きな国家であり民族となっています。 オフィシャル上の軍事面だけでも、アイヌ製の鉄砲の代表として「ナンブ(南部)」という名の鉄砲を日本列島もたらし、本格的な騎兵まで誕生させてしまいます。 なお、我々が思い浮かべる騎兵とは、去勢と蹄鉄の技術を用いなければ成立しません。輸送手段としての馬も同様です。明治の頃の日本の馬は去勢されていないため、欧米からは野獣と呼ばれていた点からも、馬の去勢は家畜化するために重要な要素なのが伺えます。蹄鉄についても、馬を舗装道路で効率よく使うために是非とも必要な技術です。 この二つの技術は、明治後半になるまで日本列島には縁遠いものでした。しかも大規模な牧畜の発達しなかった日本で発明される可能性は極めて低く、外からもたらされるしかないでしょう。 しかし、一旦技術導入されてしまえば、日本人はどんどん自分たちの中に取り込んで、いつの間にか本家よりも広く運用するようになってしまいます。 戦国時代の鉄砲しかり、現代の造船や自動車しかりです。恐らくこの世界の戦国時代において、本当の意味での「騎兵」は経費の問題さえクリアできれば一般的な兵科になっているでしょう。 そして、家畜や馬の技術をもたらすのが、当時世界中に手を広げていたアイヌという事になります。 しかも、家畜の品種とチョットした技術と工夫が主になるので、いったん伝えてしまえばあとは自然に広まっていきます。
対して、戦国時代後半の日本が重宝した鉄砲については、少しばかり事情が違ってきます。 鉄砲とは、筒状の道具から火薬を用いて鉛玉を高速で遠方に投射する兵器です。言うまでもありませんが、優れた鋳鉄、鋳造技術と火薬を精製する技術がなければ成立しない工業製品になります。どちらも、一朝一夕に揃えられる技術ではありません。 そして日本人たちは、砂鉄による製鉄と日本刀という優れた製品製造の技術を応用して、またたくまに鉄砲の量産に成功します。 しかし日本列島で不足するものがあります。火薬の原料となる硝石です。 硝石は、鉱石として鉱山から採掘できればコストも下がり、しかも大量に取得する事ができます。ですが、硝石は比較的乾燥したごく一部の場所でしか産出しません。日本近辺の産地は中華地域にあるだけです。 だからこそ、世界中の多くで土硝法という製法が考えられました。土硝法を単純に言えば、家畜の出す糞尿からアンモニアを原料とする硝石の原材料を得ようと言うものです。鉱山で採掘される硝石自体も、古代の生物などの沈殿物を素材として生み出された窒素化合物です。 そして土硝法によって、湿潤な西欧では農家の家畜小屋が、東南アジアでは高床式の家屋の下にある家畜の飼育場所から多数の硝石が得られていたそうです。 しかし日本では、家畜を多数飼育するという食習慣がありません。主要作物は米であり、副食も麦などになります。家畜に雑穀を与えずとも、穀物を食すればいい恵まれた環境にありました。家畜を用いてカロリー摂取を補う必要が低かったのです。しかも日本人にとっての主な蛋白源は各種魚類であり、動物性蛋白は希少な食料品と判断せざるを得ません。 もちろん家畜が皆無だったわけではありませんが、田畑を耕したり荷物を運ぶ牛や馬の利用がほとんどです。豚を食べる習慣も沖縄でしかありませんし、家畜の乳や鶏の卵すら食べていなかったようです。 これほど単一作物に依存した農耕社会というのも珍しいですが、20世紀に入るまでの日本人にとって、家畜とは耕耘機やその背に荷物を載せて運ぶ運搬手段でしかなかったのです。 しかも江戸時代には、獣肉を食べるのを強く抑制したとされています。このため、獣肉、乳製品、卵などの蛋白源を食べない日本人の体格は小さくなったという説もあります。ですが、仏教の教えが獣を食べることを否定したため、平安時代の頃から家畜にしてまで獣を食べる習慣は無かったと見る方が自然でしょう。狩猟そのものは、鉄砲を用いた(種子島はもともと猟銃だった)各種狩猟が江戸時代にも普及していますし、江戸時代の絵には商店に様々な獣の肉が売られている情景がありますからね。 またいっぽう輸送手段としての家畜の運用ですが、室町時代からある牛飼いは、言葉の通り馬ではなく牛の背に直接荷物を載せています。体格が小さく力のない馬は、輸送・運搬手段としてあまり使われていません。 車輪付きの大型道具としては、大八車というものもありますが、家畜に引かせるという事はありませんでした。馬や牛が引いたのは農耕具だけです。しかも、大八車の車輪自体もつるつる滑る材質を用い、バネなどなく構造も貧弱なもので重量運搬には適していません。人員輸送など以ての外です。しかも人員輸送も、籠と呼ばれる人力のみによるものがあるだけ、沿岸船舶・河川船舶を除けば徒歩での移動が当たり前でした。重量物はもっぱら大小さまざまな船運んでいたという側面はありますが、家畜のパワーが小さかった事が大きな原因の一つでしょう。 以上のように日本には、様々な要因が重なって大型の家畜がいなかったのです。そして家畜を利用して硝石を作り出す土硝法が成立しませんでした。 そこで日本では、戦国時代後半より人間の出す排泄物を家屋の軒下に巻いた土硝法が考え出されます。これは、他の地域の土硝法より手間が多くコスト面で不利となります。事実、大量の火薬を必要とする火薬式の大型前方投射兵器である、いわゆる「大砲」が大量に運用される事はありませんでした。鉄砲こそ世界随一の使用数となりますが、コストを考えると携帯型火薬兵器を装備体系に組み込むのが限界だったのでしょう。
しかしこの世界では、ご近所のアイヌが平然と多種多様な家畜を移動手段、運搬手段として大量に利用しています。また肉、乳、卵などの食用としても大量に飼育しています。主に飼育されているのは、15世紀までは馬と山羊、羊になるでしょう。アイヌに豚がやってくるのは、アイヌが外へ膨脹して以後の事になります。 そしてアイヌは家畜の使用方法がモンゴル直伝なので、馬を移動力として広範に運用します。本土になる北海道(モショリ)自体は、大型河川がくまなく通るという事がなく平地が比較的多いので、輸送手段として馬車の利用も進むでしょう。 また、移動力としてはもちろんですが、モンゴル直伝なので家畜の乳の利用も建国前から盛んなはずです。西征以後は東欧の乳製品、肉の加工など様々な食品技術も入り込んでいます。しかも、飼料として非常に高い能力を持つトウモロコシも中米から手に入れています。東南アジアに交易に出た時点で、鶏も持って帰って来るでしょう。 ついでに言えば、アイヌに宗教的タブーは全くありません。アイヌの自然崇拝では、動物は神(カムイ)からの授かりものです。チャイナではありませんが、なんでも食べます。加えて大陸北方で手に入れた大柄の家畜を主に扱うので、輸送力、機動力も日本の家畜より高くなります。しかも、アイヌ本土の気候風土が米など人口包容力の大きな穀物の栽培を不可能とするので、雑穀や牧草をカロリーへと変換する家畜への依存度を高めます。 おそらく戦国時代末期のアイヌは、一大家畜・畜産国家になっている事でしょう。そうした畜獣に対する社会資本の底辺が広がっていればこそ、大規模な騎兵部隊の維持運営もできるというものです。 ついでに言えば、北の大地に住むアイヌにとって日本人の主食になるお米は高級穀物になります。アイヌの主食は各種麦類になり、後にジャガイモやトウモロコシが大きなウェイトを占めるようになります。アイヌでお米が一般的な穀物になるとしても、20世紀に入ってからの品種改良による栽培北限の上昇を待たねばなりません。江戸時代に日本から輸入されるようになるでしょうが、日本での消費量を考えるとわずかな数量となるでしょう。そして東北地方北部のエミシュンクルで栽培される米が、中産階層以上の食べ物として流通するぐらいになります。 つまり、アイヌの食生活は当時の日本人とはかけ離れたものになります。場合によっては、王侯貴族などは当時の欧州最先端であるイタリア料理や、オスマン朝のトルコ料理すら食べているかもしれません。 そして近隣地域の変化が、日本列島主要部に影響しないわけはないでしょう。
戦国時代後半の日本列島において、大規模な軍団の運用が当然となった各諸侯にとって現地略奪は物理的に不可能になりました。また、現地挑発を行えば、一向宗を初めとする農村ゲリラが起きて正面での戦争どころではなくなります。 だからこそ戦国時代に限定的な兵站組織が発達したのであり、各地に城を築き主食である米を備蓄するようになったのです。(戦国時代の日本の兵站発達は限定的なものです。) ですが、米はそのまま食べるのに適していません。逆に、各種麦ほど加工に手間のかかる穀物ではありません。しかし、携帯したまま簡単に食べられる食料があれば言うことないでしょう。 そして、携帯便利な食べ物をアイヌは持ち歩いています。 家畜から作った薫製肉や干肉のたぐいです。 肉ならカロリーも高く、乾燥させておけば保存食としても日持ちもします。大航海時代の欧州の船は、干肉とワインだけ積み込んで大海原にでたとすら揶揄されるほど優秀な保存食料です。美味しく頂くのなら、薫製肉(ハムなど)にしてもいいでしょう。 それに肉は美味しいという、単純な故に大きな利点を持っています。干肉が美味しいとは言いきれませんが、それでも米だけの食事よりバラエティーが増えることはプラスになるでしょう。将兵に分け与える食料としても、カロリーが高く保存が利いて携帯に便利なのですからうってつけです。 また食肉の主な産地となるアイヌにとっても、別に直接戦争の道具になるわけでもありませんから、商売と思えば輸出を躊躇する製品ではありません。 逆に戦国大名も積極的に家畜の飼育を始め、軍団の維持と経済の発展に役立てるでしょう。 かくして戦後時代の兵士たちは、米のにぎりめしと味噌と保存肉による味噌汁(豚汁の原型)による野戦食を食べるようになり、やがてはアイヌや欧州人のように船一杯に保存肉を積み込んで航海に出ていく事でしょう。 また、アイヌの主食はジャガイモ登場までは、やはり小麦が有力視されるでしょう。小麦は何段階も加工しなければいけませんが、米と並んで美味しく食べやすい炭水化物です。 アイヌが北に向けて進撃するまでは、アムール川流域を下った満州地域のパオ(包)状の食べ物、いわゆる肉まんのような食べ方をしているのではないでしょうか。西征以後は、中央アジアや欧州、トルコでパンの作り方を知るので、戦国時代にはパンを食べるようになっているかもしれません。同時期に日本にももたらされて、珍しい食べ物や雑穀類の加工方法として技術が伝わっているかもしれません。パンの方が団子よりも有効な食べ方でしょう。
いっぽう、交通手段、輸送力としての家畜ですが、こちらもモンゴル馬が戦国時代に入ると導入されるので、日本馬を徐々に駆逐して機動力・輸送力を高めることに役立つでしょう。 しかもアイヌは、16世紀半ばには欧州からさらに体格の大きな馬や牛を去勢と蹄鉄の技術と共に手に入れて帰ってきます。欧州生まれの家畜がアイヌ本土で広く飼育されるようになると、日本人も手にしようとしゃかりきになる筈です。加えて、欧州人と接触したアイヌを経由して優れた馬車の運用も本格化して、街道も馬が行き来しやすいものに再整備されていくに違いありません。 なぜなら、その方が効率がよく物資を運べ、軍隊の移動にも便利だからです。軍隊も強くなるでしょう。全般的に戦国時代の諸侯は海に対しては先見性は見えませんが、陸の事なら死活問題でもあるので熱心になる事疑いありません。 加えて、土木技術もアイヌは大陸から色々持ち帰ってきます。 チャイナ地域の優れた焼レンガ技術、イスラムや欧州地域での舗装道路の整備技術など、日本列島の交通の発達にも大きく寄与する筈です。しかも日本列島は当時としては大人口地帯なので、マンパワーを必要とする大規模土木事業が行いやすい環境も整っています。 史実の戦国時代では、とかく治水・治山、鉱山開発が有名ですが、この世界では道路網の整備も進んでいることは間違いありません。加えて城塞の建築も焼レンガを用いた、より強固なものになる可能性が高くなります。オフィシャルでは豊臣家が作り上げた江戸城が、西欧風建築を取り込んだ丈夫な永久建造物のように描写しましたが、信長の築城した安土城などが焼レンガを大規模に用いた最初の例になっている事でしょう。 なお、焼レンガの製造には大量の木材が必要ですが、日本列島の湿潤な気候が十分な木材供給を可能とした上で、緑の山を維持しているでしょう。 そして林業は、木材(木炭)が焼レンガ、大量の製鉄に消費され、さらに戦国末期からは巨大な船舶建造にも消費されます。恐らくは、史実よりはるかに林業は発展していくでしょう。 そして、日本列島内の原生林は早い段階で生育の早い杉などの林へと姿を変えていき、欧州同様に人の手による山林が一般的になっているかもしれません。
かくして、戦国時代末期、秀吉が天下統一に向けて驀進している頃の日本列島は、私達の知っている情景とは少しばかり違ったものが出現します。 すべては、地続きの場所にアクティブな国家が成立して、なお発展を続けているからです。そして日本列島も中世から近世に向けても驀進しており、先進的な文物を積極的に取り入れる条件が揃っています。 経済の発展速度も、いっそう早まっているでしょう。 何しろ、食生活が発展し、交通手段が進歩するのです。しかもアイヌとの交易と戦争、天下統一後の自らの侵略によってさらに経済と消費は活発化します。発展速度が高まっている事は疑いありません。 見た目にも大きな変化があるでしょう。 武将達は、アイヌから馬格の大きな欧州馬にまたがり、軍団には騎馬の大集団が属しているでしょう。兵団を構成する足軽たちは肉を普通に食べ、小荷駄と呼ばれる輸送部隊は馬車を用いるようになっているでしょう。 彼らが歩みを進める主要街道は、馬車が通られるように広くなり、路面も最低で砂利道、発展している都市部などでは早々に石畳へと変化しているかもしれません。 城塞や城門も、それまでの石と巨木だけではなく焼レンガを用いたより強固なものになり、大砲を用いねば物理的な破壊が難しくなっているでしょう。そして都市部を中心に、焼レンガによる永久建造物が増え始めるに違いありません。 これらの変化によって、史実よりコストのかかる社会資本整備と軍隊の編成・維持となりますが、有効度の高さを考えると順次採用されていると見るべきでしょう。 当然これらの変化は、天下統一後の飛躍への大きな足がかりとなっていきます。 そして、家畜の広範な飼育の広まりが日本列島の人口包容力を下げ、社会資本(交通手段)の整備促進が列島内の距離の格差を小さくし、いずれ日本人を海外への移民へと誘っていく事になります。
日本列島は、アイヌという異分子の発展により、文明の進歩の歩みを早めると同時に、膨脹していかねばならなくなってしまうのです。