■太陽帝国「楽屋裏」 その8 豊臣政権の盤石化と慶長の役
この世界における「慶長の役」は、アイヌの西征と並んで最も派手な戦役でしょう。なにしろ日藍の大遠征軍が、当時世界最強の国家の一つであるイスパーニャと正面から戦って、東南アジアを瞬く間に席巻してしまうのです。 しかし、派手なだけに問題も山積みです。 1595年からわずか三年で、日本・アイヌ合同軍が東南アジアを席巻できるのか? 特にこの点にすべてを持ってくる事が、一番の疑問であり難問でしょうか。 オフィシャルでは、1592年から3年かけて豊臣政権の態勢を整えて、最終的に20万人もの大遠征軍をしたてたとしてあります。 対する南蛮軍代表のイスパーニャには、史実では既に没しているファルネーゼ閣下に御出座願って、日藍軍の当て馬になっていただきました。 兵力量の差、距離の差という絶対的優位を日藍軍が持っているとはしていますが、まずもって日本が遠征軍20万人のうち15万人を出兵させなければいけませんし、軍制改革もしなくてはいけません。 色々と手を打ったつもりですが、少し復習してみましょう。
豊臣政権の一番の弱点。それは、秀吉を頂点とするワンマン経営企業と同じ体質という点です。つまり、圧倒的カリスマ、独裁者である秀吉がいなくなれば、すべてが崩壊する危険をはらんでいます。特に秀吉が中途半端で未完成な絶対君主であった事が危険を大きくしています。 しかも豊臣政権は、大諸侯を懐柔する形で取り込んで日本統一を成し遂げました。極論すれば、呉越同舟の政府です。徳川家康に対する態度が典型的でしょう。 もちろん懐柔策を多用したからこそ、織田信長没後8年で全国統一が成し遂げられたのであり、かつての主君信長と同じスチームローラーのような方法で日本版絶対王制を目指していれば、秀吉存命の間に日本統一はなかったかもしれません。逆をいえば、信長が安土城築城の頃から秀吉型の政策に傾倒していれば、本能寺の変の頃には形としての日本統一を達成していたかもしれません。 そして徳川家康も、政治形態としては秀吉と同様です。日本史上において絶対王制を作る可能性を持っていたのは、後にも先にも旧体制打破を明確な政策に掲げていた合理主義者たる織田信長ただ一人です。彼のみが戦国時代で唯一覇王の称号を受けるに足る人物でしょう。 しかしこの世界では、史実と同様に豊臣秀吉による天下統一が成功して、朝鮮出兵の代わりにアイヌとのセカンド・ウォーに発展します。 そんな史実同様に、天下統一後に迷走する豊臣家に与えた変化は二つ。 一つは、秀吉の弟小一郎秀長の没年を1591年ではなく1599年にしたこと。もう一つは、淀の第一子鶴松(1589年生まれ。この世界では、幸多かれという意味をこめて元服(成人)後の名を秀幸とした)を早逝させなかったことです。 この二つは、天下統一後の秀吉の内面に変化を与える最も重要なファクターであり、存命は豊臣政権にとって大きなプラスになるとも考えます。(一番いいのは、秀吉の若い頃にちゃんと世継ぎを含めた子供が複数できて、一族が順当に増えている事だが。) 二人が長く存命なら、まず秀長が秀吉から関白を引き継いで、鶴松に跡を継がせる形を維持できて、二転三転した世継ぎを巡るお家騒動は回避できます。甥の秀次も、秀吉に可愛がられた宇喜多秀家や小早川秀秋も、もう少し平穏な人生を送られるでしょう。そうした意味もこめて、彼ら三人には後に豊臣御三家となってもらいました。 また、実務能力に優れた秀長が存命なら、豊臣政権の盤石化は早期に進むはずです。秀長、鶴松が死ななければ、秀吉の精神的失調もなく痴呆の進行も遅れて、晩年の無茶苦茶な行動も慎む可能性が十分あります。二人の存命により、優れたブレーンだった千利休も切腹せずに済むかもしれません。というより、秀長が長く存命なら、千利休切腹はあり得ないでしょう。この世界の千利休は政治家として名が残り、もう少し俗な人物として語られているかもしれません。 もっとも、石田三成に代表される近江者と呼ばれる近世的な官僚(文官)たちの台頭も抑制される可能性があります。秀長こそが秀吉政権の初代実務官僚団の首班といえ、三成の常に上位に位置する事が可能だからです。秀吉も三成よりも、まず秀長を頼りにするでしょう。
そして豊臣政権最盛期を支えた優れたブレーン達が、アイヌとの激突後に作り上げるのが、慶長の役までに登場する新生豊臣政権です。 オフィシャルでは、史実の「五大老・五奉行」をもじった官僚制度の整備に伴う中央集権と地方分権の促進と、ガレオン艦隊、常備軍の設置に象徴させました。 上記の改変は、日本がイスパーニャと戦うために、可能な限り必要なファクターばかりです。 官僚制度を整備して中央集権と地方分権を確立しておかねば、安心した外征は行いにくくなります。ガレオン船がなければ外洋に出られませんし、スペイン海軍にも太刀打ちできません。常備軍とそれに伴う軍制改革がなければ、総合的なシステムとしてスペイン軍の誇るテルシオに対抗できません。 ここでは特に常備軍について見て次に進みましょう。 常備軍は、特に欧州では国民軍と類似イコールの存在となります。ドイツ三十年戦争頃のスウェーデンでその萌芽がみられ、鉄の軍規を用いた厳しい訓練により優れた軍制を生み出しました。金と命が大事な傭兵軍ばかりが蔓延っていては、欧州でも優れた軍制改革はあり得なかったでしょう。なにしろ近代軍制の基本は優れた行軍と規律であり、傭兵に求められていた事と合致しません。 いっぽう戦国時代の多くの時期に日本で発達したのは、半農半兵の足軽達です。織田信長台頭の頃に始まる職業軍人による常備軍の原型が発達したのは、農工業すべての産業が発展していた近畿地方を中心とする経済的に余裕のある地域だけです。この点、ネーデルランドでテルシオを次ぐ軍制が発達した欧州と少し似ているのかもしれません。お金がないと、生産活動を行わない常備軍は持てないのです。 また、日本の戦国時代末期は、膨大な数の軍勢が長期にわたり遠征するという形が恒常化します。特に織田信長、豊臣秀吉が実践した数々の大規模な戦争行為は、農業から切り離された大量の職業軍人による常備軍なしには語れないでしょう。 事実、江戸時代に戦争がなくなった時、失業武士(職業軍人)が20万人〜30万人もいたと言われています。大阪の陣だって、大量の失業武士がいなければ発生しなかったでしょう。島原の乱だってどうなったか分かりません。朝鮮の役ですら、武士(軍人)の戦う相手を作るための戦争という側面すら見えてきます。 しかしこの世界では、アイヌとの二度目の戦争を契機にして、新たな軍制改革と常備軍の編成が促進されます。 果たしてどんな形の軍隊が登場するのでしょうか。 まずは装備面から見てみましょう。
鉄砲伝来より前、日本で独自に発達した武器は大きく二種類です。一つは世界に誇る日本刀。もう一つが長弓、ロングボウです。特にロングボウは、モンゴル軍の元寇の際、モンゴルや朝鮮軍より長い射程を活かして活躍していますし、戦国時代の戦場での死傷者の多くはロングボウによるものという研究もなされています。命中率にこだわった筈の種子島(鉄砲)が、見た目の派手さから目立ちがちですが、実際の殺傷率はダントツでロングボウが高かったようです(次点が長槍(ポール・ウェポン))。何より鉄砲と銃弾、火薬は高価で、大量装備されたのは戦国末期です。絶対数の差からも、鉄砲の価値が低かったのは仕方ないでしょう。 また、元寇の時点で欧州の重騎兵を手もなく破ったコンポジット・ボウ(複合弓)より有効な弓を古くから装備していたのですから、日本人が一つの方向に傾いた時の徹底度合いが何となく垣間見えますね。 まあ、予期せず頭上から降り注ぐ無数の弓矢なんて、楯以外で防ぎようがないですから自明の理なのでしょうか。そう言えば日本では、木製の大きな楯が発達していますね。当時の人たちも、よほど怖かったんでしょう。 そんなロングボウを日本人たちがおいそれと兵器体系から外すとは思われず、火力戦の時代に入ってもしばらくは使い続けるでしょう。弓が不要になるのは、鉄砲のお値段がもう少し値下がりしてからになるでしょうか。弓は安価とはいえ、熟練を必要とする兵器でもありますからね。 いっぽう、次世代の主戦兵器たる鉄砲ですが、この時代はいわゆる火縄銃が世界中のスタンダードです。火縄が火打ち石に代わるのは、欧州でも17世紀後半から18世紀にかけてです。槍の代わりとなる銃剣が登場するのはさらに後の事です。接近戦で鉄砲隊を守るために鎧をつけた槍部隊が是非とも必要になります。 つまり日本において、鉄砲、弓、槍という兵器体系に大きな変化はありません。変化は装備比率になるでしょう。 欧州では、16世紀半ばの歩兵部隊の鉄砲装備率は1割程度。地域によって差がありますが、欧州でも高価な装備だったのでおいそれと配備できなかったようです。それが半世紀ほど経つと、欧州全体の経済発展に伴い3割程度に上昇します。ドイツ三十年戦争の1630年頃のスウェーデン軍の装備率は実に7割に達し、多数の火砲(大砲)も備えるようになります。槍兵はまさに鉄砲の護衛に過ぎなくなります。 戦国時代の日本でも、末期で3割から7割の装備率程度だったみたいです。また江戸時代初期で、日本全国で20万丁もの鉄砲があったとも言われています。日本での鉄砲数は朝鮮出兵の頃に大量生産されたものと思われますが、はっきり言って作りすぎです。供給過剰だったのではないでしょうか。
また、日本と欧州では装備以外で決定的な違いがあります。それは、一つの部隊ごとの規模の差です。 欧州のテルシオが、約1800〜2100人程度で一つのユニットを編成。歩兵(テルシオ)を基本単位に、騎兵を加えて様々な陣形を組みます。その後、より洗練された、初めて大隊と呼ばれる部隊が作られますが、陣形を作るためには厳しい訓練を必要としたのでなかなか広まっていません。17世紀当時、傭兵が兵士の多くを占めていた欧州では、訓練のあまり必要ないテルシオが人材面でも適していたのです。 いっぽうの日本軍には、欧州のような完全に定型化されたユニットは見あたりません。 決まった人数をランダムで抜き出すと、装備に関してはほぼ同じ装備比率になりますが、部隊規模はあくまで兵力を揃える個々の大名(諸侯・豪族)しだいです。関ヶ原の合戦でも、1000人を切る武将から1万6000人をかかえる宇喜多軍、徳川本軍のように3万人の雑多な大集団という事もあります。島津軍に至っては、上方に残され孤立した主将のために薩摩から個人ではせ参じた武士達の集団(一領具足)が軍の主力だったと言われています。道理で強く結束も固かったわけです。 その上日本軍は、大規模な後方支援部隊を伴うのが常で、戦闘部隊は全体の6〜7割程度に過ぎません。残りは、極論すれば荷物運びと道具の整備、そして煮炊きする人たちです。 しかし、この世界の日本は、自分たちとは違った形に定型化された戦闘ユニット集団に出くわします。文禄の役でのアイヌ軍です。 しかもアイヌ軍は、騎兵、砲兵、そして銃兵、槍兵を中心にした歩兵を組み合わせて定形化された軍団を編成し、日本軍をうち破っています。アイヌに養子にやられた独眼竜率いる騎兵集団(やはり鉄砲騎馬か?)に蹂躙された兵士達にすれば、さぞ洗練された軍団に映ったことでしょう。特に、騎兵と砲兵の大集団を持つ軍隊と敵対した事は、大きなカルチャーショックになると思われます。 そんなアイヌ軍の編成の基本はモンゴルなので、10人→100人→1,000人→10,000人の単位がおおもとの基本になっています。時代の進歩に伴い変化が見られるでしょうが、1,000人程度の数が基本単位になっているでしょう。つまり大隊編成が部隊の基本となるのです。 先の節で記載した比率に沿えば、歩兵3(鉄砲2、槍1)、砲兵1(砲20〜30門)、騎兵1の各ユニットが揃って旅団規模のコンバインド・アームズを編成します。ここから一万人の軍団(師団)を例とすれば、歩兵6000、騎兵2000、砲約50門といったところでしょう。機動戦を行う場合は、戦闘部隊の後ろに5000人近い後方支援部隊も存在します。 いかに騎兵を重視してきても、百年も世界中で近世レベルの戦争をしていれば、欧州と似たような編成に落ち着く筈です(領土の広大さから騎兵中心の部隊も持つが)。 そして文禄の役後の豊臣政権下の日本軍も、アイヌ見本にしたような軍制の導入を図るでしょう。敵が持っているものは我々もという軍拡の基本です。手ひどくやられているので尚更です。 しかも日本軍の多くは既に職業軍人化されているので、複雑な部隊編成や行軍形態、軍事運動の習得にも大きな支障はない筈です。畑仕事しなくてよいのですから、戦争の合間に徹底的に訓練すればいいだけです。 テルシオより優れた軍団を、2年ほどの間に編成することは十分可能と判断しました。 むしろ問題は、アイヌの猿まねで建造する大量のガレオン船です。なにしろ軍艦の建造には時間がかかります。 建造資材の多くは既存の安宅船用のものを流用するとして、戦端を開く1595年の冬までにどれだけ揃うのか。しかも艦載用の火砲も大量に揃えなくてはいけません。 船そのものに関しては、日本中の造船施設を利用してもおそらく最低限の戦闘艦艇が揃うかどうかでしょう。戦闘を行わない兵員輸送の多くは、既存の安宅船や関船を改良して外洋航行能力を強化した船を輸送船として使うしかないはずです(小型の小早船は、いかに改良しようともサイズ的にまともな外洋航行は不可能だろう。)。 軍艦に搭載するための火砲の多くは、自国製造の態勢を作りつつも、当面はアイヌから大量購入で凌ぐしかありません。 兵員の訓練の事も考えたら、慶長の役のクライマックスとなるスペイン主力艦隊との海戦(1598年)にどうにか互角に戦えるぐらいの規模と戦力になるのではと思います。それまでは、アイヌ海軍が海上戦闘の主軸を担うより他ありません。 では、いよいよ慶長の役です。
慶長の役の実行面で、一番何が重要か? 注意すべき事は? おそらく最も注意すべきは天候です。大海原を越えて異境の地に侵攻する以上、天候が一番の敵として立ちはだかります。行く手には、季節風のせいで時期によって進むことの出来ない場所や、台風により入り込めない場所が幾多もあります。 台湾は半世紀ほど前からアイヌが独占しているので最初から橋頭堡とできますが、季節風や貿易風、そして台風の影響から呂宋(フィリピン)への侵攻は1595年10月からというスケジュールにならざるを得ないでしょう。その先々の苅間(カリマンタン島)、馬来(マレー半島)、インドネシア各地へ進む際も季節風と貿易風、そして台風に注意しなければいけません。不用意に台風の時期に進軍すれば、大艦隊と大兵団が簡単に海の藻屑と化してしまいます。 次なる敵は、侵攻先での風土病(特に疫病)と飲料水です。 南方にはマラリアなど高い強度の病気が多数存在します。明治時代初期の台湾出兵でも、数多くの日本兵が病気で倒れています。 時代が時代ですので完全な克服は無理ですが、衛生状況に常に注意を払いつつ進軍しなければいけません。また、日本兵は米ばかり食べるので、脚気にも気を付けねばなりません。もっとも、この当時の医術で脚気の原因が分かるとは思えないので、アイヌが食べている干肉や小麦の加工食を副食として食べるなどの偶然がなければいけないでしょう。だからこそ、閑話休題で干肉などの話題に触れてみました。 そして衛生状況の維持に欠かせないのが、飲料水です。 日本と違って飲料水にも気を付けないと、下痢で動けなくなるという笑うに笑えない状況が簡単に生まれます。水を沸かして飲むという習慣を徹底させなければならなくなるでしょう。 また、衛生状況の維持にもう一つ掻かせないのが、兵站面の充実です。特に野営の状況を往年のローマ軍並に充実させなければ、遠隔地で大軍は動けなくなります。 そして、歴史上遠距離での大軍運営をこなしきった軍隊は、ローマ軍とモンゴル軍のみです。アイヌがモンゴルの術を学び、自らの遠征によって兵站を発展させてきています。日本軍も、アイヌの方式を見習う事になるでしょう。 そして、水と住環境を制した者こそが、遠征をも成功させる者となるのです。 歴史上でも病気で壊滅したり引き返したりした軍隊はけっこう見受けられますから、病気や水、生活面に関しては注意し過ぎるという事はないでしょう。
しかも日本軍の敵は、自然の脅威ばかりではありません。 侵攻兵団の編成、兵站の整備、アイヌとのメンタリティーでの和解と意思伝達の促進など問題は山積みです。日本人にとって、日本列島以外のすべてが異境であるという点も見逃せません。 いちおう日本初の対外遠征の問題回避のため、アイヌが16世紀半ばから東南アジア交易を手広く始めて、台湾に至っては一時的に領土化しているとしました。それでもメンタリティー面において日本兵が不利なのは違いないでしょう。何より、言語の違いから現地住民と意思疎通が出来ないのは、大きなカルチャーショックなのではと思われます。それに比べれば、侵攻兵団の編成、兵站の整備など、それまでの事を規模拡大と近代化を推し進めれば事足ります。 史実の文禄・慶長の役でも、現代の視点から見れば師団程度の規模の軍を編成して、次々と朝鮮半島に兵を送り込んでいます。船団ごとに同規模の部隊を編成すれば似たような事象には持ち込めるでしょう。 日藍合計20万人の大部隊も、何も一箇所にかたまっているわけではありません。台湾から直接呂宋に侵攻するもの。インドシナ、シャムを経由して馬来に殺到するもの。それらが二つが頭となってインドネシアのスペイン、ポルトガル勢力を駆逐していくのです。 むしろ問題は、数年前まで戦争していた日本とアイヌが共同戦線を張るという事そのものでしょうか。 もっともアイヌ側は、大陸での戦争で他国との連携や共同作戦は慣れっ子です。それどころか、自軍の中にはカトリックの十字旗を掲げる白人系の部隊がいるほどです。同じく日本も、戦国時代の流れから昨日の敵は今日の友という考え方は強くあります。言葉や命令伝達方法、指揮系統の問題さえクリアすれば、大きな問題はないと思います。
そして自軍の編成と自然の脅威、地理の不案内など様々な難問を乗り越えて、ようやくイスパーニャの軍勢と対面です。 当時のイスパーニャは、1588年のアルマダ海戦で無敵艦隊を失い大西洋での制海権にかげりが見えますが、欧州一の大国であることに変わりありません。 この世界では、アイヌにメキシコを分捕られていますが、16世紀後半から17世紀初頭にかけてメキシコで生み出された財が、欧州に大きな影響を与えたとは言い切れないので、イスパーニャの国力に大きな違いはないと判断しました。イスパーニャは、三十年戦争の敗北と、イングランド、ネーデルランド、フランスの台頭まで世界一の海軍国であり世界帝国です。 陸でも、テルシオの魔力が新たな軍制を採用したネーデルランド軍には通用しませんでしたが、厳しい軍律がなければ維持できない軍制を持つネーデルランド軍は例外的な存在です。大国イスパーニャのテルシオは十分な威力を持っています。 そして、アルマダとテルシオという分かりやすい二つの軍事力の魔力が失われていない頃、東南アジアで日藍合同軍と激突します。 ただし、ここで大ちょんぼ。パルマ公・アレッサンドロ・ファルネーゼの没年は1592年で、日藍軍と激突するのは1598年という点です。それでは(私が)困るので、アイヌのメキシコ占領という史実は異なるファクターによってパルマ公はキューバに駐留を余儀なくされ、その後アイヌを最も良く知る将軍としてアジアに派遣されたとしましょう。これで彼も東南アジアに登場可能です。
もっとも、日藍とイスパーニャの激突の結果、物理的問題から日藍が勝利して、勝者たる日藍は日本の独裁者の死と共に遠征を中止、その歩みを止めてしまいます。 ここで侵略が止まるのは、歴史上独裁者の死がそのまま膨脹の停止となる事例が多々あるので、それをなぞってみました。 また領土化した東南アジアのうち、アイヌがインドネシアを、日本がそれ以外の地域を影響下に置いた最大の理由は、日本がマラッカ海峡を押さえ、アイヌがジャワ近海の海峡を押さえるためです。つまりは防衛負担の分散と対アラブ、印度、南蛮貿易の窓口をそれぞれで確保するためです。 日本、アイヌ共に戦争目的は、領土の獲得よりも交易路の独占という面が強いので、玄関口の確保は必須でしょう。
なお、ここでも戦争経過や戦闘そのものに触れるつもりはないのですが、やはり3年というタイムスケジュールは少し無茶だったかなというのが本音です。
※史実へのインスパイアについての補足 日本とアイヌが東南アジアに向かった事で、朝鮮半島は世界史的には何事も起きません。史実の日本侵攻の呼び水の一つとなった内乱でぐだぐだ状態です。明も国家として衰退傾向にあるので、朝鮮半島には誰も見向きしてくれません。李舜臣も歴史に名を刻むこともなく、多少は平穏な人生を送ることでしょう。 当然ですが、当時内乱状態の朝鮮が豊臣やアイヌと同盟を組んで侵略に荷担するという可能性も絶無に近いと考えます。当時の朝鮮の政府の状態が海外への飛躍というファクターを絶無としているからです。また、朝鮮半島で見るべき産業も、朝鮮人参と陶磁器ぐらいではアイヌや日本の興味も低いでしょう。せいぜい無害なご近所さんぐらいにしか思っていない筈です。 だから全く触れませんでした。 当時の朝鮮軍は、震天雷や亀甲船(限定的な装甲ガレー船)などユニークな兵器は多いし、李舜臣は出してみたいのですが、朝鮮軍全体が豊臣軍の鉄砲隊に一蹴される軍事レベルでは、近世的戦争において役者不足でしょう。だいいち、まともな陸上戦力がないので、彼らの外征などあり得ません。 鉄砲隊に無防備なまま突撃するような騎兵部隊しか持たない明国軍も同列です。だいいち、明国は中華帝国特有の傲慢さを発揮するでしょうから、日本やアイヌが仮に軍事同盟を結ぼうと言ってきても、対等の条件でイエスという可能性は極めて低いでしょう。そして対等でなければ、日藍が同盟を結ぶ道理がありません。 それに16世紀末に、アジア対ヨーロッパなんて図式は似合いませんしね。
それともう一つ。 唐辛子は、欧州諸国を介して中南米からもたらされました。 史実では、秀吉の朝鮮出兵で朝鮮半島にも唐辛子がもたらされキムチが誕生したそうです。また、四川料理やアジア各地の唐辛子を用いた料理についても同時期に始まっています。 しかしこの世界では、日本人は朝鮮半島をスルーします。向こうも基本的には鎖国状態なので、日本やアイヌと積極的に交流は持たないでしょう。それにアジア・太平洋中に手を出している日本人に、朝鮮半島にかまけている余裕はありません。 つまり、彼らの民族の食べ物であるキムチの登場は、ある程度遅れる事になります。 反対に、日本がインド洋まで出ていくので、日本でのカレーの登場はずっと早まるでしょう。欧州を介しないカレーが如何なるものになるのか、興味の尽きないところです。また、アラビア半島北部(モカコーヒーの産地)が原産のコーヒーや中南米原産のチョコレートの日本での登場も極端に早まり、椰子や南方の果物だって、雪崩れ込んでいるはずです。砂糖だって、南方を征した時点で大量に流れ込んでくるでしょう。豚や鶏の飼育も、慶長の役によって早々に伝わってくる筈です。 唐辛子に限らず、この世界の江戸時代の食卓は、諸外国の物産がもたらされる事でさぞバラエティーに富んだものとなっているはずです。 侵略と食べ物が密接に絡むのも、歴史の面白いところですね。機会があれば、一度じっくりと考察してみたいものです。