■太陽帝国「楽屋裏」 その9
 大帝国アイヌと独眼流の御代

 ここでは、再びアイヌ一国に視点を戻して見ましょう。
 時代は17世紀初頭。日本中原では関ヶ原の合戦や豊臣幕府成立で盛り上がっている頃です。
 この頃のアイヌは、東はウラル山脈から西はユカタン半島まで領域を広げています。時代がまだ近世の黎明期なので、すべてが領土化されているわけではありませんが、距離的な大きさは世界帝国に足る十分な規模でしょう。
 しかし、大規模な侵略とその後征服地域の領土化が始まると、さらなる膨脹に歯止めがかかる事がよくあります。際限ない領土拡大など、そう簡単にできるものではありません。広がりすぎた分だけ国家として地固めも必要ですし、領域拡大による人的資源の希薄化で歩みは衰えるものです。
 にも関わらずアイヌは、ライバルであるイスパーニャの勢力減少を狙って、建国以来の宿敵だった日本と組んで、東南アジアに大遠征に出かけてしまいました。
 慶長の役での大遠征の結果、東南アジアの利権としてインドネシアでの主導権に近いものをアイヌは獲得し、実質的な領域はさらに膨脹します。文禄の役での実質的な対日戦勝利と相まって、アイヌ国内では軍人(貴族の一部と士族)の発言力が大きくなっている事でしょう。
 軍事と経済に特化して発展を強引に続けてきたアイヌですが、既に成熟期に入っている国で軍事勢力が台頭しては、短期間での亡国につながりかねません。特に西征開始から約一世紀は戦乱に明け暮れてきました。そろそろ長きにわたる侵略戦争に終止符を打ち、国内の発展に力を入れるべきです。
 しかもアイヌが実質的な絶対王制に態勢を刷新したのが1551年。半世紀もたてば、早ければ組織的弊害も出てくる頃です。なおのこと態勢を立て直す必要性も出てくるでしょう。
 そんな地固めの分かりやすい象徴として、アイヌの中興の祖たるべき人物として独眼竜を置いてみました。

 私達の世界において、独眼竜こと伊達政宗は若い頃は優れた戦術家として知られ、一度は奥州統一に最も近づきました。その後、豊臣秀吉、徳川家康と出会い、自らの若い頃の政治的未熟を教訓に優れた政治家になり、戦国の一大名に過ぎないはずなのに歴史にその名を残しています。しかも彼は、伊達者という言葉が残るほど洒落人です。独眼竜という何となく格好いいニックネームを持つなど、個人としての魅力にも溢れています。
 非常に華のある人物といえるでしょう。戦国末期に登場した武将ながら、織田信長などと並ぶほど人気があるのも頷けます。
 歴史の裏話では無類の女好きでもあったとも言われますが、英雄色を好むという言葉もある通り、優れた軍人・政治家である限り、日本人的価値観では好色はむしろプラス要素です。

 そんな彼は、この世界においては伊達家にお家騒動フラグが立ってしまい、奥州北部エミシュンクル家に養子(人質)として出されたとしています。
 そして文禄の役では皇太子の一人として、史実にインスパイアして鉄砲騎馬軍団を指揮して大活躍。慶長の役にも将軍の一人として東南アジアに出陣。さらに実績をかさねて、1603年にはアイヌ王に即位して数々の国内改革に着手、中興の祖となってもらいました。アイヌ・チコモタイン王朝を史実の江戸幕府になぞらえれば、五代将軍家綱か八代将軍吉宗のポジションを担います。
 しかし、オフィシャルで彼自身と彼が行ったことは最低限しか触れませんでした。太陽帝国全体で見た場合の話の力点が、ようやく強大な統一王朝を出現させた日本列島主要部に移行していたからです。
 ここではそんな彼の足跡を見ながら、アイヌの態勢建て直しを見ていきましょう。

 オフィシャルでは、「既に問題が指摘されていた縦割りの官僚組織を初めとする政治形態の改革、国内産業の振興、より斬新な海外政策の推進、どれもこの時点で行われていなければ早期にアイヌ国が衰退していた可能性の高いものばかりでした。特にメキシュンクル大領の建設と、アムール、西シベリア地域の大胆な撤退は国内の反発も強く、それだけに後世におけるマサムネ王の功績は高く評価されています。」とされています。
 ありきたりですが、内政改革、経済振興、植民地政策が大きな柱になります。しかし、その内容からどれも重要な事ばかりです。短期間の在位で行える事ではないでしょう。
 彼の人生で見ていくと、おそらく10代のうちにアイヌ・エミシュンクル王家に養子に出され、その後才能を見込まれて皇太子に選ばれます。そして26才で文禄の役、30才前後で慶長の役、37才でアイヌ王即位という事になります。史実と同じ寿命なら彼の治世は30年以上。我々の世界で圧政や暴政を敷いたり、晩年呆けたというような逸話が聞かれませんので、改革を進めるのに十分な統治期間といえるでしょう。賢政を行うには、20年程度の安定した在位が必要不可欠です。
 出自が日本の諸侯(大名)というマイナス面はありますが、当時のアイヌは西はスラブ系から東は新大陸のアステカ系に至るまで、様々な人種が入り込んでいます。中には、遠路はるばる欧州からアイヌ本土まで移民してきたり、一族丸ごとアイヌ貴族として名を連ねる者もいます。そうした純粋なアイヌ以外からの支持は高いと見るのが自然でしょう。私達の世界でも好色だったとされる彼の後宮には、政治的意味合いもあって様々色の肌と髪と瞳を持った美姫達が集っていることでしょう。
 しかも彼は二度の大規模な戦役での英雄です。軍人からの支持も高いでしょうから、反対派も押さえやすくなっています。
 すべてオフィシャル上の経緯を並べてみただけですが、なんだか独眼竜一人のためにすべて舞台を整えてやったような気にすらなってきます(笑)
 少年期は苦労して、青年期は戦乱に明け暮れ、後半生のすべてを大帝国の治世に費やす。まさに波瀾万丈な漢(おとこ)の人生の代表選手といえるでしょう。
 そんな彼の治世を、少し掘り下げてみましょう。

 まずは内政改革です。
 内政改革の骨子は、アイヌ国が建国の頃に大雑把な身分制度とセットで作り上げた強固な官僚制度の改革が主になります。また、膨脹外交から内政重視に伴う軍の整理縮小も重要です。
 しかし、常備軍と官僚は絶対王制の根幹に関わる組織です。一つ誤れば自らの権力を危うくしてしまいます。政治を行う上で最も慎重な態度が必要でしょう。
 なお、アイヌの官僚組織に限らず、近代官僚を極めて簡単に説明すれば、高い職業意識を持った事務のプロ集団です。つまり縦割り組織大好きで、他からの干渉を酷く嫌います。しかも異常に高いエリート意識も持ちがちです。しかもアイヌの場合は、民族性や文化的影響から日本の官僚組織やドイツの軍事組織と似ているでしょう。
 つまり、どこかで大鉈を振るって風通しをよくしておかないと、暴走するか腐敗堕落するなど後々ロクな事がありません。
 幸いアイヌの官僚制は、試験と在野のプロからの選抜の二通りの人材から構成されるので、試験エリートによる一枚板ではありません。また、前近代的な世界での官僚は、貴族など特権階級の既得権や天職としての側面は強いので抵抗は強いでしょうが、絶対王制成立から半世紀なら王の権限は官僚達を圧倒できる筈です。しかも独眼竜は軍事英雄なので、国民の支持も受けやすい条件を揃えてあります。
 もちろん内政改革を成し遂げようとすれば、長い時間とねばり強い政治が必要になりますが、彼には30年以上の時間があります。じっくり腰を据えて行い、進路を見誤らず、大きな間違いさえ犯さなければ十分に成し遂げられるでしょう。
 いっぽう軍の整理縮小は、簡単に軍部の大きな反発に直面します。軍人といえど近世以降は官僚化が進みますし、何より直接的な武力を持っているので慎重な対応が必要でしょう。絶対王制下といえど、こちらも特効薬はありません。
 士族(将校)には新たに得た領土などを与えて軍隊とは切り離して地方に追いやり、兵士には移民政策や産業振興にリンクさせて、屯田兵や他の職種へのリクルートを進めていくのが無難な線でしょうか。
 かように考え、アイヌの屯田兵的貴族制度を作りました。(もっとも、某スペースオペラと似通っている事が分かったので、後々凹んでしまいましたが(笑))

 次に、軍縮ともリンクする経済振興です。
 経済での問題は大きく二点。一つは約一世紀の間自ら主導して続いた戦乱ですっかり軍需主導になった加工産業を民需主導に切り替えること。もう一つは、トウモロコシ、ジャガイモ、三圃式(混合)農業の導入による人口爆発への対応です。
 先に農業を見ますが、ジャガイモと三圃式農業は安定期に入ろうとしていたアイヌに、爆発的な人口拡大を経験させる事になります。亜寒帯地域でのジャガイモの威力はそれほど大きな、人口包容力を与えてくれます。
 トウモロコシも16世紀の早い時期にアイヌにもたらされて広く栽培され、人口拡大に貢献するでしょう。トウモロコシは大量の肥料を必要とするのでコストパフォーマンスに優れた主食とは言えませんが、人口包容力は麦よりも大きくなります。しかも単に穀物としてだけではなく、家畜の飼料にも適しています。ジャガイモに至っては、寒くやせた土地でも育ち人口包容力も大きい夢のような作物です。病気に弱いという弱点もありますが、主食の一角を占めれば総人口の倍加を安易に達成してくれます。
 おそらく16世紀の後半、日本で信長がブイブイ言わしている頃、南米から中米、北米を経由してアイヌ本土にジャガイモはやって来て、同時期に東欧から三圃式農業がもたらされ、文禄、慶長の役の頃は栽培方法が確立されて広く一般に広められ、人口爆発真っ盛りといったところでしょう。侵略戦争しまくってきたアイヌが、さらなる侵略戦争に手を染める理由足り得ます。
 何しろ人口が増えて、農産物の増産により経済力も大きくなるのです。
 いっぽう軍需から民需へ切替えた時の状況を見るには、史実江戸時代初期の日本が良い例でしょう。私達の世界の日本(豊臣政権→江戸幕府)は、150年続いた戦乱で日本中に溢れた武器を回収し、さらに30万丁も作った鉄砲を破棄してしまっています。しかもその上で、異常に発展した製鉄、鉄加工業の産業転換を図り、火薬産業に至っては世界に冠たる花火産業にしてしまいました。ミラクルピースと万歳です(笑)
 しかもアイヌは、鎖国した江戸幕府ほど軍備の削減はしません。縮小しすぎては、広大な領土を防衛することはできないでしょう。広大な領土を維持し、欧州の列強と張り合うためには軍人も常備軍も相応の規模が必要です。
 しかも縮小しなければならない軍需産業の多くは、製鉄と被服、そして火薬製造です。製鉄や被服は領域の拡大により民需でいくらでも需要はあるだろうし、人工的に作られた火薬の原料は肥料産業にも転換できます。あまった兵隊は、世界各地の屯田兵とすればよいでしょう。軍人貴族や士族達には、新たに獲得した領土を与えて屯田兵の領主達にしてしまえばよいのです。この頃のアイヌは、バーゲンセールで叩き売りしても余るほどの領土を抱え込んでいます。
 侵略のため整備した兵站組織も、人員の再教育の後に民間通商に回せば良いでしょう。この時代軍需と民需の垣根は低いものです。転換も無理なくできるでしょう。場合によっては、欧州での東インド会社のように国策会社や直轄の植民地運営組織を作って、まとめて面倒を見れば良いのです。国力増大と失業対策の一石二鳥となるでしょう。

 そして最後に、すべての政策のはけ口となりうる植民地政策です。
 独眼竜の治世において、西シベリア、中央アジアを事実上放棄して、植民地にしたメキシコに巨大な副領を建設します。(仮設定では、中央アジアは副領化を経て独立予定。)
 タイムスケジュール的には、メキシュンクル大領の成立が1606年で日本にカリフォルニアの経済権益を渡したのが1620年。西シベリアからの自主撤退が1620〜30年頃から始まります。この間東南アジアでは、インドネシア主要部の政治的安定化と経営も推し進めなければいけません。
 そして独眼竜のアイヌ王即位が1603年なので、彼の始めての大仕事がメキシュンクル大領成立になるでしょう。北米大陸の件については後述しますが、アイヌ本国にとってメキシコに関して重要な点は、この地域を半独立地帯とする点です。
 アイヌの取った制度は、王が総督を任命する植民地統治と違い、本格的な現地の統治者を立てた制度です。形としては、時代を少し遡っての辺境伯爵領にも近いでしょうか。
 あまりの距離の遠さと現地の広大さから選んだ統治法としましたが、時代を考えると本来なら採択される余地のない方法です。それは、実質的独立されてしまうと、本国の(一部の)人間が受ける旨味が格段に減ってしまうからです。
 国としてなら、統治のための経費を節減し、欧州勢力との緩衝地帯を作るという合理的な目的も提示できますが、領土拡張によって自分たちが豊かになると思っている本国人にしてみれば受け入れがたいでしょう。
 解決策としては、メキシュンクル大領成立に貢献した連中を、全部当地に封じてしまう方法があるでしょう。それをここでは、実質的な新王朝建設という形にしてみました。
 また、17世紀初期の段階で日本にカリフォルニア地域を明け渡したのは、北米大陸において自分たち(アイヌとその同盟者)の勢力の量的拡大をいち早く図り、東海岸に到着し徐々に広がりつつある欧州勢力に対抗しやすくするためです。アイヌ自身は、東アジアの人口大国ばかり見て育ったので、自分たちの数が常に少ないと考えている連中ですからね。
 なお、日本を引き込んだのは、積極的に見ると北米大陸制覇の為の布石であり、消極的に見ると将来的にすべてを失うよりも長きにわたりいくらかは残そうという考え方になります。

 いっぽう、西シベリア、中央アジアの放棄も、かなり強い政治決断が必要でしょう。
 陸路による交易のコストパフォーマンスが非常に悪いと言っても、現地にしかない物産もあるし、貿易の利益がないわけじゃありませんからね。
 また、さらに後に放棄するアムール川流域は、明国の勢力減退以後150年以上にわたりアイヌが自らの領土としてきた地域です。西シベリアや中央アジアも約一世紀の間支配してきました。当地に住む人々もかなりの数にのぼるでしょう。
 そんな長きにわたり領土化してきた場所を放棄して、当地に住む人々に移住を強制するか切り捨てるかしなくてはいけません。
 この自主撤退と移住の背景には、北米への移民促進のため先駈けとなる人々を強引に作り出すという目的があります。
 アイヌ本土では大規模な人口拡大が始まっており、順次大量の移民を北米大陸に送り出さなくてはいけません。なぜなら、近隣のオホーツク・東シベリア地域は、あまりに寒冷すぎて農地にできる場所が少なく人口包容力が低いからです。北米西岸北部(現ワシントン州)なら、農業に適した広大な土地が広がっています。橋頭堡はすでに大きく確保していますが、周りにネイティブも多く数において勢力圏を確固たるものにするには、大規模な移民が必要不可欠です。
 しかし、アイヌ本国の人々にとって移民や移住は馴染みのない事です。どこかで呼び水を作らねばならない。そのために、辺境住民を犠牲にすることもやむを得まい。
 とまあ、そんなところで、先駈けとなるべき人々を強引に作り出す方便の一つともなっています。
 そして西シベリアからの撤退が、ロシアの衝突によるアイヌの国庫負担を減らし北米への移民を促進させ、メキシコの半独立も同様の効果をもたらすという中長期的国益を実現します。
 内政改革も、150年後の1789年の宮廷革命まで国の制度を持たせました。
 だからこそ、独眼竜は中興の祖なのです。

 ※三圃式農業
 教科書にも出てきますが、三圃式農業はその名の通り農地を三等分して、主作物(主に小麦)、副作物(ビートなど)、牧草地(家畜用)を一年交代で輪作していく農法です。これは欧州の土地が貧しく寒冷な地域で開発された農法で、土地に無理をさせずなるべく多くの糧を得るための生活の知恵です。
 現在では混合農業と呼ばれ、欧州だけでなく亜寒帯気候の地域では広く採用される、合理的な農法でもあります。


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