■太陽帝国「楽屋裏」 その11
 関ヶ原の合戦と徳川氏の滅亡

 さて、ようやくファンタジーから抜け出し、史実との類似項と共通項がたくさん出てくるお約束の時代へと入ります。ですが、戦乱や戦闘は「楽屋裏」では扱わないので、状況のみを追いかけていきましょう。
 まずは、関ヶ原の合戦と徳川氏の滅亡です。
 どちらも徳川と豊臣の状況を史実と逆転させたものであり、北東アジアの政治的変化と日本本土でのシヴィラゼーションの急激な加速によって逆転現象を起こさせました。
 もっとも日本にとって異分子の塊であるアイヌが、日本本土の内戦に深く関わることはありません。適度に日本全体が弱まることは期待するし、ある程度弱まるように画策するでしょう。しかし、アイヌ自身が内外で改革や改変の真っ最中で、大国の大戦乱に際して振り向けるべき力が残っていないからです。それにヘタに突っついて、アイヌ人対日本人という再び図式を作り上げては元も子もありません。日本が再び団結してアイヌに殴りかかってきては、文字通りの藪蛇となってしまいます。
 また、大戦争も終わったので、アイヌに表面的な軍事力は豊富にありそうですが、軍隊も予算がなければ動きません。そしてアイヌの国家予算の過半は、新たに得た海外領土の経営(メキシコと中央アジア)のために傾注されています。国を富ましつつ戦争なんてしていたら、ローマのごとくいずれ内から崩壊してしまいます。
 またアイヌにとって、日本の政権が自分たちと共同歩調取ってくれるなら現政権でも革命勢力でも構いません。自身にとっても混乱が少ないのが現政権の維持なら、アイヌが現政権の豊臣を支持するのは当然でしょう。そして日本に混乱を起こし、アイヌにとっての近隣情勢を不安定にしようとしてるのは徳川家康になります。

 さて、徳川家康による天下取り画策ですが、史実のものとは大きく食い違っています。
 順番に見てきましょう。
 我々の世界での豊臣、徳川両者の名目上の石高は、ほぼ同じ255万石と260万石程度です。この世界でも石高に関しては大きな違いはありません。また史実では、豊臣が大都市や鉱山を支配して圧倒的財力を持ちましたが、一族内での乱れも多く政権も安定期に入る前に独裁者の秀吉が死去。秀吉死去後に、徳川に不備な点すべてを突かれてしまいます。
 この時代の一連の政治活動を見る限り、徳川家康が稀代の人物であったことは疑いありません。恐らくは関ヶ原の合戦で戦術的に敗北していても、よほどの大敗でもしない限り最終的には徳川に勝利が転がり込んでいたでしょう。正直、秀吉、秀長なき豊臣に勝ち目はないと思えます。かつての腹心だった黒田如水が豊臣に肩入れしても、家康を超えることは無理だったでしょう。格が違います。もちろん黒田如水自身が天下を取る可能性もほとんどないと思います。
 しかし、ここでは想定がいくつか置き換っています。
 先にも触れていますが、おさらいしておきましょう。
 豊臣家の人の面での大きな変更点は、小一郎秀長の1599年までの存命と、淀の第一子鶴松の長期存命です。この二人の人物が長く生きるだけで、豊臣家自身の混乱は大きく低下します。呆け始めた秀吉の気まぐれにすら思える出兵、無茶な養子縁組や婚姻も最低限となるでしょう。しかもこの世界では、東南アジアを南蛮(欧州)から切り取っています。
 いっぽう豊臣政権自体も強固です。
 アイヌとの戦争が終わり南蛮征伐が決まってから、近世的な政府へと既に移行しているアイヌの制度を参考に事実上の挙国一致政府が作られるからです。史実では、必要に応じて有能な個人を指名して奉行(大臣+役所)が設置され、それらを総括して五奉行にまとめられましたが、明確な役職とは言いにくくなっています。単に有能な人がその都度、奉行をしていただけです。
 五大老も、当時強い権力、大きな領地を持った有力諸侯の集まりに過ぎず、近代的意味においての役職が曖昧です。せいぜい元老ぐらいの役割でしょうか。
 しかし、ここでは五奉行が中央の内閣、五大老が地方統治者に役割分担され明確化されています。文治派の武士たちの官僚化も急速に進められます。
 さらに財力も軍事力も豊臣政権は桁違いとなります。
 財力に関しては、南蛮征伐(東南アジア侵攻)で交易圏が広がり、港と大商人の過半を押える豊臣に戦国時代では考えられないほどの富が短期間ですら流れ込みます。軍事力も、事実上の常備軍設立と遠征軍の火力偏重で、豊臣政権内の組織として近世的な軍隊を整えつつあります。
 対する徳川は、史実通りなら新たに拝領した領地(関東全土)経営にかかりきりです。確かに色々裏で動いていますし、商人を活用して交易こそ広げています。情報力もたいしたものですが、海外に軍を派遣していなかった点は大きなマイナスとなります。加えて、海軍力もありません。この点は、史実で徳川が朝鮮本土に出兵しなかった事に対するオマージュとしましたが、朝鮮出兵と東南アジア出兵ではレベルが違いすぎます。
 もちろん軍事的な不利を自覚する家康は、軍事的に鍛え抜かれた豊臣武断派を取り込んで対抗しますが、中央集権が史実より進んだ政府中央を豊臣方(文治派)に押えらているので、どうしても総合力で劣ります。
 そして何より家康にとって困るのは、豊臣政権が近世的政府へと急速に変化しつつある事です。秀長亡き後、豊臣秀次が存命で関白の位にありますが、秀次はひいき目に見ても平凡な人物に過ぎません。ブレーンとして千利休も存命の可能性が高くなりますが、やはり家康にはかなわないでしょう。
 家康にとっての問題はやはり時代の壁、つまり権力と財力、軍事力を好き勝手に出来る近世的官僚集団です。
 官僚化が進んだ豊臣中枢の武士達には、旧来の調略も血縁外交も効果が低下します。彼らにとっては、裏切ってまで家康に取り入ってさらに苦労して成り上がったうえに余計な苦労を背負い込むより、今の豊臣政権で堅実に栄達を目指す方が、安定し安全で合理的です。得られるものが多くなる可能性も、むしろ高くなります。
 つまりは、新たに政府を作り上げた連中にとって、戦国時代や下克上は急速に過去のものになりつつあるのです。
 全てというわけではありませんが、多くが勝手にシヴィラゼーションして世界中で戦争をしているアイヌの影響です。
 そして、アイヌという北の大国がふんぞり返っていた影響が、戦国時代と豊臣政権ばかりか、天下分け目の関ヶ原の合戦にも及んでいきます。

 この世界でも、関ヶ原の合戦は史実と同じタイムスケジュールで勃発します。時期を同じとしたのは、読み手との共通項を増やすという目的が第一にありましたが、同様の戦乱が起きる以上、時期を変更する必要性が低かったからです。何しろ原因の一つが徳川家康であり、彼は自身の老齢を気にしなければいけません。
 もちろん、史実から変更しなければならない点もあります。史実と大きく違っているのは大名の配置です。
 幾人かの有力武将は、東南アジア各地に太守(総督)として赴任して、四苦八苦しながら海外統治を行っているからです。加藤清正も領国の熊本ではなく台湾にいて、疫病と原住民に悩ませながら南蛮奉行としてお務めを果たしており、日本中央を見る余力すらないでしょう。九鬼など有力な水軍武将の半数も、日本製のガレオン船を与えられて海外に出たまんまです。
 オフィシャルでは、なるべく分かりやすい配置として、秀吉の腹心中の腹心だった加藤清正、真面目が取り柄の山内(秀次派という理由もある)、水軍の九鬼、外様で南蛮に明るい島津を海外に置いてみました。見て分かる方も多いでしょうが、すべて武断派武将です。
 この点からも、豊臣政権中央に文治派(近世官僚)が中央で勢力を広げているのが分かるでしょう。結果論的ですが、家康を不利にするための布石にもなりました。
 しかも日本の海外に向けての一大拠点が博多にあり、ここには海外の争乱に備えて万単位の常備軍が動員状態で配備されており、近所の黒田如水も迂闊に動けません。浪人の群程度では、三兵編成の常備軍に正面から殴り合えば、軍略以前に火力で押しつぶされてしまいます。
 前提となる経過を作ってから、関ヶ原の状況を組み立てに入った筈だったのですが、前段階の時点で豊臣有利となるのは必然だったのでしょう。

 そんな状況で突入する関ヶ原の合戦そのものも、少し掘り下げてみましょう。
 関ヶ原の合戦に至る基本的経緯と軍団の動きは史実と同じです。しかし、史実とオフィシャルの大きな違いとして、西軍が兵力量で東軍を完全に上回っている点が挙げられるでしょう。
 理由は大きく三つです。
 一つ目は、史実で大津城を攻略していた兵力(史実は一万五千人)が、関ヶ原に間に合っている事。二つ目は、近世的軍隊として編成された豊臣家直轄の常備軍の一部を西軍が関ヶ原にも持ち出している事(関ヶ原には総数一万)。三つ目は、先述した通り文治派(石田三成)嫌いの武断派有力大名が日本国内で減っている事です(もっとも関ヶ原にいないのは山内一豊だけですが)。また、状況判断に聡い島津家なども、早々と豊臣有利と判断しているかもしれません。
 なお、大津城が早期に攻略された大きな理由は、文禄・慶長の役以来急速に普及した大砲、正確には攻城砲の存在です。伏見も大津もその他諸々の安土桃山型城塞の多くも、火砲の威力の前に容易く屈させました。
 お金のかかった常備軍も、鉄砲、大砲、騎兵がバランスよく配備されているので、地方領主よりはるかに火力、機動力が高くなります。
 史実では関ヶ原の合戦で三成が3門しか持ち込めなかった大砲も、西軍全体で約300門も装備しています。一見数が多いように思えるかもしれませんが、1,000人につき約3門の比率ですから、西欧の基準から見て多すぎるという事はありません。
 アイヌから技術を導入したのなら、ドイツ三十年戦争でのスウェーデン軍のように、軽量化と車輪を持つことで機動力を持った大砲になっているかその過渡期になるでしょう。史実の戦国時代でも用いられている散弾も射ってくるでしょうから、多数の砲兵に対して長槍だけで突撃したらエライ事になります。
 また、大津城を落とした武将たちは、九州の武将が中心で西軍の中でも攻撃的な武将ばかりだったとされています。しかも大津城攻略軍の中には、当時日本一の武将とうたわれた立花宗茂や、本来の小早川家当主となる毛利秀包(秀秋は養子)もいます。しかも軍団の過半が反徳川の好戦派です。そして、小早川秀秋が布陣し直したばかりの松尾山野戦城のまわりに、街道沿いにゾロゾロとやって来ます。関ヶ原到着頃に、東西両軍が関ヶ原を目指しているという情報が入るタイムスケジュールにしたので、関ヶ原西方の街道沿いに布陣するより他なかったからです。
 もう分かりますね。とてもじゃありませんが、小早川秀秋が史実と同じように裏切るなんてできません。仮に家康が史実と同じ秀秋懐柔を行っていたとしても、決戦当日にこの状況が現出したら、秀秋は西軍として戦う以外の選択肢はなくなるでしょう。
 もっとも、豊臣家と慶長の役そのものが変わっているので、小早川秀秋が 不遇の人生を歩む可能性も少なくなっています。場合によっては、家康への接近もないかもしれません。史実通り養子に出されて小早川性を名乗らせましたが、豊臣家の安定化によって養子に出される事すらなかったかもしれません。
 秀秋がつむじを曲げるとするなら、せいぜい跡目争いのライバルとなる宇喜多秀家と張り合ってヘソを曲げたぐらいで、そこを家康につけ込まれたという形になるでしょうか。

 いっぽう家康は、史実とは違って天下取り(権力奪取)のためではなく、起死回生のために決戦を挑まざるを得ない立場です。
 時間が経てば経つほど、豊臣家と豊臣政権の基盤は強化されるばかりです。対する自らは、日本全体の天下が広がったというのに、関東の田舎に押し込めらたままです。秀吉、秀長死去という千載一遇のチャンスを逃さず豊臣を切り崩して挙兵したものの、日本全体で見渡せば自分たちの劣勢は明らかです。
 豊臣政権内の対立を利用して、武断派を取り込んで作り上げた野戦軍以外で頼れるのは、新たな領国の関東と今までの家臣団のみ。かと言って、領地に閉じこもったところで、待っているのはジリ貧だけ。一諸侯としては領地が広すぎるので、いずれ削減されるのは確実です。それどころか、日本ナンバー2の勢力を持つため必要以上に疎まれ、難癖をつけられて取りつぶされる可能性の方が高くなります。官僚主体の豊臣政権が盤石化すれば、徳川排除に出るのは規定の事とすら言えます。
 いっぽう関ヶ原の状況を短期的に見れば、数日待てば真田家の上田城で引っかかった息子が率いる事実上の主力部隊が到着します。しかしその間に、大坂の豊臣本軍が現れれば物理的に相殺です。そればかりか、時の関白である秀次や秀吉の嫡男たる豊臣秀幸(鶴松・当時11才)が軍勢と共にやって来たら、武断派を取り込んだ自分の軍勢の霧散化は確実です。しかも史実でネックとなった淀の方は、秀次出陣に強硬に反対したりしないでしょう。
 ついでに言えば、この世界の大坂城にいる豊臣本軍は、毛利本軍以外に豊臣家常備軍も多くが待機しており、総数で6万人以上の大軍になります。待機の戦略的理由は、水軍と共に西国に対する抑え、もしくは遠隔地への強襲上陸のための待機となるでしょう。淀の我が儘で待機しているのではないのです。
 つまり多少兵力が劣勢だろうとも、家康は虎穴に入らざるを得ない要素が強すぎるのです。戦術的な事だけを言えば、史実の三成と家康の立場を逆転した形でなお家康を不利にした感じでしょうか。
 戦闘経過そのものに触れる気はないのですが、家康にとっては敵の半包囲下にあろうとも戦線を一面に限定して攻撃を集中し、文治派(官僚)の元締めである石田三成、小西行長らを倒さなければ今後の道そのものが開けないという事になります。
 家康にとっては、まずは天下を戦国時代に戻さなければならないのです。
 そして関ヶ原で家康が勝っても、その向こうにはまだまだ強固な豊臣家が控えており、関ヶ原の合戦は史実以上に通過点に過ぎません。
 RPGで言えば、家康にとって石田三成は中盤のボスキャラ程度の存在でしかありません。
 逆に、三成が作り上げた官僚型豊臣政権にしてみれば、戦国時代の代表たる徳川家康を粉砕することこそ、近代への扉を切り開くターニングポイントになります。起死回生ではなく、国家の通過儀礼としての通過点なのです。だからこそ豊臣家の人間(やはり関白の秀次が相応しい筈)を戦場の主将とはせずに、官僚代表の三成をあえ史実通りに主将のままにしました。
 合戦そのものは表面的に似通った状況にしましたが、内実はそれほどの違いがあるのです。たとえ家康が勝ったとしても、合戦の三年後に家康が幕府を開くことなどできないでしょう。
 なお、西軍に関白である秀次や秀吉の嫡男たる豊臣秀幸(鶴松・当時11才)が立っていないのは、大前提として史実へのオマージュという側面がありました。
 もっとも、秀幸は秀頼同様淀の方が原因で出させてもらえないでしょうね。
 なお、合戦後に徳川家が二国に減封されたのも、史実の豊臣家にした事へのオマージュに過ぎません。その他諸々も、東軍と西軍の立場が入れ替わったに過ぎません。

 いっぽう1614〜15年の「江戸の陣」ですが、言うまでもなく「大坂の陣」の逆転パロディです。合戦に至る経緯も、すべて豊臣と徳川を入れ替えたものにオマージュできるでしょう。
 関ヶ原合戦の責任を取る形での領国二国への減封。いわれのない非難中傷。完全に追いつめた段階で、事実上のお家取りつぶしとなる徳川主家の蟄居命令。すべて、徳川が豊臣にしたことです。
 逆に、徳川家が浪人を集めて軍勢を作り上げ、江戸城に籠城したのも逆転現象の象徴です。豊臣秀頼が徳川討伐軍総司令だったり豊臣方の軍師が真田幸村なのも、すべて逆転現象のオマージュになります。江戸城に篭もっている武将の多くも、関ヶ原で東軍に与したおかげで没落した人々になるでしょう。まあ、天下人秀吉と天下を取り損ねた家康とではカリスマ性に問題がありますが、関ヶ原の合戦の影響で没落武士、浪人の数には事欠きませんから、一発逆転を狙う浪人の数は同規模に集まるでしょう。武将面でも、豊臣家とは比較にならないぐらいに徳川家家臣達の忠誠度は高いので、華のある人物が顔を連ねると考えられます。
 そして、大坂の陣と逆なのは戦闘形式も同じです。
 冬の陣で野戦を持ってきて一時的に徳川優位を作り上げ、焦った豊臣が空前の大軍を仕立てて江戸城に攻め込みます。
 逆にした主な理由は二つです。
 一つ目は、徳川家が野戦を好み、史実の豊臣方のような消極的姿勢が低いであろうという事。しかも軍事力を統括するのは、最低でも戦馴れした譜代の直臣たちです。自らの不利を覆すためにも、相手のスキを突いて討って出るでしょう。それに史実の豊臣方のように、太閤が作り上げた天下の堅城というような思いを、江戸城には持たないでしょう。
 二つ目は、この世界で最初に攻城戦が始まれば、二度目の戦闘が発生しない可能性があるからです。
 オフィシャルでは、大量の攻城砲で江戸城を完全に吹き飛ばしてしまいました。攻城砲で吹き飛ばすことで、時代を象徴させたかったからです。

 なお、史実の江戸城の新築が始まるのは、関ヶ原の合戦以後です。しかも日本中の大名に作らせています。徳川氏が関東に移封られた1590年から十年ほどは、昔作られた古くさく小さな江戸城を少し手直ししただけで使っています。さすが蓄財家、貧乏性の家康です。
 また、関東移封後の少し後にアイヌとの戦争が始まり、日本人の間に広がりつつあった安土城や大阪城に象徴される戦国型要塞に対する疑問が出てきます。たくさんの大砲を用いられたらダメじゃん、と。大砲を防ぎ、銃と大砲を活用するには、アイヌが作った背が低くだだっ広い星形要塞の群か超巨大な城塞都市が最適であると。
 もしくは、急峻な地形の多い日本に適応した、近代型山岳要塞が出現するかもしれません。交通の要衝などにある切り立った地形の上に、少々の物理的衝撃では破壊できない頑健な構造物を作り上げて大砲や鉄砲を据えるのです。こうした構造物を作ろうとすれば、焼きレンガやコンクリートの利用がさらに早まるかもしれません。
 史実では戦国末期の大規模な戦闘と朝鮮出兵が、安土桃山時代後半の城郭建築に大きな影響を与えますが、この世界では近世的な軍備を持つアイヌとの戦争と南蛮征伐が強く影響しているのです。私達の世界に存在する城塞とは、少しばかり趣の違う要塞達が日本列島各地に出現しているでしょう。
 結果として16世紀末期から築城される平地型の要塞や大大名城館は、五稜郭のような要塞に近くなる筈です。もしくは開き直って、軍事施設としての要塞建築は行わなくなるでしょう。オフィシャルでも秀吉が作った大坂城の「惣構」も規模がより大きくし、各所に保塁としての機能を持つ「出丸」が設けました。
 また中小規模の街や城では、大砲を用いた攻城戦を行われたら意味がありません。個人としての侵入が難しいだけの警備設備を整えた、派手で立派な住居としての「お城」だけがあれば良いのです。極論、日本版のノイシュバンシュタイン城やベルサイユ宮殿で良いのです。日本風なら、金閣寺や二条城風の施設を身分相応にした形になるでしょうか。
 そして関東260万石を誇る徳川家が建設する江戸城は、豊臣家の圧力を前にして巨大な星形要塞の日本における原型のようなものになるでしょう。建築も関ヶ原以後ではなく、慶長の役が始まる頃から開始されます。史実より前倒しにされるのは、豊臣政権が急速に盤石になり、徳川の防衛思想が強くなるからです。
 城自体は、史実江戸城のように全国の大名を動員できなくても、260万石の国力を投入し5年もかければかなりの規模の要塞が建設可能です。中心部に大砲が届きにくい規模(約3キロ四方以上)にすると籠城するには数万の守備兵が必要ですが、相手は自らの三倍の規模の軍団をしたてなくてはいけなくなります。
 江戸城を攻める豊臣軍も、圧倒的大軍を用い攻城砲を主力として攻めざるを得ないのです。海を埋め尽くしている日藍のガレオン船からは、派手に艦砲射撃も行われるでしょう。
 出現する光景は、もはや戦国時代の戦争形態ではありません。戦闘形式としては、オスマン朝が行ったコンスタンチノープル戦に似ているでしょうか。双方の鉄砲装備率を考えれば、城の前面で塹壕戦すらしているかもしれません。

 江戸の陣全体の流れとしては、戦国時代の終わりをどこかで幕引きするために史実と似た事象をオマージュしましたが、実際行われている戦闘は17世紀半ばから後半ぐらいに欧州で行われた攻城戦とさして変わらないものになるでしょう。
 それが、異端児を抱えたシヴィラゼーションの一つの頂点であり結果となります。


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