■太陽帝国「楽屋裏」 その12 江戸幕府開府から唐出兵の頃の海外運営と近隣情勢
徳川の江戸城落城と共に戦国時代は終わり、豊臣の江戸城建設と共に新たなの時代が到来します。当然ですが、豊臣の大坂城陥落に対するオマージュです。 そして戦後、江戸に幕府が開かれます。当時の視点から見るなら巨大という言葉すら不足する江戸の街の中心部には、巨大で壮麗な権力の象徴としての宮殿型の巨城が建設されます。石畳で舗装された街路では馬車が往来し、深く浚渫された港を出入りする万石船(ガレオン貨物船)によって日本が世界中とリンクされ、様々な文物が出入りして日本列島のすべてが繁栄に沸き返ります。 この世界における天下太平の江戸時代の幕開けです。 しかし、日本人の戦争が数百年行われないわけはありません。 もちろん、江戸時代の象徴でもある天下太平、ミラクル・ピースを国内的に再現しなければならないのですが、海外では自身の繁栄のため頻繁に戦争を引き起こしていきます。 日本が海洋国家になった証ともいえますが、この世界の日本人にとっての江戸の陣は、二つの時代の終わりと始まりではあっても、長きに渡る平和の到来だけではないのです。
豊臣家を中心とする江戸幕府は、交易と領土の拡大により巨大となった国家予算を用いて、官僚団、常備軍を軸にした中央集権体制を作り上げ、旧来の支配層である大名(貴族)を地方領主にして、武士階層を軍人もしくは官僚にしてしまいます。 その上で、中央政府たる自分たちは海軍(水軍)と海運(回船)を独占して東アジア・太平洋全域での支配力を強化しつつ、商人達を味方に引き入れて政府の基盤を支える巨大な税金を集めます。そして税金によって国家予算というものが日本で始めて編成され、計画的な国家運営が図られていきます。(※史実の江戸幕府に明確な形の国家予算はありません。) 以上のように、名こそ江戸幕府と江戸時代ですが、内実は全く違うと言ってもよいでしょう。オフィシャルでも語られていますが、ある種の絶対君主制国家であり、大航海時代の中の江戸時代になります。また、農業主導国家でなく、商業主導の国家となっています。日本全体の規模がすべての意味で膨れあがったので、日本人も日本人が作り上げた政府もイヤでも時代を進歩しなければいけなくなったのです。 しかし江戸幕府は、西欧の絶対君主制とは少し違っています。日本古来の伝統勢力と宗教の影響です。 日本列島には、強い政治的影響力を持つ宗教権威そのものがなく(王権神授説が成立しないし、啓蒙思想が成立するかも怪しい)、形式上はどうあれ将軍(王)にも絶対君主と呼べるような権力がありません。また、天皇と朝廷という古代から続く政治勢力が平行して存続し続けることも、諸外国との同種の制度とは大きな違いになります。 しかも征夷大将軍とは、形式上であれ武家(特権階級)の頭領(リーダー)であり国家全体、国民全体の君主ではありません。朝廷内で征夷大将軍よりも上位の官職である関白や摂政も、絶対権力者ではありません。古代から続く日本の政治制度において、形式上は天皇こそが唯一無二の君主です。 豊臣政権に近代憲法に当たるものがないのは確かだし、巨大な税収と中央官僚と常備軍によって政府が維持されているのですが、旧来の制度すべてを破壊しない限り完全な形(絶対王制)にはならないのです。 しかし逆に、日本的曖昧さが多分に存在するからこそ政権の絶対性と強権支配構造が薄れ、日本での市民革命(もしくはそれに類するもの(維新など))は大きく立ち後れ、長い期間の国内的平和が訪れます。 ですが、国内的平和イコール史実のような平和国家とはなりません。外に大きく開かれた豊かな国は、自らの豊かさを維持するためにも程度の差こそあれ外に向けて膨脹するのが一般的な行動となるからです。
なお、絶対君主制において王権の絶対性は、貴族、大商人など特権を有する諸団体(社団)が王の統治に協力することで成立しています。豊臣幕府では、大侯を主体とする自治領主制度を作り上げ貴族の統括を強化し、商人の活動拠点の多くを政府の直轄都市にした上で商人に自治権を与えたりしています。もちろん統治協力の見返りとして、巨大な利権が貴族や大商人の元に転がり込みます。 だからこそ商人の拠点であり経済重心となる京や大坂、博多などが、首都でもないのに稀にみる巨大都市に膨れあがるのです。特に京や大坂、博多はアジアの人口規模の差からベネツィアやフィレンツェよりも繁栄し、巨大都市となります。 そして、巨大な利権を求める人々が政治を動かすのは当然であり、日本人を利益を目的とした海外進出へと誘います。 ただし戦国時代末期の日本商人は、旧来から中華貿易をしてきた博多、長崎などの九州商人と、日本の中心に位置する上方(堺、京)商人が対立しています。ですから豊臣幕府初期の商人による外への誘導は二種類発生します。九州商人による中華進出と、上方商人によるもっとグローバルな海外交易、進出です。そして初期における最大の事件が、「唐出兵」となります。
オフィシャルでは1645年に、明崩壊後の「後明」とでも呼ぶべき明政府の残党が日本に援軍を依頼しています。 日本が世界に広く門戸を開けていた事と、「金華」改め「清」の圧力が、中華帝国の末期症状にある漢民族国家では対抗できないレベルにあったため発生した政治的フラグです。 史実では、近松門左衛門の国姓爺合戦で有名な鄭成功が、江戸幕府に援軍を要請するなどの動きが何度かありましたが、史実の江戸幕府は自らの鎖国(1639年完成)を政治的理由にしてすべての要請を断りました。しかし一方で、国内に存在する30万人とも言われる大量の失業武士(浪人)のリクルート問題から、出兵の動きもあったと言われています。 いっぽう、この世界の日本は世界中に門戸を開いています。それどころか、アイヌを含めれば中華世界を包むように領土と勢力圏を広げています。 アイヌ領中央アジア(仮称:キルギシア)から始まって、シベリア(北海道)全土=アムール=オホーツク一帯=日本列島=琉球=台湾=フィリピン(呂宋)=マレー半島(馬来)までが、チャイナの知る世界での日本の勢力圏です。つまり、中華世界として認識されるインド以外すべての外郭地に日本人が蔓延っているのです。いかに尊大な中華帝国といえど、日本に目を向けないワケにはいかないでしょう。中華帝国にしてみれば、蛮族の領地や属国予備軍の過半を東洋の蛮族国家に取り上げられたようなものです。 中華帝国の内政にとって幸いな事に、中華の直接的な属領(朝鮮、インドシナ)のほとんどに日本は手を付けていませんが、アジアの海運、交易を押さえる日本の圧倒的経済力は脅威以上の存在でしょう。反対に、窮地に陥った明国が、比較的良好な交易関係を結んでいた日本に、少しばかり自身の体を切り売りしてでも援軍を出させるのも可能性が十分にあります。 いっぽう、海外膨脹の開始によって巨大な経済力を得つつある日本列島にとって、単なる商売以上の問題が史実同様の国内浪人問題と、列島内での人口爆発です。 史実と同様の大量の失業武士(浪人)問題は、国内での戦乱の終息から年月が経って浪人が次世代に引き継がれて、霧散する可能性も見えて来る頃です。しかし、ジャガイモ、サツマイモ、トウモロコシなどといった新たな作物の登場と大量栽培によって、日本列島の人口が戦国時代をはるかに上回るペースで上昇を開始します。商業の拡大によって所得も上昇して、主に都市部での人口拡大に拍車をかけていきます。 史実での戦国時代最盛期の人口が2000万人前半。江戸時代末期の人口が3000万人前半です。ちょー大雑把ですが、天下太平の間に人口は1.5〜1.8倍に膨れあがっています。近代化以前の時代ということを考えれば、十分以上の拡大といえるでしょう。しかし史実の日本人のテリトリーとして、北海道(モショリ)を含むのは難しくなります。本州、九州、四国だけで総人口約3000万人なのです。 なおこの世界では、16世紀半ばにはアイヌ経由でトウモロコシがやって来ます。17世紀に入るまでには、ジャガイモ、サツマイモも入ってきて順次大量栽培が始まります。どれも史実より早いタイムスケジュールです。加えて、アイヌのおかげで北海道(モショリ)を中心に、環オホーツク圏内も異常に開発されています。おそらくアイヌ単独の人口だけでも17世紀半ばで500万人程度になっているでしょう。 日本の人口も短期間に3000万人に迫る筈です。そして、人口の拡大によって発生する行動パターンの一つが、外への膨脹になります。オフィシャルでは浪人のリクルート問題で片づけましたが、実際は大略奪と平行した大量移民のテストケースのようなものです。人をどれだけ大量に動かせるか、それを幕府は試したのです。 事実この世界では、唐出兵の頃から海外移民が活発化していきます。
なお「唐出兵」は、日本の政府にとって1615年の江戸の陣以来30年ぶりの大規模な軍事行動になります。しかし常備軍を持つ豊臣政権は、最低限の兵士は常に軍事訓練が施されています。海外警備のためにも軍備の手抜きはできません。南蛮諸国との小競り合いや海賊退治に奔走しているであろう海軍(水軍)も問題ないでしょう。以上のように、ある程度なら出兵する軍事力は常に確保されています。近世的軍隊を持つなら、補給と資金の続く限り大陸で大きく敗北する事もないでしょう。ドイツ三十年戦争のグスタフ・アドルフよろしく大陸で暴れ回ってやればよいのです。 しかし暴れ回るだけではいけません。「唐出兵」で政治的、軍事的要求より大きいのが、商人達による経済的要求です。 オフィシャルでも、中華からもたらされていた絹の流通が同地での戦乱により滞ったため、出兵と強引な商取引に傾いたとしてあります。つまり出兵した日本軍が行うことは、中華大陸の経済中枢部での大規模な略奪戦争です。 オフィシャルの地図(太陽帝国一九四〇)には、かなり明確にどの辺りに兵力を派兵したかまで記してあるので、ピンとくる方も多いでしょう。日本が最も大きい兵力を派遣した場所が、中華大陸で当時最も豊かな地域である、と。
南宋の時代より、中華帝国の繁栄の基盤が長江文明を母体にした江南にあります。特に長江下流域一帯の米作は、大陸での農業の中心です。「江浙(蘇湖)熟すれば天下足る」という言葉がよく示しています。当然経済の重心も長江流域にあり、明の時代に入るとお茶、陶磁器、絹織物、綿織物産業の中枢部にもなっていきます。 手工業・商業の発達で農業地帯は長江中流域に移りますが、中華地域全域の経済重心としての地位はより高まっています。長江一帯を手にしている者が中華経済を支配していると言っても過言ではないでしょう。それだけの経済力があります。 室町から江戸時代にかけての日本も、国内で産出された当時としては膨大な量の銀を輸出して様々なものをこの地に求めています。 欧州も大航海時代以降は日本と同様の貿易を行っており、清国全盛期の17〜18世紀の世界経済の重心の一つが長江下流域にあったことは間違いないでしょう。なにしろ中華地域の人口が巨大なので、経済規模も異常なほど大きくなります。(中華地域の人口は最低8000万人、最大4億人) もっとも豊かすぎる長江下流域は、中華地域全域が弱体化すれば、外敵の進出を最も受けやすい地域の一つになります。アヘン戦争以後の欧州列強もこの地域を一度蹂躙しています。 しかも、明の残存勢力が日本に派兵を要求する頃、大陸での勢力争いは長江を中心とする華中地域に移りつつあります。 日本軍主力の遠征を1645〜47年に置いたのも、清が北京を落とすのが1644年で、南京に迫るのがその約2年後だからです。 日本の幕府軍が、大挙して長江下流域に押し寄せる理由も十分です。日本側からすれば、とりあえず大軍派遣して「戦争してやる」から、見返りに「あるだけよこせ」という事ですね。 海外膨脹した海洋国家など、どこも似たようなものだと思います。正義の国なんて滅多に存在しないのです。
さて、日本が行った海外に対する侵略と略奪は、明治維新以前では一つの例しかありません。豊臣秀吉主導による「朝鮮出兵」です。 しかし、朝鮮出兵で日本が得たものは、陶磁器を作る技術以外目に付くものがほとんど見受けられません。収支決算も、完全な赤字です。黒字だったのなら、豊臣家があれほど容易く傾く事もなかったでしょう。 主な理由として、朝鮮半島がもともと略奪するには経済的に貧しい土地である事、侵攻前から朝鮮が事実上の内乱状態だった事、日本が領土としての統治をある程度考えていた事が挙げられます。 特に領土化を目的にしているなら、国家としての略奪は御法度です。支配するつもりの場所を疲弊させては本末転倒だからです。 しかし、秀吉の死亡ですべてはお流れになり、疲れ切った日本軍は朝鮮半島から引き揚げていきます。 いっぽう「唐出兵」は、大混乱状態の中華大陸への援軍派兵です。形式上あからさまな侵略をするワケにもいきませんが、既に疲弊している後明からまともな後方支援が受けられるとは思えません。しかも日本側の本音は、武士の失業対策の影に隠れた大陸での略奪的交易にあります。 また、既に清の支配下に入っている華北地域は敵地になります。攻撃、略奪、破壊は、敵を疲弊させるためにも積極的に行うべき軍事的行動になります。正義の味方バンザイです。 そしてオフィシャルでは、蘇州などで強引な商取引を行ったと表現しましたが、実際行われている事は略奪と破壊に間違いありません。 お茶、陶磁器、絹織物、綿織物業など当時世界最先端の技術が長江下流域にあり、億の単位を数える人口から生み出された富は、日本人からすれば想像を絶する富と物量になるでしょう。 しかも日本からすれば、明軍にまともな軍事力はなく、清国軍も規律の取れた軍団や優れた騎兵は持ちますが、日本軍のような先進的な三兵編成の軍隊は持ちません。騎兵など砲と鉄砲で粉砕すればよいだけです。 大軍を以て出兵する日本側から見れば、略奪してくれといわんばかりの条件が出血大サービス状態で広大な大陸に並んでいるわけです。 ですが、本当に中華大陸の情勢は史実通りなのでしょうか。 ここで少し、日本人いいように蹂躙される大陸情勢の史実との違いはどの程度あるのか見てみましょう。
明、清、朝鮮共に、史実との違いがかなりあります。 変化が一番少ないのは明です。 明は、アイヌがとことん無視しました。日本は朝鮮出兵がないので、明が援軍出すこともなく王朝末期の疲弊が少しばかり軽減されています。しかし、朝鮮援兵以外にも多数の外征はしていますし、当時は内乱が日常茶飯事です。その他乱費だらけなので、疲弊度の変化は程度問題でしょう。日本の朝鮮出兵が明も傾かせたとする説はありますが、過大評価と言うべきでしょう。 朝鮮も変化は小さくなるでしょうか。 朝鮮出兵により日明の大軍が各地で激突する事も、国中が荒廃することもないので、状況が少しは改善されるでしょう。逆に、朝鮮出兵時の朝鮮は李氏朝鮮始まって以来の内乱中で、日本(もしくは明)の介入がないので長い間内乱が続く可能性は高くなります。結果はイーブンです。どのみち外に対してリアクションする気概も能力はありません。 いっぽう一番大きな変化は清にあります。 女真族、後の満州族が台頭するのは、ヌルハチ(太祖、1559〜1626、位1616〜26)が率いるようになってからです。 その後、1644年に横合いから殴りかかった形の李自成が明を滅ぼして、清が明の重臣だった呉三桂の案内を受けて北京入城を果たします。国号を後金から清に改称したのも1636年の事です。その間、朝鮮、内モンゴルを服属させて、中華地域の北半分を支配するに至ります。 この世界では、李自成を滅ぼした頃から日本の大軍が横合いから殴りかかってきますが、17世紀前半ならシベリアやアムール川にアイヌが陣取っているので、ここに至るまでの情勢はかなり違ってくるでしょう。 ユーラシア北部に陣取るアイヌにとって邪魔なのは、膨脹的な中華帝国の台頭です。ただの騎馬民族は、自らの豊富な火力装備があれば恐れるに足りません。それに最大勢力のモンゴルとは、政治的に妥協しています。それ以外の多くの部族も、事実上一度は服属させています。加えて、アイヌにとっての北方騎馬民族は中華地域との緩衝勢力にして中華中央に対する嫌がらせの手段となります。 そんな中、アイヌの勢力圏外にいた女真族が台頭してきて、明に攻撃を加えるようになります。中華帝国のある程度の弱体化は、アイヌにとっても利があります。アイヌが、初期の段階で女真族を支援するのは自然な流れでしょう。 そして女真族は、周辺部を飲み込みながらどんどん大きくなっていきます。アイヌが方々に手を広げすぎててんやわんやな頃には、史実同様簡単には手が付けられないぐらいの勢力になります。 しかし、アイヌに焦りはありません。 騎馬民族が自力(自給)で火力装備を大量運用できる体制を作らない限り、自分たちの脅威にならないからです。それに少しばかり騎馬民族が大きくなって有望な顧客となり、様々な戦争景気で自分たちの懐が暖まる方が重要でしょう。 アイヌの行動が活発化するのは、中華で突然発生した大規模な内乱による突然の明滅亡と女真族率いる清の北京入城からになるでしょう。 何しろ、それまでヴァッファー・ゾーンだったところに突然中華帝国が出現したのです。 そんな時、追いつめられた後明が日本に出兵要請し、日本が二つ返事で出兵を了承したとしても、積極的に後押しこそすれ止める事はありえません。 なお、「唐出兵」でアイヌは兵を出していませんが、アイヌの主な目的がシベリア(北海道)の安定なのが原因です。 また、アイヌは16世紀初頭からモンゴルとの関係は良好です。女真族が内モンゴル遠征の時に、モンゴルの持つ元朝時代の玉爾を得ているなら、彼らこそがモンゴルの正統な後継者です。シベリアの安定のためにも、表面的に争うことは政治的理由で避けようとするでしょう。 お構いなしに大陸に攻め込むのは、新たな中華勢力と関係の薄い日本軍(幕府軍)だけでよいのです。 日本の大兵団と明国の軍団が肩を並べ、北方の騎馬民族の軍団に挑むという、史実の朝鮮出兵に対する皮肉なような状況の出現です。 この頃の日本兵の出で立ちは、五月人形スタイルから洗練された西洋的な軽装へと移行しつつあるので、時代劇的視覚イメージは薄れているでしょう。軍団を親卒する将軍(豊臣家当主)の姿も、信長よりも進歩した南蛮ルックかもしれません。オマケに大陸のファッションも取り入れているかもしれません。まさに和洋中による折衷的情景の現出です。 なおオフィシャルでは、将軍親率の主力10万人を含めて日本は総数15万人を大陸に送り込んだとしてあります。 総数15万人のうち、純粋な戦闘部隊はおおよそ10万人ぐらい。残りの過半数が純粋な後方支援部隊で、さらに残りが兵站支援(仮称「兵糧衆」)と銘打った事実上の略奪部隊です。戦闘部隊の比率が高めなのは、長江を使った海と大河から船による補給を考えているからと、現地に補給を負担させる予定だからです。 なお、戦闘経過を紹介すると以下のようになるでしょう。 『日本軍は、大型のガレオン船で編成された大艦隊をしたてて長江下流域に直に殺到。現在の上海周辺に最初の橋頭堡を築くと、一度南京前面に迫った清軍の誇る八旗を掲げる大騎兵部隊を圧倒的火力と野戦築城で一蹴。南京で後明の旗揚げをした万暦帝の孫の福王は一息をつくかに見えました。しかし、日本軍は長江をどんどん上って各地に展開していきます。現地の腐敗役人を懐柔して略奪を開始するためです。』 かくして幕府軍の大挙到来は、本当の意味での和冦の襲来だったというオチになるでしょう。 日本軍は、オフィシャル(同人誌)のイメージ地図上では、いちおう二度の大勝利を飾って清の勢いは削いでくれますが、あるものすべてを船に積み込んで日本列島に持っていくし、親率された軍団以外は各地で略奪・暴行・破壊のし放題です。各種手工業品を始め持って帰れる物産、金銀宝石など直接的な財、そして製品を作る技術者と女性、なんでもガレオン船に積んで日本本土に持って帰ります。 約三年で戦争と略奪に飽きた日本軍主力が去っていきますが、結果として残された状況は史実よりひどい長江流域の惨状でしょう。何しろ日本は、中国を統一したり支配や統治する気がない以上、清よりひどい事をするのは当然です。 しかも、さらに十数年に日本軍はまた中華大陸に大挙してやってきます。 しかし今度の目的は略奪ではありません。自分たちのテリトリーを守るための、ヴァッファー・ゾーン設定のための戦争です。しかも、明の残党も形振り構っている場合ではないし、出兵地域も以前略奪した場所とは違うので反発も少ないでしょう。 オフィシャルの地図上では、1658〜59年に、現在の福建省、広東省、雲南省に日本軍が来ていますが、すべて史実へのオマージュを元にしています。明最後の英雄といえる鄭成功が、軍事的に成功を収めたのもこの短い時間です。鄭成功が日本に援軍要請を出したので、それが最大限にオマージュされているのです。また、明の最後の王族がビルマの奥地で絶えるのも1662年なので、それ以前に介入する必要があったという理由もあります。 清としては、中華帝国の慣例に従い旧王朝は完全に断絶しなければならないのですが、1645年以後たびたび日本軍が華中、華南を中心に出ばって邪魔をします。華北でも沿岸部は海賊行為のし放題です。しかも日本は島国で強大な海軍を持っているので、清の側からは手を出せません。このままでは、政治的にも経済的にも安定を欠いてしまいます。
いっぽう大陸沿岸部を中心に好き勝手している日本側ですが、かつてのように大軍を派遣する事が難しくなっています。 呂宋(フィリピン)への大規模な移民を目的とした「慶安の移民」が、1648年〜1652年の4年半の間に開始されているからです。一年あたり数万人とい表現されいた北米移民も本格化しているでしょう。すべてを政府主導(+大商人の差し金)で行っているので、大陸に大軍を出そうにも予算も船も足りなくなっているのです。 1645年時の唐出兵ですら、台湾に対する本格的移民の合間縫って行われています。逆を言えば、台湾という巨大な橋頭堡があったので大規模な派兵が可能だったのです。オフィシャルでも1637年に島原の移民という史実のオマージュを入れてみました。オカルトチックに描かれる事の多い天草四郎時貞も、この世界ではモーゼをモチーフにしたちょっとした救世主となって、その後は台湾の一領主におさまっているかもしれません。 移民の事はともかく、日本側としては大陸に大軍は派遣できない。しかし緩衝地帯は欲しい。となれば、今まで以上に手段を選んではいられません。 というわけで、十数年前から大陸に居着いている傭兵たちに加えて、本土からもいくらか増派した軍団で、華中から華南にかけてを荒らし回ります。「東洋鬼」と「蝗軍」の本格的登場です。 彼らを使った日本側の目的は、彼らの破壊活動と海賊行為の停止と引き替えに、清に日本との勢力圏の間に緩衝地帯を設けさせることです。清側が日本の意図を知れば、清皇帝は怒り狂って徹底抗戦か逆に妥協するかのどちらかを選ぶでしょう。そして泥沼の戦いを選択したくないなら、蛮族との政治的妥協を選ぶ可能性は十分にあるでしょう。 そしてここで登場するのが、清朝稀代の皇帝康煕帝です。 康煕帝は聖祖とも称されるほどの人格者にして天才であり文武両道に優れるという非の打ち所のない賢帝です。幼い頃に皇帝の座に就き内憂外患にも果敢に立ち向かうなど、まるで物語の主人公のような人物です。多少脚色はされているとは思いますが、彼なくして清の繁栄がなかったのは確かです。 また質素堅実な人物で読書家だったらしく、何となくスペイン帝国の絶頂期に君臨したフェリペ二世に似ている気もします。 そんな彼が実質的な実権を握るのが、即位から8年が経過した1669年の事です。時に16才でした。 しかし、三藩(華南地方内陸部)を中心として漢民族の影響力が大きく、皇帝にすべての権力がない時代です。清の軍隊も、相変わらず日本軍にはかなわないでしょう。 この時代の清軍は、少し後のガルダン率いる東トルキスタンの騎馬民族との戦いでは軽砲を量産して騎馬に対抗しました。しかし、三藩の乱の頃までは、相変わらず弓,槍、刀を主装備としていたようです。戦乱に次ぐ戦乱で、お金のかかる鉄砲や大砲の大量配備とはいかなかったのでしょうか。鄭成功の乱でも鄭成功軍の中の恐らく日本人傭兵で編成された部隊にいいようにやられているようです。この部隊の多くが謎なのですが、鉄人部隊と呼ばれ全身を鉄の甲冑でおおって斬馬刀を持ちながら弓矢をものともせず突撃するので、清軍の恐怖の的だったそうです。 おそらくこの世界の日本軍と清軍との戦闘のいくつかも、鉄人部隊と似たような状況になるのではと思われます。まあ、海からやって来る悪の帝国なのですから、それぐらいあった方が箔が付くというものでしょう。 細かい戦闘経過などはこれ以上触れませんが、日清の政治的取引の結果、清に朝貢(服属)する形で雲南に逃げ延びた明の末裔が生き延びます。当然日本軍も立ち去りますが、大陸に居着いてしまう人々もいます。 雲南以外で定着した人々は、やがて人の海に飲み込まれて消えていくでしょうが、雲南では少し様子が違います。 またもや、奇天烈な国家が誕生したからです。
雲南地方は、漢民族とされる人々以外の民族が多数犇めきます。古くから中華中央とは違う王朝や政治勢力も存在していました。政治風土から中華とは言い難い地域なのです。 その雲南に、雲南王国という明の末裔・桂王を初代王とする新国家が成立します。ですが、日本の後押しを受けているという以外、清に対抗できる政治的要素がありません。立地条件から、ベトナムやビルマ、シャムなどが清との緩衝地帯欲しさに手助けしてくれるでしょうが、それも国力差から程度問題です。日本からの援助をアテにするにしても遠すぎます。最低限は自力でなんとかしないといけません。 そこで役立つのが、日本からやって来て大陸に居着いてしまった傭兵(失業武士)達とその子孫です。数にして数万人にもなるでしょうか。 彼らを新たな国の武官として召し抱え、国防を担わせるのです。大陸での戦闘経験も豊富ですし、元がサムライなのですから適材適所です。かつて支配階級なので教育程度が高い者もいるでしょう。日本とつながりを保つ役割も期待できます。 また、雲南地方は棚田で有名な湿潤な地方です。険しい地形が多く地形も複雑で、少数精鋭で守るにも比較的好条件が揃っています。 無数の少数民族で構成されたモザイク地域ですが、だからこそ日本人を取り込むのにも好都合でしょう。いまさら一つぐらい増えてもどうって事ありません。 日本人の方も、祖国にかなり近い気候でサムライに戻れるのですから、歓迎する向きも強いでしょう。しかも少数民族の中には日本人とよく姿の人種もいます。日本政府から棄てられたも同然の人たちにとって、ある程度納得できるだけの第二の故郷になるのではと考えました。 そして雲南王国成立以後、日本は大陸に不干渉を通します。それが水面下での約束事のようなものです。だから、「三藩の乱(1673〜81)」のような混乱にも介入しないし、限定的な鎖国にも文句はいいません。 本来なら、海洋国家として常に大陸情勢に介入をしなければならないのですが、せっかく作った緩衝地帯を失う可能性と干渉する利益を天秤に掛けた結果だとしています。 オフィシャルにもある通り、中華帝国が日本人(+アイヌ人)のテリトリーにあからさまに手を出さず鎖国するなら、放っておく方が利益が大きい筈です。ヘタにつっついて、海に向かっての膨脹外交に転じられたら目も当てられません。まさに藪蛇になりかねないでしょう。 なお史実の清朝は、乾隆帝(1736〜1795年)の時代に、十回も遠征して今の中国領土の基礎を作り上げています。乾隆帝も自身の記録の中で大いに自慢しています。もっとも、記録にあるように連戦連勝ではなく、軍事的に敗北した後に国力に任せて政治的に屈服させる例の方が多いようですが。 ですがこの世界では、雲南王国があったり台湾が日本領(もしくはアイヌ領)だったりするので、「十」という遠征の数は、最低でも「八」に低下しています。中央アジアにアイヌを原因とする異質な国家(仮称「キルギシア」)が隆盛していれば、遠征はさらに減っている可能性もあります。 もっとも、金川と呼ばれる四川省北西部の国(現在の青海地域)との戦争が、ゆくゆくは清を財政面で傾かせたので、史実の清の末路に関して大きな変更は必要ないと判断しました。 いかに乾隆帝が名君でも、外征ばかりして派手好きではいけないという例なんでしょうね。西洋式の宮殿や満漢全席なんて作っている場合じゃありません。康煕帝を少しは見習って欲しいものです。
さて、日本の撤退と清の鎖国によって、両者の関係は冷え切ります。アイヌもロシア、清との間にネルチンスク条約(1689年)を結んで国境を確定して大陸情勢を手打ちにします。 しかし、清が鎖国したといっても、完全に門戸を閉ざしたワケではありません。来る者拒まずな上に体内に飲み込み消化してしまうのが、あの大陸の凄いところです。 日本に少々略奪されようとも、圧倒的人口が生み出す大陸の富は巨大であり、経済的に復活した後は日本が求める物産にも事欠かないでしょう。 もっとも、イギリスは18世紀に清のお茶を大量に買い付けにきて、それがアヘン戦争に始まる悲劇の発端になりますが、お茶は日本国内や外郭地で十分栽培できるので日本には不要です。技術もあります。陶磁器も技術を人ごと奪ってきたので、少数の珍重品として以外は不要です。その他の工芸品も、江戸時代なら日本の質は高くなりますし、欧州に比べれば物量も不足ありません。 日本が大陸から必要とするのは、マンパワーの必要な絹製品ぐらいです。江戸時代には国内産業が大いに発達して原料供給地も増えるので綿織物、毛織物は不要ですが、とにかく人手のかかる絹は国内生産ではまかないきれないでしょう。 大量の贅沢な衣服は、豊かになった日本にとって必須アイテムになるからです。国内と外郭地では自分たちでどれだけ作っても不足するはずです。 しかし、日本が清から輸入するばかりでは、日本もアヘン戦争起こさなくてはいけません。そこで生きてくるのが、日本がアジア・太平洋の貿易を牛耳り、東南アジアを勢力下にしているという点です。 欧州が本格的に入り込むまで、砂糖や香辛料、北方の海産物などその他珍しい物産は日本人抜きでの商取引は成り立たなくなっています。史実なら東南アジアで華僑が台頭していますが、国家の支援がなくガレオン船を持たない彼らに対して、この世界の日本側は圧倒的優勢を確保しています。英国に清を売り渡すまで、清との交易は過不足なく行えるでしょう。 海賊行為に出られても、財力に裏打ちされた圧倒的軍事力でねじ伏せればよいのです。まともな外洋戦力のない中華勢力に勝ち目はありません。 かくして日本の大航海時代は黄金期に入ります。