■太陽帝国「楽屋裏」 その13
 日本の大航海時代と史実との違い

 ここでのテーマは、日本の大航海時代と幕府最盛期の海外運営です。
 この世界では、一足早く近代化したアイヌという異分子の発生によって、北東アジアを中心に世界史が大きく変動しました。特に隣国日本の変化が大きくなり、戦国時代終了と共に急速な海外膨脹に転じます。
 「慶長の役」と「唐出兵」が膨脹の象徴であり、アジア・太平洋各地に成立した植民地や衛星国が膨脹の結果です。
 日本列島での大航海時代の幕開けです。
 では、日本(+アイヌ)が経験した海外膨脹の前に、日本が史実の欧米に先かげて分捕った地域と日本人進出の影響について見ていきましょう。

 日本とアイヌは、東アジア・太平洋を中心に、実に多くの場所を欧州列強に先駆けて勢力圏に組み込みました。
 箇条書きに日本列島から見て北西から時計回りに挙げると、東シベリア、オホーツク一帯、アラスカ、北米大陸の西半分、メキシコ、そして太平洋南半球西部をのぞいてオセアニアも含めてほとんどすべてを飲み込んで、ビルマをのぞく東南アジア全域に至ります。
 東南アジアのうちビルマはインドに含まれるとして、国家戦略上で進出圏外。タイ、インドシナ地域は、現地国家が強大化しないように政治的干渉だけしつつ自主独立を支持。できれば清の属国化(朝貢)も阻止する。インドネシア各地は、主に経済面で衛星国化。さらに同地域では、16世紀に興った二つのヒンドゥー教国をコントロールして影響力を保持。インドネシアでヒンドゥー教国を支持するのは、現地に根付きつつあるイスラム勢力の政治的拡大を防ぐためです。自らが信奉しない一神教が広まりすぎては、何かとやりにくいからです。場合によっては、逆人頭税を採用させて駆逐すればよいでしょう。
 いっぽうで、16世紀アイヌが勢力圏に組み入れた中央アジア地域も影響圏に含めて問題ないでしょうが、陸路しかないので大航海時代という視点からだと除外せざるをえません。
 テリトリーのうち、台湾、フィリピン、北ボルネオ、ニューギニア一帯が日本の直轄地域になります。また、西シベリア、中央アジア北部はロシアが押し掛けるまで、アイヌの勢力圏に含めてもいいでしょう。
 そして、日本(+アイヌ)の勢力圏を上記の範囲に押し止める要因の一つが、外国勢力と交わした五つの条約です。
 最初が、1577年にアイヌとイスパーニャと中南米の勢力圏を取り決めた「グアンタモナ条約」。次に、1598年にこれもイスパーニャと交わしたアジアでの境界を決める停戦条約(和睦)。これに関連して日本とアイヌで勢力圏を取り決めた「伏見の和約」。続いて1682年にフランスとアイヌが北米の勢力圏をミシシッピ川で分けるとした「ルイジアナ条約」(仮称)。最後に1689年にアイヌが、ロシア、清と交わした「ネルチンスク条約」になります。
 以後日本とアイヌは、条約を律儀に守って勢力圏内の経営を進めつつ、縄張りに不用意に入り込んできた者に容赦なく武力を用いて撃退するようになります。抜け駆け上等な欧州勢力としては、律儀に条約を楯にされてはたまりませんが、欧州からの距離、日本列島の軍事力と経済力を前に、日本側が決めた境界線が常態として長期間維持されます。
 日本が外に出ていかないのは、条約云々よりも日本的な冒険を嫌う方向性が一番の理由ですが、絶頂期を過ぎてしまうと単なる膨脹限界によるものとなります。国家はいつまでも膨脹できるものではないのです。
 そして日本の国力を背景とした「汎日本」とも言える流れは、1824年の「日英戦争」と1845年の「第一次北米動乱」によって日本の軍事的威力が振るわなくなるまで続きます。
 一見、帝国主義時代に入るまで、日系勢力がアジア・太平洋を支配していたようにも思えますが、世界史上の変化はかなり存在します。時間を追って見ていきましょう。

 コルテスのアステカ帝国侵略から半世紀後、今度はアイヌがメキシコを分捕りました。当時のメキシコは、既存鉱山の一時的な産出量減退と、採掘する原住民そのものの激減で産出量が大幅に低下しています。そこにアイヌが押し掛けてきたので、イスパーニャとしては、当初はもう不要になった厄介者を押し付けたぐらいで落ち着かせています。
 しかし、1575年にイスパーニャが作り上げたアーシアン・リングが早くも崩壊し、フィリピンの地位没落も始まります。
 16世紀当時フィリピンは、チャイナとフィリピン、中南米とフィリピンの中継点として機能していました。主な物産は、チャイナの絹や陶磁器と中南米の銀です。
 そして物産の交易中継点として、イスパーニャはフィリピンが必要だったのです。土地そのものの経済価値が低く、先住民の反乱が日常茶飯事の場所を維持し続けたのには、それなりの理由があったのです。イスパーニャがフィリピンを植民地にしたのも、発端こそマゼランの世界一周でしたが、裏には中南米とチャイナの中継点として欲したという理由があったのです。
 歴史上では1564年にフィリピン侵略が開始され、1577年にはルソン島全域がイスパーニャのものとなります。
 フィリピンの中心都市マニラは1571年に建設が開始され、日本人も頻繁に訪れるようになる20年後には、何と人口約66万人の巨大都市に膨れあがります。
 主な住人は先住民族と交易を商う中華系商人(まだ華僑とは言えない)だったようですが、当時のイスパーニャの勢いを感じさせる出来事といえるでしょう。
 しかし1575年にイスパーニャとチャイナの交易は、イスパーニャがメキシコを喪失した事で一時的に激減します。それ以前に、16世紀初頭からアイヌが自前の船でせっせとアジア交易を広げているので、アジア地域での利潤低下も早いでしょう。
 当初のアイヌの交易船は、バイキング船じみた船から発展した航行性能の高い初期型帆船なので、ジャンク船主体の中華系勢力に比べて時間と輸送力で上回ります。数はイスパーニャを圧倒します。船には大砲・鉄砲も搭載するので、戦力価値も高くなります。ガレオン船ほど優れていませんが、中華勢力や東アジアで数の少ない欧州が相手なら十分に圧倒できます。
 パワーバランスから考えれば、16世紀後半はアイヌが東アジア全域の海を支配する事になるでしょう。それにイスパーニャ商人、チャイナ本土人にとって、運搬人がだれだろうと物産が安く早く手に入ればいいわけですから、アイヌが交易の中心を占めていても問題は少ないでしょう。
 そして1575年以後、マニラはイスパーニャにとっての交易拠点としての重要度を低下させます。メキシコを失ったうえに、アイヌが近在の台湾を自らの拠点にしているからです。
 「慶長の役」でイスパーニャが呆気なく敗れ去った背景には、以上のような理由もあったのです。価値が低ければ軍隊が少ないのが必然ですし、守ろうとする執着心も低下するでしょう。

 いっぽう、イスパーニャ以外の欧州列強(ポルトガルと後にオランダ)にとっての当座の興味は南方の香辛料などの物産です。大航海時代前まで、香辛料の価値は同量の純金にすら匹敵しました。かつてベネツィアが繁栄し、ポルトガルが一時的に世界帝国となった大きな理由も胡椒貿易です。
 交易船が大量の香辛料を持ち帰るたびに香辛料の価格は下落しますが、17世紀半ばぐらいまでは香辛料に高い価値がありました。そして、当時スパイス・アイランドと呼ばれたのがインドネシアです。
 インドネシアには、マラッカ海峡やジャワ島のバタビアなどに古くからポルトガルが進出していました。香料帝国の面目躍如たる姿です。しかし、ここでも16世紀半ば頃からアイヌ人が蔓延り始めます。その上1595年から98年にかけては、日本人と共に東南アジア全域から欧州勢力を駆逐します。
 なお、1580年代からの16世紀末は、欧米列強がアジアに少ない時期になります。ポルトガルの勢力減退と、イギリス(イングランド)、オランダ(ネーデルランド)の台頭のちょうど隙間になるからです。
 そして、時間の隙間を埋めるべく、新たな海洋帝国の名乗りを挙げた海の乞食ども(ネーデルランド)が勇躍アジア(インドネシア)にやって来た時、アジア情勢が一変しているのを目撃します。こしゃくなイスパーニャの言ったことは事実だったのです。
 伝説の国ジパングはまだまだ東の彼方の筈なのに、スパイス・アイランドに彼らが陣取っているのを目にします。
 史実では、1598年から1641年にかけて英蘭による東南アジア(インドネシア)争奪戦が起こり、イギリスは早々にインド交易へと傾倒します。その後に、オランダがせっせとインドネシアの支配を広げていきました。英蘭戦争に敗北するまで、17世紀の世界の海がオランダのものだった何よりの証拠といえるでしょう。
 しかしこの世界の東南アジアには、日本人とアイヌ人がインドネシア、マレー、フィリピンに居座っています。有色人種どもは数においても自分たちを圧倒する上に、ガレオン船の大艦隊を持つなど軍事力も強大です。少しばかり手を出しただけで白血球のように大軍が押し掛けきて、対抗勢力を駆逐していきます。不思議な事にインド洋深くには追いかけてきませんが、東南アジアに迂闊に手を出せないのは確かです。交易したければ、日本人の支配するマレー半島のペナン、ジャワ島のバタビアなどで正統な取引を行うしかありません。
 そして、交易や取引のため当時の大坂や江戸、博多に来た欧州の商人達は、ビックリ仰天するでしょう。彼らの眼前には、東アジア・太平洋全域の富を吸い上げて膨脹と拡大を続ける巨大都市が眼前に広がるからです。京や大坂は、都市規模の差もあってパリやベネツィア、ライデン以上の繁栄を誇る街と映ることでしょう。実際、京や大坂の都市規模は30万人から50万人にもなり、当時の欧州の都市規模を大きく凌駕しています。
 なお、この世界の日本(+アイヌ)は、江戸時代に入ると時代劇的な建造物とは少し違う建造物を造り始めます。江戸城も石垣以外の場所にも石材を使っていると紹介しましたし、他にも焼きレンガも多用するでしょう。アイヌが北の僻地で勝手に発展した事と、中華大陸に大遠征をした事が原因です。
 アイヌはもともと亜寒帯気候が広がる地域に勢力圏を伸ばした民族・国家なので、寒さを気にする反面湿気を気にせず丈夫な石造建築物を造ります。中華大陸は、それこそ秦の始皇帝の時代から世界随一の焼きレンガ大国です。技術レベルは、日本が裸足で逃げ出すしかありません。
 もっとも焼きレンガの製造には大量の木材を必要としますし、石材の切り出しは多くの手間が必要です。かつては緑豊かだった黄河流域の今の姿がその結果です。日本の建築物のすべてが石材やレンガではなく、やはり従来の木材と土壁が主力になるでしょう。その方が経済的だし、夏場が亜熱帯気候のようになる日本では住みやすい家が造れます。欧州だった、重要な建築物や都市中心部以外は、日本と様式が違うだけで似たようなものも多数あります。もっとも欧州とは違って、高層建造物の有無は地震の頻度の差が大きく影響しているでしょう。

 話が少し逸れましたが、建築物に見るように日本列島の繁栄を作り上げているのが、日本人達が支配下に置いた広大な領土からもたらされている富なのは確かです。
 一大拠点となる大坂の街の規模など、オランダ人が誇るライデンの街の比ではありません。
 新たにやって来たイギリス人やオランダ人が、それまで噂話程度でしか知らなかった地域の事も聞き及ぶでしょう。そして17世紀半ばぐらいなら、日本(+アイヌ)の広大な支配領域に驚きます。
 なにしろ、欧州人にとって未知の世界のすべてが彼らのものだからです。当時の欧州は、シベリアの事も北米西海岸の事も知りません。マゼランが世界一周したといっても、太平洋など未知の海もいいところです。
 にもかかわらず日本では、これは北海道(シベリア)で取れた黒テンの毛皮、これはニタイモショリ(北米西海岸)で収穫したトウモロコシ、手にしているのはメキシコの銀で鋳造した銀貨、それは太平洋の孤島で買い付けた現地の装飾品、ああ日本製の見事な伝統工芸品もいかがですか、と数限りない様々な物産が手に入ります。大規模な商取引なら、簡単に純金の山を築き上げたりもします。砂糖や香辛料、毛皮など欧州での貴重品も、比べものにならないほど低価格です。ガラスや鉄器、陶磁器などの工芸品も質、量共にあります。衣料に関しても、絹は自分たちで使い尽くしてしまいますが、手工業にものを言わせて生産する木綿製品は溢れかえるほどです。
 科学技術や自然科学など欧州より遅れている分野は多々ありますが、豊かさと人の多さでは比較にもならないでしょう。日本列島単体の市場規模だけで、フランスとイングランドを足したぐらいあります。
 最も人口密度の高いアジア地域と未開地域のトレーダーやトラフィックスとなった日本列島は、当時の西欧全土に匹敵する繁栄を勝ち得るべく発展を続けている時こそが、17世紀の中頃以降の一世紀になります。
 まともな神経をしていれば、侵略しようと考えるよりも寄生しておこぼれにあずかるの方が賢明だと考えるでしょう。何しろ日本は、経済力に裏打ちされた軍事力も持っています。日本製の巨大ガレオン船が停泊する姿を見たら、征服する意欲が下がること疑いありません。
 というわけで、この世界のオランダは、インドネシアを分捕る事を諦めて、日本と欧州との中継交易に力を入れることになります。

 いっぽう、17世紀の末に遅ればせながら北ユーラシアの未開地域を突進してきたロシア人ですが、東シベリアのエニセイ川、レナ川やアムール川中流域にまで至った時点で、アイヌと清がその都度立ちふさがって歩みを止めざるをえなくなります。
 ロシア人にとって西欧との交易のため毛皮が欲しいのですが、東洋の大国二つが相手ではコサック騎兵も一蹴されて終わりです。完全に歩みが止まった時点で、即ネルチンスク条約へと雪崩れ込んでもらいました。
 オフィシャルで無視してきた中央アジア地域にも、アイヌの影響を受けた新国家もしくは大勢力(仮称キルギシア王国)がふんぞり返っている可能性が高いので無茶はできません。旧宗主国たるアイヌとロシア人が戦争を始めたら、後ろから殴りかかってくるのがオチです。ロシア人なら、間違いなくそうするからです。
 結果として、近世におけるロシアの勢力拡大は停滞し、自ら多少は近代化して国力を付けるまで、ユーラシアをまたぐ大帝国を作ることは諦めなくてはならなくなります。
 もちろん太平洋を拝むこともなく、アイヌや清と細々と交易をするにとどまります。

 他方、アイヌが先住民族と同化しながら勢力圏を広げていた新大陸情勢ですが、北米大陸の内陸部でアイヌと最初にご対面するのは少数のフランス人たちです。
 フランス人は、現在のカナダ=アメリカ国境にあるセント・ローレンス川を遡って五大湖に至り、さらに南進してミシシッピ川を下っていきます。
 どこに行っても土地保有の観念のない先住民しかいないので、適当に詐欺紛いの交易をしつつここは国王様(フランス王)の領地だと欧州各国に言い触れて回りますが、ある時奇妙な連中と出会います。彼らこそが、交易相手を求めて大陸の反対側から東進してきたアイヌ人たちです。しかもさらに南進して温かい海(メキシコ湾)に出て西進すると、メキシュンクルという現地国家と言い切れない奇妙な国家、しかも文明化された大国にすら行き当たります。
 出会ったアイヌやメキシュンクルは自分たちとは違う高い文明を持っており、経済力、軍事力も強大です。人口も多く、各地に大きな拠点も築いて開発も進めています。少数で大陸奥地に入り込んだフランス人だけで、どうこうできる勢力ではありません。それ以外の先住民の方も、東と南に進めば進むほどアイヌとの交流・交易によって文化・文明が進歩しており、簡単にだましたりできません。武器や道具も良い物を持ってます。東洋風の文明すら身につけている部族も少なくありません。多少小柄ですが馬だって平気で乗りこなしています。民族、団体としての組織力も、アイヌとのファーストコンタクトからフランス人に出会うまで百年以上経っているので大きく向上しています。場所によっては、集約的な農業すら行い大人口を養っている国家と呼べる場所もあるぐらいでしょう。
 どう見ても東海岸の蛮族とは違うのです。
 フランス人も気付くでしょう。これは、東海岸のように容易くいかないぞ、と。
 そうなれば、フランス的外交の出番です。現地の勢力と自分たちの縄張りを先に主張しあって約束を取り交わし、取りあえずイギリスだけは出し抜くのです。
 こしゃくなイギリス人を出し抜けるのなら、目先の利益にこだわってはいけません。略奪や詐欺以外で楽してもうけられないのなら、ヘタに争うのも考えものです。取りあえず話し合いで済むのですから、相手が異教徒の有色人種であろうとも手打ちにすべきでしょう。しかもアイヌの一部には、白人みたいな連中もいるしカトリック教徒までいます(東欧からはるばる移住してきた東欧系白人たち。)から、友好的な関係を結んでおいて損はないでしょう。
 それに17世紀後半は、太陽王ルイ14世の御代です。世界に冠たるフランス王たるもの、蛮族に寛大に出ることも時には義務というものです。彼らがフランスと友好的に物事を進めたいというなら乗ってあげるべきです。ついでに、優れたフランスの文化も輸出してやりましょう。ああ、そういえばジパングには、優秀な美術品や工芸品も沢山あると聞き及びます。互いに交易しあえば利益も得られるし、友好と理解も深まって良いことづくめじゃありませんか、というわけです。
 アングロ系が相手では、ここまで脳天気に事が進むとは思えませんが、フランスが時折見せるラテン的脳天気さは、比較的穏便な国際交流に有効に機能する可能性は十分あると思います。清朝の円明園のように西洋風、ベルサイユ宮殿風の建築物が、日本国内に建設されているかもしれません。以前から欧州系の人々が入っているアイヌでは、欧州文化が広まる一つの機会になる可能性すらあります。
 なんだかんだ言っても、豪奢や華麗な文化は国や民族に関係なく人を魅了しますからね。
 そして、日本での西欧文化の大量流入が、本土にいる日本人にとっての国際交流の目に見える結果であり、海外への関心を高める大きな要素となっていきます。
 日本の巨大都市にも西欧の風俗が流れ込み、洋服や装身具、レースの刺繍などを持った人々が練り歩いている事でしょう。心象風景的視点での光景は、現代日本とさしたる変化はないでしょう。
 そして海外との接触と交流により、日本国内の文化、文物が多様化する事そのものが日本の大航海時代の象徴であり、豊かさの証拠となります。

 なお、大航海時代と言えば忘れてはならないのが海賊、パイレーツです。というより、交易と海賊(盗賊)はセットとして考えなくてはいけません。しかも大航海時代は、国が許可した海賊船(私掠船)までが国家戦略として横行しています。
 果たして、大航海時代を迎えて豊かさに沸き返る日本・アイヌの勢力圏ではどうでしょうか。
 日本の海賊と言えば、教科書上では「和冦」が有名です。また、漁民は貧しい者が多く海賊を副業としている者が古来から沢山いたと言われていますし、証拠となる記録や文物も多く残っています。
 加えて、戦乱の時代は海賊から武将に成り上がる者も出てきており、歴史に名を残している者もいます。源平合戦など、海賊が国家の命運を左右したことすらあるほどです。
 そして、戦国時代絶頂期からそのまま海外膨脹に至るので、水軍とされた海賊の一派が、そのまま日本海軍の中核として再編成され、日本製ガレオン船に乗り込んで海外進出の尖兵となっていきます。
 いっぽうアイヌは、当初から強固な民族社会を形成して、当初から国家戦略として大規模な海外交易に乗り出しているので、自国の水上戦力イコール海軍となり、大規模な海賊の出現は大規模にはなりません。アイヌ海軍にとっての海賊とは、自国の利益を妨害する異民族の盗賊が大多数となるでしょう。
 このように書いてしまうと、日本・アイヌの海賊は多くが政府の統制に置かれた軍事力に転化してしまったように思えます。しかし水軍の中には、戦国時代特有の傭兵のような者も多いし海賊家業を続ける者もいます。それに富を生み出す場所に、新たな狩人や群狼が群がってくるのが常です。つまり簡単には、海賊が消えてなくなる事はありません。それどころか、日本の大航海時代開幕と共に外洋帆船を手にした海賊が、インド洋から果てはカリブ海まで広がっていく事でしょう。

 また欧州の船乗りは、船員(水夫、水兵)の生活レベルは総じて低く、船乗りになりたがる者が極めて少ないため半ば強制的に集められた者も多く、そんな彼らが生活苦から海賊になっていったとされています。縛り首より生活を、というわけです。
 大航海時代が進んだ日本でも、同じような現象が起きていると考えるのが自然です。そしてカリブ海や地中海同様に、日本沿岸や東南アジアの海は、海賊の拠点となりうる場所(入り江や環礁)が無数に存在しています。日本の繁栄の中で、数多の海賊が現れては消えていく事でしょう。例外は、アイヌ本土から北米西岸に至るルートかもしれません。海が荒く大型船以外の運行が難しく、海の温度も低いので海賊稼業が難しいと考えられるからです。
 もっとも、欧州での海賊がそうだったように、日本の海賊も大規模に続くことはもとより、最終的に生き残ることはできません。
 特に日本列島には国家としての外敵がないので、交易による利益は出やすく、大規模に組織化された海賊が出現する土壌がありません。交易で大きな利益が出る以上、政府の軍隊が国家利益を守るためにしゃかりきになって海賊を制圧するでしょう。しかも日本は江戸の天下太平の時代に入ってしまい、水軍の主な仕事が敵と戦うより海賊から交易ルートを守ることになってしまいます。欧州勢力の嫌がらせとしての私掠船以外生き残るのは難しいでしょう。
 恐らく日本では、海賊は早々におとぎ話の中に追いやられ、文化文政の時代(19世紀初頭)には娯楽の中に取り入れられてしまうでしょう。そして、ごく一部だけが密貿易や裏社会と共に生き延び現代に至る事になると考えられます。(「宝島」の発表が19世紀だったかな?)

 閑話休題。大航海時代に入った日本の海賊って、どんな格好になるんでしょうね。ハリウッド映画のようなカッコイイ洋装の上下の船長やシマシマ服の水夫、それにジョリーロジャーの旗印ということはあり得ません。そう考えると、やっぱり軽装の鎧兜になるんでしょうか。どうにも、戦国時代の海賊や水軍以上の出で立ちを想像できないんですよね。

 ※備考:鉄甲船と鉄鋼ガレオン船について
 信長の鉄甲船ですが、大型のガレー戦艦(安宅船)の上部デッキすべてを薄い鉄で覆い尽くし、3門の大砲を搭載したものです。防御力は極めて強大でしたが、速力、機動力は最低で、限定的な沿岸防御以外には使えない戦闘艦艇です。トップヘビーなので、外洋航行も考えられていません。船というよりは沿岸機動要塞のようなイメージの方が強いかと思われます。
 事実、大阪湾での局地戦で一度派手な活躍をした以外、全く戦場に現れることもなく、スポンサーの信長が消えると共に堺辺りで朽ち果ててしまったようです。
 朝鮮の亀甲船も現代韓国に伝わるものを見る限り一種の装甲ガレー船でしたが、史実を調べる限り一度たりと外洋には出ていません。外見から見ても分かる通りトップヘビーで、外洋では容易く沈んでしまう構造だったと見るべきでしょう。それでなくても、中小型のガレー船なら外洋に出られる筈ありません。
 しかし、これら鉄甲船のオマージュとして、鉄甲ガレオン船なるものが架空戦記上(小説、ゲーム問わず)によく出現します。しかし、鉄甲ガレオン船の存在価値は非常に疑問です。
 確かに鉄の装甲によって、防御力は高まるでしょう。しかし、帆船の長所である機動性を殺してまで実現すべきなのか、防御よりも機動力、攻撃力にリソースを割り振る方が効率が良いのではないか、など疑問は尽きません。船体上部が重くなる事での船としてのバランスを崩す事も大問題です。だいいち、銅板ならともかく鉄は錆びます。鉄の装甲板の製造、維持にかかるコストは莫大なものになる筈です。そしてそんな贅沢なものを大量に持つなど正気の沙汰ではないでしょう。
 しかもガレオン船は、ひとたび建造したら百年単位で大事に使うものです。錆びる鉄の装甲を度々張り直すというような贅沢をしたら、コストパフォーマンスに合わない筈です。
 加えて、鉄の加工は産業革命が本格化するまで一大事業です。数十隻もの巨大ガレオン船を覆い尽くす鉄を作り出すことそのものが不可能という可能性の方が十分にあるでしょう。
 オフィシャルでも「ネタ」として登場させましたが、こればかりは失敗だったと思ってます。何かの機会に大改訂する事があれば、鉄甲ガレオン船の存在を抹消するでしょう。
 だいいいち欧州と張り合うなら、普通のガレオン船を沢山揃えておけば十分です。侵略する気がない以上、負けなきゃいいんですからね。



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