■太陽帝国「楽屋裏」 その14 日本・アイヌの少し早めの大規模移民
アイヌは、16世紀中頃から北米大陸への移民を始めました。多くは新たに版図に組み込んだ広大なメキシコ方面が対象ですが、北米西岸北西部(シアトル近辺)の平地にも徐々に広がっていきます。 いっぽう日本は、1620年に北米大陸西海岸の移民を開始します。1630年代には台湾島への本格的移民も始まります。17世紀半ばには呂宋(フィリピン)への大規模移民も始まり、18世紀にはアジア・太平洋各地への大規模移民へと発展します。結果として、19世紀には環太平洋圏各地に日本人が溢れかえるようになります。 しかし、17世紀半ばから大規模に始まる移民は、世界史的に見て少しばかりフライング・スタートです。 輸送力がまだまだ低い時代に、毎年数万人、数十万人の移民を遠隔地に送り込む行為は、国家が総力を挙げて取り組んでもできるかどうか分からない大事業になる可能性が十分以上にあるからです。例外は大西洋での奴隷貿易によるアフリカ系人種の増加ですが、白人による奴隷の非人道な運搬方法を知っていれば、ガレオン船による大量人員輸送がどれほど大変かがお分かり頂けると思います。 また早期に植民地化が推し進められた例ですら、イスパーニャが支配していた北米から南米大陸に至る山間部とフィリピンぐらいです(アフリカの奴隷貿易が例外か)。他では、西欧列強が植民地を得たとされても、各地の沿岸部の都市に限られているのが普通です。大航海時代=欧州が全世界を植民地にしていた、という雰囲気を感じる人もいるようですが、実質は欧州諸国が航海技術と軍事力を背景として、世界中の富に寄生していたに過ぎません。近代的な意味で、人口学的に弱小国家でしかない西欧諸国が、世界中をガバメントやドミニオンできるパワーはなかったと判断できるでしょう。 アフリカが本当の意味で細切れに分解されるのも、産業革命が進んで近代文明の象徴の一つである鉄道が広く普及してからです。暗黒大陸という別名こそが、進出・侵略の難しさを物語っています。インドがイギリスの完全な支配に屈するのだって19世紀半ばの事です。鉄道こそが植民地化を推し進めたのです。 この世界で日本人がインド情勢に介入しなかった理由も、18世紀に入るぐらいまではインドに強大な国家・勢力が存在していたという理由が第一にきます。アングロ系ぐらいねばり強く計画的で狡猾でないと、インドを征服することはできなかったでしょう。何しろインドは当時ですら人口数億の過密地帯で、チャイナ同様に人の海に飲み込まれるのがオチです。 いっぽう植民地自身の自主独立の例にしても、アメリカ合衆国史上で有名なメイフラワー号の北米東岸到着から、1776年のアメリカ独立宣言に至るまで150年もかかっています。早くからメキシコ、ポルトガル支配下のラテンアメリカ各国など、アメリカ合衆国独立以後にようやく独立しています。 なお、欧州からの移民が少なかった主な理由の一つに、そもそも欧州に住む人の数が少なかった事が挙げられるでしょう。 大航海時代始めの頃の欧州の人口は、全部ひっくるめて8000万人程度だったと言われます。それ以前だと、ペストのもたらした惨禍によって、最も少ない時期で5000万人程度だったほどです。 中華地域単独、インド地域単独で欧州の二倍以上の人口があるのですから、アジアとの違いが分かるでしょう。戦国時代末期の日本だって2000万人います。かくもお米が偉大な作物だと言うことなのでしょう。 そして欧州は、海外市場や植民地の富や贅沢品は欲しかったが、移民するための植民地、本当の意味のでコロニーは、農業生産が拡大しマニュファクチャー(工場制手工業)が欧州全土で発展して広大な市場が必要になるまで、略奪や収奪目的以外では不要だったと思われます。 19世紀半ばに世界中を欧州列強の都合で線引きが本格化したのも、欧州列強のすべてが工業化(産業革命)したからに他なりません。 北米移民が規模の面で大規模になったのも、蒸気機関と蒸気船の発明で交通手段が発達した19世紀半ば以降の事です。早期に広大な植民地を獲得していたスペインも、一部の鉱山や拠点以外は、取りあえず自分たちの領土だという看板を立て、同化政策で地道に支配を浸透させていたに過ぎないぐらいです。イギリスやフランスも同様です。でなければ、植民地人に自国の数倍の領土を簡単に渡してしまうわけありません。 しかし、17世紀に入ってからのアイヌと日本の動きは、欧州のものとは違っています。文明化によって早期に人口爆発が起こったのが直接的な原因ですが、呼び水ははるか以前から存在しています。順に見直していきましょう。
移民、植民とは、とどのつまり民族大移動です。古くはアレキサンダーや古代ローマの時代から存在する、移民の一変形に過ぎません。中華地域が「漢民族」で埋め尽くされたのも、移民、植民(+強制移住)の成果です。支配地域住民の奴隷化や自国民化も、程度の差こそあれ同じです。 正直、近世において欧州が行ってきた事は、ローマ帝国のしてきた事を少しだけ便利な道具を使って広範囲で行っているに過ぎないとすら言えます。 もっともローマの栄光も繁栄も知らない日本人、アイヌ人にとっての計画的な移民、植民を教えるのは、モンゴル帝国の膨脹期の記録であり、実際の行動はアイヌの「西征」が近世における出発点になります。 アイヌは西征の最終段階で、東欧からの大略奪と平行して現地住民の大規模強制移住を実行しました。支配領域の安定化を目的に、従順な農民を増やすためです。何しろ半世紀かけて突進してきたユーラシア内陸部は、遊牧民族と放牧民族ばかりで農業してくれません。 そして強制的な移住者のうち遠隔地に移住させられた多くは、ウクライナ東部やウラル山脈の東側の黒土(チェルノーゼム)地帯に移住させられるでしょう。アイヌ本土もしくは近辺までやって来た人々を全体の一割程度にしたのは、夏の間に船を使うにしても一万キロの道のりは長すぎるからです。 しかし、比較的長期間(約一世紀)居座った中央アジア北中部地域に白人を植え付ける過程で、アイヌは定住を目的とした移民と植民の何たるかを身をもって知ることになるでしょう。軌道に乗るまでがえらく大変だが、軌道に乗せてしまえば収奪よりも長期的利益は大きいし何より現地の食糧自給達成により安定化、領土化が容易いと。 この教訓を、新たに獲得したメキシコと北米西岸でも実践します。結果は、先住民がかつての支配者の暴政で疲れ切っていたため従順だった事や、外敵などが少なかった事もあり大成功。長い時間と大きな苦労は伴ったが、アイヌ百年の繁栄が約束されるだけの富と繁栄を現地に再構築できました。 このような苦労は、アイヌがモンゴルの支配政策により狩猟民族から無理矢理進化させられた、アイヌの恐怖観念がもたらした行動です。しかし、民族的恐怖故にアイヌの行動は性急であり、実利を求めた結果を追求して強引な成功へと至ります。 もっとも、中央アジア、北米西岸、メキシコという遠隔地で異常なほどの熱意で新たな国土開発に邁進していまうため、アイヌの海外膨脹は完全に停滞してしまいます。方々で新たな国家を一から作っていては、各地の運営が軌道に乗るまで常備軍の維持が精一杯で、とても外征や新たな植民地獲得する財政の余力はないでしょう。遠隔地の経営が軌道に乗っても、今度は「領土」「国土」が広くなりすぎるので防衛で手一杯とすらいえます。 だから、陸路で行かねばならずコストのかかる中央アジアや西シベリアは比較的早期に切り離しました。 そんなアイヌの行動を横目で眺めているのが、アイヌから少し遅れて海に乗りだした日本人たちです。
最初日本人は、アイヌは何で手間のかかることしているんだ、ぐらいに思うでしょう。しかし、国内人口が膨れあがり経済も活況を呈してくると、自分たちも新しく得た土地を本格的に開拓すべきだという動きが出てくるでしょう。人口拡大と比例して高まる国内での飢饉への危機感が、政府をして外への開拓を誘ってくれるのです。 もちろん17世紀初頭までに日本人街を東南アジア各地に作ったりしたが、そのほとんどが交易拠点でしかありません。気候風土のよい日本列島を離れてまで移民しようという日本人(農民)は、商人や一旗組以外、戦国時代の負け組や貧しい人々、そして一時的であれ迫害されるクリスチャンなど少数派でしょう。 しかも史実において、安土桃山から江戸初期に海外進出していた日本人は、現地では乱暴で偉そうな連中と見られ疎まれていたそうです(戦時中の話ではありませんよ)。一部で日本人がもてはやされた理由も、日本人が戦国時代に培った戦闘力が目当てだったそうですから、円滑な植民にはほど遠いと判断できるでしょう。日本人町などの閉鎖的コミュニティーやコロニー作っていた本当の理由も、日本人自身の行動にこそ原因があったのかもしれません。 また、日本の文化を先住民に押し付けるにしても、日本人を一部とけ込ませて支配する方が支配階級は楽です。どちらかと言えばスペイン的手法ですね。 かくして豊臣幕府では、移民省という役所を設けて政府主導で日本の移民政策を推し進めることにしました。 オフィシャルにも書いた通り、幕府側の当初の目的は交易の拡大と輸入作物の安定確保です。もう一つの目的は、飢饉の際に人間を外地に棄ててしまい、未然に国内での大規模暴動を防ぐことです。つまり当初の移民は、「移民」でなく「棄民」なのです。 後者は身も蓋もない移民目的になりますが、飢饉への恐怖こそが国家転覆の原動力として最大のパワーを発揮する筈なので、海外に大きな勢力圏を持つのなら当然の措置でしょう。 食糧自給率に関連した移民問題も、人口爆発が発生した島国では避けて通れない問題です。史実の近代日本では、戦前、戦後の貧しい時代は、移民する人々に大嘘ついてまで熱心に行っています。満州を分捕ったのも、とどのつまりは日本列島で食い物と土地が不足していたからです。 ですが、この世界の江戸ニッポンは、貧しくもなければ、自国勢力圏にも不足を感じていません。自力での移動力も軍事力も十分以上に確保されているので、輸送力も相応にあります。移民すべき適当な場所がないのなら、新たに探す事だって可能です。場所がないなら、他から分捕ってしまう事すら可能です。 かくして、日本列島の人口が増える=移民政策が持ち上がる=近い場所から順番に移民を送り込む=近い場所の移民が一杯になるもしくは移民者が減少する=また日本列島の人口が増える=新しい場所へ移民するもしくは新天地を探す=移民を再開する……、というプロセスをお役所仕事的に拡大再生産で繰り返していく事になります。箇条書きにしてしまうと、ほとんど産業振興の一環にすら見えてくるのが一種滑稽ですらあります。 そして、日本人にとって重要な移民要素が、ジャポニカ米による水耕式稲作が可能かどうかです。アイヌの場合は、お米よりも小麦の栽培と牧畜できる環境が重要になるでしょう。この主食の違いが、日本とアイヌの棲み分けにつながります。 小麦栽培と牧畜は、比較的気温が低く降水量が少なくても何とかなりますが、稲作は温度(夏の最高気温が30度を超える)と降水量(年間1000mm以上)が重要です。特に日本式の水耕稲作が可能な地域となると極めて限られています。しかも簡単にお米が栽培出来る場所の過半には、東アジアを中心にすでに先住民が多数住み着いています。 では、日本人とアイヌ人が移民していった場所を、主食の面から順番に追っていきましょう。
まずは台湾です。ここは史実の日本帝国時代の開発状況が参考にできます。 台湾島は、南洋系の気候風土に属した亜熱帯地域です。面積は九州ほどあり、平地面積は九州より広いですが、決して土地が豊かとは言えません。稲作には申し分ない気温と雨量ですが、当時は栽培に適したジャポニカ米もありません。雨量は不必要なぐらい多いですが、一から治水工事を行わねばならないほどの未開地域です。亜熱帯地域なので南方特有の風土病もあり、大人口を養うには相応しい環境とは言えません。マレー系に属する先住民族も首狩り族がいるなど荒々しい人々が多く、他勢力の統治を妨げてきました。実際中華勢力も大陸近傍ながら蛮族の地としか見ていませんでした。実際人口密度も低く、少し大きな南洋の島でしかありませんでした。 史実の日本も日清戦争で得た同地での先住民対策に苦慮し、大金を投じて治水と上下水道の整備を行い、気候風土に適した稲の品種を開発しています。 時代や使われる技術が違っても、豊臣幕府で行われる事は同じでしょう。台湾を領土として健全な統治をするつもりなら、史実の明治日本と同じ事をするしかないのです。 治水と上下水道の整備と品種改良、先住民対策を行わねばならないのは、さらに南方にあるフィリピン(呂宋)も同じです。 フィリピンは16世紀後半からイスパーニャの統治が行われていますが、イスパーニャは一部の単一作物栽培以外、現地の農業には高い関心を向けていません。先住民も奴隷予備軍程度にしか思っていません。フィリピンを植民地として維持していたのは、あくまで交易拠点としてです。だいいちイスパーニャは、植民地経営が下手くそです。 しかも7000以上もの島から構成されたフィリピンは、平地が多いとはいえず南方特有のジャングルで国土が覆われ火山土も多くて土の質も悪く、どれほど農業に力を入れようとも当時の技術では高い収穫率は望めないでしょう。 だからこそ、この世界で日本化されて以後のフィリピン(呂宋)は、日本帝国の中でも少し遅れた地域としました。 しかしスペインの統治期間が短いので、フィリピンがカトリック教とスペイン統治の悪弊に先住民が染まりきる事はありません。また、20世紀のアメリカ的な統治もありません。あるのはあくまで日本的・農耕民族的な統治です。しかも日本人が数百年の間の移民で多数同化するので、二百年も経過すれば日本とさして代わらない価値観を持つに至るでしょう。この世界の日本人にとっての呂宋人は、単なる浅黒い南方系の日本人にすぎません。 なお、フィリピンの主食は今もお米ですが、栽培されているのはジャポニカ米ではありません。当座はインディカ米で我慢するにしても、長い年月の間に品種改良してジャポニカ米を栽培していくでしょう。食べる事こそが人を動かす最大の原動力です。 お米の品種や現地の状況については、現在のマレーシア地域も似ています。しかしここまで南下すると、ジャポニカ米の栽培は効率的に良いとは言えません。それに、日本が長期的に宗主権を維持するカリマンタン島北部は、農業に適した場所が極めて少ないので、どちらにせよ大人口を養うには至らないでしょう。どちらも熱帯雨林のジャングルが広がるばかりで、温帯で育った日本人を拒絶します。 しかもマレー半島はイスラム教の教えが広まりつつあり、まともな現地国家もないので日本の色に染め直す事も難しくなります。当然ですが、異教徒の植民地統治は苦労が伴いますので、日本人達は都市での生活と交易の独占以外積極的にはならないでしょう。だからこそ、マレー半島での大規模入植を失敗させました。主な作物もインディカ米とジャガイモになっているでしょうから、仮に現地に移住していても日本人が日本人でなくなっているかもしれません。 北ボルネオを日本が維持した理由も、単に距離が近いという理由と日本が近代化して以後でないと欧米が興味を持たないからです。スペインの植民地のように、何となく持ち続けていたに過ぎません。それに国力が復活して以後なら、明け渡す必要はどこにもありませんからね。ブルネイ近辺では大量の石油も出てきますし。 なお、作物栽培については、ニューギニアや他の南方地域もマレーシア地域と同様です。よほど気合いを入れて稲作を行っても、熱帯雨林特有の貧しい土壌から栽培できる量は限られていますし、地形の関係(すべてがジャングルで覆われているうえに、ニューギニアは世界有数の高山地帯。周辺も小さな島嶼ばかり。)で栽培場所も限られてしまいます。 それに、ニューギニアを始めとする南の島々は、ジャングル特有の貧しい土地(土)なのでイモ類の栽培以外が難しく、日本人の入植を物心両面で阻むことになるでしょう。結局最低限の自給作物の栽培以外は、商業目的の単一作物栽培(プランテーション)に傾倒するのではと考えられます。南方では、ゴム、砂糖、コプラなど他では栽培できない作物がありますからね(ゴム需要は当面ないが)。
しかし遠隔地になると、手つかずの巨大な稲作候補地が二つあります。北米大陸西岸中部(カリフォルニア・サンフランシスコ湾周辺)と豪州大陸南東部沿岸地域(グレート・バリア・リーフ周辺)です。 カリフォルニアは、今の我々の世界でもカリフォルニア米というジャポニカ米が有名なように稲作が可能です。稲作のためには灌漑の必要がある地域も多くありますが、カリフォルニアには平地も多く州北部の気候は穏やかです。州南部はオレンジの栽培で有名なように気温も高く乾燥しますが、現サンフランシスコ一帯には、巨大な日本人コロニーが誕生する可能性が十分あります。 そして、日本列島では考えられないぐらいの土地(平地)がありますから、農業の拡大により大人口が発生する高い可能性を持っています。正確な数字は割り出していませんが、19世紀の段階で1,000万人程度の居住(食糧自給)は十分可能です。集中的な移民と灌漑農業、人口拡大政策に努めれば、2,000万人の人口をまかなう事すら可能です。どちらにせよ、人口が少なく農業が発展した段階で、日系国家群に対する食料供給地となっている可能性は十分あるでしょう。 いっぽう豪州大陸南東部沿岸地域ですが、こちらはカリフォルニアより少しばかり条件が悪くなります。気温、降水量共に稲作栽培に問題ないのですが、土地は亜熱帯系の土壌なので土が豊かとは言えないからです。 現在でも、南方系の換金作物栽培や果樹園が主力です。しかも南部は、ジャングルが広がる亜熱帯や季節によって雨量の差が激しいサバンナ気候に近くにります。雨量があったとしてもサバンナで稲作を行おうとすれば、大規模な灌漑農業を行わなければならないでしょう。逆をいえば、灌漑農業など農法が発達すれば稲作は何とか可能です。 そして史実の江戸時代において、稲作の技術は大きく向上しています。この世界では、世界中から当時の日本にはなかった土木技術も得ているので、史実以上に技術があり土地開発能力もあります。その上、各地の開拓で技術蓄積がさらに進んでいます。 上記のような理由から、18世紀半ばからの豪州移民本格化としました。技術向上と共に土地の開発が進めば、広大な農地の造成が可能で、豪州南東部を中心に1,000万単位の人口を養うことができます。 なお、豪州で広大な土地を利用した放牧が行われたり、北西部の欧州風な気候地域で小麦栽培が行われるのは、南東沿岸部でお米を栽培する場所が不足してからになるでしょう。 イギリスの探検家・クック船長がシドニーに来た頃(1770)には、日本人の中心地域となるブリズベーン(新浜)の街には、多くが建設中の白壁瓦屋根の日本式高層建築が建ち並び(豪州大陸には地震がない)、江戸幕府の権威を見せつけるための巨大なお城が姿を見せ始め、村々に存在する朱色の鳥居がクック船長達をお出迎えしてくれる事でしょう。
いっぽう、アイヌ人による海外移民ですが、日本と違って17世紀以降の大規模な移民、植民は低調としました。 理由は二つ。 一つ目は、17世紀半ばまでに遠隔地に十分な拠点を作って、相互移民を活発化しているからです。メキシュンクル(メキシコ)、ポロニタイ(北米西岸北部)、キルギシア(中央アジア)のどれもが本国に数倍する面積です。どこも農地足りうる平地は無限に広がります。アイヌが持ち込んだ制度と技術によって、国の基礎作りも終わっています。これ以上新たに開拓する必要はありませんし、継続的な開発のために他に手を出すことができないというのも見逃せません。 開発する必要があるとするなら、それぞれの地域で人口が拡大してからになりますが、それには百年単位の時が必要でしょう。 それなりの規模で移民が継続するのは、比較的土地の少ない(!)アイヌ本土からでしょう。候補地は北米大陸北部中央の平原、現カナダ=アメリカ国境地域の大平原です。気候風土は西岸海洋性気候から亜寒帯でモショリ(北海道)に近く、春小麦地帯の穀倉地帯として開発するべく移民が押しかけるはずです。もっとも、先住民も移住してくるので、総量としては程度問題です。 17世紀後半には、ロシアの進出とアイヌのユーラシア撤退によってキルギシア(中央アジア)への道は閉ざされますが、アイヌ本土にとって北米大陸北西部があれば十分事足りるでしょう。 なお、19世紀にニタインクル(ニュージーランド)を獲得しますが、ニュージーランドは農地としての価値が低い土地(土地が貧しく放牧・牧畜主体)なので、距離と人口流入度合いの差から史実の英国による開発よりマシという程度にしています。(20世紀での人口は、史実の二倍にしているが。) 二つ目の理由は、17世紀半ば以後にアイヌ本国で大規模な人口拡大がなかなか起こらないからです。 人口拡大は、16世紀後半からのジャガイモ栽培の普及で、四半世紀の間に一定のピークに達します。以後、モショリ(北海道)での人口爆発は起こらず安定します。 モショリでの稲作本格化が史実の技術向上と同レベルと考えると、次の人口拡大の機会は19世紀後半に入らなければなりません。旭川近辺まで稲作ができるようになれば、北海道、東北北部、樺太を中核とするアイヌ本国では、稲作だけで1,000〜1,500万人ぐらいの人口を自給自足で養えるまでに農業が拡大します。しかし、モショリでの稲作が本格化するまでの主要農業は、小麦、ジャガイモ、牧畜になります。東北北部での稲作も今ほど豊かではないので(江戸時代で東北北部の総人口は約100万人程度)、総人口は上記の半分ぐらいになるでしょう。単位面積あたりの収穫量の多いお米はかくも偉大な作物なのです。 しかし、アイヌ本土でのお米栽培には、一つの問題が立ちふさがります。アイヌが長い間お米をあまり食べずに、国家と文明、文化を築き上げるからです。 エミシュンクル(東北北部)での稲作は、日本の技術向上に引っ張られる形で順次発展するでしょうが、モショリ(北海道)では19世紀にならねば稲作は無理ですから避けて通れない道でしょう。17〜19世紀にかけては、地球レベルで気温が今より少し低いので、少々の品種改良では稲作は不可能です。 しかも16世紀後半からは、新大陸から直接持ち帰ってきたジャガイモ、トウモロコシの大量栽培も始まり、さらにお米から遠ざかります。 ドイツやアイルランドではありませんが、近世アイヌはジャガイモが作り上げ、近代に入りお米でさらにパワーアップと言うことになりそうです。 農業に適していない太平洋各地の人口も、ジャガイモの栽培と共に大幅な増加に転じるでしょう。 なお、単純な食料自給に頼らずとも、資本の蓄積や農業以外の産業発展によって日本やアイヌ本土の人口が拡大するでしょう。富こそが人口拡大の原動力の一つとなるからです。 遠隔地からの輸入によっても、人口拡大を継続できるでしょう。加えて18世紀に入れば、土木技術の向上によって太平洋中で農地が増えています。輸入先に困ることはなくなるでしょう。 しかし、産業革命に入るまで、次なる爆発的な人口拡大には至らないと判断できます。 イングランドを例に見る限り、アイヌでは斬進的な人口拡大に終始するはずです。移民も交通手段の発展に比例してジワジワと拡大するというレベルに落ち着くと思われます。 そして日本列島が本格的に次なる人口拡大と大規模移民を経験するのは、19世紀に入って産業革命に突入してからになりますが、ここで語るべき問題とは言えないので後に譲りましょう。
いっぽう、日本列島自体の総人口が史実と大きな違いを設けなかったのは、世界中の勢力圏から大量の食料が輸入され、商工業で発展する日本列島全体に人の流れが続くからです。 このため、史実江戸時代のように日本列島の絶対多数が農民と分類されるような産業比率にはなりません。 17世紀半ば以降、農民の比率は下がり続け、正比例して大都市の人口は膨れあがっていきます。江戸、大坂、京、博多などは産業革命前でも史実より大きな人口を抱えるようになります。 史実江戸の街が、幕末で150万人の人口を抱えていたとされますから、プレ産業革命の日本的都市で必要に応じて数十万から100万人規模の街が散在していても大きな問題はないでしょう。(史実江戸時代では、江戸、大坂、京だけが数十万の人口を抱えていた。他は精々1、2万人) また、日本列島が世界に門戸を開け、それどころか環太平洋の各地を自らの勢力圏に組み込んでいるので、日本人以外の居住者も早くから日本列島に住み着くのは間違いありません。 実質的な多民族国家であるアイヌなどは今更ですが、日本列島で数百年生活していく世界各地の人々は日本人の国際感覚やアイデンティティーに大きな影響をもたらすのは間違いありません。 そして本国や移民地域以外でも、日本人は戦争や侵略によらず大きな影響を与えていくことになります。