■太陽帝国「楽屋裏」 その16
 革命と新国家成立

 1789年にアイヌで宮廷革命を行わせました。
 ですが、フランス革命と時間を合わせたのではありません。史実の資料で、この年に日本に対するアイヌの武装蜂起があったからです。この時の争乱は、歴史上では「クナシリ・メナシの戦い」と呼ばれます。アイヌの勢力が減退し、日本人の勢力圏がいわゆる北方領土にまで及びだした証拠でもありますね。
 なお、アイヌ史上最も有名な戦乱である「シャクシャインの乱」は1669年です。またシャクシャインという名は、立派なアイヌというような意味を持つサンクスアイヌの別名のようなものになり、実はシャモ(日本人)の目を欺くための偽名です。
 しかしこの世界でのサンクスアイヌの名は、アイヌを統べる王家全体を現す称号のようなものにしたので、シャクシャインが一人の王様の名前にはなりません。なんだか知らない間になまって、偉い人の名前に使われるようになった、ぐらいの感じです。
 話が逸れましたが、基本的にアイヌの歴史は、可能な限り史実アイヌのスケジュールの節目ごとに動いているのです。年号の多くは、分かる限りアイヌ民族の事件があった年にしてあります。そして、史実においての1789年がアイヌ民族として最後の武力抗争になるので、記念碑的意味も込めて近代への扉を開く革命をおいてみました。
 いっぽう、アイヌにイギリスやフランスのような市民革命を行わせず、宮廷革命のみに止めたのはオフィシャルでも示された通りです。心理的に職業意識の高い官僚と化した王族や貴族が多数存在して、自らを中心にした斬進を強く望んだからです。
 また、アイヌの意識が、どこか日本と深くリンクしているという現れになります。
 鎌倉幕府から明治維新に至るまで、日本では市民革命などというものはなく、アイヌでも同様だろうと判断しました。アイヌは東洋系というより北方系の民族ですが(厳密に言えば古代人(縄文人))、日本人とのつきあいが長すぎてメンタリティーの多くがアジア化してしまったという事です。加えてアイヌ貴族、王族を職業意識の高い集団にしてしまったので、なおのこと市民革命が起きる可能性が低いと判断しました。
 そして、上からの緩やかな革命で成立したアイヌ王国(イトコノ王朝)によって、日本とアイヌを中心とした巨大国家連合誕生への道筋が明確に示されることにもなります。

 1551年に成立した「アイヌ国(チコモタイン朝)」は、形式や名称はともかく実質的にはアイヌ本土を「中つ国」とする「帝国」です。その証拠に、侵略や膨脹を是とした覇権を追い求める性質を強く持っていました。かつて恐れていた日本とも、自ら戦端を開く形で平然と戦争を行っています。恐らく日本と対立しつつ共存はしても、一つになろうという考えはなかなか起きないでしょう。
 各地で日本と混ざり合った状態ですが、イギリスとフランスもしくはオランダとベルギーのように棲み分けていった可能性の方が高いでしょう。
 ところが、アイヌでの宮廷改革による立憲君主国家の成立で、近世的な日本列島世界の多くがひっくり返ってしまいます。
 しかもこの宮廷改革は、力(財力)を持った都市住民の意志を感じ取った一部王族による、フランス革命のような市民の暴発を防ぐためのクーデターという面が強くなります。
 要するに、特権階級がすべてを失うより一部を切り離し、旧来の物を作り直して生き残りを図ろうとしたのがこの時の政治クーデターであり、国民すべてに対するガス抜きだったのです。
 革命の形としては、フランスよりイギリスが近いでしょう。
 しかし、革命を行い改革を断行する以上、内容が中途半端では近代文明の果実は得られません。加えて本格的市民階級の誕生無くして、産業革命も近代的戦争もできません。
 ただ、文字でダラダラ書いても説得力がないので、ウソリケシ(函館)からオタルナイ(札幌)への遷都というファクターを置いて、変化の大きさを象徴させてみました。
 言うまでもありませんが、首都の移設には莫大な費用と気の遠くなるような労力が必要です。特に官僚組織が発達している場合、民族大移動に匹敵する努力が必要になってきます。
 日本の江戸時代の場合は、一度灰燼に帰して旧都と化しつつあった京の都しかないので、新しく都を建設する必要性が発生したと考えることもできます。安土、大坂、伏見、そして江戸という巨大都市を為政者が新設した背景には、旧都(京都)の首都としての価値下落が見逃せないでしょう。しかしこれは近世的国家において例外的な出来事です。
 新王朝成立のたびに政治的重心を変えていくという日本人は、かなりアグレッシブな民族と言えるでしょう。世界的に見ても、民族国家の首都は普遍の場合が多くなります。それとも単に本当の意味での外敵がいないから、気楽に首都が変えられたと取ることもできます。
 なお、かの中華大陸でも、数千年の歴史があっても首都足るべき場所は極めて限られています。統一王朝が存在する場合、古代に置いては洛陽や長安、宋以降は北京もしくは南京に置かれています。
 お隣韓国など、ほとんどの場合漢城(ソウル)です。恐らくは、遷都する財政的余裕なんてなかったんですね。
 欧州でも、ローマ、コンスタンチン、ウィーン、マドリード、パリ、ロンドン、ベルリンなど都は常に一つです。例外にロシアの例がありますが、例外中の例外と見るべきでしょう。大陸に割拠するため、民族固有のアイデンティティーを保持するためにも、重心となる都は固定されている必要性があったのでしょう。
 しかし、アイヌには遷都させてみました。それまで400年以上も都を置いていたウソリケシからオタルナイに変えました。アイヌ民族の大きな心理的変化の象徴でもあったという事です。
 もちろん、副目的としてオタルナイ(札幌)でなければ、工業化以後の巨大都市を成立させにくいというファクターもありますが、民族としての心理の変化を象徴させたかったのです。
 しかし、近代化以後のアイヌは、日本に主役を譲っていく事になります。理由の多くは、国としての基礎体力、人口の差です。
 双方が同レベルに発展すると、工業化進展以後のアイヌ本土では、どれほど努力しても日本の三分の一程度の人口・国力、経済力にしかなりません。少しばかりリードを奪ったところで、似たような産業構造を持つ限り、いつかは追いつかれて飲み込まれてしまいます。そこで、日系勢力すべてを内包した巨大国家の建設が始まるのです。
 つまりは、アイヌを海洋国、日本を大陸国と見立てた場合の、陰謀史観の成り立つ歴史的流れを実行させたのが、近代日本全体の再編成だったのです。
 どれほど言葉を取り繕おうとも、この世界の日本帝国がアイヌの影響抜き成立する事はなかったでしょう。もし、日本とアイヌが一つになっていなければ、各地に独立国が乱立して、まとまりの欠いた日系社会が出現していた可能性も十分あります。
 そうなっていれば、強大な連邦国家としての「日本帝国」は出現しなかったでしょうし、場合によっては日本の領域のほとんど全てが、欧米勢力に飲み込まれているでしょう。

 さて、先に近代化を始めたアイヌの陰謀によっても翻弄される幕末日本ですが、数字的な面から見ていきましょう。
 この世界での日本の幕末の発端は、1824年の日英戦争での敗北です。次の契機が1845年の北米植民地喪失です。史実のオマージュとして1853年の「ペリー襲来」を幕末到来の契機としましたが、日本が大国になりすぎていて一撃では混乱期が訪れそうにないので、段階的に日本列島を追いつめてみました。鉄道と汽船の登場する以前の日本は、近世的国家として強大化させすぎていたのです。
 もともと欧州に比べて人口が多い国が商業重視になられては欧州列強では手が出せず、日本自身が色んな場所に異質な国を作って歩いた影響です。
 オフィシャルでは、19世紀初頭の日本本土の人口が3000万人、アイヌ王国本土が500万人、日本列島以外の日本人人口が3000万人、日本語が通用する商業圏人口を1億5000万人としました。
 今でこそ1億5000万人という数字はそれ程大きく感じないかもしれませんが、世界中の総人口が10億にすら届かない事を思えばどれほど大きな数字が理解いただけるでしょう。しかも、世界人口の過半がインドとチャイナだった時代です。今の感覚から見れば、1億5000万人は10億人に匹敵します。しかも、欧米並に発達した国がそれだけの大人口を抱えているのです。
 欧州列強を見ても、欧州随一の大国だったフランスの人口もフランス革命頃で2700万人です。イギリスも、パックスブリタニカに突き進んでいたイングランドのみで見ると、産業革命が進展してなお本土の人口はフランス以下です。
 そして、西欧全部を合わせた程の日本人は、識字率と経済的中間層は共に5割を越えており、産業時代もほとんど自力で産業革命の入口に差し掛かっています。軍事力も技術的に多少遅れていますが、欧州列強に圧倒されるレベルではありませんし、すぐに追いつけるだけの経済的・技術的な基礎体力と潜在力は持っています。
 19世紀前半だと、かの大英帝国が軍艦の10隻や20隻を極東に派遣したところで、物理的な面からなら簡単に揺らぐような勢力ではなくなってしまいました。
 オフィシャルで、日英戦争講和のため江戸の街に来たイングランド人に、戦争が早期収拾したことを神に感謝したというような表現をしましたが、まさにその通りです。明治末期の日本人が、ニューヨーク・マンハッタン島を見たぐらいのインパクトになるのではと思います。何しろ、ロンドンより巨大で繁栄した街が、世界の果てに存在するんですからね。
 しかし日本を内憂外患の混乱に引きずり込む事で、文明の進歩と産業革命の進展を妨げます。そして日本を近世国家から近代国家にするためにも必要なファクターなので、史実のオマージュで突き進める事にしました。その間イギリス、アメリカ、フランスなど欧米列強が一馬身リードで台頭。その象徴が、史実での幕末を呼び込んだ「ペリー来航」のオマージュである「ペリー襲来」になります。
 「ペリー襲来」では、一見互角以上の戦いをさせていますが、日本が防衛側、アメリカが攻撃側という所に世界情勢の大きな変化があるのです。

 さて、西欧よりシヴィラゼーションに遅れた日本が外交的守勢に回った末に「幕末」が到来するわけですが、状況は史実と大きく異なっています。
 周辺地域では、アイヌ王国が産業革命を成し遂げ西欧型の立憲君主国家へと変貌しています。アイヌ以外にも日系の勢力圏は極めて広く、日本列島にもたらされる富の量は史実とは計数的に違います。日本独自の市場も広大です。
 本来なら、多数の勢力圏を持つ劣位に立った国は、チャイナのごとく列強に蚕食されかねませんが、日本列島自体が幕末までに産業革命を強引に推し進めており、軍事力も相応のレベルに到達しています。状況としてはドイツ統一前のプロイセンに近くなり、簡単に欧州勢力の進出は許さないでしょう。手を出せば手痛く噛みつかれる事が分かっていれば、欧州も露骨な進出や干渉は手控えます。
 そんな欧州的行動の象徴が、日本に最初の戦争を吹っかけたイギリスであり、1824年の日英戦争後のイギリスは日本を利用した二枚舌外交で日本以外のアジアを飲み込んでいきます。
 もっとも、欧州各勢力は世界各地での陣取り合戦に忙しく、アメリカは北米大陸中央部を飲み込んだ事で慢心して内輪もめを始めます。簡単に勢力を伸ばせない日本国内で火遊びをする余裕は、列強にそれほどないでしょう。
 それに日本より与しやすく人口も多いチャイナを、誰よりも先に飲み込まねばなりません。でないと欧州同士の競争に負けてしまいます。当時の欧州人の視点から見れば、地球の反対側になる太平洋に広がる日本は次のターゲットであり、今のターゲットではないのです。
 そして欧米が欧州勢力同士で内輪もめをして、アフリカ分割に勤しんで、さらにチャイナにかまけているスキに、日本の革新勢力による再編成が行われます。
 この辺りの流れは史実と大きな違いはなく、むしろ日本の体力が大きい分日本に有利な状況になると判断しました。

 さて、この世界の幕末の到来は、外圧(戦争と外郭地の喪失)というファクター以外は、産業構造の変化に伴う貧富の差の拡大や身分制度の実質的崩壊を、新国家建設により再編成するためのものです。
 封建的政府が存在する中で産業革命を推し進めても、所得差と身分制度の矛盾など、どうしても無理が出てきます。良くてフランス革命、最悪の場合ロシア革命のような状態になります。
 また革命の内圧は、新たな所得格差の登場に伴う資産階級とそれに付随する中産階級、つまり都市住民が望んだものという方向が強くなると考えられます。既に工場に労働力として吸収されつつある小作農民の声も無視できないでしょう。
 史実とは条件がかなり違いますが、日本国内の民意の点において革命が起こる気運は十分あると判断しました。
 幕末のゲームプレイヤーは、日本の保守、革新各勢力とアイヌなど日本の他勢力、早い段階から日本に深くコミットしたイギリスと、イギリスのライバル・フランスです。フランスがナポレオン三世(ナポレオン・ボナパルトの甥)の治世下なら人気取りのため膨脹主義を取るでしょうから、イギリスへの対抗心で史実通り日本に干渉してくるでしょう。
 しかし、史実とは全く違う幕末世界が、日本列島には広がっています。
 日本の各大都市は工業化されて、早くも100万都市に膨れあがっています。鉄道も日本中に敷かれて、各港の大型岸壁にはガレオン船に混じって汽船も日常的に存在します。
 街の風景も白壁に瓦屋根の瀟洒な低層建築物群だけではなく、街の中心部は石や焼きレンガで作られて二階建て以上の建築物になります。道も都心部は立派な石畳やレンガ道です。生活や文化面での「洋風」の導入も、明治後半か大正期ぐらいに進んでいるでしょう。
 史実の百年前だと、ほとんどの人がいわゆる和服を着ていますが、この世界では日本的機会主義によってかなり和洋折衷な服装になっているでしょう。元が騎馬民族的習慣からスタートした北のアイヌでは、洋服に近いパンツルックが当たり前かもしれません。
 現在の異人館街のような情景は、18世紀の段階で大都市の各地に存在しており、「ガイジン」、「イジン」は別段珍しいものではありません。それどころか、アイヌ国民の一割ぐらいはスラブ系の白人です。褐色の肌のアメリカ先住民系も一般的です。宗教の方も鎖国も禁教もないままなので、チャーチ、モスク、シナゴーグが神社仏閣と共に共存もしているでしょう。
 軍隊だって、クリミア戦争レベルの装備を持つ常備軍が幕府と各大侯で整備されており、軍艦も自国製の蒸気戦艦が当たり前のようにウロウロしています。
 正直、「チョンマゲ」、「ハカマ」、「カタナ」のお侍さんスタイルが、この世界の日本で維持されているのかすら疑問です。
 つまり、このままでは幕末の剣客集団として有名な「新撰組」が成立しないです!(こいつは大変だ(笑)) 幕末の志士の集まる場所も、剣道道場ではなく既に各地に存在している高等教育機関になってしまいます。くそ真面目に情景を作り上げれば、フランス革命前後のようなイメージになるのではと思われます。これは、何とも面白くない状況です。
 そこで抜け穴をいくつか考えてみました。
 今も昔も日本列島は厳しい銃刀法規制があります。警察官だって、戦前までは拳銃ではなくサーベルを持っていました。江戸時代の都市の治安組織が、銃ではなく刀を持つのはむしろ必然でしょう。銃は軍隊の持つものであり、大きな破壊をもたらす大砲などを都市に配備するのは御法度もいいところです。都市の治安維持なら、史実江戸時代同様に刀と十手で十分でしょう。
 ただ、銃刀法の規制を設けただけでは、新撰組は成立しません。何しろ日本国内には多数の常備軍があります。半世紀早い産業革命で都市規模が異常に拡大しているため、近代的な制度・組織を持った警察組織も相応の規模に達しているでしょう。そこで出番が、時代の急変により幕府が急拵えするであろう各種傭兵組織もしくは民間警備組織です。
 オフィシャルでは、新撰組はマクロレベルで些末な事なのでほとんど語りませんでしたが、この世界の新撰組は半民半官の傭兵部隊として成立した重武装警察組織になるのではと考えています。マンガやアニメ風に言えば、「サムライSWAT 」です。史実でも、急誂えの対テロ組織といえますから、大きな変化はないという事ですね(笑)
 いっぽう、坂本龍馬や桂小五郎らが通った剣道道場の代わりですが、私塾、私立学校として成立した大学や士官学校のような存在になりそうです。下層武士階級すべてに対して門戸を開いた、軍事、政治、外交を教える組織でなければ、この世界で幕末を主導する人々を育てることは難しいでしょう。
 要するに若い頃の桂小五郎や龍馬達は、かなり剣呑な「学生運動」をしているだけ。ゲバ学生=幕末の志士なのです(違
 子供に甘いという日本的な雰囲気なら、明確なテロ行為に走らない限り学生には甘いでしょうから、幕末の志士達が学生時代の間に革命家となる点に大きな問題はないでしょう。
 かくして、明治・大正時代のような雰囲気を持つ幕末日本列島で、江戸の太平を突き崩すレボリューションが発生します。
 「明治革命」による、日本中央での近代国家の出現です。

 さて、「明治革命」の日本列島内での出来事の多くが、史実「明治維新」のオマージュです。今更、多くを説明する必要もないでしょう。「桜田門外の変」に始まり、「五箇条のご誓文」、「大政奉還」に至るまで、歴史的名称と時期はすべて同じとしました。幕府が豊臣なので登場人物や細かい状況などが入れ替わっている点もありますが、いちいち小さな組み替えをしていては面倒ですし、読者との共通項も薄れますからね。
 しかし、史実と大きく違っているのが、「大政奉還」以後の事です。なぜなら、日本人のテリトリーが日本列島主要部だけではないからです。
 日本列島以外の日本人テリトリーでも、本土同様の革命や改革が連鎖的に発生して、日本列島に成立する日本皇国を中心とした、大日本帝国が成立する点など史実ではあり得ない事象です。
 そして日系社会での連鎖的革命と各地での新国家成立、すべてが複合した日本帝国の誕生こそが、アイヌ王国成立以後の日系勢力再編成の第一次総決算となります。
 日系勢力各地で行われる内容は、連合国家成立以外の点は、史実「明治維新」とほぼ同じですが、大同団結してしまうという点は、革命以後成立する新国家では珍しい事例となるでしょう。この点を深く考えると、可能性の点で疑問符も多々あるのですが、ドイツ帝国とアメリカ合衆国の都合の良い点を組み合わせたものとご理解ください。
 ドイツ帝国の実体は、プロイセンを中心にした連合帝国(各地域の王家はいまだに残っている)ですし、アメリカも形式としては沢山の国が集まった連邦国家です。
 また幕末そのものの物語的要素を強くするのであれば、幕末の志士が日本列島単独を奔走するのではなく、日系テリトリーを汽船でくまなく行き来するぐらいスケールを大きくしてしまえば良いかもしれません。
 坂本竜馬も土佐の人物ではなく、呂宋の豪族になっているかもしれません。何しろこの世界の日本にとっての南国は呂宋になりますからね(加えて土佐は長宗我部のままだし)。
 そうしたスケールの違いこそがこの世界の特徴であり、巨大な連邦国家に再編成された日本は、帝国主義の時代に本格的に乗り出していく事になります。

 なお、なぜ「明治維新」でなく「明治革命」としたのか。それは海外膨脹した日本人の心理的変化が強要します。
 もともと「維新」という言葉は、島国的発想がなければ出てくる言葉ではありません。意味は「革命」とほとんど同じですが、「維を新しくする」という言葉通り、あまりにも日本的な表現と言うべきでしょう。いっぽう、中華的解釈での「革命」本来の意味は、単なる政権交代で使われる事もあり流血を伴う必要性はありません。もちろん、中華での王朝変更時の「革命」で流血が存在しないなど歴史上ほとんど存在しないのですが、日本の場合は史実同様の無血革命です。(お約束で、この世界でも戊辰戦争もしますが)
 そして、「王政復古」という古代王朝が日本の主権を取り戻すという形式で近代の扉を開くだけではなく、新たな世界帝国への門出の言葉に冠するなら、日本的表現の「維新」でなく「革命」が相応しいと考えました。
 つまり「明治革命」という言葉そのものが、本当の意味での「太陽帝国」に向けての大きな一歩になるのです。

(……ここまで書いたら、なんだか終わった気がしたなあ)



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