■太陽帝国「楽屋裏」 その17
 文明開化と日露戦争

 史実での文明開化とこの世界の文明開化は、言葉以外は似て非なる物です。
 なぜなら、この世界の日本の近代化、産業刷新、異文化流入の多くは、明治革命までに多くが完了しているからです。
 明治革命で行われた多くの変化は、欧州先進国からの政治、教育のさらなる輸入による近代化以外は、付け足しのような物とすら言えます。文化、文明の発展も、史実における明治から大正・昭和に向けての発展の形に似ているでしょう。
 いっぽう日露戦争の背景も史実とは違います。
 史実の日露戦争は日本にとって完全な祖国防衛戦争でしたが、この世界では世界レベルでの日本の復活と海外膨脹の大きな一歩に過ぎないからです。
 時系列を追いながら、この世界の明治を順に見ていきましょう。

 史実の文明開化という言葉は、西欧で発展した技術、学術、政治、文化、習慣などありとあらゆる西欧的な近代的文物の習得と日本化への象徴的表現と言えるでしょう。もっとも、取り入れられたのは、日本の先端部、富裕層、特権階級においてのみで、多くは江戸時代の日本のまま、ごく緩やかに影響を受けていく事になります。本当の変化がやってくるのは、日清、日露戦争の頃を待たねばならないでしょう。
 しかしこの世界では大きく違っています。
 1824年の日英戦争を契機に、日本列島すべてが産業革命に傾倒しています。1830年代には早くも鉄道が開通していますし、ペリーが来た頃には蒸気軍艦も多数整備されています。石造りや焼きレンガの建物は江戸時代半ばには当たり前となりますし、近世から近代にかけて日本独自に発展した近代的な文化、文物も多数あります。
 しかも江戸の太平の間に日本人達が世界中で稼ぎ回っているので、インフラ(社会資本)など長期的な意味での国富も列島内には多くあり、国民の過半数は欧州レベルで見ても豊かな生活を送っています。海外領土も既に豊富でしかも独自開発により多くが発展しており、帝国主義的膨脹をする必要性すら低くなります。それどころか、日本人にとって大きすぎる領域の維持運営こそが当面の課題となっています。
 幕末と明治革命の混乱と同時期の勢力縮小があってなお、海外膨脹と海外経営を行った200年の発展と蓄積によって、日本は世界有数の大国となってしまっているのです。
 オフィシャルにも書いている通り、この世界の文明開化とは新たな立憲君主態勢の建設に伴って、日本的近代文明の表面を当時最先端であったパックス・ブリタニカに塗り直す作業に過ぎないのです。そしてパックス・ブリタニカに塗り直すだけなら、欧州列強の過半が同時期に同じような事をしています。
 日本人にとって目新しい光景は、形式上だった武士社会の崩壊に伴う社会習慣の変化に関連するものになるでしょう。
 最たるものが、女性に少しばかり社会的権利を認める風潮ぐらいでしょうか。自転車に乗るあでやかな袴姿の女学生(いわゆる「はいからさん」)が、この世界でも目新しいものでしょう。
 もっとも先に近代化したアイヌの方は、建国時から女性を労働力と考えており、儒教的男尊女卑傾向が低いので、明治の世が来てもほとんど何も変化していないかもしれません。アイヌは近代化したのも日本より早いですからね。
 いっぽう、「散切り頭をポンと叩きゃ、文明開化の音がする」という戯れ歌にあるように、社会の大幅な変化と身分の大幅な改革が行われる点は史実とほぼ同じとなります。何しろ、豊臣の世はいちおう武士を中心とした世界でした。
 それが明治政府によって、「四民平等」、分かりやすく言えば「士農工商」から「皇族=華族=士族=平民」への改変が行われます。
 しかしここでも江戸時代の間の日本経済の発展が大きな変化をもたらします。オフィシャルでは「豪士」という言葉をおいて象徴しましたが、江戸時代の経済構造の変化によって、まるで違う構図が19世紀に出現するからです。
 ここで少し、江戸時代の貨幣経済を見つつ明治へ至る変化を追いかけてみましょう。

 史実の江戸時代は、「お米」を基礎とした農業主導の財政を支配階級が作り上げました。戦国時代の貨幣流通が中途半端だったため、お米の方が信用価値が高かったという証拠なのでしょう。
 おかげで大坂の先物取引市場など、先進的な農作物取引が世界に先駆けて行われています。しかし、全体として見た場合、進んだ租税制度とはいえません。農業技術の進展を考慮しない硬直した租税制度のため、武士の没落を早め幕府崩壊の原因の一つとすらえいます。
 もちろん、歴史において様々なファクターが重なり合って、江戸時代の税制が作られたのですが、この税制の変化が史実とこの世界の大きな違いになります。
 史実の租税徴収を当初お米のみとした原因は、室町時代の「鐚(びた)」という言葉に代表される悪銭(明からの輸入銅銭が数百年の年月で劣化したものや、国内鋳造の粗悪な通貨)の弊害からの脱却が原因の一つでした。しかも日本自身での貨幣鋳造力はありません。ついでに、当時の日本経済を完全に満たすほどの金銀銅は産出されていません。また、日本全体の商業経済が発展していなかったのも大きな原因の一つです。
 しかし、14世紀から北の大地で色々やっているアイヌの存在が、日本列島全体の貨幣経済を早くから大きく覆してしまいます。
 アイヌ達は、14世紀の段階で環オホーツク海圏内の金鉱、砂金を集めてまわり、自分たちのテリトリーで不足する文物を近在の日本列島から多く求めます。もちろん、アムール川などでも海外交易します。アイヌが無視してきた明国とも、モンゴルなど騎馬民族を介して交易しているでしょう。
 アイヌの行動の結果、日本列島北部の経済も大きく活性化し、北の富につられた室町幕府が「享徳の役」という侵略戦争を行います。
 その後日本は戦国時代に突入して、断続的に続く戦争と農業技術の向上によって経済が大きく上向きますが、アイヌは全く別の方法で自らの経済を拡大していきます。「西征」に代表される、外に向けての大規模な膨脹です。何しろ、足下に手頃なものがない以上、外に求めるしかないのは、場所を問わず行われる事です。
 アイヌの膨脹によって、欧州ロシアからメキシコに至る広大な地域が一時的にアイヌのテリトリーに含まれ、日本列島をまたいで東南アジア交易にすら手を出します。この膨脹期に、アイヌ国内では流入した豊富な金銀を用いて商業革命が起こり、アイヌの最盛期を支えることとなります。
 そしてアイヌの交易相手は、戦争しようが対立しようが常に日本が最重要お得意様となります。中南米の新たな作物がもたらされるまで、食料供給先として近在の日本列島が発展を続けるアイヌにとって必要だからです。
 アイヌが交易したいと言えば、まずは朝貢しろとしか言わない傲慢な中華帝国「明」を三角貿易や密貿易以外で無視する以上、交易相手としての日本は欠かせません。もちろん、経済力のない朝鮮半島との交易など論外です。
 日本側も、無尽蔵なまでに金銀銅、その他諸々の物産をもたらすアイヌを、商売相手として重宝するでしょう。特に戦国時代まっただ中にある日本は、アイヌの優れた武器(主に鉄砲や大砲)や大柄な馬、様々な物産は是非とも手に入れたい品々です。対立状態に関係なく、お互いの交流は活発化するでしょう。だいいち戦国時代なら、日本の中央でアイヌとの貿易を統制する者もいません。戦国大名達は、南蛮諸国との貿易同様に好きなだけやり取りすれば良いのです。
 そして双方の交易に欠かせないのが、お米などの穀物よりもやり取りが簡単な金銀もしくは、金銀銅を用いた貨幣です。
 かくして戦国時代末期には、日本列島全体でも貨幣経済が深く浸透していき、貨幣流通量の増加によって悪銭も駆逐されていきます。そして江戸幕府の租税徴収の基本は、お米ではなく貨幣によって行わるようになります。
 オフィシャルで、元禄時代に貨幣の統合が行われたとしましたが、この場合の貨幣統合は日本国内のものではありません。史実では、日本列島の西は銀中心、東は金中心だったので兌換のための両替商が発達しました。しかしこの世界では、戦国時代の間に日本列島内の金銀流通が均質化され、慶長の役の時点で海外と強くリンクし始めているので、海外との金銀兌換率も妥当なものになっているとしています。
 元禄時代に行われた「金銀改鋳」は、日系テリトリー全域での貨幣価値の均一化になります。アイヌの輪貨(リムカ=金貨)と日本の小判(クーバン)の価値が、金銀の比率や重さによって統合され、貨幣経済が日系テリトリー全域で均質化されたということです。
 そして、貨幣経済が浸透すれば、農村では換金作物の栽培が活発化するのが必然です。政府(幕府)は、穀物自給率のため躍起になってお米栽培を保護するでしょうが、植民地が発展すれば遠隔地から穀物を持ち込めばよく、本国での換金作物の栽培はより一層強まります。文明が進展すれば農業技術はさらに向上し、上記の流れを補強するでしょう。
 そして豊かな貨幣社会、商業社会である江戸時代に登場したのが、「豪士」という富裕層です。
 オフィシャルでは、イギリスのジェントリーやドイツのユンカーのような存在としましたが、そのまんまの近世的な富裕層です。「豪士」という名称も、農業・商業・工業で富を得て勢力を増した名士、武士という点を端的に現すため、「勢いのある士」という意味を込めて付けました。そして江戸時代広範に出現した「豪士」の最も重要な価値基準は経済力であり、彼らに実質的な「士農工商」の垣根はなく、これが幕末の混乱を呼び込む一因になったのはオフィシャルでも紹介したとおりです。
 そして「豪士」が本当の意味で力を持つのが、明治時代に入ってからになります。
 四民平等によって異なる身分間での婚姻が少しばかり自由になり、場合によっては家名を買い取ることもできるようになります。結果、それまで商人、農民として蔑まされてきた豊かなだけの「豪士」が、肩書きとしての身分も得て政治的な力を強めるからです。
 物心両面で力を得た彼らが明治という新時代を形作り、近代日本の責任階級となっていきます。
 「豪士」には、旧武士、旧貴族も数多く含まれますから、彼らの伝統や旧来のしきたりも「豪士」の中に含まれていきます。「豪士」たちは、日本の近代化と共に東洋の千年王国としての誇りを胸に、日本の隆盛を大いに支えていく事となります。
 彼ら「豪士」が中心となり、中流市民階層によってイギリスのような立憲君主が強く肯定され、共産主義が台頭するという事はあり得ないと判断します。
 そして、天皇を中心として強力な立憲君主国となった日本は、自らの国力増大と共に再び海外膨脹へと乗り出します。果たして、急速な再編成を終えた東洋の大帝国は、いったいどんな存在なのでしょうか。

 史実の20世紀初頭の大日本帝国は、国土面積が約38万平方キロメートル、総人口が5000万人弱と比較的多くなりますが、通常での国家予算はわずか2、3億円台。間違うことなく貧乏国です。
 いっぽうでこの世界の大日本帝国は、明治時点の国土面積だけで800万平方キロメートルに及びます。領土の過半が、東シベリア、アラスカ、ニューギニアなど不毛な土地が多くなりますが、日本列島、台湾、呂宋など人口地帯も豊富です。総人口は20世紀初頭で約1億人に達し、国家予算は約50億円(25億ドル)に達します。一人当たりの国民所得もロシアを上回っています。しかも、日系商人、日系人による経済力を含めれば、さらに五割ほど大きな経済力がある事になります。
 当時のロシア帝国が、人口約1億人で国家予算が20億ルーブル(=ドル)ですから、規模の大きさが理解いただけるでしょう。人口がほぼ同じなのに国富はロシアを上回っているのです。財政規模的にも、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、ロシアに並ぶ大国といえます。部分的な優劣の差はありますが、十分総力戦に耐えうる国家に育っています。
 1894年に史実通り日清戦争が行われたとしても、同じく史実通りに停滞している清帝国が相手なら鎧袖一触は間違いないでしょう。士気、練度はもちろん、装備、兵力量が違うので、戦争にもならないような一方的戦闘の連続になるはずです。だからほとんど触れませんでした。この世界の日本にとっては、自らの存在を世界にアピールする程度のものなのです。
 なお、日清戦争で清から遼東半島でなく海南島をぶんどらせたのは、すでに台湾を有している事もありますが、日本の海上交通保護のためです。既に台湾、呂宋(フィリピン)、北ボルネオを持つ日本としては、ロシアとぶつかることが分かり切っている満州よりも、まずは友好国に繋がる海に面する海南島を押さえておきたい筈です。また、日仏の力感系の変化もあります。
 それに本土防衛とロシアを当面押さえ付けるのなら、圧倒的外圧で朝鮮半島の目を日本列島に向けさせてしまえば当面は事足ります。すでに、東アジアで有無を言わせないぐらいの国力のあるこの世界なら、一度力の違いさえ見せつけておけば朝鮮半島も素早く大陸(中華国家)に見切りを付けるでしょうし、ロシアにも容易くなびかないでしょう。日本側としても、安価な労働力の供給先として朝鮮には魅力を感じる筈です。日本列島がそれぐらい発展しているからです(隷属的植民地を持たないせいもあるが)。
 だからこそ、この世界の朝鮮半島は朝鮮民族だけで早めに近代化させてみました。朝鮮半島は、日本各地域への出稼ぎ労働者が外貨を稼ぎ、完全な日本追従で早期に近代化していったのです。日本帝国をイギリス帝国や欧州に例にすると、朝鮮民族はアイルランドや東欧民族の位置になります。もちろん朝鮮半島に存在する政府は、徹底した親日国家です。日清戦争以後は清なんてもう見向きもしません。日露戦争でも日本側で頑張って、おこぼれを頂戴しています。
 しかし日清戦争の勝利や朝鮮の親日姿勢に関係なく、日清戦争後の清の混乱(義和団の乱、北清事変)につけ込んで、北の熊が北京より北の大地を飲み込みにかかります。
 ロシア南進の活発化です。

 1689年のネルチンスク条約以後、ユーラシア大陸北東部は、ロシア、清、アイヌ(日本)によって早期に分割され、150年にわたり安定化します。
 アイヌにとっての境界線は、スタノボイ山脈とレナ川流域です。アイヌが極寒の地である東シベリアを保持した理由は、オホーツク海をロシア人渡す気がない事と豊かな漁場の確保、比較的手近な場所から得られる材木、金鉱山に固執したからです。
 アムール川流域を清に売却したのは、史実のオマージュ(日露戦争)実現のためやりすぎた気がしますが、17世紀後半に勢いのある清と軍事対立してまで維持するだけの利益は短期的に発生しないほど搾取したため売却も許容範囲と判断しました。
 しかし、ネルチンスク条約から170年も経つと、ロシア人がずかずか土足で踏み込んできて、清からアムール、沿海州を分捕ってしまいます(1858年「アイグン(愛琿)条約」、1860年「北京条約」)。日本帝国が改革・革命に伴い内にパワーが向かっている間に、清が史実通りのヘタレっぷりを見せてくれれば、状況に大きな変化はないでしょう。
 この頃日本列島は幕末に突入しており、日本政府(幕府)に対応能力はありません。アイヌ王国だけでは、ロシアに戦争吹っかけるワケにもいかずということで傍観状態にしました。しかし、ロシア人が満州全土を力づくで分捕ったとあっては話は別です。
 時代も19世紀末ですから、日本の国威、国力も復活しており、準備期間を置いての戦争に躊躇はしないでしょう。
 準備が必要なのだって、相手が世界最大の陸軍国だからです。もしイタリア程度の国力を持つ相手なら、そのまま戦争に雪崩れ込む可能性も十分あるでしょう。
 しかし、史実であれほど近隣諸国を恐れさせたロシア帝国は、この世界でも同様なのでしょうか。

 オフィシャルの設定では、この世界のロシアは東シベリアとアラスカを最初から有しません。アイヌのおかげで、ウラル山脈から東の影響力も史実より低いでしょう。
 加えて、中央アジアを併呑できているのかも大いに疑問を感じるようになりました。中央アジアでアイヌが連れ去った白人中心に近世的国家(キルギシア王国(仮称))が成立していると、シベリア鉄道が敷設できない可能性まで出てきます。
 そこで、アイヌによって誕生したかもしれない中央アジアの国(キルギシア王国)については、国として一旦成立するも東欧のように19世紀中にロシアに併合されていると仮定します。最低でも、シベリア鉄道が敷設できるぐらいロシアが領土をぶんどっているか衛星国にしていないと、それこそお話になりません(仮定の上の仮定ですが)。
 もっとも、史実でもロシアが中央アジアを本格的に領土化するのは19世紀に入ってからですから、中央アジア情勢がロシア帝国の国力に大きな影響を与えることはないでしょう。
 東シベリアについても、ロシア中心部からの距離を考えると経済価値は低くなります。最初からアラスカがないので、クリミア戦争の戦費補填にあてる土地がありませんが、領土を売る代わりに少し利率の悪い借金を欧州中央部にある大銀行からすれば大きな問題もないでしょう(小さな問題は見なかった事にします)。
 ロシア全体の国力は、丼勘定で5%程度史実より低くなると判断しています。
 つまり日本が強大化しているだけで、他の列強もロシアと同じぐらいかそれ以上に史実より規模が減少しています。強大な軍事国家ロシアという点は、欧州中心の視点では動きません。
 また、日本帝国が東シベリアを有するので極東ロシア領がいびつな形になるように思えますが、19世紀末に満州全土とモンゴルを実質的に占有するので極端に不利な地理関係にはなりません。逆にあの辺りを一塊りとして見ると、非常に強固な地域にもなります。
 かくして、自信満々のロシアが、チャイナ北部をすべて食べ尽くすべく南進し、ロシアに対する防波堤と考える日本と真っ正面から激突します。

 さて、日露戦争において日本側は史実の二倍の200万人の兵力を動員し、60億円もの戦費を使用します。兵力量で史実の二倍、戦費に至っては3倍、ロシアの戦費の1.5倍も使っています。
 日本側の数字の根拠は、第一次世界大戦で日本陸軍が欧州に陸軍の全力(動員後)を派兵した際の一年間の経費約60億円という試算の数字からです。もちろん、オフィシャルでの日露戦争は1年半で距離も近くなり10年の差による物価・貨幣価値の差はあります。しかし、日本自体が発展しており装備も最初から違うので、戦費そのものを欧州レベルで計算しました。
 そしてこれだけの動員を行えるのは、日本帝国が近代国家として十分発展している証拠です。潤沢な予算を使って軍の動員を進め、兵士に十分な装備と補給を与えて戦争を継続するので戦費も上昇しているのです。当然ですが、総人口が史実の二倍というファクターも、動員戦力に大きく影響しています。
 動員戦力、戦費共に過大な数字に思われるかもしれませんが、10年後に行われる第一次世界大戦の事を思えば、期間は三分の一、戦費の規模は十分の一程度に過ぎません。国力が十分発展し国富も豊かな国にとっては、せいぜい限定総力戦でしかないのです。
 しかし戦場は、人口過疎地帯の満州・ロシア極東に広がります。しかも日露双方にとって外地もしくは辺境に過ぎず、現地のインフラは小規模で戦争継続の困難な地域です。正直、兵站面から見た場合の戦費60億円という数字が小さすぎると考えたほどです。
 戦場となるエリアは、ロシア極東も含めると日本本土の4倍の面積に達し、日本軍は常に運動戦を展開しています。200万人の大軍が移動するだけでも莫大な予算が必要でしょう。
 しかも塹壕に篭もるのは、冬営の一時期だけです。それ以外の期間は、常にロシア側の先手先手を取って北に向けての攻勢を続けています。何十万人の軍団が動き回るのですから、消費する物資の量は膨大な数字に達するのは間違いありません。兵站輸送の主力である鉄道も足りてないから、工兵達がセッセと敷設していることも十分予測されます。
 騎兵や砲兵も欧米列強並に運用しますから、史実の欧州並みに物資を消費するし、後方が確保された豊かな国の軍隊において、砲弾が不足して前進できないなど発生しないでしょう。手持ちがなくても、すぐにも工場・工廠で量産されるからです。ただし、窒素から火薬を作る技術はまだないので、第一次大戦のような事にはなりません。まだ、ロマンが許される戦争をしています。
 なお、国が豊かということは産業も発展しています。自動車が10年早く戦場に登場している可能性も十分あるでしょう。史実でT型フォードがベルトコンベアを利用して生産開始されたのは1903年の事です。当時の自動車では道路以外での使用に問題も多いでしょうが、史実同様に兵站物資の運搬など輸送手段としてなど後方なら十分活躍できるのではと思います。(騎兵部隊に機関銃を載せて随伴などというのは、技術レベル的にファンタジーが過ぎるでしょう。)
 話が少し逸れましたが、戻しましょう。
 日本帝国軍は200万人を動員しましたが、対するロシアは史実以上の兵力を満州・極東に送り込むことはほぼ不可能です。
 もともとロシア軍は、本来の天敵ドイツを常に指向しています。実質的な同盟国も、ドイツと対抗するフランスです。フランスも、ロシアの強大な陸軍力によりドイツ帝国を押さえられるからこそ、ロシアと同盟を結んでいるのです。当時いちおう仲の良かったドイツにしても、ロシアが日本にかまけてくれて自らに対する圧力が減るのですから、ロシアを焚きつける方が国益にかなっています。
 また物理的な面においては、史実では当時単線だったシベリア鉄道の片道運転を続けてまでして戦力を増強しているほどです。オフィシャル上でも同じとしていますから、短期間で史実以上の戦力を運ぶことは不可能です。
 対する日本は、大規模な陸軍が必要な近隣の仮想敵はロシア以外にありません。
 物理面でも、移動距離は短く船でいくらでも大陸に軍団を送り込めます。陸路についても、史実より産業が発展しているのですから、十分な鉄道路線が敷設される事でしょう。
 おかげで戦場では、日本側が常に兵力的に勝る状態になります。ロシア極東のウスリー・沿海州やアムールなどにも、別の軍集団司令部を設置して攻め込ませた大きな理由です。すべては日本側が戦力的・戦略的に優位だからです。
 にも関わらず日本軍の鎧袖一触にしなかったのは、逆に日本が発展しているからです。何を言っているんだと思われるかもしれませんが、国が豊かということは国民一人一人もそれなりに豊かという事です。つまり、史実日本軍の貧しいが故に頑強に戦える兵士という状態が、この世界では成立しないのです。
 しかもこの世界の日本は、江戸時代から物質的にも発展しています。戦意や戦い方は、日本人というファクターを加味しても、欧州一般に近くなるでしょう。苛酷な環境に耐えるという点なら、小作農民を徴兵するロシア兵の方が上回っている筈です。
 旅順攻防戦でも白襷隊などという合理性のない部隊は存在せずに、第一次世界大戦のベルダン要塞のような戦い方をしているのではと思います(それはそれで問題あるが)。
 そして、上記した旅順攻防戦でのように、日本陸軍の戦い方は史実とは大きく違っています。
 なによりも火砲と砲弾を大量に揃えて、騎兵も十分準備しているからです。軍団規模も総動員数では史実の二倍あり、主戦場である満州戦線も史実の五割り増し以上で兵団を準備しています。ロシア極東を含めた戦場全体では、重砲旅団や騎兵旅団を従えた30個師団もの大部隊が広大な平原を動き回っています。
 世界中から見に来ている観戦武官にしても、ほとんど第一次世界大戦の予行演習をするような日本帝国の動員体制に、目を丸くしている事でしょう。
 しかも日本軍は国民一人一人が国家というものを感じている「国民軍」なのに対して、ロシア軍は貴族が農民を指揮するという旧来の形をいまだ維持しています。正面からぶつかっても、最終的に日本軍の方に軍配が上がる可能性の方が高いでしょう。
 そして物量と兵士の士気の差こそが、日本帝国近代化の象徴となります。
 戦場の様は、史実の日露戦争より、この10年後に勃発する第一次世界大戦に近いものとなるのではと推察もできます。



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