第八節 アイヌの経済と文化

 16世紀から18世紀にかけてのアイヌの経済的な制度とその文化はどのようなものだったのか。ここでは、それを少し紹介していきましょう。
 アイヌの経済はアイヌが国として成立する以前から豊富な金を用いた数量的な金のやり取りによる金本位制度でした。これは、その後も近隣で多数の金山が開かれた事により強固となり、欧州諸国との交易が盛んになると決定的なものとなります。
 エミシに逃れた当初は、当地で算出される豊富な金を用いて、その数量、重さで取引がされていました。国の成立の後もそれは変化がありません。ですが、そのような制度では富国強兵の元で拡大した国家経済を支えるのは難しくなり、それは享徳の役の頃の15世紀中頃になると、単なる数量による方法では完全な行き詰まりを見せるようになりました。これを憂慮した官僚団は享徳の役の後、細かな内政へもその力を向けれるようになると、この問題を一気に解決すべく貨幣制度の導入を国王に上申しました。これは異例な事でしたが、時の国王も同様に憂慮していた事もあり、それを承認し直ちに貨幣制度が作られることになりました。
 そうして造幣局が作られ各種の金貨、銀貨、銅貨、青銅貨が鋳造されました。アイヌが徹底していたのは、この貨幣を徐々に流通させるのではなく、ある程度数量が造幣されてから一斉にそれまでの数量的な金や銀などと交換し、一気に新たな貨幣制度を普及させた事でしょう。この辺りはいかにも軍事的、中央集権(行政)的な側面を見せており、今でもアイヌ的強権行政と言われるものの典型だと言えるでしょう。
 ですが、アイヌ商人達はそれ以前から制度導入の事を知らされていたので、特に大きな混乱はなく国内では受け入れられたと言われています。この辺りはしたたかな交易商人としてのアイヌを物語っていると言えるかも知れません。そしてそれ以後、国際的な数量の度合いによる小さな変化こそありましたが、革命まで続く貨幣制度として続くことになります。
 次に産業ですが、アイヌの陸での一次産業は国内では牧畜が主力です。これはモンゴルの統治の影響で、モンゴル統治の時代にモショリの平原の各地に牧草地が多数造成された事が影響しています。エミシュンクルでは、日本の勢力圏の頃より農業も行われましたが、国の大半が寒い地域あるので農業が浸透するにはその技術的発展を待たねばなりませんでした。農業が発展するのは、東欧からの農法の導入とじゃがいもが中米から伝わる16世紀半ばを待たねばなりませんでした。このため、アイヌの一次産業は農業よりも漁業が中心となります。これは近海と河川が非常に豊かな漁場であった事もあってモンゴルの治世以前から広く普及していました。
 ですが、富国強兵を代々の国是としている政府は、一次産業だけでは国の発展はないとして、建国当初から鉱工業とくに製鉄と金鉱の開発に重点をおきました。こうした鉱山の開発と製鉄業は多くの山々を切り開く事となり、それに伴う自然破壊と災害が増える事となります。この事が早くからアイヌの自然保護の考えが強くさせる事となります。
 その後、船の発展により多少遠方を赴けるようなると、狩猟による毛皮の獲得が大きな財を生むようになり、一次産業の主力となりました。また、船の大型化は遠洋漁業も可能とするようになり、アレウト海や北極海での遠洋漁業と捕鯨が発達します。これが、アイヌ海軍の基礎を作り上げていきます。また、当然交易にも力が入れられました。これは国の発展と共に拡大され、16世紀初頭大型の初期型のカラック(ガレオン船の前身)を独自に建造するようになると活発になり、国に大きな富みをもたらすようになります。これは16世紀半ばにポルトガルからガレオン船のノウハウを入手する事でさらなる拡大をみせ、速度と量において交易と領域が爆発的に大きくなる事となります。そしてその富みを持って強大な海軍が建設される事となりました。
 一方陸路での交易は、16世紀初頭から半ばまでは、『西征』による征服地域の鉱山の開発とその近隣の交流の活発化で非常に活発でしたが、海上交易路の開発に伴いコスト面での対抗できなくなり、徐々に衰退していきました。その間16世紀は、版図の拡大に伴いユーラシア大陸での陸路の交易が盛んとなりますが、海上交易の方がコスト面で遙かに有利な事からアイヌは早々にその版図と共に撤退してしまいます。ですが、それに反比例するように16世紀後半に入ると海上交易が爆発的に発展したのです。
 交易の拡大は国内産業の発展を促し、新たに導入された技術と相まって人口の増大を引き起こし、余剰労働人口は手工業へと振り向けられる事となります。それは国内流通の発展と共に拡大し、いくつもの大都市が誕生する事となります。
 そして、余剰工業製品の発生と共に海外交易も中継貿易でなく加工貿易へとシフトしていき、さらなる富みを国内にもたらす事となります。
 そのような状態が17世紀から約一世紀以上も続き、アイヌは大きく繁栄します。

 では、その頃の文化はどうだったでしょうか?
 アイヌと言えば、「イオマンテ」と呼ばれる天教の祭礼の儀式と、「ユーカラ」に代表される口承民話、独特の模様を描いた衣服、古アイヌ語による謳うような言葉の数々・・・そう言ったものが思い浮かぶのではないでしょうか? 後は日本などと混ざりすぎあまり変わらない点が多いのと思われると思います。特に日本からの移民と交流が増えた16世紀以後は、多くの日本文化が流入しアイヌ文化に大きな影響を与え、その後のアイヌ語を日本の地方語程度にまでしてしまい、さらに16世紀以後の北半球各地の他文化との接触、16世紀後半の人間ごとの西洋文化の取り入れがその止めとなります。アイヌ文化とはアイヌ人が古の思い出としてしか持っていない文化。そう思われる方が多いのではないでしょうか?
 ですが、アイヌは文化を非常に大切にする民族です。今のアイヌの文化を見ていると不思議に思われるかも知れませんが、少なくともアイヌ人たちはそう考えています。ただ、文化に対する見方が他と少し違うのです。アイヌは、文化とはその時々で変化するもので、民族的な根底にあるものさえ見失わなければよいと考えています。このため、自分たちより優れたものがあれば自分たちに合った形で受け入れるべきだと考えているのです。また同様に、他民族の文化も大いに敬意を表すべきものとも考えています。この辺りの民族的な心情の根底には、アイヌが自ら独自の文化を成熟させる事よりも遙かに早いスピードで近代化した事と、そして交易と軍事にのみ重点をおいたため独自の文化をジックリ熟成させなかった事が影響していると思われます。
 この点が最初の支配民族だったモンゴル人と違う点でしょう。ですが、この考え方を最初に持ち込んだのはモンゴル人です。モンゴルの侵略と支配からアイヌは他文化がいかに優れたものであるかを知るようになります。そして国家を作ってからのアイヌは、出会う先々の文化と接触するやそれを研究し自分たちに合うと思うや取り入れ、瞬く間に自国文化としてしまいまうようになります。特に日本文化は戦国時代に大量に取り入れられ、それ以後のアイヌ文化に大きく影響を与えます。また、16世紀のユーラシア諸部族やロシアとの接触、東欧からの大移民、北米大陸での先住諸部族との交流、太平洋沿岸各地でのスペイン人との衝突など、ことある事にアイヌはその相手文化を取り入れていきます。この動きが停滞して、自国文化を熟成させていくようになるのは18世紀に入ってからのことなります。それ以後アイヌ文化に大きな変化はなく、他地域のアイヌ文化圏と共に一つの文化圏を作るようになります。
 ですから、今日のアイヌの一般生活での文化が雑多なものの集合に見え、最初に紹介したアイヌ的なものは、文化でなく宗教的なものとして多くが残っているのが分かると思います。
 そう言う点からすると古来のアイヌ文化は、文化というより心の拠り所と言えるのかも知れません。



第七節 アイヌ人の宗教  第九節 王国の軍の階級と軍制