第三節 リムレイルの西征

 アイヌはいかなる目的をもって外への膨張を開始したのか? 
 多くの史家が、色々な説を立てていますが、共通しているのがアイヌの膨張は単なる領地拡大と植民地の獲得による収奪と言う経済活動になかったことだという事です。自らの(人的資源の)劣勢を信じて疑わないアイヌは、最も合理的で人的コストがかからない富の拡大手段となる交易の拡大にこそ重きを置いていました。その為、あえてシベリアを西征し自らの版図とする事で地域一帯を安定させ、安全な交易路を作り上げようとしたのです。
 ですが、皮肉なことに丁度そのすぐ後航海技術の発達から陸路よりも海路の方がコスト的に大きな利益を挙げるようになると、高い経費を使いシベリアの大地を征服、維持する事が少なくともアイヌ本国にとっては負担となりました。なればこそ、アイヌは忽然とシベリアから姿を消すこととなります。では、これからはユーラシアにおけるアイヌの活動を見てみましょう。

 『リムレイルの西征』。これは、時の皇太女シュムンクル・サンクスアイヌ・リムレイルが皇太女として選ばれた事で始まります。
 1502年9月にそれまでのシュムンクル王家の皇太子だったカヌクルが肺炎を患い病死しました。これを追って、その時アムール川北部地方での馬賊の討伐から帰ったばかりだった王女のリムレイルがその功績により皇太女とされます。時に16歳でした。リムレイル王女が皇太女に選出されたのは、この時シュムンクル家に皇太子(女)となるべき功績を持つ適当な年齢の人物が他にいなかった事による苦渋の選択でもありました。
 しかし、次期王選出は時間の問題と考えられていました。時の王エリハヌは老齢で余命幾ばくもないと思われていたからです。だがこれは、予想を裏切りその後8年も生きることとなります。ですが、次期王競争に完全に遅れを取ったと考えたシュムンクル家は、これを挽回するために、最も派手な功績を挙げた若い王女を皇太女とし、これにさらに功績を挙げさせる事で一気に国王選び競争に勝とうとしました。そして、丁度というかその当時、国民の声とは裏腹に、まだシベリア開発にはどの王家、大貴族も熱心でない事に目を付けたシュムンクル家は、自分達の王家が海外進出に保守的だという考えを逆手に取り、この人事を中央に認めさせるためモショリ中央部という地の利を利用して宮廷工作を行います。この遠征が皇太女リムレイルの指揮の元おこなわれたのには、このようなアイヌのまだ確立されていない政治形態が生み出したもので、これ以後本国でこのような人事が起こる事はありませんでした(遠方ではそうでもありませんでしたが)。
 そして1503年4月、首邑ウソリケシでの華やかな出陣式の後、間髪を置かずアムール河口に集結した西征軍主力2万は、いくつかの支隊、偵察部隊を東シベリア全土に放ちつつ、一気にバイカル湖目指して進軍を開始します。それまでの調査で、ダッタン以外にその地域で大きな勢力が存在しないことが分かっていたからです。また当然、彼らの遠征計画には事実上アイヌに対して鎖国している明王朝の版図は入っていませんでした。これは明がアイヌの再三の交易要請にも応じなかった為、完全に無視するというのがアイヌ国の外交基本方針だったからです。この遠征はつまり、明より遠方にある地域との新たな交易路の開発が遠征軍の目的でもあったのです。
 この目的もあり、遠征軍は夏になる度に部隊を武装した隊商と役人と共に派遣し、周辺部族の交流の促進と、それを拒む部族の併呑を開始しました。特に皇太女の性格かアイヌの出した交易条件に反発を示し、戦端を向こうから開いた部族には全く容赦する事なく、完全に攻め滅ぼすまで軍は蹂躙を行いました。これによりダッタンと呼ばれていた当時のモンゴルと全面戦争へと発展しなかったのは世界史上の奇蹟とすら言われています。この背景には、アイヌは昔のモンゴルの影に怯え、ダッタンはアイヌの異常な武力に恐れた為と言われています。ですが、西征軍司令官リムレイル皇太女の明快な政治的決断なくして、このダッタンとの共存はなかったでしょう。この頃のアイヌの王族には男女を問わず男性的な明快さを持った者が多く、その一つの現れがリムレイル皇太女だと言えるのではないでしょうか?
 そして、このダッタンとの共存関係成立までにかけた時間はたったの2年間。それまでに、東シベリアのほぼ全土とアムールの交易権利、ダッタンとの優先的な交易権を得て満足した西征軍は、現地ダッタンの援軍と案内を得て、翌年ガジュンガル、ジュンガルへと向かいます。
 当地の部族はダッタンとの対立もあり、アイヌとの交流を望まかなった為、軍事侵攻が行われました。電撃的な侵攻でアイヌ西征軍は、ダッタンの援軍2万と本軍3万の合計5万の軍勢を以て3年後の1508年までに中央アジアへの進出を達成します。ここまでにテンシャン回廊などの交易路と、チベット、印度への道を開いた事で一応の満足を得て皇太女リムレイルは西征の終了を宣言します。
 そして現地の近隣国家との交流を図りつつしばらくは交易路の整備に入ります。ここでアイヌ国は、征服した地域に多数の代官となる官僚と貴族を派遣し、また現地部族のアイヌへの帰属を行います。特に自国に近い東シベリア地域(現北海道)地域の開発を熱心に行いました。



第二節 チコモタイン・アイノ王朝成立前後のアイヌ  第四節 セカンドインパクト(タタールの二度目の衝撃)