第四節 セカンドインパクト(タタールの二度目の衝撃)

 リムレイルの西征から26年後の1534年、アイヌは中部ユーラシアで再び動き出します。それまでに現地経営と交易路の開発は完全に軌道に乗っており、またブハラ=ハン国、ヒバ=ハン国などの西シベリア・中央アジア地区の国々や、ダッタン、チベット、満州地域部族との交流も円滑に行われるようになっていました。この頃の東、中央アジアでの交易は、アイヌは自国の優れた物産(特に鉄製品(武器含む))を中心としたものを売り、各国の売買の仲介をなす事で莫大な富を築き上げていました。
 また、南の明王朝はすでにかつての力を失い衰退期に入っていた事もあり、あからさまな侵略行為などに出ないアイヌを半ば無視する形でアイヌや周辺部族との共存が保たれていました。
 今度の西征は、キルギス部でのアイヌ商人とキルギス部族の衝突が原因でした。これに当然のように過剰防衛反応を引き起こしたアイヌ軍が活発な活動を開始した事が発展し、再度の遠征へと発展します。
 この四半世紀の間に占領地域をほぼ完全に領土化する事に成功していたアイヌは、今度は軍団を現地軍を中心に編成する事としました。もちろん、本国からも再び大遠征軍が派遣され、その総数は6万に達し、その大半が大規模な火力を装備した騎兵を用いた兵科からなっている機動打撃集団でした。その大兵力をもって二度目の西征は開始されます。
 あしかけ約10年の戦いの結果キルギス部の全てをその軍門に下したアイヌは、ついにウラル山脈にまで達します。ですが、これはアイヌ本国にとってはかなり計算外の出来事でした。なぜなら、アイヌは交易路の開発を目的として遠征を開始しましたが、そこまで遠方の進出は全く考慮していなかったからです。
 しかし、すでに矢は放たれ現地の経営も順調でした。しかも現地軍は士気旺盛で、モンゴル軍の西征再びとのかけ声の元、大陸各地のハーン達がアイヌの元に参集していました。もちろん、現地西征軍司令部のアイヌの王族や貴族達も現地の状況はよく理解しており、本国に再三さらなる遠征の継続を要求します。
 当時ナスノタイン王の治世の元、新たな王政を完成しつつあったアイヌ首脳部は、この流れに逆らうべきでないとして、現地軍の暴走を止めるためにも、積極的にこれを支持する方向に傾き、さらなる援軍と膨大な数の兵器を送る事を決定します。
 そして1551年、ナスノタイン王の後を継いで成立したチコモタイン王の即位と、新たな王朝建国を記念して、つまり新たな国の国威を内外に知らしめるため、ついにヨーロッパ遠征が開始されます。
 もちろんこの遠征の目的は内外に新たなアイヌの力を見せ付けておこうと言う、極めて政治的な側面も持っていましたが、この遠征をもって、アイヌの民族性が変化を見せたと現在の史家、民俗学者達に言われています。
 時の司令官は、皇太子レプンクル・サンクスアイヌ・クリノタイン天将。彼は、アイヌ本国やユーラシア各地から参集した軍団10万を前に西への進軍を宣言します。そして、アイヌとの共存を拒否したイビル・シビル国を3ヶ月で攻め滅ぼすと、軍団は一斉にウラル山脈を越えました。
 そこでアイヌは初めて白人の国、モスクワ大公国と接触します。アイヌは当然最初は平和履に交易を求めました。この行動に同盟各部族は首を傾げましたが、アイヌにとって戦争による侵略よりも交易の拡大こそが神聖不可欠なものなのですから当然の行動だと言えるでしょう。
 当時のモスクワ大公国は、ちょうど最初の膨脹期を迎えており、アイヌにとってもアクティブな国との交流は危険ではあるが、平和理に交易を開ければ極めて有益な事と考えられていました。
 ですがモスクワ大公国は、当初沈黙を保ちます。別に自ら戦闘をしかけるでもなく、政府レベルでの交渉も持ちませんでした。これをいぶかしんだアイヌでしたが、取りあえず相手が戦争する気もないようなので、気長に交渉と交易を開始してくれることを期待して待つことして、モスクワ大公国を無視する形でより豊かな南方地域への進出を継続しました。有り体に言えばアイヌは貧しいモスクワ大公国そのものにはあまり興味がなかったのです。その南進の途中、絶望的抵抗をおこなったカザン=ハン国を一蹴し、その武威を以てアストラ=ハン国、クリム=ハン国との国交を開き、遂にオスマン=トルコ帝国への道を開くことに成功しました。時に1554年の事でした。
 当時スレイマン一世の治世にあったイスラム世界最強の帝国にして地中海の覇者でもあった大帝国オスマン=トルコは、その絶頂期にありました。アイヌは、この大帝国との接触をカムイの導きによる慶賀のように、とりもなおさずこれまでで最も丁寧な態度で自分たちとの交易を求めます。
 これにトルコ帝国も、安定した内陸亜細亜の交易相手が平和理な交易を求めてきた事に好意的で、お互いの勢力に対する不干渉と軍事的協力関係の樹立を条件に交易協定が結ばれました。しかし、そこでトルコは一つだけ条件を付けてきました。それは、自分たちは今一度ヨーロッパ勢力に対する攻勢を行うので、これにアイヌも参加して欲しいという事でした。それをもって盟約の証としたいとの条件を付けてきたのです。
 交渉が持たれた当初、アイヌはその条件には反対する意向でした。それは、交易を求める国是に合わないからです。アイヌはこの当時自国から進んで戦端を開く事をよしとしなかったのです。これは、本国にも伝えられほぼ同様の回答が送られます。そして何度かの交渉の結果会議は紛糾し、事態は収拾不可能直前の段階まで悪化します。
 その交渉の中、クリノタイン皇太子から交代した時の遠征軍司令官クンネシュマ・ホレバシュンクル・クリルク元帥が急病で死去しました。そこで臨時に当時王族代表として現地を訪れていた若き皇太女シュムンクル・サンクスアイヌ・ニレイルが序列により司令官となる事となります。ニレイル皇太女は、リムレイル皇太女の孫にあたり、リムレイル皇太女の再来と呼ばれている英才でした。
 皇太女は、指揮権を引き継ぐと本国の指示を半ば無視して独自の交渉を開始します。皇太女は、最初の会合で突然幕僚達にも独断で、自分たちは独力でワルシャワの攻略を行い、それをもってしても盟約の証とし、それでもトルコがアイヌとの交易を望まないのならトルコとの戦争すら辞さないと宣言したのです。これにはトルコ側も鼻白みましたが、結局、後の交渉により大筋に置いて双方合意に至り、1555年6月ここに短いトルコ=アイヌ同盟が成立する事となりました。
 しかし同盟成立するが早いか、ニレイル皇太女はクリム=ハン国を策源地に集結を終えていた西征軍8万を疾風のように進撃させ圧倒的な火力でポーランドのキエフを攻略します。攻略に要した日数は進撃開始からたったの1週間。降伏を拒み籠城を行おうとしたキエフは、アイヌの膨大な火薬兵器により一夜にして街は灰燼と帰しました。
 学識のあるイスラムの従軍画家による『ソドムの再来』として現在に残る絵画が良く知られていると思います。
 これが、『セカンドインパクト(タタールの二度目の衝撃)』としてヨーロッパ全土を震撼させる事になります。そんな敵方の事など気にもしないアイヌ軍はその後も進撃を続け、約1ヶ月後にはワルシャワ前面にまで迫ります。タタールの衝撃がまだ全ヨーロッパに広がっていない程の素早さでした。もちろん、ポーランド王国の大半を自らの勢力下においての進軍です。それまでに無益な抵抗をした軍隊は全て圧倒的な火力の前に粉砕され、街々は軍門に下りました。軍はそれ以外にもバルト海を望むものや、ウィーンへの道を進むものがありました。
 (一度目は、勿論モンゴル帝国のバツー率いる遠征軍がもたらしたものです。)
 その間にニレイル皇太女からスレイマン一世へ送られた親書には、ウィーンでの再会を楽しみにしているとしたためられていた言われています。
 このあまりにも素早いアイヌ軍の動きは、トルコ帝国もヨーロッパ勢力も全く対応出来ない程の早さでした。アイヌの攻撃で混乱する欧州勢力の間隙を突いて、もう一度ウィーン攻略を準備していたスレイマン一世の予想すら超えた行動でした。
 しかし、ここでチコモタイン・アイノ王朝の優れた統治システムが働きます。現地軍の暴走を掣肘するため大臣と皇太子が国王の名代として急遽派遣され、遠征軍の即時撤退を通告したのです。アイヌは世界史的にも最も早期に完成された絶対王制国家です。その優れた統治システムが、現地軍の独走を抑止してしまったのです。遠征軍司令官ニレイル皇太女は、独断専行を深く詫びこれを謹んで受け入れましたが、最初の特使からの書状を見た時こう叫んだと言われています。『本国は何を考えているのか。モンゴルがなしえなかった栄光を我らアイヌは果せるのだぞ。本国は世界が欲しくないのか。』と。そして後日それを聞いたチコモタイン王は『我らは世界を欲っしない。我らが欲するは鮭の集う川のごとく富を生み出す交易の道のみ。』と答えたと言われています。このやり取りはおとぎ話的な域を出ていませんが、当時の大陸の遠征強行派と中央政府の気持を代弁したものと言えるでしょう。
 そして、あまりにも遠方へと広がりすぎた領土を安定した統治の邪魔と見た国王は、西征の即時中止を宣言し、そればかりかアイヌの勢力圏を段階的にバイカル湖まで撤退させる事を布告します。アイヌ中央は、直接全てのユーラシア統治して結局早期に崩壊したモンゴルの轍を踏む事を避けるため、それまでに交易を結んだ地域との交流だけをそのままにして(それすら計画的に閉じる予定だった)、塩が引くようにバイカル湖の東へと去る事としたのです。
 ですが、アイヌが大陸の版図拡大を自ら放棄した最大の理由が、その広大な地域の経営にかかる経費と、生み出す利益が海洋交易に比べ低いかったからに他なりません。それにトルコとの交易なら、インド洋を経由した方がはるかに大きな利潤を上げることができたのですから当然といえば当然の選択でしょう。しかし、得た領土の放棄をいとも簡単に実行してしまった点が、実利を重んじるアイヌ人らしいと言えるかも知れません。
 また、中央の決定に現地部隊が反対しなかったのは、新生アイヌ国が発足間もなく、極めて有機的に機能していたことの現れと言えるでしょう。
 さらに、心理的な面での理由となったのは、あまりにも遠方での文明国家との大戦争を本国が恐れたと言うのが、最近、当時の私的な文献などから明らかになっています。
 そして、それ以外の理由として北米大陸に対応できるようにする為、予備兵力が動けなかった事、本国の隣の日本での戦乱が大規模なものへと発展した事などが理由としてあげられています。(これらについては、時期的なズレがあるので諸説があります。)
 しかし、東へと去る事となったアイヌでしたが、大陸での約半世紀ですっかりモンゴル的な収奪に慣れてしまったアイヌ達は、土地を去る時に何の躊躇もなく占領地域の全ての財産の持ち出す事を行いました。それは、金銀財宝に始まり、絵画、美術品は言うに及ばず、家畜やそして膨大な数の人間をバイカル湖の向こうへ撤収に合わせて、アイヌらしい極めて計画的な作業の元送り込みます。
 この計画的強奪によりポーランドや、バルト海沿岸諸国、一部プロシアなどから膨大な数の人の移動が行われました。これをヨーロッパでは、史上最大の泥棒行為と呼ぶ事もあります。事実これによりアイヌが収奪した財産は膨大で、その後十数年は収奪された地域は極度に経済活動が低下する事となります。ですが、飢饉にはなりませんでした。それはあまりにも多くの人間をアイヌ領内に連れ去ったからです。民族の強制移住とすら言われるそれは、アイヌがワルシャワから引き上げバイカル湖以東に完全に引き下がるまでに50万人に上り、モショリまで移住した者の数も10万の単位に上ると言われるという資料があります。この強制移住により北海道地域のアイヌと一部貴族はスラブ系との混血となり、また、多くのモンゴル系民族もアイヌに加わった事からアイヌの人種的な混濁が進むこととなります。そして、また多くの異文化がアイヌに流れ込む事となります。それは当然東欧からの影響が深く、半世紀ほどの後に、アイヌのシベリア撤退にあわせる形でスラブ系の民族が完全にアイヌとして取り込まれると、和洋折衷的な文化がモショリ本土に出現する事となります。
 そして、結局アイヌがウラルから東に完全に立ち去るのは1570年頃、バイカル湖までは1630年頃と言うのが最近の資料から判明しています。つまり、アイヌは約一世紀の間シベリア全土を支配していた事になる訳です。
 その間、最後までアイヌとまともな接触をしなかったロシア帝国は何をしていたのか。ロシアはアイヌによるタタールの影に怯え自国領土に逼塞して、武力を整えつつも嵐が過ぎ去るのをじっと待っていたのです。そして、アイヌが去り、安心と分かった時点でその蓄えた武力でもって再びシベリア開拓を始める事なります。ですが、アイヌが多数優れた武器は文明を持ち込んだので、ロシアのシベリア進出は酷く苦労したものとなり、一世紀ほど後にアイヌとの衝突を引き起こすまで、接触する事はありませんでした。



第二節 チコモタイン・アイノ王朝成立前後のアイヌ  第五節 ニューホライズン(新大陸進出)