第五節 ニューホライズン(新大陸進出)

 1504年5月、クスリから北米大陸に向けて大船団が出発しました。そして、既に進出の始まっていたレプンモショリを橋頭堡として現在の函館の近くに最初の入植地を建設します。そこには、僅かな先住民族が住んでいましたが、アイヌは今までの近隣部族と同様に、交易による共存を図ることとしました。これは、民族的アイデンティティーが近かったことから平和理に行われ、先住民族との交流を深くしつつ、各地へと徐々に浸透していくこととなります。
 また当初の進出は、ユーラシア大陸のような強引な事は殆ど行われませんでした。それは、大船団で行ったといってもアイヌは極めて小さな勢力でしかなく、またアイヌが交易と狩猟の拡大を目的としていたからです。そして、アイヌが当面大規模な移民を考えていなかったのが、強引な勢力拡張をしなかった最大の原因だと考えられています。
 アイヌは、それまでの調査で北米には大きな文明を持った国がないことを確認しており(アステカまでは赴いていなかった。またインカ帝国の存在は薄々知っていた。)、その地域をそれまでの反省を踏まえて緩やかな交易の促進と文化の交流と輸出で民族的、国家的な同化をする事を最終的な目的としていたからです。その計画は当時としても気長な事に百年単位の計算を官僚達はしていました。その計画では二百年で北米大陸西岸の民族同化が完了し新たにアイヌ国の飛び地とされる事になっていました。
 この政策はその性格からゆっくりとした速度で行われ、約半世紀をかけることで北米大陸北西部一帯に広がり、民族交流という点ではかなりの成果を収めることとなります。
 一方そのころ中南米一帯ではスペインによる侵略が行われていました。ですが、北米にまだアイヌの交易船はあまり進出していなかった事と、北米の諸部族は中南米の事には全く無関心というか、無知であり、その事実をアイヌが知ることになるのはかなり後になってからになります。これは、アステカを始めとする文化が内陸部で栄えた文化だったのが最大の原因だとされています。
 1568年、ユーラシア経営を一段落させたアイヌ本国は、下準備が完了したとして大規模な艦隊の建設と共に今度はポロニタイモショリ(北米大陸)の開拓を本格的に行う事を決定します。しかしそれは、北米大陸西岸や山間部の各地に多数の鉱山(金山、銀山)が発見された事が最大の原因でした。
 この大規模派遣決定により、順次新たに建造されたガレオン船と共にアイヌ本国から移民船団、交易商船、軍艦が出発しモヤサムトマリ(現在の函館)を拠点として、勢力の拡大を図りました。進出と、鉱山開発、新たな交易路と交易民族の開発も順調に進み、アイヌは南へ南へと向けて勢力の拡張を野火のごとき勢いで拡大していきました。
 そして1574年、北米での最初のスペイン人との接触が発生しました。当時すでに亜細亜でスペイン人と出会っていたアイヌは特に気にするでもなく、現地でも他と変わりなく対等な交易を求めました。しかし現地のスペイン人はアイヌの進出を新領土への侵略と誤解し戦闘を仕掛けます。
 自ら戦端を開く事を非としているのが国是ですが、文明国と一旦戦端が開かれると持ち前の防衛本能が過剰反応するのがアイヌです。北米でもその例外ではありませんでした。スペインの攻撃に過剰に反応し、直ちに本国へ急使が飛びますが、現地司令官の裁量の元で断固たる反撃が開始されました。
 それにより、北米西部全土に散らばっていた派遣軍が、メキシコ方面へと集結しスペイン軍と対峙します。さらに現地軍ですらスペインに比べて圧倒的な戦力があったにもかかわらず、本国も直ちに増援の派遣を決定し、その年の内に2万もの兵力が北米に派遣され、現地の5千の駐留軍と同盟部族3千をもってスペインとの本格的な戦端を開きました。その圧倒的戦力によりアイヌが一方的にスペイン駐留軍攻め立てた戦争は1575年の内に終了します。スペインの完敗でした。
 これに驚いたのは当然スペイン本国でした。現地軍の誤断により新たな植民地を瞬く間に失ってしまったのです。当時世界帝国を自認していたスペインとしては、新たな東洋の乱入者に自分たちの最も大きな財をなすものが奪われようとしたのですからその慌てぶりは目を覆うばかりだったと言われます。当然、奪回のための大軍がスペイン本国での準備が始まりましたが、彼らが出発するまでに北米に駐留するスペイン軍は完全に駆逐され、スペイン人はユカタン半島より北から完全に叩き出される事となりました。ですが、スペインにとって幸運だった事は他の欧州諸国がこの事実に殆ど気づいていなかった事でした。スペインもこれを確認すると軍の動員を取りやめ交渉により事態の解決を図ろうとしました。また、スペインが奪回を取りやめた理由は、ネーデルランドなど当時火種を燻っていた大陸欧州の国内事情にもありました。
 スペイン人をユカタン半島以北に追いやった時点で、自国の完全な勝利に安心したアイヌからスペインへ使節が送られます。使節が持っていたのは、当然戦争の終わらせ方に関する書状でした。講和内容は、現在のアイヌ軍の休止ラインを新たな両国間の勢力線として、それより北(西)の事には一切口を出さない事。そして対等な交易を今後北米で行うこと。それより南とカリブのスペイン領土にアイヌは一切進出を行わない事が条件で、もしそれが受け入れられないのなら、新大陸全てよりスペインが駆逐されるまで戦いを継続するという高圧的なものでした。
 だが、この高圧的な条件をスペイン帝国は飲むことになります。この背景には、アステカの財産を掠奪しつくしていた事と、すでに当地のインディオが自分たちがもたらした疫病で数が激減していた事により今後利益を生むのが難しい事がわかっていたのと、『セカンドインパクト』が全欧州に伝わっており、その東洋の帝国への得体の知れない恐怖があったからです。また、欧州各国の動向に不穏なものが起こりつつあり、遠方の植民地の事で事態を大きくすることを嫌ったからでした。結局スペインは、大して利益を生まない北米大陸に見限りをつけたのです。
 そして1577年、キューバ島のグアンタモナで条約の調印が行われ、以後スペインと北米アイヌは小さないざこざを繰り返しつつも北米で共存を続けることになります。
 しかし、アイヌは新たに進出したメキシコの大地を見て愕然としました。そこには破壊され尽くした高度な文明の廃墟と収奪により荒廃した人々の生活があったからです。この景色を見たアイヌ人は決意しました。この大地は他のような緩やかな同化などでなく、本国と同等かそれ以上の強い意志をもって統治を行わなければ滅んでしまう、と。
 ただちに、当地における応急処置的な復興が開始されます。またそれと平行して現地の詳細な調査と国土再建の為の計画が練られました。そして、それぞれが一応の成果を収めると、メキシコ復興計画がアイヌ本国の強力な行政指導のもと開始されます。それはありとあらゆる分野に及び、新しいアイヌの国をアステカ王国の廃墟の上に建設する事とする程のものでした。当然、心理面でのアステカの民の反発はありましたが、アイヌは本国同様の厚い施政を施し、物的にこれを意図せずに封殺してしまいます。また、当地の文化の復興も熱心に行ったことが、アステカの民心がアイヌに心を許す事となりました。ですが、一度スペイン人により徹底的に破壊されてアステカ文明を復興させる事は現実的に不可能だったので、結局アステカ文明は一部遺跡と神話面での宗教的な側面、そして建築、芸術など文化面だけが残される形で消滅しました。これは、激減したアステカの民に代わり、多数の北米諸部族がアイヌの指導の元移民して来ることで決定的となり、アイヌの近代的な文化、文字、文明の利器の数々が止めとなり、17世紀に入る頃には全く違った国家をメキシコの大地に出現させる事となります。そしてこの流れは、アイヌが北米開発を最重要課題とする17世紀以降より加速される事となります。
 ちなみに、このアイヌの復興がなければ今なお美しい水の都として知られるティノティティラントは、スペインの手によりただの高原都市となっていただろうと言われています。



第四節 セカンドインパクト(タタールの二度目の衝撃)   第六節 文禄、慶長の役