第六節 文禄、慶長の役

 1592年、アイヌ国は日本豊臣王朝と戦端を開きました。二度目の日本との本格的な軍事衝突です。しかし前回と違うのは、アイヌの方が先に日本に戦争をしかけた事です。
 アイヌは、日本との戦争が避けられないと察知すると、全大東洋に展開していた海軍の主力をモショリ本土と日本近海に呼び寄せ、国内では予備兵力の動員が行われ、また陸軍の主力を北ユーラシアより呼び戻し可能な限りの体勢をもって、まずは武力を背景にした恫喝外交を展開しました。
 しかし、その軍事力を笠に着た高圧的な外交に激怒した豊臣秀吉は、日本全土に動員を下命し、全面対決の姿勢をとります。
 豊臣秀吉を屈指の戦略家と見て行った外交政策が裏目に出た事に動揺の見られたアイヌでしたが、秀吉の動員令に対しての対抗措置がただちにとられました。
 アイヌの過剰防衛反応が顕著に出たのです。彼らは全く躊躇する事なく、すでに全日本を射程圏内に収めていた全海軍艦艇に対して、日本の全てに対する攻撃を命令し、陸では挑発を行い自慢の国境線沿いに建築された野戦要塞群におびき寄せ、彼らが身動きできなくなったところを、大陸の戦闘で圧倒的威力を発揮した騎馬軍団を以て包囲殲滅を行い、一気に勝敗を決しようとしました。
 一世紀前とは、自分たちの力は全く比べ物にならないぐらい強大であるととの認識に立った上での戦争計画でした。しかしそれでも、引きつけてから殲滅しようと言う考えを持っていた所が、日本に対するアイヌの潜在的恐怖心を現していると言えるでしょう。
 実際の戦闘もエミシュンクルに寄ってくる日本軍を国境線の野戦要塞群によって足止めしている間に、圧倒的な海軍力が日本の全ての海上交通を遮断し日本の継戦能力を奪い、日本の軍事的なイニシアチブを完全に奪うことに成功します。しかし、日本政府、とりわけ豊臣秀吉が自らの敗北を認めないことから泥沼の様相を呈するようになります。
 そこで第二段階として待機していた騎馬兵団を、当時まだ皇太子だったエミシュンクル・サンクスアイヌ・マサムネ、日本でも独眼流正宗として有名なマサムネ王子が率い、日本軍の一部(平野部に陣取った数万の大軍)を蹂躙する事で日本側の目を覚まさせる事となります。
 それをもって豊臣政権中枢部へのショック療法として、いっきに休戦へと持ち込むことに成功します。これが世に言う『文禄の役』です。
 アイヌの戦略は完全に機能したことになります。ですが、ここまで戦争計画通りに事が運ぶことは珍しいと言えるでしょう。
 さてここで、他の地域との連動もあるので、少しアイヌの海外活動を補足しておきたいと思います。
 1592年当時アイヌの海外領土はどうだったのか? その頃アイヌは、大陸ではウラル山脈より東の北ユーラシア大陸の覇権を得ていました。また近隣の当時満州各部族もその影響下に置いていました。この流れは、ロシア帝国の東進と満州族のヌルハチの台頭まで続くこととなります。
 次に北米では、北西部の統治体制を完成し西部へ向けての進出が始まろうとしていましたし、メキシコ地域では大規模な再開発が行われていました。このアステカ開発にほぼ北米の力の大半を投入していたので、しばらく他の先住諸部族とは交易以外では殆ど交流を持つことなく、経過する事となります。
 また、東南亜細亜では、呂宗やジャワでの交易問題でたびたびスペインと衝突しており、1591年に軍艦同士の戦闘にまで発展します。ですが、双方ともそれぞれの理由から全力を上げて対処する意志がなかった事から、東南亜細亜各地で小競り合いをしつつお茶を濁していました。
 アイヌ側の非戦理由は、投入すべき戦力がないからに他なりませんでした。その代わりに多数の忍(間諜)が東南アジア全土に放たれ、活発な活動を行っていました。
 そして文禄の役の後、アイヌと日本は同盟関係を結び、当時お互いの問題となりつつあった南蛮との亜細亜交易問題を一気に解決すべく、西欧との対決に乗り出す事になります。
 数年の日本の準備期間の後、1595年4月、日藍連合軍は千隻の軍船と10万の大軍をもってスペインが植民地としている呂宗全土を急襲、これを短期間で攻略します。ここに慶長の役が勃発します。
 その後戦線を、ジャワ、馬来と東南亜細亜全域に広げた日藍連合軍でしたが、植民地軍でしかない、欧州各国の軍を瞬く間に席巻し、現地の先住勢力との平和理な交易と相互防衛条約を締結し、南蛮勢力の反撃に備えました。
 その後、1597年にスペインによる大規模な反撃が、ペナンとジャワにて行われましたが、これを苦戦しつつも退けることに成功した日藍連合軍は、その余勢をかって印度洋へすらその足を向けつつありました。
 ちなみに、最終的に東南亜細亜以西に欧州勢力を駆逐することに成功したこの戦役で、アイヌは3万の陸軍と海軍の主力を投入します。
 その当時のアイヌ海軍は少なくとも亜細亜・大東洋地域では最強の存在でした。各国の資料が正しいと仮定するなら世界最大クラスの戦力とすら言えるでしょう。その大海軍を財政を悪化させることなく建設したアイヌの経済力は、当時のスペインすら凌ぐのではとすら言われています。また、同様に短期間に大きな海軍の建設に成功した豊臣王朝の力も恐るべきものがあったと言えるでしょう。
 戦争当初の海上ではアイヌが主力を努める事になりました。通商航路保護、通商破壊、船団護衛の7割がアイヌ軍艦でした。役の最後の頃になると、ようやく出そろった日本軍船によりそのかなりが肩代わりされましたが、それでもまだアイヌ海軍の方が日本水軍よりも圧倒的な戦力を誇っていました。当時の日藍双方の文献がそれを示しています。日本は侵攻船団と主力艦隊を揃えるのがやっとだったと言われています。
 全東南亜細亜を戦場とした慶長の役は、1598年の豊臣秀吉の死去による日本側の一方的とも言える停戦協定により突然休止します。
 これにより、南蛮勢力は怨嗟の心を胸に秘めつつも平和理に本国へと撤収していきました。
 一方、陸上戦力の主力をなしていた日本軍の撤退も凄いスピードで行われ、アイヌもまたそれに合わせる形で軍の引き上げます。アイヌとしても東南亜細亜の権益と、アラブ航路が守れたのでこの戦争の成果に十分満足していました。日本については言うに及ばないでしょう。豊臣秀吉の死去は国内における丁度良い引き際の口実となったのです。
 もし、秀吉が数年長生きしていれば印度での泥沼の戦争になっていたと言われています。そうなっていたら、アイヌと日本の国力は急速に消耗し、大東洋での繁栄を築くことはできなかったのではないかと言う研究論文が多数あります。
 そしてその後、アイヌ軍はインドネシアを除く東南亜細亜から姿を消しました。
 これは、慶長の役勃発前の日本との取り決めによるものです。『伏見の和約』として知られている、それ以後の日本とアイヌの共存関係を決定づけることになる取り決めでした。
 その内容は今日でもよく知られているように、アイヌは北と西を日本は東と南を統治するというものです。例外として当時香辛料貿易で莫大な富を上げていたジャワ各国だけが引き続きアイヌの勢力として残ることとなり、残りの亜細亜交易が日本人の手に委ねられることになりました。これによりシベリア、北米の開発、交易に日本は政府レベルで参加できなくなります。これは100年ほど前のスペインとポルトガルのトルデシラス条約に似た地域分割統治条約でした。
 結果として両国は平和な共存関係を作り上げ、それぞれ繁栄を築き上げましたが、もしここでもめつつも全土の統治を行っていれば、もっと強大な帝国がその半世紀ほど後に出現したのではないかという説もあります。



第五節 ニューホライズン(新大陸進出)   第七節 大帝国「アイヌ」