第七節 大帝国「アイヌ」

 17世紀初頭、日本が戦国時代最後を迎えようとしていた頃、アイヌ国が最も大きな版図を有していた時期になります。では、そのアイヌの勢力はどうなっていたのか。史家によりその判断は異なりますが、おおむね以下のようになります。
 東はウラル山脈より東のシベリア全土と一部中央アジア地域、南は大東洋(太平洋)の島のいくつかとインドネシア地域の一部(そして全土の交易の利権)、北米大陸の西半分(西経110度あたりまで進出していたと見られる)とメキシコ全土、そして環オホーツク海、環アレウト海、日本本州の一部とアイヌ(ウタリ)本土(モショリ、クイエ島)よりなります。しかもそれ以外の全大東洋、亜細亜地域にも日本との協定の元膨大な数の交易船を派遣しており、その交易の足跡はほぼ全世界に及んでいました。そしてそれらを巨大な交易船団と艦隊が海を結び、陸では高度に発展した機動兵団が、整備された交易路を維持していました。当時、凋落の始まっていたスペイン帝国に代わり欧州で彗星のごとく勢力を拡大していたオランダ連邦は、一時期英国でもスペインでもなくアイヌ国を交易の最大の障害と見なしていた程です。
 特に1601年即位のエミシュンクル・サンクスアイヌ・マサムネ王の時代(1601-36)は、版図とそれらを結んだ交易によりアイヌ国が最も栄えた時期でした。地図で見ればその版図がいかに広大であったかが分かると思います。
 ですが、その広大な領土を版図を有していながら、その人口は非常に少なく全ての地域の人口を合わせても1000万人に届きませんでした。アイヌ自体の人口も400万人程度でしかありません。その少ない人口で、強大な軍事力と膨大な商船団を維持していたのです。本国の農業生産が難しいという現実を考えると、この時期のアイヌの膨張はほぼ限界に達していたと言っていいでしょう。その証拠にこの後新しく組み込んだ版図の経営に熱心に取り組みます。しかしそれでも欧州各国にしてみれば、東洋の果てにある強大な軍事力と経済力を持った不気味な大帝国と写りました。さらに日本が東南亜細亜に進出するとその警戒感はピークに達します。
 こうした中、それでもオランダは東洋進出をかけてジャワなどへの浸透を行おうとしましたが、その目論見は日本、アイヌの強固な連携により阻止され、オランダは軍事的な進出が不可能であると悟ります。それは、他の欧州各国も遅かれ早かれ同様に悟る事となります。そして、その東洋の得体の知れない二つの帝国の軍事力に怯えた欧州各国は、19世紀に入り世界帝国を自認した英国がその扉をこじ開けるまで交易以外での東洋進出を控えることとなります。また、交易も巧みな交易外交を展開したオランダのみが成功し、ある程度の繁栄を築くこととなります。
 この状態が俗に言う東洋の『パックスニッポニア』の時代です。ですが、なぜか『パックスアイニーナ』という言葉は生まれませんでした。これは『伏見の和約』以後、南蛮の大東洋の入り口の東南亜細亜の軍事的支配を日本が行っていたからだと言うのが一般的ですが、欧州人が日本とアイヌを同一存在とみなしていたからだと言う説もあります。これは、豊臣幕府の職制がアイヌの制度の多くを自国に合わせた形で導入していた事と、アイヌ語と日本語がよく似たものだった事から欧州人がアイヌと日本を神聖ローマ帝国のような一種の連合国家だと認識していたからという文献が多数見受けられる事からかなりの信憑性があると思われます。
 ともかく、『パックスニッポニア』の中、アイヌは北の大帝国として北亜細亜・大東洋地域に君臨していました。5倍以上の基礎国力(人口)を持つ日本が容易に追いつけないほどの大国だったのです。しかし、アイヌはそれ以後の拡張をほぼ停止します。それはアイヌが版図に組み込んだ地域の自国化を熱心に押し進めたためです。彼らは100年かけて自分たちが新たに版図として組み込んだ地域全てをアイヌ化し、高度な文明社会としようとしたのです。そしてそれにより発達した国力をもって欧州に挑もうと考えていたと言われます。それだけに、アイヌ人は各地の経営を熱心に行いました。社会資本の整備は言うに及ばず、当時から教育、医療の普及という最も金のかかる事業にも熱心に取り組みます。特に自国の近隣と、本来高度な文明を持っていたアステカ地域の経営には熱心でした。
 またマサムネ王は、皇太子時代の華々しい戦歴も有名ですが、アイヌ王となってからのその治世において後の150年近いアイヌの状態の基礎を作り上げた事でもよく知られていると思います。
 既に問題が指摘されていた縦割りの官僚組織を初めとする政治形態の改革、国内産業の振興、より斬新な海外政策の推進、どれもこの時点で行われていなければ早期にアイヌ国が衰退していた可能性の高いものばかりでした。特にメキシュンクル大領の建設と、アムール、西シベリア地域の大胆な撤退は国内の反発も強く、それだけに後世におけるマサムネ王の功績は高く評価されています。


第六節 文禄、慶長の役   第八節 北米開拓