第八節 北米開拓

 メキシコ開発は、サットマリ(スペイン名:サンディエゴ)を拠点として膨大な資材が運び込まれ、富の移動に伴う移民が流れ込み、街を建設し街道を整備し、水路を開発し、鉱山を開き、産業を興し、農地を切り開きました。
 また、ティノティティラントの再建など元アステカ文化の再興にも力を入れ、約一世紀をかけてアステカの街々は、かつての繁栄を取り戻す事となります。もっとも、かなり東洋(アイヌ)文化が混ざり合ったものとなり、文字もアイヌ文字が取り入れられ、最早アステカ文明とは呼べないものになってました。また生け贄の風習をはじめとする非文明的な風習は、すでにスペインによって葬られていた事とアイヌ達も認めなかった事から歴史の中に抹殺されました。
 さらに、現地経営と共に法制度や統治制度の整備も進められ、アイヌ本国となんら変わりない統治制度が施行されていきます。ただ、問題が一つだけありました。それは本国より広大な地域を遠くアイヌ王が治めるのには、距離的な問題があり難しかった事です。このため、自治が可能と判断された段階で、メキシコ地域の統治は独自の方法が採用されることなりました。その制度は、アイヌ本国と同じ制度を現地でも採用し、準独立地域にする事でした。
 西洋風に言えば、辺境伯領の建設とでも言えるのかも知れません。ですが、強力な官僚制度を誇るアイヌだっただけに、新たな王国の建設にも全く抜かりはありませんでした。
 メキシュンクルのと呼ばれ一つの地域に指定されたのは、北米大陸の南東部全域をその周辺地域で、その統治にあたるのは、現地で最も功績の大きかった貴族であり根元氏族のひとつでもあるノチウ=ピリカ天爵家と2つの王家の分家、そしてアステカの先住部族の有力3氏族が統治する事となります。
 それらがアイヌ本国と全く変わりない制度のもと領主(国王)として選ばれ君臨し、その封土はメキシュンクル大領と命名されました。大領はメキシコのためだけに新たに作られた封土の呼び名で、そこを治める者の地位は、メキシュンクルに限りアイヌ王に次ぐものとされ、メキシュンクル全土の統治権を持ちました。ただし、海軍の保有はアイヌ国王のみに許された特権とされ、これだけはありませんでした。
 メキシュンクル大領は1606年に成立し、以後メキシコ高原の開発を熱心に行いつつ順次北東の平野部へと広がっていきます。そして1682年にミシシッピ川以東をフランスとの協定で、アイヌ・メキシコ勢力圏とし、メキシュンクル大領はテキサス地域(テキサシュンクル)を新たに封土として組み入れます。以後、アイヌ本国と連携しつつ国内産業の発展に力を尽くし、19世紀初頭にはアメリカ両大陸で最も豊かな地域として知られるようになります。
 そしてこの地がアイヌ本国から完全に独立するのは1821年、アメリカ合衆国と諸部族連合の戦いに業を煮やした事を契機としています。また、新出雲国(現:カリフォルニア州)より北は、諸部族を初めとする、アイヌ・日本の経済覇権の及ぶ地域とされていました。
 では、17世紀以後のメキシコ以北の北米情勢はどうだったのでしょうか。その辺りも少し触れておきましょう。
 北米の最も肥沃な大草原は先住諸部族のものでした。アイヌはその隙間に入り込み勢力を広げますが、強引な進出、掠奪や侵略にはほとんど手を染めませんでした。それは以前近隣の併合の際にかなり強引な併合を行った後、その後の統治がかなり大変だったという経験から来ています。
 そこで当面は彼らとの交易を盛んにし財を築く事だけで満足し、ゆるやかに自分たちとの文化や価値観を共有しつつ同化を図る長期的な施策を行いました。これは、北西部地域ではかなりの成功を収めますが、1620年に日本との協定で新出雲(現:カリフォルニア州)地域の豊臣幕府との共同開発が始まるとメキシコ以外の南部地域では、その経営はあまりうまくいかなくなります。それは新出雲での開拓と開発がかなり強引に行われ、先住諸部族と摩擦がおこったからです。これにより新出雲とその周辺地域での植民地経営には成功しますが、北米全体の経営という点では大きなマイナス要因となります。さらに18世紀に入り移民が大規模に行われるようになると、対立関係はかなり深刻なものとなります。それは、北西部の比較的友好的な諸部族の心証すら悪くするものとなり、先住諸部族のアイデンティティーを刺激し、アイヌが1世紀以上かけて行った施策を無駄にしかねないものでした。
 遅蒔きながら色々な対応が行われましたが、あまりうまくいきませんでした。一時期、強引な武力併合をしようとする意見が大半を占めた程です。ちなみに後世から見ると、もしこの時点で武力併合を行っていたら、その後すぐに欧州勢力と二度目の北米での軍事衝突が起こり、うまくいけば北米の全てを日系国家が手にすることができたのではないかとする意見もあります。
 そうした中、情勢が変化します。それは1763年にイギリスが北米大陸の東半分の支配権ほぼ手中にした事で、それまでフランスを英仏の対立関係から味方に出来た東部各先住諸部族が、イギリスと単独で対抗せねばならなくなった事でした。これは1783年のアメリカ合衆国独立とアメリカ合衆国の西部開拓が本格化する事で東部各先住諸部族の不利が決定的になる事で事態はより悪化します。
 そこで、東部各先住諸部族は西部諸部族に助けを求めると共に、西部地域に大きな勢力を広げていた東洋人に援助を求めてきたのです。
 これを事態の建て直しの救世主と見た現地アイヌ勢力は、積極的な援助と協力を申し出、さらに本国へ矢のような催促を送りました。こうして北米での欧州勢力との対決が再び表面化し、次なる全面戦争へと発展する事となります。


第七節 大帝国「アイヌ」   第九節 北海道成立