第九節 北海道成立

 17世紀後半、シベリア全土をその版図としていたアイヌでしたが、18世紀中にその版図を大きく減じる事となります。どうしてそうなったのか、その辺りを見てみましょう。
 16世紀半ばにワルシャワにまで足跡を記したアイヌでしたが、海洋航路の発展により、主にコスト面から陸路による交易に益を見いだせなくなったアイヌは自ら版図の縮小を開始します。
 そして早々に中央政府の意向もあり、1570年にはせっかく越えたウラル山脈を再び戻る事となりました。
 しかし、行きと違う光景がそこには広がっていました。絵巻物や当時の文書などからも知られている歴史的な民族の強制移住が行われており、その移動する隊列が夏になる度に陸続と東へ東へと続いていたのです。
 国家規模で東欧地域からの収奪を行ったアイヌでしたが、国家規模で行っただけにその行動は、計画的で全く手抜かりがありませんでした。東欧からの撤収が決まるか早いか東欧からの移住計画のため膨大な予算が組まれ、大量の人員が割かれ、西へ向けて大量の荷馬車と馬の行列がまず東欧目指していきました。
 本国から積んでいった荷物は、今までと同様現地でのプレゼンスを維持するためのアイヌの力を支える兵器の数々でしたが、その量も荷馬車の数に比例して異常でした。しかし、道を進むにつれその荷馬車の荷物は減っていきます。これはそれまで同様周辺友好諸国に大量の武器売買を行っていたからです。それは過去半世紀アイヌが常日頃行っていた事でした。しかし大きく違っていた点がありました。本来なら、武器を売った時点でその国の産物を積み込み引き返す荷馬車の隊列が、物産を積み替えてさらに西を目指したのです。しかもその全てが。そしてさらに数を増して。
 そして数ヶ月をかけて一万キロを踏破した隊商が行き着いた先はポーランド王国など東欧諸地域。そこでアイヌが奪った全ての品を載せてようやく引き返し始めます。もちろん、現地でも膨大な数の馬車とそれを引く為の馬や牛、ロバが用意されました。集積地に集まった百万とも言われる荷馬車の群は、地平線のかたなまで埋め尽くすほどだったと言われています。
 その間、撤退の決まった地域では、計画的なありとあらゆる物資の収奪が行われていました。それは個人や盗賊レベルでなく国家規模だけに徹底していました。東欧で『史上最大の泥棒行為』と呼ばれるだけの事はあります。先でも触れましたが、その地域から全てを持ち去ったのです。そう人間まで。
 ですが、現在ではそれらの研究も進み、単なる収奪でなく、計画的な移民計画でもあったことが少しずつ分かってきています。アイヌの宣布兵や役人達は、東欧のあまりにも低い文明程度と、その貧しい土地にしがみついている新たにアイヌ国の国民となるべき原住民達を見ると、持ち前の熱心さから、東欧の貧弱な大地にしがみつくより新たな新天地へ移民をするよう、各地で説いて回っていたのです。そしてその多くが彼らの声に賛同し、アイヌが用意した巨大な隊商に身を委ねて東へと赴いたのです。
 もっとも、今でもなぜアイヌがそれ程熱心に東欧の原住民の為に移民計画を実施したのかは判明していません。一応は、上でも述べたように新たな国民となるべき人民の生活の貧しさを見かねたからと言われていますが、一説にはニレイル皇太女による独断とも言われています。ですが現在の一番多い見解は、本国近隣人口を強引に増大させようとした為とされています。
 また、本当の意味での収奪も行われていました。これは、当時の戦争としては当然の経済活動であり、勝者の権利でもあったので当然のように行われます。しかも、掠奪を旨としている騎馬民族を多数その傘下に治め、自らも既に習慣化していたのですから尚更でしょう。
 移民に参加した欧州人は主に地理的なことから東欧人からなっておりポーランド人、プロシア人、バルト人そしてトルコ支配下のルーマニア、ハンガリー地域のスラブ系が殆どだったと思われます。その数は学説により色々ありますが、ウクライナ地域まで移動した数は100万人以上、ウラル山脈を越えた者はおおよそ60万人〜80万人。奪った財は人口100万人の文明国を100年維持運営出来るほどと言われています(資料により異説あり。)。
 殿を勤めていたアイヌの軍がバイカル湖まで下がる1630年頃には、それまでに従軍していたモンゴル系各国、氏族もそれぞれの国へ財を持って帰国し、移住者達のかなりも適当な移民場所を見つけて離散していきました。結局、バイカル湖までついていった欧州人の総数は30万人程度と言われます。うち、モショリ本土へと渡ったものは10万人、さらに北米へと向かったのがその後の半世紀の間に数万人程度と言われています。
 その後は、アイヌ人や従属部族と混血したものが多く、正確な数字は分かっていません。残ったもの達はアイヌより爵位を授けられた同族の元結束し、バイカル湖、アムール川流域、そしてモショリ本土に勢力を広げていきます。
 ですが、連れて行かれた、ないしは移住してきたものの中には多数の職人や工人、芸術家が含まれており、アイヌの文化、土木建築、芸術などに大きな影響を与えます。さらに、移民者達についてきたカソリック系宣教師達は、移り住むと同族以外の布教活動を熱心に行い、現在でも無宗教と言われるアイヌ・シベリア地域において最も大きな勢力を持つ宗教となっています(それでも、アイヌ国民の2割程度)。
 そうして、結果として東シベリア地域の新たな入植を成功させたアイヌでしたが、17世紀中頃よりライバルが出現します。満州地域で誕生した清朝(後金)の台頭とロシア帝国の進出です。この二つにより、バイカル湖では、ロシアコサックの進出に忙殺され、アムール流域では満州族の勢力拡大による衝突に苦慮する事となります。
 清朝(後金)に対する政策は、満州全土でヌルハチの勢力が拡大した頃より、交易によるのみとされていましたが、徐々に満州族の勢力が拡大し、後金そして清帝国へと発展するにつれて、アイヌの勢力圏に対しても強引な進出を行うようになりました。一度は軍による衝突まで発展しますが、双方のねばり強い交渉の末、1654年、雲南王国との華南での泥沼のゲリラ戦と、それに影響されたチベット地域の自治問題で混乱する清朝に付け入る形でアイヌ優位のまま交渉は進む事となります。
 この裏には、日本の豊臣政権と共に、明亡命政権、雲南王国、チベットやモンゴルとの連携を明に暗に行ったアイヌ外交の勝利と言えるものです。
 もっとも、これにより清朝からはかなり恨まれる事となります。これはアムールの売却により一応沈静化しますが、清朝の鎖国に影響を与え、北への警戒を強くさせる事となります。
 また、後年清朝が絶頂期を迎える頃、思っていたよりも豊かな東シベリア地域に目を向けるようになると、それはにらみ合いへと発展し、アイヌの軍事的負担を大きくする事となり、この軍事費増大が国庫を疲弊させ、革命の一つの要因へとなります。
 ですが、後金(清朝)との交渉はその後はスムーズに進み、スタノボイ山脈より北の地域は全て売却される事となりました。また、それにあわせてバイカル湖一帯から再度民族の大移動が行われます。当地に残るものもいましたが、アイヌに帰化した欧州人もその大半がアイヌ中央の方針に従い、モショリ本土や東シベリア地域、そして多くが新大陸へと新たに移住していきました。
 また、対ロシア政策は当初、正統な交易の利を説き公正な外交関係により当地域の保持を図ろうとしますが、ロシアの野蛮な侵略はいくら条約を結ぼうと、コサックを追い払おうと収まる気配を見せず、軍の維持だけでも当地を維持する事が中央から見ればばかばかしくなるものとなります。また、まだ洗練された制度を持っていない満州諸部族も同様でした。そこでアイヌは新しく取り入れた宣教師達のツテを使いロシア中央と条約を結び解決を図ろうとしました。また、ようやく近代的な国家を満州に建設した後金との条約を結び、アムール川流域の売却交渉を始めます。当時アイヌにとってアムールもバイカル湖もあまり重要なものとは言えなくなっていたのです。それは近隣の鉱山を掘り尽くし、毛皮も限度まで刈り尽くしていたからでした。
 もちろん、貪欲なロシア人は、それに合わせるかのように進出しましたが、アイヌ軍が断固たる態度で迎撃と護衛にあたったので、それ以上手を出すことは出来なかったと双方の文献が示しています。
 そして、アイヌが完全に東シベリア地域へと撤退した17世紀後半、アイヌと清朝の外交が実を結び、アイヌ国、ロシア帝国、清朝の間でネルチンスク条約が締結されようやく東シベリアの国境線が確定する事となります。
 その後、放牧や林業、鉱業以外で東シベリアの開発が気候的に難しい事から、移民もロシアの進出も停滞します。再び東シベリアが脚光を浴びるのは、豊臣幕府が熱心に各地の移民政策を行う18世紀に入ってからです。移民が再び活発になった背景には新たに鉱山が開発された事と、文明の進歩により北方地域でも多数の居住が可能となりつつあったからです。18世紀の半ばには日藍の協定により双方地域での移民が自由となると、東シベリア地域に多数の日本人が入植するようになり、また人口の増えたアイヌ本国からも移民が行われます。これにより、先住諸部族よりも移民の数が圧倒的に多くなり、中でも日本人の比率が増えました。
 また、元々アイヌの領域とされていたので、双方の移民を円滑に薦めるためには、どちらかの国に併合するには問題がありました。そうした中、今まで色々な呼び名をしてきた東シベリア地域の自分たちの独自性をを強くするため、地域全体を示す名称が付けられることとなります。
 日藍の喧々囂々の討議の結果、北の大地を表すという意味で『北海道』という地名が付けられます。また、当地にはアイヌ貴族が多数封じられていたので、本国と分ける意味で北海道諸侯国と言う名称が1806年制定されました。この辺りは玉虫色の解決を往々にして行う日系民族的決着の付け方と言えるでしょう。


第八節 北米開拓   第十節 宮廷革命