第十節 宮廷革命

 1789年7月、フランスで革命が起こっていたその同じ時期、アイヌでも革命が発生します。フランスと違っていたのは市民革命でなく宮廷革命だった点です。
 1789年6月21日、ちょうど夏至祭が行われるその日、近衛軍の実戦部隊の司令長官であったイトコノ親王近衛軍天将が、深夜未明、閲兵式の為首都集まっていた子飼いの近衛軍と直卒の首都警護部隊を率いて瞬く間に首邑ウソリケシ主要部を制圧し権力を掌握します。そして国民、とりわけ都市部の住民の圧倒的支持のもと臨時政府の宰相に就任することであっけなく勝負はつきました。
 革命の最大の原因は、最近までは選王制度の形骸化と宮廷費の増大。また、それぞれ勝手な勢力争いを激化させてしまった官僚の腐敗にに対する国民の気持ちを代弁したイトコノ皇太子を中心とするグループの義挙によるとされていました。ですが、最近の宮内省からの機密文書公開で、歪んだ形での官僚専政が進んだ事に対する、王族や一部貴族の計画的な中央政府の計画的軌道修正の為の改革であったという事実が判明しています。
 この時、官僚組織が縦割り社会である事の弊害が噴出し、またアイヌでは酷く忌避される一部大商人と高級官僚による癒着が頻繁に行われ、また衆民の生活を考えない各省庁の予算の奪い合いとそれを最も悪化させている軍備の増強があり、それにより法外な増税が頻繁に行われていました。
 清廉と勤勉を謳われたアイヌ官僚団がこのように腐敗したのは、建国当初と違い国家が大きくなるにつれて多数取り込まれた周辺部族と日系移民の影響と言われています。また各王家や大貴族の一部は、特権階級としてその権力の上にあぐらをかき豪勢な生活を行い、国費と公費の乱費を行っていたのも事実でした。
 さらに、多数の民族が移民などにより国内外を問わず増え、環境になじめなかったりしてアイヌ社会から阻害される者も出て、それらによる治安の悪化はこの時期一つのピークに達しており、それら様々な理由で衆民の不満が頂点に達していた時期でもありました。
 そうした世相を敏感に感じ取り、持ち前の職業意識を刺激された一部の王族、貴族が行動を起こしたと言う事を記した秘密会議の議事や中心人物の文献が発見、公開された事から判明することとなりました。また、官僚腐敗だけが宮廷改革の引き金というのは、アイヌの政治制度からして不自然過ぎると言う学説を裏付けるものとして、今現在その資料を基にした新しい解釈による研究が進んでいます。
 そうして王族、貴族主導による革命は断行され、エミシュンクル・サンクスアイヌ・イトコノ皇太子がその代表となり、それまでにたまった膿を出すために、国家を再生させるべく行動が開始されました。
 革命は、未明のイトコノ皇太子の直接指揮による王宮と官庁街に始まるあらゆる首都機能の制圧をにより開始されます。これには革命に賛同した多数の貴族、王族、皇太子(女)が参加しており、その範囲は政府中枢にまで及び、その深いネットワークがあればこそ早期に全てを制圧できたと言えるでしょう。イトコノ皇太子は、首都の制圧と共にアイヌ全土にそれを布告し、国民の賛同を得るべく次への行動を開始します。また、この首都蜂起と共にモショリ全土の主要都市も同様に革命勢力により制圧され、臨時に指導者となった者たちはただちに革命政権の支持を行いました。さらに革命政権の支持発表は、8王家のうち5つまでが即時に行いました。
 事実を知った国民も革命政権が打ち出した方針を支持し、ここに国王を現状のままとしてイトコノ皇太子が宰相として就任して、この改革を指導します。
 なお、宰相という役職はそれまでのアイヌ国制度にはもちろん存在せず、この時新しく制定された役職で、その名の通りイトコノ皇太子が一時的に国政の全権を握る事となります。
 改革の主な点は王族、貴族の腐敗を正す為、行いの酷かった氏族は改易、爵位の剥奪が行われ、官僚もその不正に応じた厳しい処分と、組織そのもの改変に大きなメスが入れられます。ですが、今までの制度そのものは、現状に則さないいくつかの取り決めが変更された以外は、監視機構を強化する点と他の組織との繋がりを強くする点を除いて大きな変化はありませんでした。
 ですが、この改革での最も大きな変更点は憲法と議会の制定でした。これにより今まで国王と元帥、官僚組織による権力機構で運営されていた政治に、一般国民全てが参加できるようになりました。
 この二つの改訂でアイヌは初めて立憲君主制度を持つ事となります。議会は欧米と同様上院と下院の二つからなり、どちらも全国民からの選挙で選出される議員により構成され、二つの議会による立法組織として整備されます。ただ、アイヌ国が元々絶対的な王権を持つ国家だった為、宮廷改革という点もあり国王の権限はなお強大なものとして残される事となります。このため、元々とのアイヌの王制と相まって「世襲制大統領制度による立憲国家」と揶揄する研究者もいます。
 これは特に軍備において顕著で、近衛軍の整備と引き続き海軍の独占がそれが象徴されていると言えるでしょう。
 それ以外の改革としても、色々細かな点で各種改革がおこなわれましたが、この革命によりアイヌ国は対外的に「アイヌ王国」と名を変え、立憲君主国家として再出発する事となりました。
 また、この一連の改革の中、貴族の称号と軍の階級に関しての名称が国際的に通用するものへと改訂(天爵=公爵など)され、現在の形にとなっています。


第九節 北海道成立   第十一節 産業革命