第十二節 新大陸動乱

 メキシコ王国。19世紀初頭全(北、中、南)アメリカ大陸で最も豊かな国として知られる存在でした。アイヌ本国から完全に独立したのは北米大陸に動乱の嵐が吹き荒れる1821年でしたが、独立は戦火を交えることなく平和理に行われたため、その後も宗主国であるアイヌ王国との関係は良好なものとなりました。これにはアイヌ伝統の長期的な損得勘定で外交を行うという姿勢を双方が持っていたからこそ実現した、外交史上の奇蹟とも言われている事件です。
 メキシコ王国は、アイヌ王国により完成された優れた統治制度と、勤勉な国民意識によりゆっくりと、そして確実な発展を遂げ、またアイヌ本国や北米の黄色系勢力との交流を深くしつつ繁栄を築きあげました。その版図は、メキシュンクルと呼ばれる本土地域とテキサシュンクルと呼ばれるミシシッピー川以西の平原部に大きく分かれていました。また、メキシコ王国の繁栄は、北米西海岸が全て日系国家の勢力圏であったことがそれを補強していました。さらに、諸部族連合が北米の西半分を版図としていることは、白人勢力に対する国防上の大きな助けとなっていました。このような地理的状況もあり、メキシコ王国は国防にあまり金を投じることなく、順調な発展を遂げていたのです。
 しかし、19世紀前半に大きな変化が訪れます。
 それは「第一次北米動乱」、諸部族連合+アイヌ王国vsアメリカ合衆国の戦争がその発端となりました。メキシコ王国は、アイヌ王国の奨めもあり局外中立を維持しました。これはアイヌは、自分たちが作り上げた一つの理想郷であるメキシコ王国に戦禍が及ぶことを恐れたからだと言われています。
 この戦争そのものは、ろくに戦争準備もしていないアメリカ合衆国の惨敗で終わり、現在のアメリカ連合の三分の二にあたるミシシッピー川以西が一時的に諸部族連合の勢力範囲となります。
 このまま推移するなら、四半世紀後には白人政権を北米大陸から駆逐できるのではと、皆が考えた程の状況の変化でした。しかし、ここで事態はさらに変化します。戦争で大勝した諸部族連合が、南で一人繁栄を謳歌しているメキシコ王国に対し、手のひらを返したかのように厳しい外交を行うようになったのです。これは特にテキサシュンクルに対する強引な移民の送り出しなどに始まる強引な勢力拡大政策と内政干渉に象徴されました。
 また、新出雲(現カリフォルニア)を中心に大きな勢力を持つ豊臣王朝の入植地域、通称「新出雲諸侯国」も、自らの勢力拡大のための手段を選ばず、強引な展開を行っていました。これは、19世紀初頭にはロッキー山脈を横断し、コロラド川流域をその勢力に収め、テキサシュンクルへと勢力を伸ばしてくることでメキシコ王国との摩擦が発生していました。
 当時テキサシュンクルは、メキシコ王国の一つの大封として扱われていましたが、別地域として行政的に区分されていた事から、移民に関して特に寛容で、さらにアイヌ系国家の常として極めて優れた行政がなされてていました。このため、多数の白人が入植するようになり、大きな勢力となっていました。
 このため、西海岸から進出してくるニッポニーズ(日系移民)と、東海岸から移民してくる白人移民との激しい摩擦を生むことになります。特に白人移民にとっては、インディアンどもとの抗争により西部の大部分が入植の難しい地域だったため、フロンティアが西部ではテキサシュンクル(現テキサス、ルイジアナ、アーカンソー、オクラホマ州)しかないことから、多数が押し寄せることになります。
 こうした流れは、戦争により加速されそれが10年近く過ぎた1835年、にわかにテキサシュンクルに独立運動がまき起こりました。独立運動はメキシコ王国からの完全な独立を目指していましたが、武力に訴える姿勢は取られず、当初は平和理にティノティティラント政府との交渉が持たれました。
 しかし1836年にはいると、白人を中心とした独立急進派は、武力を持って恫喝に出ます。
 当時のテキサシュンクルは、メキシュンクルの総人口約2500万の三分の一程度でしたが、主にアメリカ合衆国に備えるために軍の主力が置かれており、その大半がテキサシュンクルに帰属する事を宣言しました。これに驚いたティノティティラント政府でしたが、テキサシュンクルとの交通の要であるアラモ市(要塞)に兵力を集中し恫喝の姿勢を取りつつも粘り強い交渉を続け、あくまで交渉を持って事態の解決を図ろうとしました。これに、テキサス独立穏健派も応え、ついに戦火を交えることなくテキサシュンクルは、テキサス共和国として独立を宣言する事となりました。
 また、同時にそれまであいまいだった新出雲との境界も明確にされました。
 国境線は、リオグランテ側東側のエルパソ-ペコス川-30度線-アラモ-レフジオ-メキシコ湾より東側がテキサス共和国領となりました。また、独立にあわせて、数年間をかけてどちらに住むかを住民に委ね、移動が行われました。
 こうして、北米の地図が書き変わりましたが、それはテキサスという存在が白人対有色人という対立を考えた場合、極めて戦略的に重要な存在となったことを意味しました。テキサス共和国が、白人側に付くと有色人種が極めて不利な状況となるばかりでなく、出雲を拠点とするニッポニーズにとっては、喉元にナイフを突きつけられた状況となるからです。
 独立当初テキサス共和国は、どちらにも属さずメキシコ王国同様双方に対する中立を維持すると宣言していましたが、独立後、豊かな大地という風聞を聞きつけた白人入植者を多数迎え入れる事により、徐々に白人よりの政策を取るようになります。
 ちなみに、この当時の北米大陸を人口から勢力別に見てみると、アメリカ合衆国2500万人、英領カナダ300万、諸部族連合1200万、メキシコ王国1800万、日本領新出雲1000万、テキサス共和国800万人となります。
 そして1945年、突然テキサス共和国は、アメリカ合衆国への帰属を宣言します。
 この事実上の公約無視に激怒したのは、当のメキシコ王国はもちろんですが、諸部族連合もこれを激しく非難し、撤回されないならただちに宣戦布告を行うと通告を行いました。これに、アメリカ合衆国も法的にはすでに自国領土となっているテキサス地域の防衛のために双方に対して宣戦布告を行い、北米大陸全てを巻き込んだ全面戦争へと発展します。そして、さらに北米に大きな利権を持つ日本、豊臣王朝もメキシコ側に立って参戦し、アイヌ王国も同調しました。
 こうした勢力の違いから、戦争は黄色人種同盟の圧倒的優勢の元開始されたと思われた訳ですが、周到な準備を行っていたテキサスの動きにより大きく番狂わせの様相を見せます。
 当初テキサスは、宗主国であるメキシコとがっぷり四つに組んだ戦いを行うものと思われていましたが、アイヌの伝統を受け継ぎ、合衆国から英国を経由して輸入された大陸の新兵器を多数装備した、精鋭兵団をもって、一気に日系の心臓部で事実上の首邑である新京(現ロサンジェルス)を突きました。
 また、1924年の敗戦を経験として飛躍的に増強されたアメリカ合衆国軍(7万から30万に増強されていた)は、大平原の会戦で諸部族連合軍を撃破し、平原よりインディアンを叩き出します。
 弧状列島から大軍が到着する前の出来事でした。
 この敗戦に特に狼狽したのは、既にアジアで白人勢力に敗退を経験している豊臣王朝でした。
 増援軍司令官は、ただちに講和特使となり、高坂(現サンフランシスコ)に到着すると、合衆国政府と交渉を始めます。
 また、その間メキシコ王国国境では、テキサス軍の前に前進を阻まれ小競り合いが続いて大きな動きはありませんでしたが、大平原では、先年の復讐とばかりに米軍の追撃が続き、ついに翌年の夏には、当時諸部族連合の首邑とされていた旭川(諸部族達は「太陽の集う街」と呼んでいた。現デンバー)が陥落し、それをもって講和交渉が既に進んでいた豊臣王朝が仲介する形で、交戦各国に停戦と講和が提案されました。
 本来なら、米軍の性格からして、これを半ば無視する形で追撃が徹底的に続くはずですが、遅蒔きながら西海岸各地に到着した日本、アイヌの本国軍が主に心理的にその進撃を止めてしまいました。それに、1000万以上の人間が住む文明地域を侵略するには、増強されたとは言え、当時の米軍では無理があったのも事実です。この事が米国政府にも停戦を促したと言えるでしょう。
 停戦と同時に、陥落した旭川で講和会議が開催されましたが、会議は各国の予想通り紛糾しました。もっとも紛争の当事者と言えるメキシコ王国は、現状の国境線維持を認めさせる代わりに、テキサスのアメリカ合衆国帰属をあっさり認め、南部国境は安定する事になります。これは、メキシコ王国にとって領土問題はすでに解決した事だった事が大きく影響していると言えるでしょう。
 一方、首邑を奪われた、豊臣王朝新出雲新界(制式名称)、諸部族連合とアメリカ合衆国の領土割譲問題は、アメリカの偏執的とも言える領土欲の前に紛糾しました。一時は、会議を蹴って再び戦争かと言うまで事態は悪化しました。
 しかし、実際論としてすでに全ての国はもう一度戦争を行う余力などなく、大軍を派遣して北西部地域でにらみを利かせているアイヌ王国の調停もあり、事態はノロノロと進展しました。結果、売却という形で新出雲新界は合衆国に売却され、諸部族連合の南部地域の半分は割譲、残り半分は売却という形で決着しました。また、売却後は10年間は、人の移動を自由として、新たに移住することを認めるとされました。
 有色人種にとっては屈辱的な敗戦となりましたが、現地民だけでなく、日系全ての人にアメリカ合衆国の貪欲さを見せつけることになり、また敵愾心を植え付けることにもなり、今後約一世紀に渡る太平洋での対立の発起点となったという点が、北米の覇者の出現と共に世界史的には重要と言えるでしょう。
 ちなみに、国境線の大きな変更により人口も大きく変更し、米国合衆国4600万人(占領地域1500万)、英領カナダ350万、諸部族連合900万、メキシコ王国2100万となりました。
 しかし、この後アメリカ合衆国は南部連合と分裂し、分裂戦争で自らの不利をひっくり返す為の切り札としていち早く奴隷解放と有色人種との融和を宣言した南部連合に、新たに米国に版図として組み込まれたテキサス、カリフォルニア(新出雲)がつき、結果として南部連合の勝利に大きく貢献し、以後テキシーとニッポニーズは、アメリカ国内の大きな独立勢力としてその地位を得ることになります。
 特に、西海岸を中心に人口の2割を占めるニッポニーズは、仲の悪い日系国家との交渉、交易にはなくてはならない存在となり、北米西岸の利権を有し、議会にすら大きな発言権を持ち、人口に比例した軍隊の成立という法案を認めさせ、大きな州軍を持ち南部連合の連邦国家としての側面を徹底的に利用した大きな自治独立地帯として、他の北米地域と一線を画してました。
 ちなみに、連合への忠誠心という点では、テキシーはとても高く、ニッポニーズはその正反対に極めて低いと言われています。事実、大きな州軍を持つのに、海軍への志願は極めて少ないのがニッポニーズの特徴となっています。また、彼らは実質的に自らの国を失ったことから、出稼ぎとして世界中に広がっていく事になり、「日僑」として知られるようになります。
 また、この戦乱で豊臣王朝は北米への橋頭堡を失い、諸部族連合は、捲土重来を期して北へと移住していきまいたが、メキシコ王国は、これ以上の戦乱に巻き込まれることをよしとせず、欧州各国すら動かして永世中立国家を宣言し、これを各国に承認させ、その後はアメリカ人になめられない程度の軍備を整えつつも、全ての国から一歩引いた外交を行い、これを維持しました。
 その後北米では、自らの覇権を確立したことに油断した白人達が、アメリカ合衆国と南部連合に分かれ戦争が行われ、これに諸部族連合が加担し、北米大陸はよりいっそう複雑な対立構造を持つようになります。


第十一節 産業革命   第十三節 明治革命