第十三節 レボリューション(明治革命)

 19世紀も折り返し、アイヌ王国が宮廷革命、産業革命、その他の近代国家としての脱皮が完了し、ようやく一息ついた時期、日系社会全体を巻き込んだ大きな動乱が始まろうとしていました。『明治革命』です。
 当時、日系社会の中心であった豊臣幕府は、1824年のペナン海戦による英国への敗北、それによる国内の混乱、起死回生を狙って行われた1845年の北米干渉の失敗、列強との対外交渉の低迷と失政続きでした。また、官僚腐敗、圧政、思想弾圧など、末期的な官僚専制国家の弊害が一気に吹き出しつつあり、それに反発する形で憂国派の諸州が内政の改革を訴えたり、ペナンの黒船以後、特に1850年代より進出著しい外戚の排除を地方自治体が勝手に行ったり、挙げ句の果てには幕府に対して弓を引いたりと、まさに混乱状態、内乱状態にありました。
 こうした中、憂国の志を持つ者を中心として徐々に日本本国内部で革命の気運が醸成されつつありました。一方、日系社会のもう一つの中心であったアイヌ王国は、既に改革を終えていたことと、政府の毅然とした対応からこの混乱に巻き込まれることはありませんでした。そればかりか、この南の国での混乱から生み出されつつあった日系社会全体の改革(御一新)への気運に際して、改革側への大規模な支援を決定します。
 この干渉は、連星国家とすら言える存在とは言え他国に対する干渉ですから、当初、当の豊臣王朝はもとより日系各国、改革勢力の全てが、豊臣王朝の混乱につけ込んだ日系帝国全域の統合による新たなアイヌ帝国を作り上げるための侵略行為と思われていました。
 ですが、水面下でのアイヌ王族と政府首脳部の粘り強い交渉と説得により、純粋に、日系国家全体を西欧列強と対等に渡り合えるようにするための外科手術だと関係各位の理解を得ることに成功します。
 アイヌ側が主に用いた論旨展開は、自分たちとそれに直接連なるレプンモショリ、ニタインクル、北海道などは無事に近世的な産業を持った文明国家として離陸することに成功したが、これらだけでは西欧列強に対抗するには小さな力がないことは明らかで、それは北米、オセアニア地域での失敗が全てを物語っていると前置きした上で、日系国家の中で最も潜在的国力を持ち、本来の中核でなければならない日本本土が、封建的中央集権という旧態依然とした政府を持ち、また内乱同然の状態では、中国同様欧州列強の食い物にされるのは時間の問題で、それを避けるためには内からの抜本的な改革により現政権を打破し、新たな近代的中央集権国家を建設し、それを軸として各種改革に乗り出し、これを核として日系国家全体の総合的な国力を再編成し、西欧列強に対抗するしかないと言うものだった。そして、これを日系国家1億の民(これは、豪州や北米の人口を含む)が団結すれば恐れるものは何もないと結んだと言われています。
 また、これに連動して各諸侯も自治国家として一度独立し、日本本国を補佐しうる近代的な国家を作り上げ、それらを以て巨大な日系連合国家を建設しようと言う壮大な構想が提案されました。
 この案は、おおむね大半の勢力に賛同され、賛同した各地の革命勢力、領主達は、それぞれの地域で活動を行い、これをアイヌ王国が明に暗に支援するという形で実行されることとなりました。
 また、この改革(革命)は、革袋に新しいワインをと西欧から揶揄されましたが、新たな帝国の誕生を感じた大英帝国だけが改革勢力を支持し、以後密接な外交関係を作り上げていくことになります。
(英国が日本の新政府を支持した背景には、新たに版図に組み込んだ地域が、あまりにも日系人が多いことから、新政府によりこれらの統制を行わせようと言う意図があったと思われます。)

 そして、いち早く琉球王朝では、かねてからアイヌ王国同様に内政腐敗の問題に苦慮していた王族の主導の元、一八五三年に宮廷改革が断行され近代立憲君主国家として再出発します。これは、もととも琉球王朝が日系域内でも独立国家として認識されていたのでそれ程問題なく受け入れられました。この琉球での革命は、西欧を押しとどめる防波堤として機能することとなったという点で大変意義深いもだったと言えるでしょう。
 また、台湾では1866年頃より日本本土の内乱が始まると、一時的に豊臣王朝からの離脱を宣言し、英明な君主として知られていた台南大侯である第十二代目君主立花重宗公の精力的な指導の元、1868年に台湾公国と名を改め、新しく成立した日本帝国への帰属を宣言し、立憲君主国家として再出発しています。他の諸侯の領土でも大なり小なりの革命的な動きが行われ、憂国の念が深い現地軍の協力もあり、西欧列強の干渉を排除しつつ政権交代の準備、ないしは政権交代が実行されました。そしてそのいずれも台湾公国同様、新国家成立と共に帰属を宣言しています。
 しかし呂宗では呂宗各大侯と幕府が、改革を訴える民衆と下級武士を弾圧し、それに端を発して内乱状態となっていました。さらに、歴史的な現地人と日系移民の対立を利用した政策が火に油を注ぐ結果となり、現地の政府では収拾不可能の状態となりました。こうした中、フランス政府と義勇兵の助けを借りた(当時フランスは、インドシナの対岸の呂宗政策を重視していた。植民地化しようとしていたとも言われる。)一部の下級武士達が中心となり、現地政府を武力でもって打倒し、共和国家を打ち立てました。その後、日本帝国の成立と共に天皇を元首として受け入れましたが、共和制が変更されることはなく、これを新日本政府も受け入れ安定する事となる。
 そうした域内の動きの中、中枢の日本本土でも大規模な内乱が徐々に終息しつつありました。
 革命そのものは、結局大戦争に発展する事なく、革命側のアクロバット的な政治的詐術により幕府から天皇に主権が返還され、あっけなく決着は付くこととなりました。
 その後の革命の経緯と、内乱については歴史などでもよく触れることですので、ここでは避けますが、アイヌ王国が18世紀にいち早く革命により近世的文明国家へと脱皮していなかったら、この日系国家全域における革命運動は西欧列強の干渉により失敗していた可能性が高く、この事をどの政府もよく認識しており、現在においてもアイヌ王国が日系国家全域で強い発言力を持つ事となります。


第十二節 新大陸動乱   第十四節 二〇世紀の幕開け