第十四節 二〇世紀の幕開け

 アイヌ王国にとって、20世紀の幕開けとはどういうものだったのでしょうか。
 この辺りになると、あまり歴史の時間でも教えていないのではないでしょうか。
 まずは、その少し前から触れていきたいと思います。
 日本本土での政変の後、日系各国(地域)は日本帝国の名の元一つとなり強大な中央集権を持った連合国家として再出発する事になりました。しかしその中央集権体制は徹底さを欠いたものとなります。
 その最大の原因は、日本皇国とアイヌ王国という二つの巨大勢力が存在したからです。
 ですが、似て非なるものである日本とアイヌがお互いの政府の下に立つことをよしとしないので、当初は江戸時代よりましという程度のゆるやかな連合体として再出発する事になります。
 このため、せっかく日本帝国として再出発したにも関わらず、その後の発展はやや低調なものとなります。特に外交・軍事という点においてそれは顕著で、日本皇国とアイヌ王国が一応互いの了承を得つつも勝手に行っているというのが現状でした。
 特に東南アジアでは、タイが日本皇国、インドネシアがアイヌ王国との関係を深くしていました。
 このため、西欧列強に対しても毅然とした外交を展開することができず後手後手に回る事が多く、日本帝国成立の後、良好な関係を維持していた大英帝国から忠告すら受ける始末でした。
 かろうじて、日本帝国として成功した外交は、ハワイ王国との国交樹立と諸外国との平等な通称、治外法権条約の締結だけでした。
 しかし、このバラバラの動きがまずいことに双方気づかずはずはなく、その為の法整備と体制の確立が、日本帝国の成立の時から全力で行われていました。そして革命から20年たった1889年にようやく帝国全体に対する憲法である「大日本帝国憲法」が発布され、翌年に帝国全部による帝国議会が東京で開催されます。こうして少しずつ、統一国家としての体裁と国民意識を作り上げていきました。こうした内政への努力に傾倒しなければいけなかった日本、アイヌとも19世紀中の外交と海外への影響力拡大は低調なものとなりました。
 しかし、統一国家として完全に地盤が固まるまでに、大きな外交問題を抱えることになります。それは朝鮮問題でした。朝鮮は地政学的に、日本帝国全体にとって中国大陸に対する文化の架け橋であると同時にバッファーゾーンとしての役割を持つ存在です。しかし旧態依然とした清朝は、朝鮮を依然として自分たちの属国と認識しており、一方の朝鮮も文化的後進国として日本やアイヌを蔑んでいたので、国交を開く事にすら苦労していました。ですが、進出著しいロシア対策として、朝鮮を自らの勢力圏に組み込む事は日本帝国、とりわけ日本皇国にとっては至上命題だったため、独力での強引な開国を行ったり、自らの勢力圏とするための資本投下などが積極的に行われました。これは、後にアイヌなど日系各地域も参入したので、国内的には特に大きな問題となりませんでしたが、これに清朝と朝鮮の一部が激しく反発し、朝鮮内部の大規模な一揆(内乱)を契機として清朝軍が進駐し、これに刺激された日本皇国軍が独力で派兵を行いました。
 そしてついに1894年、清朝との戦争になります。日清戦争の勃発です。
 西欧列強と対抗しなくてはならないとは言え、大陸国家との連携など毛頭考えたことのない日本皇国は(日本人にとって連携すべきアジアは主に東南アジア、太平洋地域だった)、清朝に対して積極的な攻勢を行います。また、帝国構成国の他の主要国であるアイヌ王国、呂宗共和国、台湾公国も同調しました。
 この戦争を一つの機会として、主に西欧列強に自らの力を見せ付けておこうという意図が強くあったため、志気の低い清朝軍を容赦なく攻め立て、日本帝国連合軍は北京を包囲するところまで進軍しました。
 この行動に、東洋の連携を訴える帝国の一部から反発もありましたが、東洋の海洋帝国として列強や大陸に弱みを見せるべきでないと言う意見が大勢を占め、北京包囲まで行われたのです。
 こうした中、日本皇国の博多で日本帝国と清朝の講和会議が催され、清朝は莫大な賠償金と海南島、朝鮮の総主権を失います。
 この戦争で、アイヌ王国は海軍が一部協力しただけで、大きな役割を果たすことはありませんでした。アイヌ軍主力は、当時東洋への進出著しいロシア帝国を北海道やクイ島で牽制する事で手一杯だったからです。
 そして、その後20世紀に入ってすぐの清朝での混乱(義和団の乱)を契機として、諸外国の進出が本格化します。とりわけロシア帝国は満州全土を制圧し、中国はもとより日本帝国に対して圧力を強めてきます。
 これに日本帝国は激しく反発します。国境が隣接するアイヌ王国も例外ではありませんでした。しかし、もっとも憤怒の念を燃やしたのは日本皇国でした。これは、ロシアが日清戦争の権益を、田舎泥棒のようにかすめ取るような強引な外交を展開したからです。
 一方アイヌは、もう少し冷静に対処していました。米国大陸で二度目の南北戦争が開始されているさなかの1898年には、早くも対ロシア戦備計画が立案され、それに沿って兵器の増産や、軍備の増強、各種の動員準備が進みます。
 この動員計画は、約10年後の第一次世界大戦で欧州各国が行ったものを先取りするもので、ここでもアイヌが軍備を優先して整備するという軍事国家としての名残を見せるものと言えるでしょう。
 日露の対立そのものは、日本皇国が本気になってから帝国を挙げての体勢、挙国一致体勢の確立により戦争準備が進み、そのおかげもあり1904〜5年に行われた戦争で大勝を博すことになります。
 これにより、それまでバラバラだった日本帝国各国は結束を強くすることとなり、この事がこの戦争で最も大きな収穫だったとする史家もいます。また、この戦争により、満州から駆逐し、北海道に沿海州、ウスリー、アムールなどの地域が日本に割譲され、ロシア帝国をアジアから完全に叩き出すことに成功します。

 一方、他の海外施政、特にアイヌ伝統の北米政策はどうだったのでしょうか?
 この頃の北米は、アメリカ合衆国を最大勢力として、アメリカ南部連合、メキシコ王国、諸部族連合、英領カナダ、アイヌ領レプンモショリに分かれていました。中でもアメリカ合衆国の国力は大きく、南部連合と戦端が開かれたなら、合衆国が勝利するものと観測されていました。
 しかし、1898年に行われた「1年戦争」とも呼ばれる「第二次南北戦争」は、南部連合の勝利に終わりアメリカはアメリカ連合国として統合されることになりました。
 この逆転劇を演出したのが、南部連合へ加担していたカリフォルニアを中心としたアメリカ西海岸のニッポニーズとテキサス諸州でした。彼らの力が南部連合に北軍に対抗できるだけの経済力と軍事力を提供し、統一後も経済的にも拮抗できるだけの力を提供したという点で大きな役割を果たしたと言えるでしょう。
 また、国土奪回を国是として、常時国境を伺う諸部族連合と不気味に沈黙を保つ永世中立国家のメキシコ王国も合衆国への生き残りだけを国是としてる南軍に対して、海外の事へも目を向けざる得なかった北軍の不利と働きます。もちろん南部を後押しし、カナダから明に暗に圧力を加える大英帝国の存在も無視できないものでした。
 しかし、合衆国が一番気にしたのが、長年北アメリカ大陸に勢力を伸ばし、影響を維持し続けていたアイヌ王国だったと言われています。
 アメリカにとってアイヌ王国は、その版図こそ北米の端っこに僅かに存在するだけとなっていたが、かつては北米の西半分を版図としていたと言っても過言ではない勢力を維持していた、対外戦争で唯一敗北した相手というトラウマのような存在です。
 この時点でも、世界的に見ても大英帝国に次ぐ資金力(金保有量)を誇り、日本帝国各国、太平洋・東南アジアだけでなく、北米の諸部族連合、メキシコ王国に深い影響力を維持していました。軍備でも、アイヌ製の兵器が両国に流れ、その用兵思想もアイヌ様式と言われるもので、諸部族連合には多くの軍事顧問団すら派遣されていました。
 しかし結果として、太平洋方面にかなり有力な艦艇こそ派遣しましたが、対合衆国参戦することもなくほぼ無言の沈黙を保ったまま一年戦争を傍観した形となりました。ですが、多くの史家はアイヌへの潜在的な恐怖が、アメリカ合衆国を敗北へ導いた大きな要因だったと結論づけています。
 実際、数百年に渡りアイヌ人がアメリカ西海岸に進出しなければ、合衆国の元北米は統一されていた事でしょう。


第十三節 明治革命   第十五節 日本帝国の台頭と第一次世界大戦