■フェイズ〇二「大攻勢」

 一九四一年十二月十日、マレー半島沖合にて軍事史上の快挙が成し遂げられた。航空機による、洋上を作戦行動中の戦艦単独撃沈という軍事的快挙だ。
 この事件の偉大さは、敵国首相の有名な言葉が歴史的証言として残っているので、軍事に関わりの薄い歴史家にとっても分かりやすい事象だろう。
 そして陸海空からの日本軍による圧倒的戦力の前に、マレー沖で二隻の最有力艦《プリンス・オブ・ウェールズ》と《レパルス》を失った英東洋艦隊は、一瞬で主戦力を失った事を意味していた。結果、連合国側の東南アジア防衛が、より難しくなったのは間違いないだろう。
 マレーとハワイでの偉大な戦果により、太平洋全域の制海権を獲得した日本軍の、その後の作戦の順調さが全てを雄弁に物語っている。
 十二月十日にグアム島、ギルバート諸島のマキン島・タラワ島が攻略されたのを皮切りに、雪崩を打つように連合国拠点が日本人の手に帰していった。その様は、草原を駆け抜ける野火のごとくだ。
 十二月二四日ウェーキ島攻略、十二月二五日香港攻略、翌一九四二年一月二日フィリピンの首都マニラ占領、一月三一日ラバウル占領と破竹の進撃が続き、そしてついに二月一五日、大英帝国東洋支配の象徴であるシンガポールに日章旗がへんぽんと翻った。
 「真珠湾奇襲」、「マレー沖海戦」と並んで世界が驚愕した瞬間だった。
 もちろんウェーキ島での初期の作戦失敗のように、戦争に付き物の日本側の失敗も多々あった。だが、それまで白人列強により搾取、抑圧され続けてきた有色人種が、白人勢力に対しても彼らと同じ事ができると示した事の意義は極めて大きい。
 それまで宗教的なまでに抑圧を当然と考えていた人々全てに大きなショックを与えると同時に、有色人種、非白人国家などに対して希望の光を示した事は間違いないだろう。
 なお東南アジア全域の制圧は、三月に呆気なく蘭領東インド、インドネシア地域の制圧でほぼ完了し、五月七日に降伏したフィリピン・コレヒドール要塞の降伏によって一つの節目がつくのだが、日本軍では三月末より第一期作戦最後を飾る大作戦が発動される。
 一九四二年四月九日の「セイロン島沖海戦」がその総決算なのだが、この時の戦闘は日本海軍の絶頂期の始まりとなった。

 一九四二年三月初旬、日本軍はオランダ領インドネシアのジャワ島を攻略し、南方資源地帯占領を無事終了。第一期作戦の完遂により、日本の長期自給体制が書類上と表面上で確立された。日本の戦略目的が、第一段階だけだが無事達成されたのだ。
 しかし、先のマレー沖海戦で大損害を被った大英帝国海軍東洋艦隊は、インド洋のセイロン島コロンボ基地、並びにトリンコマリー軍港、インド洋上のアッズ環礁(現モルディブ南部)の秘密基地に退避していた。しかも、本国艦隊から大幅な増援を受け取り、旧式戦艦五隻、空母三隻を中心とする艦隊にまで戦力を回復していた。この時の増援は、何としてもインドを守るという英国の決意の現れであった。また同時に、当面の敵である米海軍太平洋艦隊を撃破した日本海軍にとり、インド洋の大英帝国海軍は、日本への資源供給地となった東南アジア地域の安全を脅かす最大の脅威でもあった。
 そこで日本は、長期持久の後顧の憂いを断つため、真珠湾攻撃に参加した南雲機動艦隊と小澤提督麾下の艦隊をインド洋へ派遣する。
 この時の南雲機動艦隊は、間違いなく世界最強の存在だった。
 艦隊は、六隻の航空母艦《赤城》《加賀》《蒼龍》《飛龍》《瑞鶴》《翔鶴》と四隻の高速戦艦《金剛》《比叡》《榛名》《霧島》を中心とした圧倒的な機動部隊だった。また戦闘力は、搭載された艦載機とパイロット達の圧倒的技量により、数字以上のものがあった。しかもこの時は、十分に訓練を行って個々の練度を完全に回復していたため、威力は最高潮に達していたと考えられる。同数における他国との相対的な戦力差は、現在の米空母群と他国の艦隊にすら匹敵しただろう。

 しかし南雲艦隊に対するJ・サマーヴィル提督の英東方艦隊も、マレー沖での戦訓を踏まえて空母を多数艦隊に組み込み、加えて旧式ではあるが戦艦多数を含めた巨大な戦力で迎え撃とうとしていた。インド防衛は、大英帝国の必死事項だからだ。
 だが英艦隊側には、問題が山積していた。
 二流と言われる海軍しか持たない欧州枢軸軍相手なら必要十分な戦力だったかもしれないが、相手は恐らく当時世界一攻撃だった日本海軍なのだ。
 つまり、欧州では問題なかった防御を重視しすぎた空母の航空機運用キャパシティーの小ささ、旧式戦艦の速力の遅さ、艦載機の戦闘力の低さなどが問題の代表となった。大きすぎる攻撃力に特化した日本艦隊にどこまで対抗できるのか、戦う前から英国側でも疑問視されるほどだった。
 自らの問題点については英国海軍もある程度認識を持っていたため、奇襲によってしか南雲艦隊に対する勝機は存在しないと考えていたのも頷けるだろう。南雲艦隊の弱点は、偵察力と防御力の貧弱さなのだ。

 一九四二年四月六日、空母《加賀》の軽度の事故のため少しばかり出撃の遅れた南雲艦隊は、巨大なインド半島の先にあるセイロン島の要衝コロンボを空襲した。
 しかし、コロンボに英艦隊主力の姿はなく、付近航空戦力を文字通り鎧袖一触で粉砕するも、港に在泊していた駆逐艦一隻と仮装巡洋艦一隻撃沈し、港湾施設を破壊したに止まった。
 このときサマーヴィル中将は日本軍の攻撃を察知して、艦隊をインド洋西部のモルジブ諸島にある秘密基地アッズに退避させていた。そして自軍の不利を覆すべく、日本側が陸上基地と戦っているスキを狙って、横合いから空母部隊により痛撃を与えようとした事から発生した事象だった。
 東方艦隊は司令官の作戦目的に従い、装甲空母《インドミダブル》《フォーミダブル》を中心にした空母部隊と、多数の旧式戦艦を含めた打撃艦隊に分かれてセイロン沖のインド洋を航行していた。
 しかし、東洋艦隊もう一隻の空母となる軽空母《ハーミス》は、日本軍の侵攻が早かったため合流が間に合わず、セイロン島北部のトリンコマリー港に待避していた。このため、空母二隻、約八〇機の艦載機が攻撃力の全てだった。
 二隻分の戦力は、日米の基準なら正規空母約一隻分程度の戦力ながら、奇襲にさえ成功すれば日本艦隊に十分打撃を与えられる威力を秘めていた。
 だがこの時のイギリス側には運がなかった。また日本軍機の航続距離を誤っていた事も重なり、自らの艦載機の攻撃圏に南雲艦隊を捉える前に日本側に発見されてしまう。

 一方、一方的な敵発見によって圧倒的優位に立った日本側だったが、地上攻撃を優先していた事と英艦隊の存在をあまり重視していなかった事から大きな混乱に見舞われる。
 当初、英艦隊に備えて対艦兵装を施して待機させていた艦攻、艦爆を、その後敵艦隊が存在しないと思いこんで対地兵装に換装し、これが終わった頃に英艦隊を捕捉、慌てて対艦兵装に戻すという醜態をさらしていたのだ。大型爆弾や魚雷の換装に一時間単位の浪費が必要という事を考えれば、許し難い失態と言えるだろう。
 幸いにして、英艦隊の攻撃圏に入る頃に攻撃隊は順次発艦していったので問題は表面化しなかったが、日本艦載機のこの時の編成に混乱の片鱗を見る事ができる。
 つまり、第一次攻撃隊が零戦とそのままでも打撃力があるとして陸用爆弾をそのまま装着した艦爆で構成され、第二次攻撃隊が零戦と当時のハイテク兵器である航空魚雷を搭載した艦攻で編成されていた点だ。
 だがちぐはぐな攻撃隊の編成すら、日本側に有利に働いた。
 英機動部隊は、日本軍が攻撃隊を準備している間に、基地機により日本艦隊の位置を知ると、防空のための準備を進めると共に出来る限り多数の攻撃機を送り出した。これが、結果として少ない戦力をさらに分散する結果になった。
 そして英戦闘機「シー・ハリケーン」の数を上回る零戦二七機の力によって安全となった空を、艦爆約七〇機が思い思いの方向から大型艦めがけて投弾を行う。
 英機動部隊の護衛艦艇は、懸命に弾幕を張ったがドイツ空軍より機敏に動き、また日本機に対して不慣れだった為、有効な迎撃は出来なかった。
 そして日本軍攻撃隊は、多数の弾幕が張られる中での攻撃で六〇%近い命中率を発揮した。空母の側で防空戦闘を行っていた重巡洋艦《ドーセットシャー》と《コーンウォール》がそれぞれ一〇発近い爆弾を叩きつけられ、最大の目標となった二隻の装甲空母にもそれぞれ一〇発近い直撃弾と至近弾が命中した。
 この時投下されたのは、換装の手間を惜しんだため全て貫通能力の低い陸用爆弾で、それぞれの艦上では見た目に派手な爆発が見られた。このような攻撃は、本来なら艦艇に対して致命的損害には縁遠いものだ。しかし二隻の重巡洋艦は、短時間の間に全艦まんべんなく多数の爆弾が投下されたため、ダメージコントロールが機能しないまま全艦で火災が発生した。
 しかも命中率六割という数字は驚異以上のものであり、日本側雷撃隊が現れる前に二隻の巡洋艦は事実上の大破となった。頑健な装甲空母の方は、飛行甲板など装甲区画こそ無事だったが、上部構造物の多くと防空火器の過半が散弾のような効果を発揮した陸用爆撃によって破壊されていた。また、航空機運用のための施設の多くが傷つき、短時間の間航空機運用能力が著しく低下していた。艦橋構造物や煙突にも被害が及んだ。
 そして、まだ混乱が収まらない約三〇分後、第二波となった零戦一八機に護衛された艦攻四七機が現れる。護衛の零戦が激減した英戦闘機を駆逐すると、空母目指して雷撃態勢に入る。
 多方向から攻撃を受けた二隻の装甲空母は、指揮能力と防空能力の低下したまま為す術もなく多数の航空魚雷を受けた。
 この雷撃は、短時間の間に日本軍指揮官に「撃沈間違イナシ」と打電させるに至った。しかも、この段階でも多数の機体が魚雷を残したままだったため、護衛として付き添っていた旧式戦艦の《リヴェンジ》と、損傷によって艦隊から外れつつあった二隻の重巡洋艦が攻撃対象となった。
 そして損傷艦により防空陣形が乱れた事もあり、英艦隊はさらに損害を増やすこととなる。
 いっぽう、英国側が放った約六〇機の攻撃隊は悲劇的結末を迎える。機体が日本側より劣る性能の機体がほとんどだった事から、日本側が防空戦闘機として上空に配置していた三四機の零戦によって、その殆どが阻止されてしまったのだ。わずかに攻撃に成功した機体も、そのほとんどが至近弾を得るのがやっとだった。かろうじて、空母の側で護衛任務に就いていた戦艦《榛名》に一〇〇〇ポンド爆弾を一発命中させ、小破させたのが唯一の成果だった。
 しかも攻撃隊は、ほとんど撃墜されていた。

 この戦いにおいて英国海軍は、装甲空母二隻、戦艦一隻、重巡洋艦二隻という有力な戦力を失った。またセイロン島の機能が低下したため、マダガスカル島にまで後退するしかなかった。当然だが、西インド洋全域の制海権すら失うことになる。
 しかも海戦後も、勝利に乗じた南雲艦隊の猛威は続いた。英東方艦隊撃破後、いったん南東に退避して態勢を立て直した四月十日には、再びセイロン島北部のトリンコマリー港を空襲して大きな戦果をあげた。さらに軽空母《ハーミス》と駆逐艦《ヴァンパイア》(※マレー沖海戦の生き残り)が日本軍の攻撃前にトリンコマリー港を脱出していたのだが、間もなく日本側が発見して洋上で撃沈した。
 この時軽空母《ハーミス》に対する艦爆による急降下爆撃は、四五機が投弾に成功し命中弾はそのうち三七発にものぼった。八〇%以上という驚異的な命中率は、この頃の日本海軍パイロットの質の高さを見せつけている。
 しかし、意気揚々と南雲艦隊が本国に帰投しているその道半ば、本土では驚愕の事態が発生していた。

 

 

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