■フェイズ〇五-3「第一次ソロモン海戦」

■フェイズ〇五―三「第一次ソロモン海戦」

 一九四二年八月七日、アメリカ軍を主力とする連合国軍は、ガダルカナル島に上陸した。
 これに対する日本海軍は、三川軍一中将旗下の第八艦隊に第十八戦隊を編入した臨時編成の艦隊をもってラバウルを出撃。一路、ガダルカナル島沖合に存在する連合国軍の艦隊と攻略船団を目指した。
 『アイアン・ボトム・サウンド(鉄底海峡)』と言われた狭い海域とその近在の島、ガダルカナル島を巡る攻防戦の始まりだった。

 この頃日本軍内では、モレスビー、ミッドウェーでの圧倒的勝利を受けて、「米豪分断」という戦略目標を掲げた、フィジー諸島、サモア諸島占領を目指す「FS作戦」の準備を急ピッチで進めていた。
 日本軍がこの作戦を熱心に進めた背景には、いくつか理由があった。もちろん一番の理由は、アメリカ軍を短期的に撃破し続けて一日でも早く停戦に持ち込まねば、帝国に待っているのは敗北しかないと言う刹那的な現状だった。だが今は、戦術的視点のみ触れておこう。

 開戦からこれまで、大日本帝国と聯合艦隊はアメリカ軍を中心とする連合国軍に対して、圧倒的優位に戦いを進めていた。
 単純に聯合艦隊が撃沈した連合国の大型艦艇の数だけでも、戦艦七〜八隻(半数は真珠湾にて)、大型空母七隻、重巡洋艦八隻他多数という聯合艦隊丸々ひと揃え分にも上っていた。それでいて自軍の大型艦の損失はほとんど皆無というのだから、この頃の聯合艦隊の有頂天度合いは、後世の目から見ても目に余るものがあると言わざるを得ないだろう。
 だがそれだけに、日本海軍は圧倒的優位に立っていた。
 単純に数量差・戦力差を他国と比較すれば、この時の聯合艦隊の第一線戦闘力は世界最強と言って間違いなかった。鎧袖一触は常識以前の事であり、眼前に立ちふさがることは無謀以上の言葉で表現するしかなかったであろう。もちろんこれは敵味方双方が感じている感情面での戦力分析だが、心理という戦場における重要なファクターでも日本が有利に立っていた事は間違いない。
 だが日本は、良い意味でも悪い意味でも組織社会だった。それだけにその聯合艦隊、と言うよりこの戦闘組織を率いる山本五十六聯合艦隊司令長官が強引に推し進めるハワイ攻略作戦を通すためにも、「米豪分断」を行う必要が出てきていた。ここに、一日も早い南太平洋での作戦完了が叫ばれるようになった。
 そして、「FS作戦」の一つの山場となるであろうニューカレドニア島攻略のための最初の中継基地に指定されたのが、ラバウルから約一〇〇〇キロメートル離れたソロモン諸島の南端近くにあるガダルカナル島だった。
 ソロモン諸島には、ツラギ島に五月には水上機隊が進出し、その後の調査でガダルカナル島に適当な平地がある事が確認されたため、同島に海軍の様々な部隊が進出を急いでいた。海軍としては、できれば九月までにニューヘブリデス諸島にまで基地を設営し、「FS作戦」で基地航空隊を使用したいと考えていた故の急ぎようだった。少なくともこの時点では、日本海軍は「米豪分断」をやる気満々だったと言えるだろう。
 このため六月末から海軍設営隊約三六〇〇名(モレスビーから苦労して持ってきたブルドーザー二台を七月より保有)が、戦闘機と陸攻の双方が運用可能な飛行場の建設作業を行っていた。また、一時的な当地防衛の戦闘部隊として、海軍特別陸戦隊一個大隊と陸軍の川口支隊の一部を基幹とする三二〇〇名の守備隊も進出しており、海岸部と飛行場予定地を中心に陣地構築を行っていた。ソロモン諸島は、位置的に南太平洋のキーストーンであり、駒を進めると決めた以上、手抜きするわけにはいかないと判断されたからだった。
 しかも、トラック諸島とラバウルでは、七月頃からニューヘブリデス諸島進出のための準備が着々と進みつつあった。迅速な航空基地建設のため、機械化工兵部隊が準備されていたほどだ。連合国軍の大きな反撃がなければ、十月にはニューカレドニア島に足跡を記すことが出来ただろう。
 そして七月二十八日には取りあえず戦闘機が運用可能な飛行場が完成し、さっそくラバウルで実戦配備に向けて錬成中だった零戦二個中隊(十八機)が進出を開始した。
 時に八月一日の事だった。

 日本軍のソロモン諸島進出は、連合国にとって極めて大きな脅威と映った。
 当時の太平洋方面の連合国軍は、東南アジアを蹂躙され、インド洋を席巻され、モレスビー、ミッドウェーを相次いで失い、米英の太平洋方面の海軍力の過半を撃滅され、「為す術なし」というのが現状の要約という有様だった。
 しかも豪州北東部は、連日日本軍の激しい空襲にさらされていた。
 五月半ばから開始された豪州北東部での航空撃滅戦は、戦闘開始約一ヶ月で豪州空軍の機能停止と、南西太平洋戦域軍の陸軍航空隊壊滅をもたらしていた。また、ティモール諸島からの圧力も一時的に高まっており、連合国軍側の豪州大陸での航空戦力の不足は致命的レベルを通り越えていた。
 しかもポートモレスビーに常駐する日本航空戦力は精々一〇〇機程度だが、それ以外の北東ニューギニア地域にも日本軍のそれまでの飛行場建設速度からは考えられないスピードで基地が作られていた。
 連合軍は一度、ラビ(ニューギニア東端部)を奇襲的に攻撃してモレスビーを孤立化するための拠点を作ろうとした。だが、優勢な日本空軍機の前に輸送船団が壊滅して、攻略以前に大きな犠牲を出して失敗している。このため現地にも守備のための地上部隊と航空隊が進出してしまい、日本軍の警戒を強めるだけに終わっていた。
 しかもミッドウエー沖海戦の敗北で空母機動部隊を失い、ミッドウエー島陥落によるハワイ防衛のために豪州・南太平洋に送られる筈だったアメリカ陸軍機は、多数がハワイ諸島に拘置されてしまう。
 戦力の限られた現地連合国軍は、なけなしの航空機とパイロットを失っては他から少しずつ補充を受けとるという悪循環に拍車がかかった。圧倒的戦闘力を誇る日本海軍の零戦の前に、連合国パイロットは自らを生け贄として提供するだけとなっていた。
 七月半ばに入った時点で、連合国は五月からのたった二ヶ月間の局地的な戦闘で五〇〇機の航空機を失っていた事実を提示すればその惨状が理解できるだろう。しかも襲来する日本軍機は総数でも一二〇機程度で、その半数のさらに八割程度が恒常的に空襲に来るだけという状況でその状況だったのだ。
 平均キルレシオ一対十五以上。それはもはや戦闘ではなく、狩人とそれに狩られる獲物の関係でしかなかった。
 そして制海権・制空権の所在の有無のため、一九四二年五月から八月にかけての連合国軍は為す術もなく時を過ごすことになった。だが、このようなデスペレート(絶望的)な戦況での日本軍の新たな攻勢作戦の発起を報せる狼煙が、連合国の大きな反応を呼び起こしたと考えるのがもっとも妥当だろう。
 しかも欧州戦線では、ドイツ軍がロシア南方、北アフリカ、そして地中海のマルタ島に対して極めて強い脅威を与えていた。当然これに対するため欧州の戦力は少しも動かせないという状況だったため、太平洋の軍事を預かる人間にとっては、遂に来るべき時が来たという心境だったとも言われる。

 もう形振り構っている場合ではなかった。
 だからこそ、ありったけの戦力が南洋の小さな島に叩きつけられる事になったのだ。
 これ以上日本軍の侵攻を許せば、オーストラリアは連合国から脱落し、南太平洋での兵站拠点を失った連合国側の戦争スケジュールを大きく狂わせるほどの影響を与えるだろう。それは、アメリカ大統領の戦争指導に対する国民の評価を覆させるのに、十分な威力を発揮するだろうと言われていた。最低でも、アメリカ民主党は、十一月の中間選挙で大敗すると考えられた。
 何しろ日本との開戦以来、派手に負けてばかりだ。この頃日本との戦争に対する支持率は、開戦当初の九割以上から一週間に3%という勢いで急激に落ち込んで遂には六割を割り込み、大統領支持率さえも七割を切ろうとしていたからだ。
 そして八月七日、ガダルカナル島沖合に姿を現した連合国軍の艦隊は、その恐怖と焦りを現していたと言えるだろう。
 艦船合計数約一〇〇隻、空母二隻、戦艦二隻、重巡洋艦八隻以上と言う巨大な戦力で、この圧倒的な艦隊に護衛されたのが、ここでの戦闘の一方の主役を務め、そして希望の火をともすべくソロモン諸島に侵攻するアメリカ海兵隊第一海兵師団(上陸時約一二〇〇〇人)だった。

 ソロモン諸島南端ガダルカナル島での戦闘は、現地時間の八月七日の日の出とほぼ同時に航空戦から始まる。
 アメリカ軍の事実上の奇襲攻撃を紙一重で気付いた現地守備隊の機転により、稼働状態にあった零戦全機(十六機)がただちに離陸し、迎撃を開始したのが号砲だった。
 この時アメリカ軍は、空母二隻から発艦した約八十機の大編隊でガダルカナル島に押し寄せた。そして結果として零戦隊は敵先鋒を務める戦闘機(約三十機)との空中戦に忙殺されて、敵攻撃機を数機しか迎撃できなかった。
 その間に飛行場の滑走路が一時的に破壊されたため、零戦隊は敵第一波後退と共に既に簡易飛行場ができていたブーゲンビル島(ブイン基地)もしくは遠くラバウル目指して撤退せざるをえなくなった。
 しかし、ここでアメリカ軍は零戦一機を撃墜しただけで、反対に自らは九機もの戦闘機を失い、早くも作戦に齟齬をきたしていた。
 だが、諦めることを許されない連合国の空襲が続くなか大船団が沖合に現れ、米海兵隊は三時間にもおよぶ艦砲射撃と航空機の支援の下で上陸を開始する。
 事実上の無血上陸した彼らは、海岸からジャングルを挟んで約一キロメートルほど内陸に建設された日本軍航空基地を一直線に目指した。
 いっぽう空襲以後防衛体制の展開を急いでいた現地日本軍は、既に完成していた飛行場付近の複郭陣地を中心に、海岸部や河川と飛行場の中間地域一帯に布陣した。これに設営隊の戦闘可能な人員も多数合流して約五〇〇〇名となった守備隊が、アメリカ軍最強を謳われる海兵隊と昼間でも夕暮れ時のような深いジャングルの中で対陣した。
 そしてアメリカ軍の上陸が進む八月七日昼頃、緊急事態を知ったラバウルから攻撃隊が押し寄せる。
 押し寄せたのは零戦と一式陸攻合わせて、第二十六航空戦隊の稼働全力にあたる約一〇〇機で編成されていた。零戦の一部は、ガダルカナルからブインに後退した機体が含まれていた。
 当時の日本海軍としては大編隊と言って良い航空隊で、数そのものは当時のラバウルの良好な状態を現していたのだが、その進出距離が異常だった。
 一〇〇〇キロメートルもの距離を単発の戦闘機が進出してくるなど、世界のどこの軍事常識にも存在しない事だったからだ。このため連合国指揮官に、日本の空母部隊が近くに存在すると思いこませてしまう。だがこの時の戦闘機隊は、帰投はブインに行う予定にしていたので、実際の進出距離は後世言われているほど遠いわけではない。
 そして、この時押し寄せた戦闘機隊は、ガダルカナル島守備隊の戦闘機隊並かそれ以上の猛威を振るった。おかげで、保有戦闘機の半数以上(総数約七十機でこの時点では約六十機)を失った米機動部隊司令官のフレッチャー提督は、当初七十二時間の援護を確約していたにも関わらず、燃料不足を理由に、真実は機動部隊の保全のため後方への待避(逃走)を開始てしまう。
 しかもこれは、アメリカ軍司令部の方でも事後承諾という形で了承された。
 司令部は、トラック諸島からラバウルを目指している日本の空母機動部隊が存在するという報告を、数日前の友軍潜水艦から受けていたからだ。
 結果として、空母艦載機の補充が行われるまでの一週間、ガダルカナル島に侵攻した部隊には現地戦力での保持が厳命された。
 なお、ラバウルからの空襲は日本側の方針により一度きりだった。
 日本側は零戦三、一式陸攻八機の大損害と引き替え(他被弾した零戦数機が砲爆撃で半壊したガダルカナル基地に無理矢理着陸している)に艦載機四十撃墜(実際は二十八機)、巡洋艦一隻(実際は駆逐艦中破)、輸送船四隻(実際は二隻撃沈、一隻損傷)、駆逐艦二隻(実際と同じ)の大破・撃沈を報告している。
 いかに練度のピークに達していた当時のラバウル航空隊を以てしても、長距離の侵攻が難しい事が見て取れる。
 そして、アメリカ軍にとって悪いことは続く。

 空襲以外の妨害もなく、上陸後そのまま飛行場を目指した海兵隊の先遣隊一個大隊は、ジャングルの中に入ったところで日本軍守備隊が篭もる陣地からの機関銃の十字砲火に晒されて大損害を出した。
 艦砲射撃や空襲の効果の低い濃密なジャングル内に構築されたと見られるボックス陣地群を突破して飛行場に達するには、戦車を含む重装備の揚陸が不可欠と報告された。
 もし重装備が届けられないのなら、未開のジャングルの中を地図もないまま徒歩で迂回して踏破するしかないという状態に追い込まれたのだ。
 このため、短期間での飛行場攻略は予定変更を余儀なくされる。代わりに揚陸の遅れている重装備と師団主力が前線に揃う八月九日早朝から総攻撃が行われる事になって、空襲が終わりその後の混乱が続くなか懸命の揚陸作業が夕暮れまで続けられた。
 そしてその夜、さらなる悪夢が訪れる。
 三川提督率いる第八艦隊が、艦隊丸ごと殴り込んできたのだ。
 八月七日にラバウルを出航した第八艦隊は、翌日の八月七日二十三時頃、敵船団がたむろしているガダルカナル島沖に単縦陣で突入した。
 そしてその目的地には、昼間の空襲による自爆機突入で炎上した輸送船がいまだ激しく炎上して、まるで灯台のごとく道案内をしてくれていた。
 だが、この時アメリカ軍は、三川艦隊が突入してくるとは全く考えていなかった。
 艦隊の接近こそ偵察機よって事前に察知したが、察知したすぐ後に日本艦隊が反転したため待避したものと解釈し、念のための警戒を行う以上の事を行わなかった。
 だがこれは、連合国軍側にも弁明の余地はあるだろう。軍事常識として敵制空権下である筈の遠隔地に対する攻撃で、さらに夜間の狭い海域での戦闘など論外だと言うことだ。しかも、ちょうど連合国軍将兵の精神的疲労がピークに達するあたりが三川艦隊の突撃の時間だったのだから、連合国軍でなくとも同様の事態になったであろう。

 そして、必然と偶然からサボ島南方で哨戒中の連合国南方艦隊と第八艦隊は遭遇する。三川艦隊は直ちに砲雷撃を開始し、全く油断し敵を味方とすら誤認した重巡《シカゴ》《キャンベラ(豪)》、駆逐艦《パターソン》を瞬く間に大破させてしまう。
 しかも三川艦隊は、その後も連合国北方艦隊を追いかけ、戦場での混乱から二手に分かれつつもサボ島沖を反時計回りに回りながら一方的な砲雷撃戦を続けた。そこで十分な戦闘態勢になかった重巡《ヴィンセンス》《クインシー》《アストリア》を、奇襲攻撃に近い形で大破させる。これまでの日本軍の損害は、重巡《鳥海》が被弾して小破しただけだった。珍しいまでのパーフェクトゲームと言って間違いないだろう。
 そしてこの瞬間、三川艦隊は艦隊を再編成して輸送船団に突入するか、危険を避けて撤退するかの二者択一を迫られた。だが突入少し前に友軍からの通信文が、三川提督をより積極的な行動へと誘った。
 その通信文とは、角田提督率いる第二機動部隊が、翌朝未明にはラバウルとガダルカナル島の中間海域に進出してエアカバーが実施可能という知らせだった。
 このため、戦場の混乱で二つに分かれていた三川艦隊は、それぞれの隊列を保ったままサボ島を一周すると米船団に向けて突撃した。
 三川艦隊は泊地手前でスコット少将率いる東方部隊(重巡《オーストラリア(豪)》軽巡《サン・ファン(米)》《ホバート(豪)》、駆逐艦二隻)との戦闘に突入するが、勝利に乗じる日本軍と混乱するばかりの連合国の勢いの差とでも言うべき要素が勝敗を決したのではと思わせる結果が出てしまう。
 だが、連合国の必死の反撃で、三川艦隊も重巡《加古》が船体に重大な損傷を受け、そのままルンガ川河口部の浜辺に乗り上げて沈没を免れるという損害を受けている。
 しかし、その損害と引き替えに東方部隊部隊の過半を撃破(《サン・ファン》、駆逐艦一隻撃沈、他大破)した。さらに突入を続け、停泊地から急いで脱出しようとしていた昼間の撃破を免れた高速輸送船十七隻のうち十三隻を、アメリカ軍から虐殺と言われた形で撃破し、一部の艦艇は目に付いた物資や地上部隊に対して艦砲射撃すら行っている。
 基地守備隊による万歳三唱が教えてくれなくても、日本軍の完全勝利は明らかだった。
 しかも翌九日午前中には、角田提督率いる第二機動部隊の航空隊がガダルカナル島上空に姿を現し、偵察によって近在に米空母がいない事を確認すると夕刻まで空襲を続けた。
 角田艦隊は、沖合で遁走中だった艦船とルンガ沖に三度にわたる空襲をしかけた。結果、ルンガ沖では、数が激減して戦闘の混乱により物資揚陸が進まない輸送船の残余と、その護衛を続けていた艦艇に壊滅的な打撃を与え(輸送船五隻、重巡二隻他多数撃沈)た。さらに海岸部に上陸されていた物資の多くを焼き払ってしまい、内陸部への待避の遅れた海兵隊にも大きな犠牲を強いていた。
 以上を総合して、日本側は第一次ソロモン沖海戦と呼称している。
 なお、以下が戦闘の総決算となる。

日本側
 大破:《加古》(浜辺に乗り上げ損失扱い)
 中破:《古鷹》
 小破:《鳥海》《天龍》
 戦死・行方不明:三二八名
 (《加古》艦長以下乗員残余は、島に乗り上げた後にガ島守備隊と合流)
 航空機:十五機喪失
 (基地機、機動部隊合計)

連合国
 撃沈:重巡《ヴィンセンス》《クインシー》《アストリア》《シカゴ》
      《キャンベラ》《オーストラリア》
    軽巡《サン・ファン》 
    駆逐艦《ラルフ・タルポッド》《パターソン》
    輸送船二十隻 他多数
 大破:軽巡《ホバート》
    駆逐艦《モンセン》《ブキャナン》
 航空機:四二機喪失(着艦後破棄含む)
 戦死・行方不明:四六二一名(海兵隊除く)、クラッチレー少将、リーフコール少将

 

 

■解説もしくは補修授業「其の伍の参」 

■フェイズ〇六「G-Island」