■フェイズ六「G-Island」

 一九四二年八月七〜九日にかけて、南太平洋のソロモン諸島にある小さな島ガダルカナルを中心にして、激しい攻防戦が展開された。
 だが、侵攻した米大船団が文字通り壊滅した事と、戦果に満足した日本海軍の第二機動艦隊が後退した事により一旦沈静化した。これ以後数週間は、両軍ともに付近戦力の拡充に力を入れる事になる。
 具体的には、八月十二日に連合国軍がソロモン諸島から最も近いニューヘブリデス諸島に基地を設けるために上陸し、日本軍が八月十一日にガダルカナル島のルンガ飛行場を復帰させて戦闘機隊を呼び戻し、八月十五日に増援の一個大隊(川口支隊の一部)を急遽ガダルカナル基地へ派遣した事に象徴されるだろう。互いに同方面への兵力の集中と移動の準備を進めていたので、当座の戦力の移動は非常に迅速だった。
 そして、肝心のガダルカナル基地を巡る攻防戦だが、飛行場復旧と補給路建設に懸命な設営隊を除いて約四〇〇〇人の兵力で陣地に籠もる日本軍に対して、アメリカ海兵隊の数は上陸当初一二〇〇〇人だった。普通に考えれば、常識的にアメリカ軍の攻撃が成功している筈だ。だが、上陸当初の一連の戦闘で海兵隊は重装備の過半を失うばかりか、物資の大半を輸送船と共に失って食べるにも事欠く状態だった(八月九日夕方現在の備蓄食糧残余は通常で五日分)。しかも日本軍の空襲と砲撃によって、兵力の15%程度(負傷者含む)を戦う前に喪失しており、機関銃や軽迫撃砲で武装されたジャングル内のボックス陣地を攻撃するには戦力がまったく不足してしまっていた。
 僅かな救いは初期段階で揚陸に成功し、艦砲射撃や空襲も生き残った軽戦車が若干数いる事だった。だが、見通しの悪いジャングル内に虎の子となった戦車を投入できる筈もないので、臨時のトーチカとして現地アメリカ軍の防衛拠点として機能していた。
 しかし慰めはそれぐらいだった。自軍の艦隊は付近海面で大破・座礁したもの以外姿は見えないのに、自らの空母機動部隊を追い払った日本海軍の空母部隊が、数日間積極的な空襲を行って米海兵隊の損害を上積みさせていた。さらに八月十一日には、ガダルカナル島の航空基地機能が一部回復して、戦闘機隊が再び進出して制空権を完全なものとしていた。
 空襲により地上部隊にも圧力を加えている状況では、重火力を全て失った海兵隊だけでは攻勢はもちろん無理で、ジャングル内で潜む以外どうにもならなかった。
 なお、海兵隊の損害が大きくなった背景には、付近の浜辺(見晴らしの良いルンガ川河口部)に座礁した重巡洋艦《加古》が、かなりの戦闘力を保持したままの座礁だった事が原因していた。
 このため、浜辺に乗り上げた後も乗員が残って付近のアメリカ軍に対して砲撃を続けるばかりか、巡洋艦近辺が俄に日本軍の野戦要塞兼沿岸砲台と化していた。しかも《加古》のため、アメリカ軍の軽艦艇や輸送船では不用意にルンガ地区の浜辺に接近する事もできず、海兵隊は南海の孤島で完全に孤立していたと言っても過言ではないだろう。
 その上海兵隊は、沖合で沈んだ船のセイラーの生き残りまで抱え込まなければならなかった。
 いつしか現地米海兵隊の間では、この島の事を「Hunger Island」と呼ぶようになっていたほどだ。
 そして、ガダルカナル島にアメリカ軍部隊が存在しているという事が、日米双方に第二ラウンドの鐘を鳴らす事になる。

 日本海軍はミッドウェー島攻略以後、「FS作戦」に向けて機動艦隊の再編成作業に着手し、空母を中心とした完成度の高い機動艦隊の編成を急いでいた。
 そして、ちょうど損傷した第一航空戦隊が損傷でドック入りしていた事から、第一航空戦隊を除く第一機動艦隊を第三艦隊として再編成した。司令部こそ横滑りのままだったが、新規艦艇の受け入れなどを行いつつ、急ぎ敵の現れたソロモンへ駆けつけるべくトラック諸島へと進出していた。
 また、ラバウルにはニューカレドニア島攻略のため第二師団が八月の段階で進出を開始しており、この一部(一個連隊=青葉支隊)と川口支隊の残余全て(総数約二五〇〇名)を高速艦艇での緊急輸送が決定された。さらに日本軍の続く増援の撃滅に現れるであろう米機動部隊を返り討ちにすべく、再編成された南雲艦隊も角田艦隊と交代する形でソロモン海域へと進出する事になった。
 いっぽうのアメリカ軍だが、「August Crisis(8月危機)」と呼ばれたように、南西太平洋方面は極めて危機的状況にあると認識されていた。
 水上打撃艦隊は初戦で壊滅(豪州海軍に至っては文字通りの全滅)、ガ島の上陸部隊は敵制空権下で補給もままならない状態で孤立していた。北東豪州の陸軍航空隊と豪州航空隊は、日本が仕掛けてきた航空撃滅戦に乗らざるをえないため、一時的機能停止状態という状況にも関わらず、肝心の空母部隊は敵の数分の一の勢力しかなかった。しかも、日本側の攻勢はまだまだ続くと強く予測されていた。
 だが、ガ島の海兵隊に対する補給と増援は行わねばならなかった。日本軍のこれ以上の進撃を許せば、オーストラリアが戦争から脱落するかもしれないからだ。
 ガ島の海兵隊への補給の護衛として、なけなしの空母部隊の進出もまた必要不可欠となっていた。駆逐艦や旧式駆逐艦を改造した高速輸送船による緊急輸送は日本軍と争うように行われたが、それだけでは一万人もの男達を飢餓から救うことなど到底できなかった。しかも付近の制海権、制空権を日本側が握っているため、細々とした補給すら満足にできなかった。現地指揮官のヴァンデクリフト少将は、大規模な増援もしくは補給がない場合、海兵隊は後一週間で飢餓線を彷徨うことになると通信してきた。
 この通信が、ソロモンの第二ステージの幕を上げることになる。

 そして戦いを有利に進めていた日本軍の増援が達成されれば、川口清健少将率いる川口支隊(約六五〇〇人)+第二師団の一部(青葉支隊:約二五〇〇人)+海軍陸戦隊(約二〇〇〇人)がガ島に展開される事となる。敵兵力の見積もりを誤り、事実を誤認していた日本軍としては、ガ島のアメリカ軍を駆逐するには十分以上の戦力と考えていた。
 このため、米機動部隊を殲滅の後、南雲艦隊に空襲の一つもさせれば現地アメリカ軍は自ら白旗を振ってくるだろうとすら考えていた。
 そして日米双方の船団がガ島に取りつこうとしていた八月二十七日、何度目かになる日米機動部隊の激突が行われた。

 戦闘は、「August Crisis」を象徴するかのごとき事件がアメリカ軍を襲った事で開始された。
 ようやく損傷から復帰した空母《サラトガ》が敵機動部隊との接触が予測された八月二七日黎明に、またも日本海軍の潜水艦の雷撃を受けて大きく損傷してしまったのが戦闘開始のベルとなった。
 しかも、一発だけ命中した潜水艦の魚雷は、よりにもよってターボエレクトリック推進に必要な動力部を直撃した。《サラトガ》は大きく速力を減じて航空機運用能力すら無くし、この戦闘における単なるお荷物になってしまう。
 そして米艦隊が、《サラトガ》の落後と潜水艦狩りで大混乱に陥っている時、日本軍の高速偵察機に発見されてしまう。
 当然この報告は、敵殲滅のため勇躍南太平洋に赴いていた南雲艦隊司令部にもたらされた。
 『飛んで火にいる』とばかりに喜んだ司令部は、全力で攻撃を下命。ただちに四隻の航空母艦からは、準備済みだった完全編成の第一次攻撃隊約一一〇機が放たれた。さらに四五分後には、最初の三分の二規模の第二次攻撃隊も慌ただしく発艦していった。
 これに対して、混乱する米機動部隊は、相前後して日本軍発見と艦載機発進の報告を受けたため、唯一運用可能の空母《レンジャー》の戦闘機全てを防空戦闘に投入すると共に、全攻撃機を戦闘機の護衛のないまま攻撃に投入してしまう。これほどアメリカ軍が刹那的な戦術を選択した背景には、自軍の艦艇の損害を最小限に抑えるため、艦載機を犠牲にせざるをえなかったという背景がある。
 だが、《レンジャー》はアメリカ軍の正規空母の中では最も小型で、搭載機数も最大で七十機程度しかなかった。この時も甲板にまで満載したにも関わらずワイルドキャット戦闘機二十四機、ドーントレス爆撃機三十六機、デバステイター雷撃機十五機という編成だった。しかも爆撃機のうち六機は偵察に出ており、日本軍機動部隊との戦力差は数字以上のものがあったと言えるだろう。
 そしてその混乱した海に、日本海軍の精鋭部隊が勇躍突入してきた。
 戦、爆、攻各三十六機という教科書通りの編成の日本軍第一次攻撃隊に対して、米迎撃機群は二十四機の戦闘機は果敢に防戦を挑んだ。だが、数で勝り、勝利に乗じ、いまだ世界最高のレベルを維持する日本軍制空戦闘機隊の前に、実戦経験もない二線級空母の戦闘機隊がかなうはずもなかった。瞬く間に蹴散らされ、僅かな残余は生き延びることこそが任務となり、安全となった空を悠々と攻撃隊が侵入してきた。
 この時の米艦隊は、空母《レンジャー》、戦艦《ノースカロライナ》《ワシントン》を中心に巡洋艦四隻、駆逐艦六隻で構成されていた。
 そして少し後方には駆逐艦二隻に護衛された空母《サラトガ》がノロノロと戦闘海域から待避しようともがいており、当然日本軍攻撃隊は二手に分かれて、まずは二隻の空母を始末しようとした。
 戦闘は好対照となった。
 新型戦艦二隻に護られた空母《レンジャー》は、防空輪形陣が生み出す激しい弾幕によって被弾は最小限に止められた。だが、爆弾二発直撃、三発至近弾、魚雷一本を受けただけで大破してしまう。アメリカ軍空母の中でも軽防御に分類される同空母は、懸命のダメージコントロールにも関わらず、この打撃に耐えることができなかった。攻撃の結果、ボイラーに直撃した魚雷のため白い蒸気を吹き上げながら停止してしまう。
 一方、世界最大の空母の誉れも高い空母《サラトガ》は、護衛艦艇の少なさから弾幕も薄く速力八ノットという低速でノロノロと進んでいるところを、殺到した三十六機の日本軍攻撃隊の的にされてしまい、爆弾五発直撃、六発至近弾、魚雷六本命中(炸裂が六発で命中は八発と言われる)という大打撃を受ける。当然大破だった。上空でじっくりと戦況を眺めていた日本側指揮官も「撃沈確実」と打電したほどだ。
 だが、もともと巡洋戦艦の船体を利用したことからくる頑健さを発揮し、日本軍の第二次攻撃隊が現れた時もまだ海上をノロノロと進み続けていた。この時も、日本軍の主要攻撃対象とされ、停止した《レンジャー》が半ば無視された事と好対照をなしていると言えるだろう。
 日本軍の第二波攻撃は、《サラトガ》は雷撃機六機が放った魚雷のうち四本が命中して今度こそ行き足が止まった。他にも近くで僅かな弾幕を張っていた駆逐艦のうち一隻が、自らの砲火にやられた自爆機の突入を受けてとばっちりのように大破、後に自沈している。
 そして、空母がいなくなった事を受けて、残った攻撃機は思い思いの水上艦へと殺到、当然戦艦が優先目標となった。
 これにより戦艦《ノースカロライナ》が集中的に狙われ、魚雷三本、爆弾四発の直撃を受けて大破した。また重巡《ミネアポリス》が魚雷二本によって同じく大破し、それ以外に駆逐艦が一隻大破後自沈処分にされている。
 全く以て戦力差を算定するランチェスターモデルどおりの結果であり、それは日本艦隊上空でそれ以上に発揮される事になる。

 一方、日本艦隊を目指した四十五機のアメリカ軍攻撃隊は、日本艦隊の前面五海里のところで最初の迎撃を受ける。日本側による電探を活用した初めての迎撃の成果だった(と表現するほどのものでもないが)。
 アメリカ軍攻撃隊は五月雨式に襲ってくる零戦の前に数を減じ、十五機あった雷撃隊はノロノロと射点に就く前に過半が撃墜され、及び腰で雷撃した僅かな生き残りの魚雷もまったく的はずれな航跡を描いているだけで、日本軍の脅威となる事はなかった。ただがむしゃらに突進した急降下爆撃隊も、降下ポイントに達する前に約半数が撃墜され、自軍の対空砲火を恐れない零戦と防空弾幕の中、艦隊中心の空母目指して急降下を開始した。
 この時旗艦《翔鶴》がターゲットになり、二発が命中して中破、航空機運用能力を喪失しているが、日本軍の損害はこれだけで終わった。それよりも、米艦隊の激しい対空砲火によって攻撃隊の艦載機に15%近い損害を出していた事の方が大きな問題とされている。
 だが、アメリカ海軍最後の機動戦力は消滅し、あとは南雲艦隊の狩り場となってしまった。
 しかも旗艦となっていた《翔鶴》被弾によって、一時的に指揮を代行した《飛龍》座乗の第二航空戦隊司令の山口少将は、脅威のなくなった機動部隊を無視して敵輸送船団の捜索を厳命しつつ艦隊をさらに南下させた。
 そして午後二時半頃に捉えた米輸送船団に、残存戦力全てを投入した空襲を行う。
 三波に分かれた日本軍艦載機の群は、高速輸送船十四隻に分乗した海兵一個連隊と膨大な物資の全てに命中弾を浴びせた。さらに護衛していたうちの駆逐艦三隻と軽巡洋艦までもが撃沈され、アメリカ海軍の艦艇不足にさらに拍車をかける事にもなった。
 だが、アメリカ軍機動部隊の決死的な攻撃は、日本軍のその後の行動に影響を与えた。空母を傷つけられた南雲艦隊は、機動部隊と輸送船団を撃滅した翌日黎明にガダルカナル島を一度空襲した時点で作戦を切り上げ、トラック諸島へと帰投している。
 以上を総称して、「南太平洋海戦」と言う。

 そして戦場に残されたのが、ガダルカナル島にいた双方の陸上部隊だった。
 八月二十八日、海岸部より逆上陸を開始した日本軍部隊は、いまだ活動を続けていた《加古》の砲撃を最大の支援としてて襲いかかった。また、これに呼応して基地守備隊も動き、基地と海上の双方から米海兵隊に襲いかかる。
 この時日本軍戦力は約一一〇〇〇名(九個大隊基幹)で、米海兵隊は第一師団の残余約九〇〇〇名(空襲や戦闘よりも飢餓と医療品不足で戦力低下し、実質戦力は七〇〇〇名程度)だった。兵力的には、ようやく日本側の方が戦力で勝っていた。だが、懸命の輸送により送り込まれた機関銃と鉄条網、迫撃砲によって組み上げられたアメリカ軍の野戦陣地を前に、日本軍は甚大な損害を受けることとなる。
 そして、これ以上戦力を消耗する事は基地防衛にすら強く影響を与えるとして、二十九日午前二時に攻撃中止が命令される。
 だが、ジャングル内での戦闘は混乱が続いた。川口支隊に属する田村大隊は、戦闘中止命令が届かぬまま戦闘を継続した。一時米海兵隊師団本部近くまで進軍するも、そこで攻撃力を消耗し、他との連携が取れなかったため撤退したのがその象徴だ。
 なお、この地上戦で日本軍は約三〇〇〇名が死傷し、アメリカ軍はそれよりも少ない約二〇〇〇名程度が死傷しているに止まり、またも戦線は膠着してしまう。
 これが「August Crisis」の締めくくりとなった戦闘だ。
 なお、九月に入ると連合国の状況はさらに悪化するのだが、もう「September Crisis」とは言われなかった。すでに「危険」の段階と通り越えていたからだ。
 なにしろアメリカ軍は、南太平洋で虎の子の空母二隻と輸送船団の全てを失い、人的損失だけで五千名に達しているからだ。この損害は、当時の南太平洋の連合軍にとって致命的以上の損害だったのだ。

 そして九月がやってくる。
 双方全く予期しなかった戦場での泥縄式の総当たりは、日米双方に大きな齟齬をもたらしていた。
 日本軍は十月には「FS作戦」を決行するつもりで準備していた戦力の過半が、中継拠点程度にしか考えていなかったちっぽけな島に吸い取られた。さらには、ニューカレドニア島に投入予定だった精鋭第二師団全力を投入してのアメリカ軍撃滅が大本営で決定すらしていた。
 いっぽうの連合国軍の状況は、日本軍よりもはるかに悪かった。いまだ八〇〇〇人近くが篭もるガ島には、日本軍機が乱舞して海兵隊員を追い回し、浜辺に陣取る座礁巡洋艦と共に近寄る船舶を攻撃し、付近で基地として使用できそうなツラギ島にすら輸送船団を送り込めず孤立している有様だった。
 また、付近には駆逐艦による艦隊が常にたむろするようになっており、隠密に行けない限り、魚雷艇のような高速・小型艦でも接近すらままならなくなっていた。実際、小規模な戦闘が何度か発生して、連合軍の方がより多くの損害を受けた。
 しかも、いつ何時トラック諸島から日本軍の大艦隊が押し寄せるか分からなかった。当然、大規模な輸送船団を送り込むなど論外だった。しかも度重なる大量消耗で、南太平洋には高速輸送船が著しく不足していた。
 だが、ガダルカナル島で頑張る八千名のアメリカ海兵隊では食料・弾薬の不足が深刻化し、「G-Island」は飢餓の代名詞とすらなり、太平洋戦線の連合国にとってこの島のアメリカ軍をいかに維持、もしくは救援するかが至上命題となっていた。
 なお、連合国によるガ島に対する高速艦艇の輸送作戦を、日本軍は「ワシントン急行」と呼び、連合国ほどでなくても常に物資の不足する日本軍将兵にとっては、水密コンテナなどで海岸に打ち上げられるアメリカ軍の物資は「ルーズベルト給与」として喜ばれた。ガ島を目指す物資の七割は、沈められるか付近の日本軍の手に落ちていたからだ。
 そしてガ島の窮状を受けて、ひとつの作戦が連合国によって発動される。

 ソロモン諸島からの一時的撤退。
 作戦目的を要約するとこれに集約される。
 だが、最悪の戦場だったのは、何もガダルカナル島だけではなかった。だからこそ、無理の通り越えた戦場だったガダルカナル島放棄が決定されたのだ。
 この頃の南太平洋の戦況は、連合軍にとって最悪だった。
 日本軍がラバウルを起点としてポートモレスビー、ガダルカナル島から、北東豪州とニューヘブリデス諸島に圧力を加えていた。特に一個航空戦隊が丸々投入されていると見られる北東豪州戦区では、南太平洋に展開する米陸軍航空隊と豪州空軍の過半が投入されているにも関わらず戦況は最悪のままだったからだ。
 五月半ばから開始された航空撃滅戦「バトル・オブ・オージー」では、連合国パイロットの数は降下の一途を辿っていた。パイロットがいなければ、機体がいくら送り込まれても仕方なかった。豪州北東先端部のケアンズ基地群は、基地としての機能が六月半ば以降事実上停止して廃墟と化していた。
 後方にある豪州北東部の要衝タウンスビルも機能は大幅に低下し、付近で唯一の大規模な港湾は事実上使用不可能だった。遠く東海岸中部のブリズベーンまで一時的に後退しなければ、艦隊の補給も戦闘機隊の再編成も不可能なまで追い込まれていた。
 また、北太平洋のミッドウェー島には、少数ながら日本軍航空隊が展開していた。彼らはハワイ諸島に対する偵察だけでなく、時折機雷投下したりハラスメントを目的とした少数機による夜間爆撃を仕掛けてくるなどして、真珠湾軍港の機能低下をもたらすなど厄介さを増していた。また万が一の事態、日本軍の全力を投入したハワイ攻略の可能性を考えると、ハワイの防衛力を低下させるワケにもいかず、本来なら危急を告げる南太平洋に送られるべき戦力をさらに吸収していた。しかも日本軍は、南太平洋であれ東太平洋であれ、まずトラック諸島に戦力を集中するので、次の作戦の判定が難しく安易な戦力移動もできなかった。
 なお、この頃連合国側の輸送能力が低かったのは、輸送船の過半が大西洋に存在した事と、アメリカ軍の船舶量、造船量がまだ少なかったこと、そしてソロモンでの消耗(八月〜九月で累計四〇万トン以上)が影響していた。

 ソロモン諸島、ニューヘブリデス諸島地域に展開する連合国軍の航空戦力は、アメリカ海軍と海兵隊だけのものになっていた。ニューヘブリデス諸島の基地にいる機体の過半は、戦友を救出すべく奮闘する海兵隊のものだけと言ってよかった。本来この部隊は、きたるべき攻勢防御作戦のために使われる筈の戦力だが、無理を承知で同地域の防衛やガ島での援護にあてられていた。そして数が少ないこと、交代すべき部隊が他に存在しないことから消耗を重ねて、日々戦力価値は低下しつつあった。
 なお、この頃南太平洋の第一線(北東豪州とソロモン諸島)に常時展開する日本軍機は、空母部隊を除くとせいぜい一〇〇機程度でしかなかった。これにラバウルで補充と再編成を行い二週間ほどのローテーションで前線部隊と交代するほぼ同数の航空隊が存在していた。
 対する連合国軍は、北東豪州に約五〇機、ニューヘブリデスにも約五〇機、後方拠点のブリズベーンやニューカレドニアに合計八〇機程度が展開していた。実数では同数、戦闘機の数では連合国側が勝っているほどだったのだが、度重なる消耗のため連合軍のパイロットの質は極めて低くかった。実戦力差は、撃墜比率から依然として一対五以上の数字を示していた。
 以上の数字は連合国軍側の消耗率と戦闘の激しさはともかく、欧州の空の状況を思うと戦域の広さに比べて非常にミニマムな戦場と言うべきだろう。だが、その深刻度は、世界中でも屈指のレベルだったのだ。
 なお、連合国側が後方に機体が大量にあったとしてもパイロットが一時的に枯渇して交代する間もなく消耗だけが増えている状態だった。かなり無理を押して戦闘を続けている筈の日本軍が、戦力的に有利になると言う逆転現象を引き起こしているというのは、物量差を思うと実に興味深い事象だろう。
 そして、そのような南太平洋の連合国を象徴するような作戦が開始される。

 一九四二年九月十日、連合国軍は「ファイアー・ガントレット(炎の籠手)」作戦を発動、ガダルカナル島にこもる海兵隊の救援作戦を開始した。
 主力となるのは、空母のお守りから図らずも解放された新型戦艦を中心とする水上艦艇群だ。
 部隊の一部がガ島飛行場に艦砲射撃をしかけて一時的に同基地を壊滅させている間に、高速輸送船団がルンガ沖合に到達して、すみやかに現地の人間だけを収容してしまうというのが作戦の骨子だった。
 これに対して日本軍は、連合国軍の動きを無線や暗号などからある程度察知したが、撤退ではなく大幅増援と勘違いしていた。このため、その意図を粉砕すべく当時トラック諸島に存在した稼働戦艦全てを含む有力な水上戦力を派遣した。加えて、直接参加する兵力以外にも、交代用となる巡洋艦部隊などが第八艦隊を中心に多数がラバウル方面に展開していた。
 以下が双方の陣容となる。

 アメリカ軍
 砲撃部隊(リー少将)
戦艦《サウスダコタ》《ワシントン》
重巡《サンフランシスコ》《ポートランド》
駆逐艦:四隻

 救出部隊(スコット少将)
軽巡《サンディエゴ》《ヘレナ》
駆逐艦:九隻(旧式艦含む)
高速輸送船:八隻(旧式駆逐艦改装含む)

 日本軍第二艦隊(近藤中将)
戦艦《大和》《陸奥》《霧島》《比叡》
重巡《高雄》《愛宕》
軽巡《長良》
駆逐艦:十一隻(全て精鋭艦)

 ルンガ・ツラギ警戒艦隊
軽巡《神通》 駆逐艦:四隻

 注目すべきは、日米双方に空母が一隻も含まれていない点だ。これは米海軍に稼働高速空母が一隻もいない事と、日本海軍が再編成のため投入不可能だったという事情がある。
 だからこそ空母以外で最も戦力価値の高い戦艦が複数作戦に投入されたのであり、日本海軍の場合は、山本長官の肝いりで当時トラック環礁にあった全ての稼働戦艦を現地に送り込んでいた。ここに山本長官の意気込みを見ることが出来ると同時に、残り全ての戦力を投入したアメリカ軍司令部の決意も伺い知れるだろう。山本長官は作戦会議の折り、自らが座乗するとまで言ったほどなのだ。
 そして両者の決意がぶつかり合った戦闘は、九月十三日深夜に開始される。

 待ちかまえる日本艦隊の前に米水上打撃艦隊が現れたのは、日付が変わろうとしていた十三日午後十一時四十八分の事だった。
 だが、最初に相手を発見したのは、駆逐艦を警戒配置していた日本側ではなく、優れたレーダーを持つアメリカ軍側だった。
 もっともアメリカ軍のレーダーが、日本艦隊の全てを捕捉したわけではなかった。この当時まだ精度の低かったレーダーは、警戒任務中の駆逐艦を見過ごし、二つに分かれて行動していた日本艦隊主力のうち片方を発見したに過ぎなかった。もう片方は、サボ島の影に隠れた形になったため発見が大幅に遅れ、戦闘開始当初はアメリカ軍の砲撃部隊が日本艦隊の戦艦の隊列にレーダー射撃を行う事で終始する。
 日付の変わろうとしていた頃、突如として大口径砲による遠距離砲撃を受けた日本艦隊は、一時的な混乱に見舞われた。
 だが遠距離から戦艦の砲撃を受けている事は確かで、これが同士討ちである筈もないと判断された。直ちに上空待機していた観測機に該当海域への照明弾投下が命令され、《大和》を先頭とした戦艦部隊はアメリカ軍隊列への突撃を開始した。
 そしてちょうど日付が変わろうとしていた深夜零時、最初の命中弾が発生する。命中弾を出したのは戦艦《サウスダコタ》だった。レーダーの権威と言われる提督に直接率いられたアメリカ海軍最新鋭の戦艦は、日本軍ご自慢のこれまた最新鋭の超大型戦艦に対して命中弾を与えたのだ。
 だが、レーダースコープに映る敵影に全く変化はなく、命中の時少しだけ肉眼で捉えられた敵戦艦の影は、その後ろを航行する《長門型》と見られる戦艦に倍する規模に映った。まごうことなきモンスター戦艦で、全軍が降伏したミッドウェー守備隊からの最後の報告が嘘で無いことが、この時アメリカ側に証明された。

 それからアメリカ軍は六度の斉射をレーダー射撃によって浴びせかけ、先頭艦に三発、二番艦に二発の命中弾を与えた時、次なる変化が訪れた。
 日本艦隊とは反対側に多数の大型照明弾が投下され、アメリカ艦隊の姿が日本人の前にさらけ出されたのだ。
 そしてこれを待ちかまえていた日本艦隊が一斉に火蓋を切った。距離二万メートルを切るという、戦艦にとっての至近距離での砲撃戦の始まりだった。
 当初戦闘を有利に展開したのは、レーダー射撃を行いつつ最初の優位を維持するアメリカ艦隊だった。日本艦隊が最初の命中弾を出すまでに、《サウスダコタ》は六発、《ワシントン》は七発の命中弾を敵に与え、事実《陸奥》は大火災が発生して速力を大きく落とし、《ワシントン》は次の目標の《霧島》へ目標を変更しようとしていたほどだった。
 だが、その時丁度、《サウスダコタ》《ワシントン》双方に日本人の撃ち出した砲弾が命中した。それまでの常識では考えられない衝撃と共に《サウスダコタ》は後部艦橋と第三砲塔が一度に破壊され、艦内電路の多くも故障し、レーダーも機能停止し、その常識はずれの衝撃は機関部にまで及び速力まで低下してしまう。
 《ワシントン》も、二発の十四インチ砲弾が艦中央部に相次いで命中し、付近一帯を破壊して火災を引き起こした。さらに一発の十六インチ砲弾を艦首付近にうけて、水面近くに開いた大きな破口から大量の海水が流れ込んで、こちらも速力が大きく低下していた。
 双方随伴した重巡洋艦、駆逐艦も激しい砲火の応酬を行い、戦場の混乱は徐々に大きくなった。最も近い場合、距離2000メートルでの砲撃が行われた事が記録されている。しかしこの間行われた日本軍の雷撃は、過早爆発などのため有効打は無かった。
 その後十数分間戦艦同士による激しい砲撃戦が展開されたが、その間に前を走っていた《霧島》は《ワシントン》から複数の砲弾を受けて《陸奥》同様大火災を起こして隊列から脱落し、不利な筈のアメリカ軍に勝利の兆しが見えた頃、最後の変化がやってくる。
 別方向から接近していた日本軍水雷戦隊が、アメリカ艦隊の主力隊列に急接近して放った魚雷の網が、米艦隊の足下に到達したのだ。戦場の混乱のため、この接近をアメリカ艦隊は捕捉出来ず、日本軍水雷戦隊は理想的な近接雷撃を行った。
 この時六隻の艦艇から放たれた四十六発の九三式酸素魚雷は、距離三〜五〇〇〇という近距離から発射されたため、外れようが無かった。しかも接近しつつ火砲も猛烈に撃ったため、アメリカ艦隊は日本艦隊に対する砲撃すら中止せざるを得ない程となった。そして日本海軍の魚雷は、短時間の走行を終えると隊列を作っていた米主力艦群に相次いで命中した。
 この雷撃で、戦艦《サウスダコタ》《ワシントン》、重巡《サンフランシスコ》《ポートランド》の全てが、二〜四本の大型魚雷を受けて数分のうちに全て大破した。また多数の小口径砲弾も多数被弾したため、待避する日本軍水雷戦隊を追撃する事も出来なかった。
 なお、特に《ポートランド》の損害はひどく、近い場所に二発の大型魚雷を相次いで受けたため衝撃でキール(竜骨)が折れ曲がってしまい、いびつな航路を描きながら停止した。
 また、突然足下を掬われた米戦艦二隻は、爆発の衝撃と急速な傾斜によって正確な砲弾を送り込むことが不可能になった。その後は日本側残存戦艦全ての反撃の刃を受けるだけの標的になり下がり、接近していた事もあって被弾と致命的な損害が相次いだ。新鋭戦艦の特徴と言える俊足と夜の目を奪われた時点で、勝敗は決したと言ってもよいだろ。
 そして全艦炎に包まれた《サウスダコタ》の司令部は、作戦の失敗を認めて残存艦艇に撤退を命令し、自らは同海域に残る事で友軍の盾となって波間に没している。
 その後《サウスダコタ》は、猛火に包まれながらも獅子奮迅の活躍を示して《霧島》にさらなる砲撃を行って致命傷を与え、自らは日本軍艦艇全ての砲火を全身に受けて、最後は火だるまとなって長時間燃え続けた。
 戦闘が終了したとき、日本軍の大型艦は4隻全てがまだ浮かんでいた。しかし《陸奥》《霧島》の火災は激しく、《陸奥》は多数の16インチ砲弾に加えて駆逐艦の魚雷も受けていた。《霧島》も近距離から多くの16インチ砲弾を受けて、この場に重工作艦でもいない限り救援は難しかった。
 戦闘終了後に《陸奥》《霧島》には、多数の友軍艦艇が接舷して消火しつつ、損害復旧の要員を送り込む。また大型艦による曳航の準備も行われた。しかし動力を失った《霧島》は浸水が酷く、浅瀬に向けた曳航を実施した後にガダルカナル島のルンガ近辺で座礁・着底させ、沈没の判定で破棄された。《陸奥》は何とか浸水は止められたが火災が止まらず、総員退艦が命令されて生存者全員が脱出した直後、第三砲塔の弾薬庫が延焼で誘爆。そのまま二つに折れて沈没した。

 なお、大東亜戦争最初の戦艦同士の戦いにより、日本側は初の大型艦損失となる《陸奥》《霧島》を失い、アメリカ側は新鋭戦艦の《サウスダコタ》《ワシントン》だけでなく、駆逐艦二隻を残す艦隊の全てを失って文字通り壊滅した。敵制海権内での戦闘だったため、乗員の損失も捕虜を含めると五〇〇〇名以上と非常に激しいものとなった。
 だが、日本軍としては米艦隊を撃滅したことは非常に大きな要素であった。だからこそ、一日のタイムラグをおいて作戦を決行する艦隊の事を失念するように見落としてしまう。
 結果、アメリカ軍のガダルカナル島撤退は無血という形で成功し、ここに短いが激しいガダルカナル島攻防戦は終了した。
 そしてここでの戦闘に勝利した日本軍は、戦争のイニシアチブを再び握る事となる。
 この時までのアメリカ海軍の戦死者、行方不明者、捕虜の総数は、おおよそ2万5000名。アメリカ海軍の人材面での破断界まで後少しだった。

 

 

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■フェイズ〇七「南太平洋撃滅戦」