■フェイズ十二「米軍の反抗と絶対国防圏」

●反抗開始
 一九四三年十月十二日、短くも激しい攻防戦が繰り広げられた南洋の要衝に星条旗が高らかに翻った。
 ポートモレスビーが奪回された、もしくは陥落した瞬間だった。
 それまで東部ニューギニアを何とか維持していた日本軍だったが、ラバウル、ポートモレスビー、ソロモンの三角形を形作る強固な航空要塞は遂に瓦解したのだ。
 特に補給の問題から、モレスビー以外に兵力をほとんど配置できなかった東部ニューギニアは、ポートモレスビー陥落と共に総崩れの様相を見せていた。無論日本軍もポートモレスビーなどに増援を送り込み続けたが、一九四三年五月以後は補給作戦は全て失敗して、輸送船舶と護衛の駆逐艦に損害が続出した。このため、今まで補助的に使われていた山脈越えの陸路をポートモレスビーに対する補給路としたが、未舗装の幅の狭い山岳路では補給に限界があった。そしてポートモレスビーに肩入れしすぎたため、ポートモレスビーが陥落すると一気に東部ニューギニア戦線は瓦解していった。

 連合国軍の進撃は、日本側の大規模な増援が全く間に合わないほどの素早さだった。わずかな守備隊と基地航空隊の要員しかいない北東部ニューギニアのサマライ、ブナ、ラエなどの貧弱だった基地群を、圧倒的な空軍力と洋上からの強襲によって次々に攻略し、それ以外に散らばる日本軍を孤立・殲滅していった。
 このため、東部ニューギニアの防衛を担当していた日本陸軍第十八軍は、ニューギニア島東端部への戦力投入をする間もなく、急遽動員される予定だった三個師団の兵力をニューギニア中部のマダンより東に配備して可能な限り万全を期するという以外、対策の取りようがなくなっていた。
 ただし、ポートモレスビー自体は、南海支隊を始めとして一万人以上が守備しており、戦況不利になった頃から陣地構築に努め、後方の陣地や縦貫道路など建設にも熱心だったため連合国側も責めあぐねた。何しろ攻略から約一年間、モレスビーの現地日本軍守備隊は陣地を作るか、畑を耕すぐらいしかする事がなかったのだ。
 このため連合軍は、山脈の向こう側にある街ブナを落とすまで、結局は半年近くをかける事になる。後世言われるほど、日本側が防衛に手を抜いていないことを見て取る事ができる。つまり物量差の決定的な違いが、この時の勝敗を分けたのだ。
 いっぽうラバウルを起点として、ソロモン地域に強い勢力を維持していた日本陸軍第十七軍は、ラバウルを抱えるニューブリテン島の防衛強化を図ると同時にソロモン諸島のブーゲンビル島、ガダルカナル島への兵力増援を大本営に強く打診していた。
 なおこの時、ラバウルに三個師団、ブーゲンビル島、ガダルカナル島にもそれぞれ二個師団が必要という法外とも言える要求が大本営に送られている。航空戦力については言うまでもない。
 つまり現地軍を預かる今村中将は、外南洋とも呼ばれていた地域全体からの戦略的撤退を、暗に示していたと言えるだろう。実際問題、ガダルカナル島への補給では、制空権が完全に奪われていなかったのに、輸送船、護衛艦艇共々多くの犠牲が発生していた。
 既に同方面の制空権も危うく、八月の時点でガダルカナル島のすぐ南にあるサンクリストバル島にまで連合軍は迫っていた。ガ島飛行場から二百キロの距離に連合軍の航空基地が設営されていた。

 そして日本軍の前線と後方がアメリカ軍の総反抗の前に翻弄されている頃、もう一つの悲報がもたらされる。
 「ミッドウェー玉砕」だ。
 日本軍の勝利の象徴が、また一つ敵に奪回されてしまったのだ。
 ポートモレスビーとミッドウェーの相次ぐ失陥は、日本軍ばかりか日本全土を揺るがす大事件となった。大本営は「転進」と「玉砕」という言葉で敗北を粉飾したが、日本全体に自らが攻勢から防御に回ったことをこれ以上ないぐらい伝える事件となった。
 そして両拠点の陥落は、日本軍全体を大きく揺るがしたことも事実だった。
 この時東条内閣が倒れなかったことは、一つの奇蹟だと言われたほどだ。その証拠に陸海軍大臣、参謀長、軍令部総長の全てが実質的に責任を取って辞任に追いやられ、トップの刷新が行われている。例外はそれまでの勝利の立て役者だった山本五十六聯合艦隊司令長官だけだった。彼だけが、司令部要員の刷新のみでそのまま残留している。聯合艦隊自体の考え方も、これまでの決戦一辺倒から大幅に改めることになり、既に危機が深刻化していた海上護衛に大きく力を入れる事が、山本五十六大将によって強く号令された。
 そして新たな陣容となった大本営は、遂に徹底した守勢防御態勢の構築を方針として打ち出した。
 これが「絶対国防圏」である。
 絶対国防圏とは、マリアナ諸島、カロリン諸島、西部ニューギニア、そして東南アジア外縁全域をつなぐラインで形成された防衛線の事だ。このラインに連合国を入れない事によって、日本の長期持久体制を維持し、きたるべき決戦で連合国侵攻部隊を粉砕、そこでの大勝利を以て連合国を講和のテーブルに着かせるという構想になるだろう。
 絶対国防圏の完成は一九四四年二月を第一期目標とし、この外にある戦力は全て線の内側へ再配置すると同時に、内地と満州、支那より戦力を抽出して西太平洋の島々を鉄壁の要塞にしてしまおうとした。
 また絶対国防圏の一環として、海上護衛も非常に重大な問題とされ、体制の一層の強化が図られる事になった。

 いっぽうこの頃のアメリカ軍は、ハワイからストレートにマリアナ諸島を伺う海軍のニミッツ大将率いる中部太平洋戦域軍と、ニューギニアからフィリピンに向けて北進を狙う陸軍のマッカーサー大将率いる南西太平洋戦域軍が並進する態勢にあった。そしてこの両者は、自らの戦域を優先すべきだとして強く対立していた。
 この政治的ファクターとアメリカ軍の持つ圧倒的という以上の物量が、「カートホイール」と呼ばれる贅沢な両面作戦を連合国に採らせることになったのだ。
 だが、一旦は中部太平洋戦域軍がミッドウェー奪回優先という政治目的によってリードしたのだがこれに一時的に躓き、反対に遅れて作戦を発動させたマッカーサーは作戦目的以上の成果を出して優位に立つことに成功していた。
 しかし陸軍が完全に優位に立てたかと言えばそうでもない。その後前線部隊よりさらに上の政府・軍部上層部の対立は解消せず、これを決定したのが陸軍航空隊の総指揮官だったアーノルド大将だった。
 彼は、ドイツと同様に日本も戦略爆撃によって屈服させるべきだと考えていた。戦略爆撃を速やかに行うには、新型爆撃機(「B29」)によって日本本土を爆撃できるマリアナ諸島をアメリカ軍の手にもたらすことこそが重要だと考え、これにより太平洋ルートと呼ばれる進撃ルートが連合国全体において重視される事になったのだ。
 もっとも、マリアナ侵攻を実行させる原動力となる空母機動部隊は、四三年八月の戦いで再び大打撃を受けていた。再編成、さらに日本海軍をうち破る戦力を整えるまでには、最大で一年の時間が必要だと考えられた。そこで艦艇の建造スケジュールのさらなる前倒しなどが強く推進される変化をもたらし、その象徴が無理を押して行われた四三年十一月のミッドウェー再攻撃だった。無理が通るほど、戦力を回復していたのだ。
 そして、ミッドウェーを奪回して反撃の狼煙を上げたアメリカ軍は、いよいよ東京目指しての進撃を開始する。
 ルートは先に書いた通り二つだ。ギルバート諸島==マーシャル諸島==マリアナ諸島=沖縄==日本本土へと至るルートと、ソロモン諸島==ニューギニア=パラオ群島==フィリピン==(台湾=沖縄)==日本本土を目指すルートになり、二つの巨大な車輪は、二年という歳月をかけて日本列島を締め上げる事になる。

 いっぽう戦略的レベルで完全な防戦に追い込まれた日本軍は、辛うじて勢力圏内の制空権が維持されている今うちに、南方からの早期撤退と反撃の時間を稼ぐための作戦を発動させる。
 作戦名は「ろ号」作戦。
 作戦の骨子は、ソロモン諸島からの兵力の全面的引き上げ、ラバルウ方面・東部ニューギニアでの遅滞防御を達成するための限定的攻勢、そしてその後の同地域からの全面撤退という二段階に分かれていた。
 一方連合国軍は、日本軍の攻勢に備えた動きを察知するが、この段階での日本軍の大幅な兵力引き上げはありえないと考えた。それまでの日本側のあまりにも積極的な姿勢からくる先入観から、固定化された考えを持っていたためだ。それに大規模な兵力引き揚げとは、極めて難しいのが常のため、行われると考えにくかったからだ。
 故に、日本海軍が突如としてソロモン諸島に有力な艦隊と輸送船団を派遣した事を、ポートモレスビー、ミッドウェーが失陥した事に対する意趣返しを企図した限定的攻勢、もしくは次の連合国の攻撃ポイントに対する大規模な増援と考えた。そこで、サンクリストバル島などの防衛を固めると同時に、迎撃のための有力な艦隊の再配置を急いだ。
 そして撤退作戦を遂行する日本海軍と、増援阻止のため送り込まれた米艦隊の間で偶発的戦闘が何度か発生する。
 そして偶然のいたずら、もしくは神の采配から、その時行われた二つの大規模な作戦は、好対照の結果を残すこした。
 サンクリストバル島の近くでは、厳重な警戒配置について航行していた筈の日本海軍水雷戦隊が、軽巡洋艦を基幹とする米艦隊の一方的なレーダー射撃の前に射すくめられ、そこを突然出現したかのような米駆逐艦隊によって殲滅されてしまう。
 また別の場所では、圧倒的優勢にある連合軍艦隊が、突然出現したかのような日本軍水雷戦隊の前に統制雷撃戦を受け、軽巡洋艦多数が沈没または大破して連合軍が大敗を喫した。
 これら二つの結果は、前者はアメリカ軍と日本軍のレーダーの技術格差がいよいよ開いた事を示していた。後者は、熟練搭乗員が多く存在する日本海軍と、新規乗員が多数を含む米艦隊の戦闘では、咄嗟の事態での対応に大きな差が存在していた事を示していた。
 これ以外にも主に航空機と水上艦艇の戦いが何度か発生したが、多くの場合に日本軍機の損害ばかりが目立つ結果となった。
 しかし連合軍は、積極的な日本軍の行動に気を取られ、日本軍の兵力引き上げが予想以上にうまく運んだ。特にガダルカナル島撤退は完璧に日本軍の撤退が成功したため、「奇跡の撤退作戦」と言われた。そして米軍は、十一月にガダルカナル島に上陸するも、蛻の殻だとは気づかずに大規模な上陸作戦を決行。姿を見せない日本軍の幻影に怯えて、ジャングル内で同士討ちまで行った。
 その後も日本軍の兵力引き上げは進み、今度はアメリカ軍も気付く事が多くなり戦闘も頻発した。だが連合軍、ガダルカナル島で無駄な時間と兵力を使ったため、うまく日本軍の動きを抑えることが出来なかった。しかも連合軍は、日本軍がガダルカナル島からブーゲンビル島に戦線を弾き直そうとしていると常識的に考えたため、さらにちぐはぐな行動を取ってしまう。
 そして日本軍は、ガダルカナル島以外ではかなりの損害を受けたが、ソロモン諸島方面に投じられていた大規模な戦力を、まずはラバウル方面に、そしてさらにその後、その後アメリカ軍を苦しめる戦域への転進を実現している。

 しかし、日本軍の作戦が全てうまくいったわけではない。
 確かに、何とか優勢を維持していたソロモン諸島からは概ね好調な撤退を行い、日本本土などからの派兵もあって、今までガラ空きだった中部太平洋各地への再配置が進んだ。しかし、制空権の奪われた東部ニューギニアでは、激しい空襲により撤退もままならない地区も多かった。しかもマッカーサー将軍が繰り出してくる「蛙跳び作戦」によって、ジャングルで遮られた東部ニューギニアの拠点の多くが次々に沈黙していったのだ。
 それでも日本軍はラバルウ・東部ニューギニアからの撤退のため、計画通り「ろ号」作戦と命名された限定的航空攻勢(航空撃滅戦)を作戦の第二弾を発動させた。
 決戦を強要されたようなものではあったが、日本海軍というより聯合艦隊の「決戦好き」の結果とも言える戦闘だった。

 一九四三年十月二十八日に「ろ号」作戦が発令されたのだが、海軍航空隊の片翼だった空母艦載機隊が、先だってのミッドウェーの決戦で大打撃を受けて前線への投入が不可能だったため、主に海軍基地航空隊と一部陸軍航空隊による共同作戦となった。
 そして日本軍の撤退に気付いた連合国が、ほぼ同時期にソロモン方面で活発な侵攻作戦を行っていたため、この付近に存在する連合国戦力に兵力を集中させる事が急遽追加決定された。
 なおこの時の作戦は、アメリカ軍がレンドバ島に上陸し、これ以上の北上を阻止する計画で立案されている。
 十二月一日、ブーゲンビル島トロキナ岬に、アメリカ第三海兵師団の上陸が報告された。これを受けて、ラバウル基地から出撃した零戦と九九艦爆が二次にわたり攻撃するも、戦力の少なさから輸送船や駆逐艦の何隻かに損害を与えた他はさしたる戦果はなく(アメリカ側は輸送船二隻、駆逐艦一隻の沈没を確認)、翌十二月二日に「第一次ブーゲンビル島沖航空戦」が発生する。
 ブーゲンビル島沖航空戦は、十二月二日〜十一にかけて行われた。この間の日本軍の大規模な航空攻撃によって、第一次から第六次まで分けられている。だが、現地に展開していた海軍の基地航空隊一七三機のうち実に一二一機を喪失。熟練した搭乗員の半数も失われ、ラバウル航空隊は実質的に壊滅する。
 なおこの戦いは、消耗を嫌った米空母群の撤退によって終結したのだが、ここで日本軍はあまりにも現実とかけ離れた戦果報告を鵜呑みにした。そして、米空母部隊は完全に消滅したと判断したのだが、その数ヶ月後何事もなかったかのように再び米空母部隊が現れたため、この時の成果が全く誤認だった事が分かった。当然と言うべきか、日本国内では海軍全体が大きな恥をかく結果となった。そしてその後、海軍では戦果確認には慎重を期すことが厳命されるという事件も生んでいる。
 しかし、戦略的に重要だったのは、この一連の戦いによって日本海軍基地航空隊が一時的に壊滅的打撃を受けたという点だ。航空撃滅戦の失敗を痛感した大本営は、予定を繰り上げてラバウル地域からの兵力引き上げを決意した。
 一九四四年二月二十日、日本国民に親しまれ、戦意高揚映画でも知られた「ラバウル航空隊」は、進出から二年余でその歴史に幕を降ろす事となった。これにより、同地域に展開していた十万人以上の将兵が、可能な限りという但し書き付きながら中部太平洋各地へと撤退していくことになる。
 なお、「ろ号」作戦での航空撃滅戦が、全く無駄だったわけではなかった。米機動部隊の一時的後退によって、日本側は全面撤退と兵力移動の時間を得ているので、短期戦略的には日本軍の勝利と言えるだろう。

 一方、一九四四年二月二十日、日本軍の撤退にさらに呼応するかのように、ギルバート諸島にアメリカ軍の大艦隊が姿を現した。
 これに対して日本軍は、現地守備隊約五〇〇〇名が聯合艦隊の来援を信じて孤軍奮闘を続ける中、タラワ島攻防戦が七日間にわたって続けられた。
 大本営においても、同地域での決戦ができないのなら、せめてここで米艦隊に痛撃を与えておく事は重要だとして、潜水艦や新編成されてマーシャルに進出していた基地航空隊を用いて積極的に敵艦隊を攻撃した。
 戦闘開始三日目には、アメリカ軍は護衛空母二隻を潜水艦と自爆機の激突によって相次いで撃沈され、輸送船団にも数隻の損害受けることになる。中でも効果が大きかったのは、上陸指揮艦(アンテナの林立した輸送船)に偶然直撃弾一発を命中させた事と、島に取りついていた海兵隊にわずかながらも銃爆撃を行った事だろう。
 これによる混乱と日本軍守備隊の奮闘によって、海兵隊は一時撤退を余儀なくされたからだ。このあと一旦全軍を撤退させたアメリカ軍による大規模な艦砲射撃がまる半日もの間実施され、その後再上陸した海兵隊は残った陣地を苦労して破壊して六日目の深夜遅くに残存した日本軍部隊の「バンザイ・アタック」によって戦いは幕を閉じる事になった。
 なお、当初大本営は本来ギルバート諸島一帯を決戦海域と設定し、ここで米艦隊との雌雄を決する予定だった。このためマーシャル諸島地域よりも同島を強固に防御していだのだが、四三年八月の第二次ミッドウェー沖海戦の空母機動部隊壊滅、十二月ブーゲンビル島沖海戦での基地航空隊壊滅によって該当戦力がなくなり、このためお茶を濁すような航空攻撃をしたにとどまったという経緯がある。
 またこの戦いで重要な事は、アメリカ軍が島嶼攻撃のノウハウを得たと言うことであり、日本軍の頑強な抵抗とその終末段階に訪れる「バンザイ・アタック」の恐怖を味わったという事だろう。
 そして、日本側が何とか空母機動部隊と基地航空隊の再編成と補充を完了させる一九四四年初夏までに、東部ニューギニア各地に続いてギルバート諸島、そしてほとんどが無血撤退されたマーシャル諸島地域が玉砕もしくは陥落していく事になる。この地域での日本軍の後退もしくは計画的撤退は全く間に合わず、アメリカ軍の進撃の素早さを見て取ることができる。

 日本軍の防衛態勢が整いつつあったからといって、楽観できるというものでは全然なかった。
 一九四四年に入ると、連合国の物量はさらに巨大なものとなっていた。東部ニューギニアでは制空権が完全に奪われ、増援はおろか駆逐艦による補給すら自殺行為という有様だった。増援を乗せた輸送船が、数千の将兵全てを乗せたまま航空機や潜水艦により手もなく撃沈されるという痛ましい事件が続発したほどだ。
 また、東部ニューギニアで孤立した将兵は、徒歩でジャングルの中の撤退を続け、そのほとんどがジャングルの中で飢えと病気によって息絶えていった。
 つまり東部ニューギニアの日本軍は、戦う前に船が沈められるか、全滅するか、孤立するか、運が良くても身一つで何とか撤退に成功する程度というような、もはやまともな戦いとも言えない戦闘が展開されていた、という事になる。
 まるで伸びきったゴムが突然ちぎれてしまったようだと表現した評論家もいたが、そのちぎれた先にいる将兵にとってそれは地獄の現出にほかならなかった。
 だが、この時の犠牲も、アメリカ軍を同方面に拘束するという点では全く無駄だったわけではなかった。まだ米軍が襲来していないマーシャル諸島からの撤退も、潜水艦と空母部隊を警戒しつつ夜逃げのように進められた。西部ニューギニアへの戦力投入と各島嶼の要塞化も、当時の日本軍のレベルを考えれば十分以上に進行していた。
 これまでの転進と内地や満州からの増援よって、マリアナ諸島のサイパン、テニアン、グァム各島、東部ニューギニアのビアク島、パラオ諸島の南部のペリリュー、アンガウル地区はそれぞれ陸軍の有力部隊が展開して強固な島嶼要塞としての構築が進められた。基地航空隊は、第一航空艦隊として再編成され、戦力を増強させつつあった。戦力を無事に目的地に移動させるため、一時的に主力水雷戦隊の多くが護衛任務にかり出され、また今まで殆ど省みられなかった対潜水艦戦術も練られた。
 内地で懸命の再編成が急がれている聯合艦隊という矛が備えられれば、十分に連合国を撃退できるものと強く期待できるほどになりつつあった。

 また、ソロモン、ラバウル、マーシャル事実上の放棄によって必要性が大きく低下し、絶対国防圏の外縁に位置するトラック諸島でも大規模な兵力の再配置と後方部隊の撤退計画が実施されつつあった。
 これが一九四四年三月に入ってからの事になる。
 そしてまずは前線に止まっていた聯合艦隊の大型艦艇が、再編成もかねて内地へと帰投した。一部の軽艦艇と輸送船は、護送艦隊を形成して南方からの資源受取に向かうなど活発な動きが見られた。それまでトラックで頑張っていた日本海軍唯一のサーヴィス部隊(工作艦や高速給油艦群)も、一個水雷戦隊に改装空母付きという贅沢な護衛艦隊に守られる中、トラック諸島を後にして一路、艦隊集結ポイントの一つである沖縄を目指して後退していった。
 これにより、最盛時環礁内を埋め尽くすほどだった日本海軍の艦船のほとんどが姿を消した。残っているのは、現地で警戒任務に当たる小規模の艦隊と、まだ残っている部隊に対する補給を行う輸送船とその護衛艦隊だけとなっていた。
 だが、事実上の最前線となったトラック基地には、多数の基地航空隊と地上部隊が展開していた。この時点で約三〇〇機の機体が様々な理由で翼を休め、陸海合計三万の守備隊が展開していた。
 そうした中、アメリカ軍の反抗はいよいよ絶対国防圏の牙城であるトラック、マリアナを指向しつつあった。

 

 

■解説もしくは補修授業「其の拾弐」 

■フェイズ十三「東部戦線」