■フェイズ十三「東部戦線」

 「ツィタデル(砦)作戦」もしくは「クルスク大戦車戦」と後世言われる戦いは、第二次世界大戦を多少なりとも詳しく知る人ならば、必ず聞いたことがあるだろう。
 第二次世界大戦においてドイツの命運を決したと言われる戦いは、北アフリカでの戦いがようやく終末期に入ろうとしていた頃発生した。
 もっとも、この頃の欧州の状況は、連合国にとって太平洋ほど不本意な状況ではなかった。
 確かに、北アフリカに一九四二年暮れに上陸したにも関わらず、半年経ってもいまだに現地ドイツ軍の撃破に成功したとは言えず、いまだに「砂漠の狐」にいいようにあしらわれている有様だった。だが、英本土から間断なく繰り出される戦略爆撃は、犠牲も少なくなかったが確実にドイツにダメージを与えていると統計資料は語っていたし、水面下での戦いも機材と物量によって徐々に好転しつつあったからだ。
 一九四三年四〜七月こそが総力戦としての戦いのピークだったと後世の戦史家も一様に判断している事からも、当時の連合国全体が感じていた感覚的な勝利への予感も間違いではないと言えるだろう。
 だが、その後の道のりを思えば、まだようやく一番大きな分水嶺を越えただけであり、世界第二位の工業力を誇るドイツの軍事力はまだまだ健在だった。
 そして、そのドイツの底力を見せつけたのが、「ツィタデル作戦」。ドイツ東方軍の存亡をかけた作戦だったのだ。

 東部戦線は、スターリングラードを巡る戦いとその後のソ連軍の追撃、そしてドイツ軍のまるで魔法を見るような機動的な反撃という流れを経て、一九四三年三月にはロシア恒例の泥の海到来と共に停滞期を迎えていた。
 しかし、その停滞した戦線はソ連軍の大きな突出部を形成した状態での停滞だったため、ドイツ軍がこれを半包囲するような形で軍主力同士が対陣していた。
 そしてこれに目を付けた双方の国の独裁者は、戦争の帰趨を決するのはこの戦場だとして、膨大な戦力の集中を開始した。
 ドイツ側の作戦の骨子は、クルスク市を中心に突出部として残されたソ連野戦軍主力を、その根本から包囲しこれを殲滅する事にあった。作戦が成功すればソ連赤軍は野戦軍の主力を失い、熟練兵を多く失ったソ連野戦軍の作戦能力は大きく低下する。加えて、攻勢能力を大きく削がれることになるばかりか、かつてのような大侵攻の足がかりにすらなると見られていた。
 つまり野戦軍の撃破と戦線の整理を行うことで、東部戦線全体にかかる負担を大きく軽減し、さらに大きな予備兵力を確保して次なる戦いに備えようとすら考えられていたのだ。
 対するソ連赤軍は、この地域に全軍の40%に当たる軍事力を集中し、中でも機甲戦力はその過半をこの大きな突出部とその後方に配備した。加えて、強固な防御陣地を構築した。分かり切った場所にやってくる敵を迎え撃つだけなので、ドイツ軍より対応は簡単だった。
 一方のドイツ軍は、ヒトラーの肝いりで作戦が計画され、装甲戦闘車両三〇〇〇両、航空機一八〇〇機、兵員一五〇万人というドイツ東方軍が結集できる全ての余剰兵力がここに集中する予定になっていた。
 なお、当初作戦は、スターリングラードの混乱が落ち着いた頃、作戦指導を取り戻したいヒトラーの要望により、新鋭戦車と新鋭戦力の揃う六月末を予定していた。だが、ドイツ軍前線からの早期作戦開始要請が土壇場でこれを前倒しにさせてしまう。
 総統の言葉を覆させたのは、マンシュタインを始めとするドイツ軍前線部隊の首脳部だけでなく、親衛隊(SS)などの前線の将軍からの再三に渡る強い要望だった。
 しかし作戦は、将軍達が強く主張した五月初頭ではなく、政治的妥協として一週間のちの五月一五日が作戦開始日とされた。これは、増産計画を一部変更して先行量産させた「六号重戦車(ティーゲル)」と「エレファント」が前線に投入可能な精鋭部隊に配備できるギリギリのタイミングだった。このため前線部隊から「ティーゲル」、「エレファント」以上に期待されていた「五号中戦車(パルテン)」の配備は間に合わなかった。
 そして、このドイツ首脳部での作戦日時の直前の変更が、ソ連の防衛計画に大きな齟齬をきたすことになる。
 
 再び攻められる側となったソ連軍の対応だが、当時ドイツの暗号をあまりにも詳しく解読し、スパイを送り込んで情報を入手していた事から、ドイツ軍の作戦開始を当初計画の六月二二日と完全に誤断していた。そればかりか、新鋭戦車(五号中戦車)の開発状況などから、七月の作戦開始とまで判定していた。だからこそ、その線にそって防衛計画の立案、兵力の移動、陣地の構築が進められていた。
 クルスク市に至るルートの全て、クルスク・バルコンと呼ばれる突出部全体の要塞陣地化を進め、親衛隊を中心とした膨大な予備兵力を集中させ、六月半ばまでにはドイツ軍を圧倒する戦力が集中されるはずだった。
 しかし、ドイツ軍の作戦は、一カ月以上早い五月一五日に開始される。

 「ツィタデル作戦」は、ドイツ軍の事実上の奇襲攻撃によって開始された。
 第一撃の航空攻撃により、この地域の一時的制空権がドイツ軍の手にわたり、恐るべき「シュツルモヴィク」の災厄を封殺したドイツ地上軍は、待ちかまえる対戦車陣地の地獄へと突進していった。
 そしてドイツ軍将兵がクルスクに至る道で遭遇したソ連軍陣地は、自らの予想を遙かに上回るものだった。もともと補助的な攻撃が予定されていたモーデル将軍の中央軍集団の担当戦区では、初期の奇襲成功にも関わらず、かろうじて初期目標だったオルキヴァトカの占領に成功した時点で一時的に突進速度をなくしてしまうほど強固な防衛線だった。
 だが、初期の奇襲効果とSS装甲師団の圧倒的な突進力によって、南方軍集団戦区は比較的順調な進撃を続けた。ソ連野戦築城術の粋を結集した第一、第二線陣地群を多くの犠牲を払って突破すると、その後方に広がっていた第三線の防衛戦はいまだ未完成だったのだ。あとはこのまま蹂躙戦を展開しつつ、クルスク市近辺で握手する友軍目指して突進すればよい状況にまでなっていた。
 これが、五月二十日の事だ。
 そしてドイツ軍の戦線突破に大きく動揺したのがソ連のすべてだった。
 ドイツに戦略レベルで欺かれるばかりか、現地軍は為す術もなくドイツ軍の突破を許している有様だったからだ。そして大きな焦りを覚えたスターリンは、ただちに総反撃を命令し、いまだ集結・再編成を終えていなかった反撃用の予備兵力だったステップ方面軍の投入を決定した。
 そしてここにプロホロフカ、オボヤン方面で大規模な戦車戦が展開される。これが後に「史上最大の戦車戦」や「クルスク戦車戦」と言われる大規模な戦いだ。
 なお、ステップ方面軍に含まれる主力部隊の多くは、スターリングラード包囲戦失敗の後行われたロストフ突破戦での無理な進撃で損害を受けた部隊が多く含まれており、この時完全に戦力を回復しているとは言えなかった。これも、戦闘を決した大きなファクターだったとも言われている。

 戦闘は、度重なる突破戦闘で疲れの見えるドイツSS軍団に対して、最精鋭の親衛隊機甲軍を投入したソ連軍が、ドイツの「ティーゲル」による前衛部隊に苦しめられながらも数的優位に進展した。
 しかし、機動戦と得意とするマンシュタイン将軍は、ここで最後の予備兵力だった一個装甲師団を中心とする快速部隊による迂回突破を決意し、反撃に出てきたステップ方面軍の側面を得意の運動戦で突いた。そしてこの部隊がオボヤンの側面突破に成功して、親衛隊と共同で付近戦力の包囲殲滅すると、さらにソ連野戦軍の後方を蹂躙したため戦況が一気にドイツ軍有利へと傾いた。
 そして多くの戦車とそれを操る熟練兵を失ったソ連軍は、逐次投入と各個撃破を繰り返して反撃が尻窄みとなる。そして激突から四十八時間後には、ソ連戦車軍団はその多くが撃破された。あとは、機動力を失った貧弱な予備陣地は蹂躙されだけとなり、クルスクへの道を遮るものは事実上皆無となっていた。
 なお、この戦いにおいて、ドイツ軍の誇る重戦車通称「ティーゲル」が東部戦線での本来の意味でのデビューを飾り、以後数多のタンク・キラーと無敵神話を織りなす事になる。

 その後クルスク市は、最後の進撃に成功したドイツ軍により五月二十九日に完全に包囲された。ドイツ軍がクルスク近郊で包囲に成功したソ連軍は膨大な数に上り(約九〇万人)、戦闘能力を残していた部隊も多いため脱出しようとする兵力も多かった。そしてソ連軍の脱出すべて防ぐ戦力はドイツ軍には存在せず、多くの兵力の脱出を許している。
 クルスク地域での戦闘が完全に終息したのは皮肉にもヒトラーが当初作戦開始を主張した六月二十二日だった。そしてその日、約五十三万人のソ連軍捕虜が投降することで幕を閉じた。また捕虜以外にも、ソ連軍は精鋭部隊ばかり二十万人以上の兵士を失っていた。そしてここで受けたダメージのため、半年は積極的攻勢が不可能になったと言われる。
 反対に、戦線の整理に成功したドイツ軍の防衛線は強固なものとなり、この年にソ連軍が計画していた夏季攻勢はその過半が中止を余儀なくされている。イタリアでの第二戦線形成が遅れた事も、東部戦線でのソ連の反撃の遅れを助長していた。
 もっとも、クルスクで大きなダメージを受けたのは、無茶な突破戦闘を行ったドイツ軍も同じだった。とてもヒトラーの望んだような再度の大攻勢を仕掛ける余力はなかった。結局ヒトラーが最低限望む固守命令と、前線指揮官達の進言を受け入れた折衷案である、拠点化された数多くの防衛陣地とそれらを支える機動戦力による縦深の深い陣地線を形成することに努力が割かれる事となる。
 以後ドイツ東方軍は、事実上の守勢防御態勢へと移行していった。

 クルスクを巡る戦いの後、東部戦線はかなりの期間の停滞を迎えるが、ソ連軍は徐々にドイツ軍を押し戻し、そして四四年夏に入ると再び大きな動きを見せた。
 クルスクで失った野戦軍を立て直したソ連軍は、西欧での連合国の動きに連動して、東部戦線全域で全面攻勢を開始したからだ。
 ソ連赤軍一〇〇〇万とも言われれる大軍がついに動き出した瞬間だった。
 ソ連側の夏期攻勢作戦、「バグラチオン作戦」と名付けられた作戦の格子は、依然強大な戦力を持つとソ連側が見ていたドイツ南方軍集団が守備するウクライナ地方ではなく、また土地の奪回よりも敵兵力の分断、包囲が目的とされた。このため作戦は、南方より弱体な北方軍集団と中央軍集団の中間ラインを大兵力で正面から突破し、事後バルト海目指して突進を続け、敵野戦軍をドイツ本土から分断包囲して、ドイツそのものに大きな人的ダメージを与えようとしたものだった。
 一九四四年六月二十三日にソ連軍によって開始された「バグラチオン作戦」は、直接参加兵員数一〇〇万人、戦車・装甲車両など四〇〇〇両、航空機五〇〇〇機の大部隊だった。これに対抗するドイツ軍は、依然強固な守りを見せる南方軍集団こそ健在だったが、北方軍集団、中央軍集団共にそれまでの消耗で、航空兵力、装甲兵力ともにソ連軍の三分の一にも満たない数で、全体での兵数はソ連軍が五倍以上優勢になっていた。
 つまり、防御すらままならない兵力を、ソ連軍は叩きつけてきた事になる。
 しかもドイツ軍は、連合国が西から大陸反攻を開始した事で航空兵力がさらに引き抜かれるなど大きく弱体化していた。
 このためドイツ東方軍は、中央軍集団を預かるモーデル将軍の指導によりねばり強い防戦に務めるが、圧倒的な物量を投入するソ連軍の前に計画以上の後退を余儀なくされた。
 だが、事前に組み上げられた拠点陣地と機動防御戦術は有効に機能し、ソ連軍の攻撃開始から二週間以上も敵に大きな損害を与えると共に戦線を支え続けることに成功した。
 これは、西欧での敗北に大きなショックを受けたヒトラーから強い死守命令が出なかった事も幸いして、分断される恐れの大きな部隊は敵戦力の集中する地域か後方に向けて移動する時間を稼ぐことができた。さらに南方軍集団からの側面援護により戦線の全面崩壊も避けられ、ミンスク手前の防衛線で当初巨大な野太刀のようだったソ連軍親衛隊を何とかジャックナイフ程度にまで減殺する。
 その後の側面からの局地反抗によって、何とか東部戦線全体を安定化させる事にも成功していた。
 そしてソ連軍の大攻勢が中途挫折を余儀なくされたのは、やはりソ連軍がクルスクでの敗北の影が大きく影をさしていた。自らの反抗のとん挫によってドイツ軍に時間を与えた事、敵主力の殲滅に失敗した事、そして大きく消耗していた自軍の欠損による影響が強かったのだ。ソ連側ですら、クルスクで失われた七十万人の精鋭が存在していれば、特に問題もなく「バグラチオン作戦」は成功しただろうと後に述懐させたと言われている。
 なお、マンシュタイン将軍自らが指導したクルスク=ハリコフからドニエプル川西岸に至る史上最大規模と言われた奥深い防御線は巧妙を極めた。四四年いっぱいは、ソ連軍をドニエプル川西岸で押し止める事に成功しており、もしクルスクでソ連軍が勝利していれば、ソ連軍の進撃は半年から一年は早まり、彼らこそがベルリンを陥落させていただろうと言われることは有名だろう。
 そして、バルト海のリガ、ミンスク、ドニエプル川のラインで四四年の東部戦線は暮れることになる。ベルリンは、まだはるか彼方だった。

 いっぽう東部戦線以外の欧州戦線だが、北アフリカでの戦いは一九四三年八月半ばまで継続した。そしてこの三ヶ月後の十一月十日に連合国は、圧倒的大戦力でシシリー島に侵攻。そのままの勢いで十二月三日にイタリア本土に上陸を果たした。これは、圧倒的な制空権と制海権がもたらした勝利であり、以後これほど一方的な戦場は欧州戦線では現出されていない。
 また、シシリー島に上陸された数日後の十一月十四日ムッソリーニは失脚し、イタリアにはパドリオ政権が成立。早くも、十一月二十四日にイタリアは連合国に降伏する。だが、イタリア降伏に対して、ドイツ軍が全土に進駐してきてローマを占領。イタリア半島全域に強固な防衛ラインを構築して、四三年暮れから連合国軍との激しい攻防を繰り広げる事になる。
 そして、英本土に戦力集中が進む部隊を用いた一大反攻作戦が、一九四四年初夏を目標に進められていた。

 

 

■解説もしくは補修授業「其の拾参」 

■フェイズ十四「フォレンジャー作戦」