■フェイズ十四「フォレンジャー作戦」

●決戦前夜
 一九四四年三月十八日、三度再建され、そればかりか圧倒的工業力によってそれまでを遙かに上回るパワーを得た米機動部隊は、突如日本軍の一大拠点であるトラック諸島を激しく空襲し、同地にあった日本軍航空戦力を壊滅状態に追い込んだ。
 これが、太平洋戦争の「最後の分水嶺」と言われる戦いの始まりだった。

 この頃中部太平洋における戦いは、連合国軍(アメリカ軍)優位に進展していた。
 自らの不利を自覚した日本軍は絶対国防圏を設定し、今まで進出していた前線から順次兵力撤退しつつ、兵力の再配置とそれまでおざなりにしていた重要島嶼の要塞化を進めた。一方のアメリカ軍は、日本との度重なる戦闘で消耗した海軍力の回復に懸命なため、一九四四年に入るまで中部太平洋方面で大規模な活動に出ることはできなかった。一九四四年二月二十日の連合国によるギルバート諸島侵攻まで、水面下の戦い以外は比較的平穏な状態だった。
 もっとも、東部ニューギニア地域では、連合国南西太平洋戦域軍率いるマッカーサー将軍による活発な作戦が行われていた。ここでの消耗戦に引きずり込まれた日本は、自らの国力を越えた戦闘により、分断、孤立、包囲、飢餓、殲滅というプロセスを繰り返すだけとなっていた。しかし、ここに敵を押し止めるために派遣された部隊は、日本の絶対国防圏建設のための貴重な時間を稼ぎだしたとも言え、戦略的には決して無駄な犠牲だったわけではない。
 そして圧倒的物量を眼前にした日本側に勝機がゼロだったかと言えば、少なくとも当人達はそうは考えていなかった。
 主な理由は、開戦以来聯合艦隊の矛として獅子奮迅の活躍を示してきた空母機動部隊の存在があったからだ。この矛は開戦以来いまだ四隻の大型空母が健在で、新たに正規空母二隻が加わった事で、少なくとも空母戦力ではアメリカ軍を依然上回っていると考えられていた。
 日本海軍にとって空母機動部隊とは、唯一にして最強の切り札なのだ。
 さらに、第一航空艦隊と呼ばれる基地航空隊も編成が急がれており、保有機数一〇〇〇機以上を数えるこの一大戦力と空母部隊を以てすればアメリカ軍の侵攻は十分撃退可能と見られていた。
 また、陸軍も南方からの兵力引き上げと満州や内地からの精鋭師団の派遣、そして十分な時間をとったと見ていた陣地構築と基地建設によって、絶対国防圏に対して大きな自信を持つに至っていた。
 マリアナ諸島のサイパン、テニアン、グァム、東部ニューギニアのビアク、パラオ諸島のペリリュー、アンガウル地区は強固な島嶼要塞として建設が急ピッチで進んでいた。
 加えて、それぞれの島には最低師団規模、最大三個師団規模もの兵力の配置もしくは再配置が行われた。その半数がソロモン諸島とラバウルから転進してきた日本陸軍の中でも精鋭部隊であり、上記六つの島を中心とした兵力の総数は、陸海合計で二十万人にも達していた。
 その象徴がマリアナ諸島だった。同諸島には、大量の航空部隊と地上部隊が守備についていたが、ここの全軍の指揮はそれまでラバウルに第八方面軍の司令部を構えていた陸軍の今村大将が、全軍の総指揮権を持つことが陸海軍において了承された。司令部もそのまま第八方面軍とされ、その司令部は機能維持を最優先とするためパラオ諸島本島に置かれた。また、ニューブリテン島からソロモン諸島に展開していた第十七軍は、所属師団三個以下七万人もの将兵が、横滑りの形でマリアナ各地やトラックに駐留もしくは移動待ちの滞在をしていた。
 そして、グァム島には第二十九師団、第三十八師団、テニアン島には第六師団、そしてサイパン島には第二師団、第四十三師団が配備された。さらにこれらを基幹戦力として、それぞれ海軍の特別陸戦隊や戦車、重砲などの支援部隊を配備され、マリアナ諸島だけで総数十四万人もの陸軍兵力が溢れかえっていた。
 なお、以下が一九四四年半ば頃の陸軍の南方での兵力配置(予定)になる(既に戦力を喪失している師団も存在する)。

 マリアナ諸島(第八方面軍・第三一軍)
第二師団、第六師団、第二十九師団、第三十八師団、第四十三師団
独立混成四十七旅団、独立混成四十八旅団
戦車二個連隊
 トラック・ヤップ諸島
独立混成五十一旅団、独立混成五十二旅団、独立混成五十三旅団(第五十二師団)
 パラオ諸島
第十四師団、第十七師団
独立混成四十九旅団、戦車一個連隊
 小笠原諸島(一部未配備)
独立混成旅団二個(第一〇九師団)

 西部ニューギニア・東部蘭印(第二軍)(一部未配備)
第五師団、第三十二師団、第三十五師団、第三十六師団、第四十一師団

 東部ニューギニア(第十八軍)(機能微弱)
第二十師団、第五十一師団
 ソロモン・ラバウル(第十七軍)
 (全軍撤退・解体)

 以上のように、それぞれ陸軍の有力部隊が派遣されていた。東条首相をして、十分に連合国を撃退できるものと強く期待させるほどになりつつあった。
 なお、この時の兵力配置はソロモン、ラバウル、マーシャルからの事実上の放棄によって実現したものだ。そしてアメリカ軍の潜水艦による積極的な妨害を受ける前に多くが移動出来た事と、この移動に聯合艦隊が総力を傾けた事もあり、九割近い移動の成功を収めた。
 ガダルカナル島などでの実戦経験を持つ現地部隊は、自らが赴いた島全体を幾重にも渡る複郭陣地群にすべく懸命の努力を続けた。本土から届けられる資材の不足はあったが、三ヶ月以上にわたる陣地構築によって、どうにか満足できるだけの陣地が構築されつつあった。この防衛体制の急速な整備状況に、少なくとも大本営上層部は迎撃に比較的楽観的だった。
 しかし、機動部隊は戦力を補充したとは言え、パイロットの質はそれまでの戦いと基地航空戦のため各地に投入された事で消耗して必ずしも高いとは言えなかった。これは基地航空隊を預かる第一航空艦隊についても同様で、せっかくの新型機を使いこなせるパイロットが少なく現場指揮官の不安はかなりのものだった。
 前線で意気軒昂だったのは、移動途中の損害もなく所定の島にたどり着けた陸軍部隊だけだったとも言われる。

 また、必要性が大きく低下し、絶対国防圏の外縁に位置するトラック諸島でも防衛のための様々な戦力の移動と再配置が実施されつつあった。
 トラック諸島は、開戦以来日本軍の中継基地として最大限に機能し続けた。だが、この基地が支援すべきマーシャル諸島、ギルバート諸島、ソロモン諸島、そしてラバウル一帯から兵力が引き上げるのなら、ここに大規模な中継基地を維持する意味はなかった。故に三月初頭には、いまだ抵抗を続けている東部ニューギニアへ補給物資を送るための部隊と、マリアナ、パラオの要塞群が完成するまでの時間稼ぎとして残された兵力がたむろしているだけとなりつつあった。
 絶対国防圏で一番外になるトラックは、国防だけを考えると日本にとって重荷になりつつあった何よりの証拠だった。
 そして、事実上の最前線となったトラック基地には、第五十二師団主力にあたる二個混成旅団規模の地上部隊と最も規模の大きな海軍特別陸戦隊、そして多数の基地航空隊が展開していた。また、この時点で約三〇〇機の機体が様々な理由で翼を休めていた。
 だが、日本軍の防衛体制構築をあざ笑うかのように、三たび再建されそれまでに倍する戦力を誇る米機動部隊が姿を現した。
 彼らはまず、一九四四年二月十五日にギルバート諸島に襲来して、攻略のための地ならしをした。その後は、完全な軍事的空白地帯だとは気付いていなかったため、クェゼリン環礁などマーシャル諸島各地を総攻撃した。そうしてその存在を見せつけると、機動部隊の特徴とでも言うべきヒット・エンド・ラン戦法を繰り広げ、ついに日本軍前線となっていたトラック、マリアナ、パラオへと押し寄せた。

 一九四四年三月十八日、三度再建されそれまでを遙かに上回るパワーを得た米機動部隊は、突如日本軍の一大拠点であるトラック諸島を激しく空襲した。約一週間、三度・八波にわたる大空襲で同地にあった日本軍航空戦力と基地・施設を壊滅状態に追い込んだ。
 もちろん日本側も、黙ってやられたワケではなかった。約一八〇機が展開していた戦闘機隊の過半は、レーダー(電探)による事前察知でいち早く迎撃を開始し、最初の日だけで四波に渡って押し寄せたアメリカ軍の大編隊と戦い続けた。さらに早い段階で、付近の基地航空隊とも連携して一〇〇機近い攻撃隊すら送りだして、米機動部隊に積極的に戦闘をしかけている。
 だが、艦載機八〇〇機を擁する大機動部隊に対して、トラック諸島だけの航空戦力ではこれをうち破るには至らなかった。そしてこの攻撃により、トラック諸島一帯の基地機能は大きく低下し、現地に残っていたわずかばかりの艦艇や商船のほとんどが撃沈された。そして合計五万トン近い艦船を失ったのだが、それにも増してトラックが攻撃されたというその事こそが、日本軍全体の危機感を大きくさせる事になる。
 マリアナ諸島防衛態勢構築の速度がさらに速まったことは、言うまでもないだろう。
 また、最大一六二〇機の航空機を保有してアメリカ軍に大打撃を与える筈の第一航空艦隊は、ギルバート諸島を巡る戦いで早くも二〇〇機近くを消耗して、さらにトラック諸島にて三〇〇機もの機体と貴重なパイロットを消耗していた。
 だが、トラック諸島は当時最も航空機が集中している地区のひとつであり、その部隊を以てしても単独で米機動部隊撃滅ができないというので、以後大本営から前線に至るまで、各個に攻撃したりせず航空機の温存が心がけられるようになる。
 その後二ヶ月近く続いた米機動部隊によるマリアナ、トラック、パラオに対する航空撃滅戦には、戦力集中が達成できるまで耐える方針が貫かれた。各地の日本軍基地は、貧弱な隠蔽陣地での損害を累積させつつも、アメリカ軍の大艦隊が輸送船団を伴って現れるのを野伏せりのごとく待ち受けた。

 そして矛となるべき聯合艦隊は、四三年八月に行われた海戦の打撃から、いまだに完全には回復しきれていなかった。
 米戦艦と真っ正面から殴り合った戦艦の半数以上が、日本の修理能力を考えると半年は修理に必要という有様だった。いっぽう今や文字通りの主力となった空母は、艦載機隊が半壊していた。こちらもそれなりに満足しうるレベルに戦力が回復するには、最低半年は必要とされた。なまじ母艦と航空隊の数が多かったため、戦力の回復に時間がかかったのだ。
 なお、空母部隊がどうにか動けるようになった四四年春頃に、航空隊だけ前線に出して航空撃滅戦に投入しようという話しがあった。だが、その頃米空母群が活発な活動を開始しており、結局回復に専念するという方針はなし崩しに堅持され、主に瀬戸内海で訓練に専念して事なきを得ている。
 また、中途半端に前線近くに赴いた一部の艦隊は、米空母群や基地航空隊に嫌がらせのようなダメージを受けては帰ってくるという徒労感だけが募る状態だった。
 そして、四二年夏頃より事実上の二十四時間操業体制により建造が急がれた艦艇の就役、実戦配備は順調に伸展していた。
 待ちに待たれた新鋭空母《大鳳》の配備は一九四四年二月に、《雲龍》も四四年四月には何とか就役することができた。だが、もう一つの期待の星だった戦艦《信濃》は一九四四年六月頃はまだ最終艤装段階で、何もカモを大幅に前倒ししても実戦投入には最低あと三ヶ月が必要だった。だが、その代わりとでも言いたげに、実質的な防空戦艦に改装された《伊勢》《日向》の実戦配備、一部重巡洋艦の防空巡洋艦への改装(損傷に合わせての改装)は完了して、春先より艦隊に合流していた。
 そして、どうにか《雲龍》が艦隊行動に馴れた頃、アメリカ軍のマリアナ諸島侵攻が始まった。
 以下が双方の主要戦力となる。

 日本帝国海軍
 ・第二艦隊
(艦載機:九〇機)
第五航空戦隊:
《瑞鳳》 (戦:六 戦爆:十五 攻:九)
《千歳》 (戦:六 戦爆:十五 攻:九)
《千代田》(戦:六 戦爆:十五 攻:九)
第一戦隊:《大和》《武蔵》《長門》
第三戦隊:《金剛》《比叡》《榛名》
重巡:十隻 軽巡:一隻
駆逐艦:十二隻

 ・第一機動艦隊(艦載機:二七九機)
第一航空戦隊:
《大鳳》 (戦:二十七 爆:二十七 攻:十八 偵:三)
《翔鶴》 (戦:二十七 爆:二十七 攻:十八 偵:三)
《瑞鶴》 (戦:二十七 爆:二十七 攻:十八 偵:三)
第四航空戦隊:
《日進》 (戦:九 戦爆:十八)
《龍鳳》 (戦:九 戦爆:十八)
重巡:二隻 軽巡:三隻 駆逐艦:十三隻

 ・第二機動艦隊(艦載機:二九七機)
第二航空戦隊:
《赤城》 (戦:二十七 爆:二十七 攻:十八 偵:三)
《飛龍》 (戦:十八 爆:二十七 攻:十八 偵:三)
《雲龍》 (戦:十八 爆:二十七 攻:十八 偵:三)
第三航空戦隊:
《隼鷹》 (戦:二十七 爆:十八 攻:九)
《飛鷹》 (戦:二十七 爆:十八 攻:九)
第二戦隊(第一小隊):「伊勢」「日向」
防空巡:一隻 軽巡:一隻 駆逐艦:十隻

(艦載機:六八四(補用含む:七〇〇機以上))
基地航空隊:約九〇〇機
(マリアナ各地、ヤップ、パラオ、硫黄島合計)

 アメリカ合衆国 太平洋艦隊
 第58機動部隊
(第1群)
CV:《エセックス》
   《エンタープライズ2》
CVL:《ベロー・ウッド》《モントレイ》
BB:《ニュージャージ》
CL:4   DD: 16 
 (第2群)
CV:《レキシントン2》《フランクリン》
CVL:《ラングレー2》《カボット》
BB:《アラバマ》
CG:2 CLA:2   DD: 15
 (第3群)
CV:《バンカー・ヒル》《サラトガ二世》
CVL:《バターン》《サン・ジャシント》
CG:1 CL:2 CLA:2  
DD: 16 
(艦載機:約800)

 第13任務部隊
《ウェスト・ヴァージニア》《メリーランド》
《テネシー》《カリフォルニア》
《ミシシッピー》《ペンシルヴァニア》
護衛空母12隻(艦載機:約300)
CG:3 CL:6  DD・DDE:多数

 戦闘艦艇を中心とした艦隊を見ると以上のようになる。上記の戦力を比較する限りは、母艦数、高速戦艦数では日本側の方が数が多く、基地航空戦力も入れると一見侵攻する側のアメリカ軍の方が不利とも見える。
 だが、実際は新型機(F6F)、レーダー、VTヒューズ、優れた無線機、指揮管制システムを始めとする優れた兵器や戦術を多数有するアメリカ側の方が、はるかに有利であった。アメリカに不利な要素があるとすれば、島の攻略と艦隊の撃滅の二つの任務を負わされている事と、艦艇を操るセイラー達が戦争によって動員された者たちが過半で、練度に不安があるという事だろう。

 

●天王山 サイパン島戦

 「フォレンジャー作戦」発動。
 ついに、連合国の総反抗が始まったのだ。これは六月六日欧州にて「オーヴァー・ロード作戦」つまり、ノルマンディー上陸作戦が開始された事からも明らかだろう。
 そして、連合国が日本とドイツに対して同時に総攻撃を行うことを政治的に決断したからこそ、この時日本の牙城とすら言えるマリアナ諸島に連合国、いやアメリカ軍が大挙襲来したのだ。
 このため、「早すぎた決戦」と呼ぶ戦史家もいる。

 なお、これに先立つ一九四四年三月十二日、ニミッツ提督は、統合参謀長会議の指令に基づきマリアナ作戦準備を最優先する旨を太平洋艦隊に発令した。
 そして、マリアナ作戦の目的は

(1) 日本軍の海上、航空兵站線を攻撃する基地の設定
(2) トラック島の制圧作戦の支援
(3) 日本本土爆撃のB29基地の確保
(4) パラオ、比島、台湾、支那大陸に対する攻撃支援

とされた。
 また、中部太平洋方面の作戦計画は、「グラニト計画」と呼ばれ、六月三日に第十一次グラニト計画が発行された。
 それによる作戦計画は以下の通りであった。

サイパン・グアム・テニアン侵攻 六月十五日
パラオ侵攻  十一月八日
ミンダナオ侵攻 一九四五年一月十五日
台湾南部及びアモイまたはルソン侵攻 一九四五年四月十五日

 この計画はあくまで計画であり、実際大きく遅れる可能性もあるし逆に促進される可能性もあった。そして作戦決行日が決まるのも、このマリアナでの戦い如何だった。また、マリアナ諸島そのものを占領することにこそ重点が置かれていると言え、どちらかと言えば日本海軍の撃滅は「ついで」と言った程度でしかなく、艦隊決戦に対する日本との温度差を見る事ができるだろう。
 だが、だからこそ、この時のアメリカ軍の侵攻は早すぎたと言われている。あと三ヶ月の時間によって新たに有力な艦艇が加わり、ノルマンディー上陸作戦から解放されたリソースが太平洋に回され、より巨大な戦力で戦いを挑めるまでマリアナ侵攻は控えるべきだったとする意見が、当時、後世を問わず多数を占める事になったと言えるだろう。

 一九四四年六月十一日、トラックなど一連の空襲から形(なり)を潜めていアメリカ軍は、突如大機動部隊による強襲でマリアナ諸島全域を席巻した。
 この時の攻撃により基地航空部隊、減少したとはいえ今だ約九〇〇機を誇っていた戦力は、決戦温存戦術によって後手に回った。さらに敵の所在を確かめられないため地上待機せざるをえず、決戦温存戦術にもかかわらず不完全な待避壕などの影響もあって大きな損害を出した。また一部が制空権獲得競争に出撃した事もあって大打撃を受け、アメリカ軍に数十機の損害を与えただけで、数日前の60%にまで激減してしまう。
 もっとも日本軍機の破壊は、地上での撃破が主だったため、パイロットの損耗は最小限で抑えられた。残された航空機は熟練者優先で使用され、皮肉にもこの後の戦闘での活躍の原因になったと言われている。
 そして自らの攻撃により、この方面の日本軍の航空戦力は撃滅できたと判断したアメリカ軍は、そのまま六月十三日サイパン島に対して艦砲射撃を開始し、さらに六月十五日上陸を開始した。
 なお、この時アメリカ軍が用意した地上兵力は大きく以下のようにあった。サイパン島攻略後は余剰部隊に増援を付け、近在のテニアン島を攻略する予定になり、サイパン島での戦いの目処がついてからグァム島の攻略に取りかかる予定となっていた。
 つまり、戦いの帰趨はすべてサイパン島が攻略できるかどうかにかかっていたと言えるだろう。
 そして以下が当地域に投入予定の陸上兵力だ。

サイパン(7・1万人)
・第2海兵師団 ・第4海兵師団 
・第27歩兵師団
グァム(五・三万人)
・第1海兵臨時旅団 ・第77歩兵師団
船舶530隻

 一度にこれだけの数を強襲上陸できる事そのものが、圧倒的と言ってよい軍事力だ。欧州でこれを遙かに上回る上陸作戦をしてなお、これだけの兵力を揃えることの出来るアメリカの圧倒的国力と生産力を垣間見ることができる。
 そして、アメリカ軍の艦砲射撃開始に先立つ六月十三日黎明、同方面の第一航空艦隊司令の角田中将は、全残存戦力による敵艦隊撃滅を命令した。
 この攻撃に参加した部隊は、マリアナ諸島のサイパン、グァム、テニアン各地で生き残っていた部隊を皮切りに、硫黄島、パラオ諸島、ヤップ島から多数が押し寄せた。そして開戦からの生き残りの搭乗員を含む多数の熟練攻撃員が参加していたため、アメリカ軍の防空網を一時的に突き崩す事に成功した。
 アメリカ軍は、北寄りに高速空母部隊を配置し、サイパン島近くに攻略船団を護衛する護衛空母部隊、サイパン島寄りに艦砲射撃をする打撃艦隊が位置していた。硫黄島寄りの部隊は世界最強の破壊力を持ち「キラー・フリート」と自ら呼称した米高速空母部隊にまともに突っ込むこととなって、多大な損害の割に戦果は低いものとなった。
 それでも、合計して二〇〇機近くが攻撃した事から、一番北に位置していた第三群に対しての攻撃はある程度の成功を収めた。
 高速空母部隊の重厚な防空網が突き崩された原因は、空母部隊には守るべき部隊が多かったため戦力がある程度分散していた事が最大の原因だった。だが、見えにくい原因の一つに、ギルバート諸島攻略以後の急な侵攻作戦によって搭乗員の消耗が進んでいて、この穴を埋めたパイロットはあまり熟練していると言えない者が多数含まれていたのが原因していると言われる。
 そして、米空母群に達した新鋭の《銀河》を中心とする攻撃隊は、それまでの常識からは考えられない防空弾幕の中を突撃し、魚雷二本、自爆機二機の打撃を与えた(急降下爆撃隊は攻撃までに全滅していた)。そしてその過半が戦場での偶然から軽空母《バターン》に集中し、同艦を大破状態に追い込んでいた。 
 また、マリアナ各地から飛び立った激減した第一航空艦隊の主力は、位置の関係から攻略船団に五月雨式に襲来して効果的な戦果をほとんど挙げることができなかった。唯一百機近い機数(攻撃機は約六十機)で攻撃を行った江草少佐(真珠湾攻撃の生き残り)の攻撃隊だけが護衛空母の第二群に到達して、これを激しく攻撃する。
 この攻撃が成功を収めたのは、それまでの攻撃でアメリカ軍の防空隊が戦力分散に追いやられたからだった。また、ほぼ同時にパラオ諸島方面から大挙して押し寄せた攻撃隊に高速空母部隊の戦闘機隊が、攻略船団上空のエアカバーを輸送船団に集中させた事、米護衛空母群の艦載機が基本的に旧式機(FM2(F4FのGM生産型))で構成されている事、そしてマリアナ諸島の日本軍機をほぼ撃滅したとアメリカ軍が考えていたからだった。
 急降下爆撃を仕掛けた《銀河》爆撃機を中心とする編隊は、護衛空母《サンティー》《スワニー》に数発の命中弾を与え撃沈し、さらに二隻にも最低一発の命中弾と至近弾数発を命中させてる大戦果を残した。
 この攻撃の一部は、往年の日本海軍航空隊の練度を思わせるほど見事なものだった。そしてこの攻撃によって、護衛空母・第二群は事実上壊滅して後退を余儀なくされた。地上攻撃支援も主任務の一つとしていた同部隊の後退は、サイパン島攻防戦初期において非常に重要な役割を果たすことになる。
 だが、この一連の攻撃で日本軍基地航空戦力は壊滅し、今度こそマリアナ近海での制空権を獲得したアメリカ軍は、初期目標であるサイパン島への上陸を開始する。
 そして、そこでもアメリカ軍の思惑は大きく狂うものとなった。

 アメリカ軍は、ギルバート諸島のタラワ島攻略戦において、わずか五〇〇〇名の雑多な日本軍守備隊が守るサンゴ礁に毛が生えた程度の小さな島での戦いで、四〇〇〇名以上の死傷者を出すという多大な犠牲を払った。このため「テリブル・タラワ」と、アメリカ軍をして言わしめた。だからこそ、今回のサイパン島攻略で対策をとって挑んでいた筈だった。
 しかし現地を守備する日本軍は、単に数だけでもタラワ島の十倍の規模におよんだ。しかも日本軍最精鋭師団でありガダルカナル島にも姿を見せた第二師団を中核とするなど、まったく様相の違うものだった。また、そこに配備された兵器のいくつかもアメリカ軍を苦しめる事になる。
 代表的なものに、九八式臼砲、「ピストル・ピート」と言われた正確な砲撃に定評がある九六式十五センチ榴弾砲、対戦車砲としても有力なゴムタイヤ式の九〇式機動砲、そして当時日本陸軍で唯一正面からの対戦車戦闘が可能だった一式砲戦車(九〇式野砲搭載)の存在をあげねばならないだろう。
 これ以外には、五〇〇〇人近く配備された海軍陸戦隊が持ち込んだ、海軍艦艇の旧式装備である二十センチ砲、十四センチ砲、十二・七センチ砲、八センチ砲などの重装備も無視できない要素だろう。そしてこれらの重砲を始めとして、一キロメートルあたり十門に達する密度を持った火砲が三重の深みを持った半地下式の陣地に展開され、特に水際陣地はコンクリート製のトーチカが多数の重機関銃と迫撃砲などで厳重に防御され、その過半の陣地が少なくとも駆逐艦の艦砲射撃程度では撃破されないような強度が持たされていた。
 つまり、サイパン島主要部は全島が強固な火力要塞と化しており、日本軍はアメリカ軍に旅順要塞と同じ目を味合わせようとしていたと言えるだろう。
 ただし、水際とそのすぐ後ろ以外の二線、三線陣地は守備隊兵が創意工夫で作り上げた丸太で組み上げた陣地がほとんどで洞窟陣地の多くもいまだ工事中で、歩兵陣地は待機位置のみ軽掩蓋(タコ壺程度)だったりと不十分な点も多かった。一九四三年十一月から開始された筈の陣地構築は必ずしも十分なものでない事が見てとれ、ここに既に追いつめられていた日本の状況が垣間見えている。
 そして空襲が一段落した六月十三日午前十時頃、戦艦六隻、巡洋艦二隻、駆逐艦二十二隻という大艦隊がサイパン島沖合に現れ、盛んに艦砲射撃を開始した。
 タラワ島で実証された圧倒的な事前攻撃の再現だった。
 そして六月十五日・午前七時十五分、膨大な数の上陸用舟艇と水陸両用車両を押し立てた海兵隊が上陸作戦を開始した。
 これに対して現地日本軍は、同島で最上級指揮官だった中部太平洋艦隊司令長官・南雲忠一中将の必死の説得により、聯合艦隊の反撃が行われるまで陣地固守に徹する方針が当面採用された。
 そして、アメリカ軍が上陸を開始して橋頭堡から進撃を開始すると一斉に砲火が切って落とされたのだが、アメリカ軍の方は激しい砲爆撃によって敵陣地の多くを無力化していたと思いこんでいただけに初戦での損害は大きかった。
 ただ押し寄せる十字砲火の前に次々と損害を累積し、第一波は完全に撃退された。その後二時間にわたって再開された艦砲射撃を行ってから再度上陸作戦を行い、日本軍陣地の砲火が弱まっていた事もあってようやく橋頭堡の確保に成功していた。しかし、初日に確保されたアメリカ軍の橋頭堡は、縦深一キロメートルにも満たず、日本軍の本格的反撃があったらどうなるか分からないものだった。
 もっとも、日本軍は夜になっても小規模な夜襲以外は突撃して来なかった。ひたすら強固に設置された陣地に頼って砲火を浴びせかけ、アメリカ軍のスキを見て陣地を奪回するという戦闘を繰り返した。
 このためアメリカ軍は、上陸四十八時間での死傷者が五〇〇〇名を越え、この時点で予備兵力の第二十七歩兵師団投入を決意しなくてはならなかった。もちろん日本側の損害も大きく、すでに死傷者は六〇〇〇名を越えていた。加えて問題だったのは、疎開しそこねた民間人の存在だった。いまだ二万人以上(疎開できたのは七〇〇〇人程度)が、比較的安全とされた島の北部地域の壕の中で震えているという状態だったのだ。つまりサイパン島の地上戦は、日本軍が始めて自国民を戦闘に巻き込んだ戦闘であったのだ。
 またアメリカ軍では、日本軍の抵抗が激しいため支援艦隊もサイパン島近海に拘束された。そこで予定されていたグァム島、テニアン島の攻略予定も繰り下げられる議論が、早くも始められる状況に追い込まれていた。
 そして六月十六日夕刻より急速に減退した空襲によって、サイパン島にいた全ての将兵は日本軍の反撃の時が近い事を体感する事になる。
 そして、ここに第二次世界大戦で最大規模の空母機動部隊戦が発生する。

 

 

■解説もしくは補修授業「其の拾四」 

■フェイズ十五「血戦! マリアナ」