■フェイズ十五「血戦! マリアナ」

 「米軍来たる!」との報に、瀬戸内海を中心として内地で訓練と整備、再編成に明け暮れていた聯合艦隊主力は、米マリアナ諸島襲来と共に本土から出撃し、本土防空隊(第三航空艦隊)の傘のもと、進撃を開始した。
 「あ」号作戦の発動である。
 ちなみに、作戦名の由来は由来はアメリカの「ア」をとったとも「あいうえお」の「あ」であるともいわれている。

 だが、アメリカ軍の十三日襲来に対して、聯合艦隊が戦闘海域と言える小笠原群島海域に到着したのは十六日夕刻であり、これがこの時の日本軍全体の窮状を表していた。
 本来ならアメリカ軍の襲来が察知できた(米大艦隊の出撃が確認された時間)六月十一日に出撃準備に入り、その三〜四日後にはマリアナかパラオ近海に展開する予定になっていた。
 だが、当時の日本海軍には、そこまで迅速に対応する能力がなかった。
 確かに、いまだ連合国が東部ニューギニアで引っかかっていた事も手伝って、マリアナ諸島が侵攻先の最有力と考えられていた。また、何とか国内に備蓄燃料が確保され、疎開に成功していた艦隊随伴タンカーが内地で揃っていた事もあった。そして内地での訓練にこだわった小沢、山口両提督の意向を重視して、全艦隊はアメリカ軍の侵攻場所がハッキリするまで、内地にて訓練・待機するという方針が持たれた。だが、内地にある南方から苦労して運ばれたなけなしの燃料は各地に分散しており、急の出撃に際してこれを膨大な数の艦艇に分配するのに時間がかかってしまい、これが数日の遅れとなって現れたのだ。
 だから聯合艦隊が瀬戸内海西部各地で集結を終え、豊後水道を通過しようとしていた時には、既にアメリカ軍のサイパン上陸が始まっていた。

 米側も日本艦隊の存在は、潜水艦による濃密な偵察でかなり正確に掴んでいた。日本海軍が日本本土を出撃すると、急ぎ迎撃の準備に取りかかり、上陸作戦を置いて一路小笠原群島近辺を目指した。
 そして日本側が硫黄島の航空機の援護(第一航空艦隊の残余と、第三航空艦隊の一部進出した部隊)が得られるところから出ずに攻撃のチャンスを狙っているのではと考えたアメリカ軍は、自軍の優位を信じている事もあり、あえて彼等の誘いに乗り、さらに進路を北へと向けた。
 しかし米機動部隊がそれ程強力だったのかと評価してみると、意外にそうでもない。
 空母は既に軽空母一隻が撃沈され、艦載機の数も一〇〇機以上減少しているのに補充は間に合わず、搭載機数という点では日本と同程度にまで減少していた。硫黄島などを経由して日本本土から送り込まれてくるであろう多数の基地航空隊の存在を考えれば、数という点では日本軍の方が優位と言えるだろう。また、硫黄島には内地(日本本土)で編成中だった潜水艦を専門に狩る航空隊の一つが試験的に進出しており、これによりアメリカ側の偵察と攻撃のかなりが封殺されていた事も忘れるべきではないだろう。米機動部隊自ら北に赴かねばならなかった、大きな理由ともなっていたからだ。実際、数隻が攻撃を受けたり未帰還となっている。
 そして、アメリカの状況を全てを如実に現した戦闘が、十七日黎明より開始される。

 午前五時ちょうど日本海軍第一、第二機動艦隊から発進した多数の《彩雲》艦上偵察機は、偵察開始から約二時間後の午前六時二十三分、米機動部隊を捕捉した。千早大尉(当時)は戦後有名となった『我ニ追イツクグラマンナシ』という電文を送り、その後多数の日本軍偵察機に取り囲まれた米空母機動部隊は、日本側に詳細な編成すら知られてしまう。
 この報告を受けた第一、第二機動艦隊は、すでに甲板一杯に攻撃隊を並べていた事もあり、午前七時十分攻撃隊の発進を命令した。また、機動部隊の前衛を進んでいた第二艦隊に属する第五航空戦隊(軽空母三隻)に対しても連動して攻撃隊を発進させるように命令が飛んだ。
 これにより、第一、第二機動部隊、第五航空戦隊からは、第一次攻撃隊が次々に離艦し、それぞれの艦隊ごとに編隊を組むとアメリカ艦隊目指して進撃を開始した。
 そして午前八時半までに、それぞれの艦隊は第二次攻撃隊も送り出し、これにより基地航空隊を含めて総数約六〇〇機もの攻撃隊が米空母部隊を目指す事になる。
 それは日本海軍史上最大規模の空母艦載機による航空攻撃部隊だった。
 しかも、第一攻撃隊として送り出された第一、第二機動部隊所属の攻撃隊は、それぞれ露天搭載された艦載機で溢れかえっていた航空母艦五隻から送り出されただけに大規模で、それぞれ一七〇機以上から構成されていた。
 また、硫黄島から発進した攻撃機約九〇機がこの後を追い、さらに艦隊上空の防空支援として《零戦》と新鋭の《雷電》から構成された戦闘機隊が常時約三〇機艦隊上空で展開し、敵襲来時には最大三倍近い数が展開できる手はずになっていた。
 しかし機動部隊の攻撃隊そのものは、開戦時のような圧倒的戦闘力はなかった。航空機のバリエーションも《零戦五二型》、《零戦二二型(戦爆装備)》、《彗星》、《九九式艦爆》、《天山》、《九七式艦攻》と複雑だった。中でも主力戦闘機がいまだに四年前に正式採用された戦闘機のマイナーチェンジバージョンというところに、日本という国家の国力と工業力の限界があるのだろう。
 また、この段階に至っても、艦載機の六割が攻撃機という点に日本側の攻撃力重視という民族性とも言える性質が見て取れ、アメリカと好対照を見せている。

 そして日本海軍の総力をあげた挑戦を受けて立つ事になった米機動部隊だが、この時点で稼働空母十一隻、艦載機合計約六八〇機を数えていた。もしこの時の日本艦隊が相手でないなら、そのニックネーム通り「キラー・フリート」の名を欲しいままにしたであろうほど強力だった。
 航空機も全て新型機で統一され、中でも《F6F・ヘルキャット》戦闘機が艦載機の半数を占めているのが特徴だった(※この時の稼働機は約三五〇機)。日本空母の尋常ではない攻撃力に何度も晒され続けたアメリカ軍は、特に防御を優先するようになっていたと言うことだろう。
 そして、新型のシステマティックな艦隊迎撃システムにより、それまでにない濃密な防空能力を獲得した米空母群は、防御という点においては世界最高レベルにあった。突破する事は理論上不可能と考えられ、その片鱗は四三年八月の第二次ミッドウェー沖海戦での日本海軍との戦いで立証されていた。
 そして米空母群も、午前八時十分、日本艦隊の所在を突き止めた。
 場所は、最も遠い艦隊ですら自らの位置から北北西に三七〇キロメートル(二〇〇海里)の位置であり、十分に自軍攻撃隊の勢力圏下だった。相手が大艦隊だと言うことを考えれば、接近されすぎていたとすら言えるだろう。これは、アメリカ軍が日本軍の消極姿勢を考えて踏み込みすぎており、日本軍はアメリカ軍の考えとは全く逆に高い攻撃性を持って突っ込んだ事がこの時の接近を実現させ、アメリカ軍にとって戦術的奇襲に近い効果を発揮した。
 それは、その気になれば一時間強で日本軍の大編隊が押し寄せる位置であり、それを現すかのようにピケット(斥候)艦のレーダー・スコープには接近しつつある大編隊がいくつも映し出されていた。
 ここで艦隊司令部に混乱がもたらされる。
 ただちに敵艦隊を攻撃するべきか、先だっての対決のように自らの防御力を信じてまずは防御に徹し後手の一撃を放つべきか。
 だが、日本艦隊と同様にすでに攻撃隊の準備ができていた機動部隊の状況を防御に専念させるにはタイムロスが大きかった。このため航空作戦を指揮するマーク・ミッチャー中将は、ただちに攻撃隊を発進するよう命令を発した。
 そしてこの命令に従い三群の空母部隊からは、第一次攻撃隊として三一六機の攻撃隊が放たれる事になる。
 なお、この時の日本機動部隊は、第二機動部隊の艦隊司令に就任した山口提督の作戦方針が採用されていた。第二次ミッドウェー沖海戦と同じ「アウトレンジ戦法」は使わず、米艦隊が接近したスキに肉薄し、刺し違える覚悟で米機動部隊に組み付く事になっていたのだ。
 これは、第二次ミッドウェー沖海戦で行われたアウトレンジ戦法は、相手を一方的に攻撃し自艦隊の損害が押さえられる利点があるものの、思いの外消耗が激しいのに比べてパイロットの疲労、長距離がもたらす航法の難しさから効果が薄い事が露呈したからだ。それならば、それなりのパイロットでも十分戦果をあげられる肉薄攻撃こそ採用すべきだ、という研究結果が出たという理由が存在している。
 もちろん、自軍の損害は大きなものとなるのが大前提だったが、机上の空論を実戦の経験が覆した好例と言えるだろう。

 そしてこの日の戦闘は、日本艦隊の先陣を突き進んでいた第二艦隊から放たれた戦闘機と戦闘爆撃機隊と米防空隊の間で切って落とされた。
 アメリカ軍は常時一〇〇機近い戦闘機を完全な航空管制によって運用しており、敵編隊接近の折りには最大四〇〇機以上の管制も可能とされるシステムを構築していた。
 だが、この時艦隊前面約四〇〜五〇キロに展開していた戦闘機は一五〇機程度だった。これ以外に約九〇機が自らが放った攻撃隊に随伴しており、第二次攻撃隊用に準備されていた七〇機程度が格納庫で待機して、さらに五〇機弱の機体が第一次攻撃隊が発進したあと防空のため緊急発進しつつあった。
 そしてこの時米艦隊を目指している日本軍機のうち、戦闘機は一五〇機以上にのぼり、このままではいかにシステマティックな防空システムといえど完全な迎撃は不可能だった。
 しかし、戦闘開始当初の戦闘は、かなり一方的なものとなった。これは、日本側の攻撃隊が比較的小規模(第五航空戦隊)だった事と、主力を占めていたのが爆弾を搭載して鈍い動きしかできない戦闘機(戦闘爆撃機)だったため、アメリカ軍の迎撃がうまく機能したのだ。
 だが、日本軍の本命となる第一、第二機動艦隊から放たれた、総数三〇〇機以上の集団による衝撃力は強力だった。八割以上の攻撃機が戦闘機隊の決死の戦闘により敵戦闘機の防衛網を突破し、第二次ミッドウェー沖海戦の教訓から編み出された攻撃陣形に従い、敵空母を目指して突撃を開始する。
 この時攻撃を受けた米艦隊は第二、第三群で、それぞれ一〇〇機近い艦載機が押し寄せ、一種の飽和攻撃によって多数の爆弾と魚雷が艦隊中心部の空母に投弾される。
 なお、命中率そのものは、開戦頃のスコアを例外とすれば低いものではなかった。しかし応和攻撃という、大編隊による効果がこの時発揮されただけだった(※日本側は非常に多数の命中と戦果を報告したが、実際は、魚雷七本、爆弾九発直撃、至近弾多数とアメリカ軍側は記録している)。
 だが、この攻撃だけで大型空母三隻、軽空母二隻が大きなダメージを受け、そのほとんどが航空機運用能力を喪失していた。
 そしてこの時致命的だったのは、「レキシントン二世」の被弾だった。「レキシントン二世」は魚雷二本を相次いで受けたあと、艦中央部付近に五〇〇kg爆弾の直撃一発を受けた。そして、魚雷を受けた時の破壊と強い衝撃により、配電盤の一部が浸水で故障した。さらに艦橋近くに被弾した爆弾のため、艦橋のかなりが破壊されたうえにアンテナ類の多くが短時間の間全く使用できなくなった。
 ここで致命的だったのは、この「レキシントン二世」が事実上の全艦隊旗艦としての機能を果たしており、特にCICによってそれぞれの母艦が管制する航空隊をさらに統括的に管制するための施設を持っていた事だった。つまり、彼女こそがアメリカ艦隊の防空司令塔だったのだ。
 このため、「レキシントン二世」被弾以後防空司令部機能が予備艦に引き継がれるまでの約五分間(実際はもう少し長いと考えられている。)、統括的な航空管制が完全に消滅した。この時間が第二波主力と基地航空隊の突入時間と重なってしまい、日本軍機が防空隊を強引に突破しようとした。
 このためアメリカ軍は、これを『魔の五分間』と呼ぶ。

 なお、この時上空にあった米防空隊は、各空母の懸命の努力もあって撃墜されるよりも数は増えており、一六〇機以上存在した。だが、この一時的な命令系統消失によって大きな混乱がもたらされた。それまで効率的な迎撃を行っていたものが、各母艦ごとの編隊独自の判断で迎撃せざるをえなくなり、複数の編隊が目立つ位置に存在した日本軍編隊に殺到するという事例がいくつも発生。五月雨式な第二波となった航空隊のうち、70%近くの突破を許してしまう。
 そして突破した約一七〇機(詳細不明)のうち約一一〇機が攻撃機であり、それぞれ目についた米空母群、つまり全ての空母群への攻撃を開始した。
 この攻撃で最も試練に立たされたのは、すでに二度の攻撃を受けていた第三群だった。ここを攻撃したのは、硫黄島から低空を突進してきた《銀河》、《一式陸攻三四型》を中心にした陸攻のうちの生き残り約六〇機だった。三つの編隊ごとの塊で低空を侵入してきた日本軍機は、それぞれ目標とした空母への集中攻撃を行った。
 この時すでに第三群の米空母は三隻で、うち一隻(《バンカー・ヒル》)は魚雷と爆弾を一発ずつ受けて炎上していたこともあり、最も多数の攻撃を受けた。
 そして、攻撃を受ける側に立った米艦隊が度肝を抜かれたのは、攻撃隊の一部が自らの立ち位置より低空を飛行していることだった。このクレイジーな攻撃の恐ろしいところは、レーダーの覆域を飛んでいるため、それまでの目視による迎撃しか効果がない事だ。編隊が欠けながらも輪形陣の懐に入り込んできた双発の大型攻撃機は、それほど数を減ずる事なく腹に抱えていた魚雷を次々に投下し、侵入してきた時と同様に低空で飛び去っていった。
 逃走に成功した数は輪形陣の中に入ってきた時の三分の二程度だったが、ほとんどが魚雷を放つ事に成功していた。しかも彼らが投下した魚雷は一〇〇〇メートルを切る距離から未来進路に向けて左右交差する進路を取って空母とのランデブーを果たすべく進み、その約半数が既に動きの鈍っていた「バンカー・ヒル」に次々と命中していった。
 この攻撃により短時間で九発もの魚雷を受けた「バンカー・ヒル」は、水面下での爆発による浸水と衝撃、火災により一瞬で致命傷を受けた。アメリカ軍の誇るダメージコントロールでも、対処不可能なのは明らかだった。被弾から三分後には、艦長が退艦命令するほどの破壊力を発揮し、短時間で横転沈没したため戦死者一〇〇〇名以上を出す大損害となった。
 なお、この時《バンカー・ヒル》を攻撃した雷撃隊を指揮していたのは、野中五郎少佐率いる歴戦の部隊だった。ここで彼の率いる編隊(大隊規模)は、最低高度五メートルでの突撃を行い、開戦時に勝るとも劣らない戦果を残した事は脅威とすら言えるだろう。
 そしてこの攻撃を最大のものとして、米機動部隊は日本軍の局所的な飽和攻撃によって、艦隊中心部の空母を次々と叩かれ、最後の日本側攻撃機(偵察機は除外)が去った時、十一隻あった母艦のうち七隻が大きく傾いたり黒煙を上げる惨状を展開する事になる。万全とは言えないまでも、自らの戦力に十分な自信を持っていたのでアメリカ側のショックは小さくなかった。

 一方、偉大な攻撃を成功させた日本軍編隊だったが、その損害はそれまでとは比較にならないぐらい大きく、さらに帰投した時予想もしない程のショックを受ける事になる。
 午前十一時二十分に攻撃を開始した米攻撃隊だが、日本側の前衛を構成していた戦艦と軽空母による部隊は無視し、その後方にいた二つの主力空母群へと殺到した。
 特に、艦隊旗艦のいた第一機動部隊には全攻撃隊の三分の二が攻撃する事になった。
 だが日本軍機と同様に米攻撃隊も、まずは日本側防空隊のインターセプトを受けることになる。ほとんど従来通りの迎撃方法ながら、約一〇〇機が待ちかまえていた零戦の群は、米編隊の戦闘機隊と激しい空戦に突入し、四分の一ほどは米攻撃機に対しても攻撃を開始した。しかし、やはりアメリカ軍ほどシステム化されていないため、戦闘機の過半を除くほとんどが突破に成功して日本艦隊上空へと到着した。
 だが、日本側の防空隊は、これだけではななかった。不完全ながらも多重迎撃網を形成していたからだ。二つに分かれた艦隊上空には、それぞれ二個中隊程度の零戦が待ちかまえており、さらに日本艦隊の後方からは明らかに基地航空隊と思われる戦闘機隊が一個大隊程度が急接近 しつつあったのだ。
 そして空母ごとでチームを組んで突撃しようとしていた米編隊は、既に護衛の戦闘機が少ないこともあって、硫黄島から来援した日本軍基地航空隊の前に苦戦を強いられた。特に最後に到着した「雷電」隊二十六機は、しばらくはノーマークの形で持ち前の高速と重火力を発揮して米攻撃機を蹂躙した。
 日本軍の迎撃ため、最終的に投弾に成功したアメリカ軍機は全体の半数程度にあたる約一〇〇機ほどでしかなった。だが、当時の日本側を上回る訓練を施されたアメリカ軍パイロットたちのうち20%近くが、敵艦艇に命中弾をヒットさせていた。これは、当時の米パイロット層の厚さを何よりも物語るものだろう。

 アメリカ軍編隊の攻撃が集中したのは、今更言うまでもなく空母だった。濃紺の殺戮者達は、開戦以来苦渋を舐め続けてきた日本海軍の空母に対して、何発もの命中弾を叩きつけた。
 中でも攻撃が集中したのは、見た目にも目立つ新鋭空母の《大鳳》と《赤城》、そして仇敵とも言える《翔鶴型》の二隻だった。特に攻撃の集中した第一航空戦隊には、集中攻撃とも言える攻撃機が押し寄せ、回避の難しさから被弾数も多くなった。
 持ち前の重装甲で急降下爆撃の直撃に何とか耐えた《大鳳》も、対空火力が鈍ったところに両舷に魚雷複数を受けると、さすがに行き足が鈍った。そこにさらに急降下爆撃が集中して、さしもの装甲甲板も一部が破られ、飛行甲板全体が爆圧で波打って大破してしまう。まるで最初から損害担当艦となるような損害だった。結果として、被弾の半数近くが《大鳳》に集中していた。
 また、集中雷撃によって魚雷四線を片舷に受けた《翔鶴》も、損傷によって電気が落ちたため立ち往生した。空母への改装から日も浅い《日進》は、魚雷と爆弾一発ずつを受けただけだったが、依然脆弱だった日本製の軽空母にはこれだけで十分に致命傷だった。この時攻撃を何とか耐え抜いたのは《瑞鶴》と《龍鳳》だけという有様だった。
 第一機動艦隊の半分の攻撃で済んだ第二機動艦隊も、《雲龍》と《飛鷹》が被弾して航空機運用能力を喪失した。その後《雲龍》は米潜水艦の魚雷攻撃をさらに受けて撃沈し、《飛鷹》も消火のかいもなく処分せざるを得なくなっていた。
 それ以外にも《赤城》に魚雷一本、《隼鷹》に爆弾一発の直撃があり、《隼鷹》の方は戦闘力を喪失している。
 そして、米編隊が去った時の稼働空母は半数以下の四隻に激減しており、帰還した攻撃隊は第二艦隊の軽空母にも振り分けねばならないほどだった。
 そしてその日の午後遅くから翌日黎明にかけては、日米双方とも艦隊を一旦反転させて、可能な限りの兵力再編成を開始した。
 勝負はまだ第一ラウンドを終わっただけなのだ。

 日本側稼働空母
 正規空母:三 軽空母:四
  艦載機数:二六〇機
 基地航空隊(硫黄島方面):九〇機

 アメリカ側稼働空母
 正規空母:三 軽空母:二
  艦載機数:三四〇機
 護衛空母:六
  艦載機数:一三〇機
(※正規空母一隻が損害復旧で戦力を回復している)

 以上が十八日午前五時の段階で双方の指揮官が手にした自軍の駒であり、日本側はサイパン死守を掲げ、アメリカ側はその逆のサイパン攻略を達成するべく第二ラウンドの幕があがる。
 だが、この時日米双方とも相手を警戒し過ぎたため離れ過ぎており、どちらも敵艦隊の所在を確認できなかった。
 そして双方の指揮官の焦りがピークを通り過ぎ、すでに通常なら攻撃隊の発進など思いもよらない時間に入る頃、日米双方でほぼ同時に敵艦隊を捉える事になる。
 現在時刻は午後四時をまわったところで、距離は約二一〇海里。今から編隊の発進を開始すれば、攻撃を終えて帰投するであろう時刻は日暮れだったが、双方の指揮官はここで引き下がる気は毛頭なく、互いに自らの剣を抜きはなった。
 薄暮攻撃。
 欧米では『トワイライト』、日本でも『逢魔の時』と呼ばれ、人間本来の感情から忌み嫌われることの多い時間帯の攻撃は、双方にとって大きなダメージを与える事になる。
 日本側約一四〇機、アメリカ側約二〇〇機の攻撃隊によって、日本側はそれ以上の空母損失こそはなかったが《赤城》《龍鳳》《千代田》が被弾して戦闘不能となる。アメリカ側も、何とか応急処置で戦闘を続行していた《エンタープライズ二世》が先日の破口に再度攻撃を受けた事から大きな浸水が始まり立ち往生してしまい、それ以外にも軽空母が一隻処分するより他ない状態に陥っていた。
 そしてここで双方の駒の全てが使い尽くされ、日本側はもちろんアメリカ側ですら高速空母機動部隊は一度後方に下げ、本格的な修理と再編成を行わなくてはならないと司令部が判断を下す事になる。

 だがアメリカ軍の側に、大きな問題が一つ残されていた。それは、大きく損傷し曳航するしかなくなった、大型空母《エンタープライズ二世》の存在だった。
 彼女は開戦壁頭で撃沈された空母の名を引き継ぎ、その後の戦いで先代の仇も取り活躍した武勲艦だった。このため、一時は万難を排して曳航せよとハワイから命令が飛んだ。だが偵察機から、戦艦六隻を中心とする日本軍の強力な前衛艦隊が進撃を続行していると言う報告が舞い込む。そして日本艦隊に対して、自らの手元にある高速戦艦が二隻しかないという現状と、結果的に大きな失点を加えることになった、第二次ミッドウェー沖海戦での最後の戦いの記憶が先の命令を撤回させる事になり、《エンタープライズ二世》は味方の魚雷により早急に処分された。
 そして第五八機動部隊は取りあえず無傷の母艦に補給と艦載機の補充を行うため、アメリカ軍の前線基地となっていたクェゼリンへと落ち延びていく事になる。

 なお、夕陽が落ちて以後も戦艦部隊の進撃を続行させていた日本側だったが、この時の日本側の意図は明確だった。敵空母部隊を一時的に排除できたのだから、この機を逃すことなくサイパン島へと接近し、自らの巨砲により大船団と上陸部隊を粉砕し勝利を確かなものにする事にあった。
 そしてここで、日本側にとって派手やかな戦いの最終局面へと移る筈だったのだが、大きな肩すかしを食らうことになる。
 日本海軍の誇るモンスター戦艦二隻が大艦隊を引き連れてサイパン沖を目指しているという情報に、アメリカ側が一時的なパニックに陥ってしまったのが発端だった。当初は上陸支援に当たっていた旧式戦艦部隊により撃退しようとしたのだが、上陸作戦開始から砲弾を使い尽くして一時的に後方に引き下がっていた旧式戦艦群は、日本軍の到着までに迎撃が間に合わないことが判明した。そして七万人の将兵を無駄死にさせる事はできないとして、その日の十九時二十八分にサイパン島からの全面撤退が命令された。日本艦隊が到着する予定時刻の翌十九日午前二時頃までに、兵員の90%以上の引き上げに成功していた。
 さらに撤退時間を稼ぐため突出した巡洋艦部隊と、日本艦隊が小競り合いをしている間に、殿軍をつとめていた残りの殆どが撤退を完了した。
 一九日の朝日が昇ろうとしていた頃、サイパン島の現地日本軍守備兵の眼前に広がっていたのは、砂浜で燃え上がる膨大な装備・物資の山と、もぬけの殻になったアメリカ軍橋頭堡の存在だけだった。

 そしてここに日本側の「あ号」作戦は完遂され、アメリカ側の「フォレンジャー作戦」は自軍の大損害と引き替えに当初副目的に過ぎなかった日本海軍空母部隊の壊滅という成果を得ただけで終了する事になる。
 なお、ここでの損害は以上になる。

 日本帝国
 撃沈:
《大鳳》(大破後処分)
《翔鶴》(大破後米潜水艦の雷撃により撃沈)
《雲龍》(中破後米潜水艦の雷撃により撃沈)
《飛鷹》
《日進》
 大破:
《龍鳳》
 中破:
《赤城》《隼鷹》《千代田》
《榛名》
重巡:二隻 駆逐艦:四隻
損失機(基地機含む):九六一機
人員の損害(陸上含む):一万二三六人

健在艦(空母のみ表記)
《瑞鶴》《飛龍》《千歳》《瑞鳳》

 アメリカ合衆国
 撃沈:
《エンタープライズ二世》(大破後自沈)
《バンカー・ヒル》
《バターン》
《カボット》
《サン・ジャシント》
護衛空母三隻  CLA:一隻  DD: 三隻
 大破:
《レキシントン二世》
《ベロー・ウッド》
護衛空母一隻
 中破:
《フランクリン》
《モントレイ》
護衛空母一隻
CL:二 隻  DD:五隻
損失機:六八六機
人員の損害(陸上含む):一万八六二三人

健在艦(空母のみ表記)
CV:《エセックス》《ラトガ二世》
CVL:《ラングレー二世》
護衛空母七隻


 

 

■解説もしくは補修授業「其の拾五」 

■フェイズ十六「憂鬱と焦燥」