■フェイズ十六「憂鬱と焦燥」

●通商破壊と日本の憂鬱
 右肩上がりのグラフと右肩下がりのグラフ。この二つは正比例しており、上がり続けるグラフが下がり続けるグラフに強く影響する特性を持っていた。
 そして下がり続けるグラフの片方が「ゼロ」を示した時、それは大日本帝国に対する死亡宣告書へとただちに変化する性質を持ち合わせていた。
 この二つのグラフは、一九四四年に入ってから角度が急になりつつあり、その上昇速度は止まりそうにもなかった。

 一九四四年六月二十日午後三時四五分、アメリカ中部太平洋戦域軍司令部は「フォレンジャー作戦」の継続断念を決意した。翌六月二十一日に日本海軍主力の沖縄中城湾入港によって、マリアナ諸島を巡る第一ラウンドは幕を閉じた。
 日本軍はマリアナ諸島を文字通り死守する事には成功したが、基地航空隊は壊滅し、洋上戦力の主力となる空母部隊の多くを消耗していた。
 いっぽうアメリカ軍は、三度再建した空母部隊の半分が叩きつぶされ、七万人を数えたサイパン島攻略部隊は初期の激しい戦闘と撤退時の混乱によって最終的に一万三〇〇〇人以上の死傷者・行方不明者・捕虜を出した。特に損害の激しかった第二海兵師団は、再編成のため半年は前線投入不可能となっていた。
 そしてアメリカ側は海軍機動部隊の補充と再編成のため、最低でも三ヶ月は行動不能というレポートが提出された。しかもパイロットの質が六月のレベルに戻るには、半年の時間が必要だろうとすら注釈が添えられてる程のダメージを受けていた。補充のパイロットはいくらでもいたが、機動部隊は組織として動けなければ意味がないからだ。
 そしてこの戦闘における総決算は、連合国の太平洋方面での侵攻スケジュールの三ヶ月の遅延だけだった。日本海軍がすべてを賭けた決戦だと意気込で臨み実際勝利したにも関わらず、戦いはほとんど変化もなく続いた。
 そして、決戦が行われても行われなくても変わらない戦いがある。
 それが始めに書いた、二つのグラフが示す水面下での戦いだった。

 一九四四年に入ると、日本の船舶の損害は急速な上昇線を示していた。
 しかも四五年に入ると、米海軍に属する潜水艦の総数は一五〇隻近くにまで達し、そのうち太平洋で活動する潜水艦の数は常時四〇隻に達しようとしていた。そしてこれらの潜水艦が、ドイツ軍のような群狼戦法を優れた装備をもって実施して日本の海上交通を食い荒らしていたのだ。
 また、前線近くでは中型の戦術爆撃機が無数に飛び交って、禿鷹よりもタチの悪いコンボイ狩りを行っていた。さらにアメリカ軍の拠点から二〇〇〇キロメートルあたり一帯の港湾に対しては、大型の四発重爆撃機による執拗な襲撃や機雷投下が行われていた。
 これに対して、日本の通商路を守護する立場にある日本海軍も、全く手をこまねいていたワケではなかった。開戦後、主に聯合艦隊の無理解があったが、少しずつではあるが護衛組織の構築を行った。絶対国防圏の設定と時を同じくして海上護衛総司令部が設立され、そこに聯合艦隊からすら引き抜いた多数の艦船を所属させ商船の護衛につかせていた。

 海上交通防衛の要とされる駆逐艦については、開戦時に約一〇〇隻の一等駆逐艦と三〇隻の二等駆逐艦があり、戦争中に約八〇隻の一等駆逐艦と無数の海防艦が戦列に加わった。しかし駆逐艦の多くは聯合艦隊に属したままで、海上交通を守るべく潜水艦と戦ったのは、旧式駆逐艦ばかりだった。しかも聯合艦隊に属する駆逐艦も、日々消耗していった。
 ソロモンでの戦いは短期間のうちに済んだが、ポートモレスビーとミッドウェーの補給作戦では、一九四二晩秋から以後半年ほどの間に、それぞれ十隻近くの駆逐艦を失っていた。この消耗に顔色を失ったからこそ対潜水艦戦を第一目的とした戦時急造艦の《松型》を急ぎ量産したが、とても日々の消耗には追いつかなかった。

 また、旧式化した陸上機や飛行艇などを対潜哨戒機としたり、欧州で連合国が一般的に行っているコンボイ方式による輸送を行い、航路帯戦法を試すなどもしていた。時期としては遅すぎ、護衛戦力も少なく、なおかつかなりの泥縄式ではあったが、未熟な組織として考えると出来うる限りの海上護衛にも力が入れられた。
 そして、海上護衛の中核を果たす筈の膨大な数の護衛艦艇は、一九四四年の夏頃から大量に実戦配備できる目処が立っていた。これらが前線に揃う一九四四年秋以降には、二つのグラフの降下線は少なくとも穏やかなものになるだろうと見られていた。
 また、世界に先駆けて磁気探知装置(MAD)を短期間で開発、実戦配備した事は、この当時の日本の電子技術を思えば特筆に値するだろう。
 もっとも、アメリカ軍潜水艦を最も多く沈め敵に強い脅威を与えたのが機雷堰というのは、機雷の事を重視てこなかった日本海軍にとっては大きな皮肉とも言えるだろう。

 そして、ミッドウェー、ニューギニアなどでの陸軍部隊を始めとする物資輸送での膨大な損害、日々増大するすべての海上交通線での損失に真っ青になった関係各位は、陸海共同での海上護衛をようやく真剣に検討するようになる。マリアナの決戦が一段落した一九四四年八月には、海上護衛総司令部に陸海の海上護衛に関連するすべての兵力を集中、効率的運用をすることが御前会議上において決められたほどだ。
 ここで注目すべきは、海軍がそれまで主に航空機輸送任務に使用してきた客船改装の低速空母と、陸軍が独自に整備していた揚陸艦を兼ねた「空母」をすべて海上護衛総司令部に移管された事だろう。また、ある程度の機材の共通化を行った結果、陸軍が開発した短距離離着陸性能に優れた「三式指揮連絡機」や「カ号観測機」が双方の空母で主力として運用される事が決まる。これにより辛うじて昼間の潜水艦制圧の効率化に成功した事と、海軍が開発した磁気探知装置と電探を装備した哨戒機による専門の対潜水艦部隊が重要航路に配備された事も重要だ。
 既に太平洋戦線で5万人に達する戦死者を出していたアメリカ軍が、自軍の不用意な損失に神経を尖らせるようになっていたからだ。
 また、決戦勝利に浮かれる聯合艦隊が、同地域のさらなる増強のため、マリアナ諸島、硫黄島に対する増援の護衛のために自らの抱える艦艇を大量に拠出した事も、海上護衛総司令部に属する艦艇が揃うまでの隙間を埋める期間として有効に機能していた。
 これら全は遅すぎた事であり、敵の行動を知る今日からすれば頭を抱えるような状態だったのだが、これが日本が最後まで輸血を続けるための大きな要因となっていく。

 なお、もうひとつ特筆すべきというか注目すべき変化は、ミッドウェー攻略後の補給線に対して、アメリカ軍が重爆撃機から投下された各種機雷だ(※当初は通常機雷と磁気機雷だが、後に音響機雷・水圧機雷が加わる)。
 日本海軍は大量に投下された機雷の対処に苦慮し、その対策の一つとして磁気機雷に反応しない船舶の大量建造計画が俄に持ち上がる。そして一九四三年三月に最初の船、第一武智丸が完成し、その流れで四三年内に二十五隻もの船が建造される。それが注目すべき変化だ。
 同シリーズは、技術的な問題から排水量八〇〇トン程度の小型の部類に属する戦標船だったが、一つだけ他の船とは違う大きな特徴を持っていた。
 それは船体が鉄筋コンクリートで作られているという事だった。
 つまり、「泥船」ならぬ「石の船」という事だ。
 同船の最大の特徴は、日本にとって死活的な戦略資材である鋼鉄の消費量が通常の船の四割程度だという点にある。当初磁気機雷の多い前線付近での近距離物資輸送に使用するつもりだったこれらの船は、鉄をあまり使わないという特徴が官僚達の注目を集め、数百隻の大量建造計画が一九四四年に入るといつの間にか具現化されていた。
 このため、最後まで鋼製船にこだわっていた造船所を飴とむちで無理矢理説得し、全国各地の造船所で一九四四年春頃より大量建造に移された。その後「D型」と呼ばれる二〇〇〇トンクラスの戦標船サイズのものまで建造が開始され、停戦までに各種合計四〇〇隻近いコンクリート船が就役した。この建造量は、日本が戦時中に建造した船舶の一割以上にも相当して、特にアメリカ軍の重爆撃機(B29)が主に磁気機雷を日本本土にばらまくようになる四五年初夏以降その真価を発揮する。比率が最も高かった磁気機雷をものともせずに中規模航路の輸送主力として活躍したからだ。
 戦後しばらくも、各地の機雷が除去され、日本の造船力と船舶量が回復するまでのかなりの期間使用された。さらにその後、多くが施設の貧弱な港湾の護岸や堤防としての余生を送るなど、当初予想もしなかった展開を見せている。
 また、爆発の衝撃に強い鉄筋コンクリート製なので、爆撃、爆雷、機雷、銃撃などに対しても構造が簡易化を通り越えた戦時建造型の構造の弱い鋼製船舶よりも高い耐久力を示した。しかも船が沈みさえせずドッグに舞い戻れたら修理も比較的簡単であり(何しろ場合によっては、単にコンクリを塗り直せば修理できる)、鋼製船よりも積載量や燃費の点で著しく不利だったが、不利な戦況という特殊な状況下で縁の下を支えていく事になる。

 そして日本側の様々な努力の結果、アメリカ軍の潜水艦の損害もジリジリと上昇し、四四年秋から四五年春にかけては一進一退の見えない戦いが続けられていた。
 しかし、機械仕掛けの万力のように締め付けを強めてくる連合国の前には、これら日本側の努力も延命措置というレベルを超える事はなかった。アメリカ軍の攻撃に比例するように、国内生産と船舶の総トン数は一九四四年に入るとガタ落ちだった。
 総力戦研究所の報告では、早ければ戦争開始四年目突入時、つまり一九四五年中には事実上戦争遂行能力が失われ、いくつかの大規模な戦術的勝利があったとしても遅くとも一九四六年夏までに同様の事態になると予測されていた。満州との交通線が遮断されるレベルにまで達すると日本列島は飢餓線を彷徨うようになり、一九四七年中には帝国は戦争遂行能力を失うばかりか、近代国家としての命脈すら保てないだろうと結論させるに至った。
 ここに至って、一部の政治家と軍の一部重鎮の主導で極秘裏に和平への道が真剣に討議されるようになるも、ローマ法王庁や中立国スウェーデンを介した工作は連合国に筒抜けであり、停戦への道のりも極めて厳しいものがあった。

 

●連合国の焦燥(一九四四年夏)

 連合国は、太平洋方面での失敗は、欧州での成功によって帳消しにできると判断した。加えて、太平洋戦線でも大戦略レベルでは侵攻速度の遅延以外は大きな齟齬はないとされたが、問題がないわけではなかった。

 「オペレーション・オーヴァーロード」俗に言う「ノルマンディー上陸作戦」は、対外的には大成功を納めたとされている。
 しかし、ドイツ側の現地防衛司令官だったロンメル元帥の防衛方針によって、連合国軍の大損害の上にたった大成功だった。
 大規模な空挺部隊の降下ポイントが人為的な堤防決壊によって泥沼化して、移動力が減殺されるばかりか、即席の底なし沼にそのまま沈んでしまう者も多数出たため大きな損害を出した。さらに常勝将軍として政治的にも無視できないロンメルの言葉をドイツ総司令部がかなり受け入れたため、彼が直接握る兵力も多くなった。そして作戦開始時点で、司令部で連合国の侵攻を待ちかまえいてた彼の積極的作戦展開によって、第一波、第二波上陸部隊の一部は事実上撃退された。
 そして第三波の投入とその後の徹底した砲爆撃によって、ようやく安定した橋頭堡を確保するという流れがあっての「作戦成功」だった。敵将だったロンメルも、今一歩のところで水際で押し止められなかった事は自軍の敗北だと認めた結果の「勝利」とすら言われた。
 なお、「ノルマンディー上陸作戦」開始二日目までに、連合国側は二万人近い戦死者・行方不明者、捕虜を出し、負傷者の数はその二倍に達している。特にオハマ・ビーチに上陸した米・第一歩兵師団は前衛戦力の40%が戦死し、戦力の60%も失って二度と戦場に戻ってくる事はなかった。また、上陸作戦と少し分けて考えられる事の多い空挺作戦では、ノルマンディー海岸部後方に降下した二つの師団の損害はさらに大きかった。特に第一〇一師団は、師団長テイラー少将戦死を始め人的損害が大きかった。両師団は完全に戦闘力を喪失してしまい、連合国全体でも半年は大規模な空挺作戦は不可能な状態となっていた。
 だが、それでも「ノルマンディー上陸作戦」は成功したのであり、撤退を余儀なくされたサイパン島より遙かにマシだと言えただろう。

 確かにマリアナでは、米海軍が主張するように日本海軍に一時的な壊滅的打撃を与えることには成功した。しかしそれは自らも同じで、少なくとも三ヶ月は攻勢に出る力はなかった。しかも海軍の敗北は、西部ニューギニアに対する次の作戦準備をしていた陸軍の発言権を大きくする事に繋がった。このため、再度のマリアナ諸島攻略を待たずして、先に西部ニューギニア、パラオ諸島の作戦を経たフィリピン作戦が実行される事になった。
 そして、一九四四年八月西部ニューギニア、一九四四年十月パラオ諸島、そして一九四四年十二月フィリピン侵攻、その後の一九四五年三月に再度のマリアナ侵攻計画というタイムスケジュールが組み直された。
 なお、太平洋以外での連合国の攻勢だが、ビルマ戦線ではチッタゴン奪回を目指す英国の動きが活発化し、雲南からの中華民国軍精鋭部隊の進撃も開始されるなど反撃への動きがあった。だが、日本軍が現地での固守態勢を強化している事もあって、芳しい進撃速度ではなかった。支那戦線は、第三者から見たら相変わらず戦争をしているのかしていないのか分からないような有様だった。そのよく分からない中で、アメリカ軍主導による極秘作戦が大陸奥地で進められているという状態に過ぎず、結局海での結果がすべてを決する事に変わりはなかった。
 いっぽうヨーロッパ戦線では、連合国が「ノルマンディー上陸作戦」を成功させて、その後膨大な戦力を同地域に注ぎ込んでいた。だが、ドイツ軍の抵抗も激しいため、ノルマンディー橋頭堡と呼ばれた場所をなかなか突破する事ができなかった。上陸作戦が成功すればクリスマスまでに戦争が終わると言われた戦況が、再び混沌とした状況に陥るのではと前線将兵が感じる程、双方の損害が山積みされ続けていた。
 また、ドイツ軍の迎撃不可能な新兵器(V2ミサイル)によるロンドン爆撃が再開されるなど実質的な損害よりも心理面ダメージも大ききく、大陸反抗が成功したのに、という気分的な面での厭戦気分すら醸成される有様だった。これは、九月にパリが無血開城されるまで続くことになる。
 さらに目を南欧に向けてみると、イタリア戦線では四四年夏に入りようやくローマの占領には成功したが、依然北イタリア地域はドイツ支配領域にあって激しい抵抗が続けられていた。
 ドイツ軍の戦力を拘置しておく筈が、逆に自らの方が多くの兵力を同方面に吸収され、四三年夏に北アフリカからドイツ軍を撃退させた時の楽観論は完全に吹き飛んでいた。もっともこれは、北アフリカでの逃した兵力の多くが南イタリアで激しい抵抗をしているのだから、当然と言えば当然の結果だろう。
 そして連合国最大の憂鬱は、東部戦線にあった。

 世界最大規模の陸上戦線であるロシア戦線では、四四年夏からその数一〇〇〇万人と言われるソ連赤軍の反抗がスタートしていた。だが、一九四三年五月のクルスクを巡る戦いでソ連赤軍は、熟練兵を多数失い人材面での打撃から回復しきっているとは言えなかった。ソ連赤軍は、五対一以上という圧倒的多数の兵力を用いていながら、進撃速度がはかばかしくなかったのだ。またクルスク戦の後に、充分な時間を得ていたドイツ東方集団のねばり強い遅滞防御戦闘の前に苦戦を強いられ、四四年いっぱいはバルト海中部=ミンスク=ドニエプル川で停滞していた。特にソ連軍にとっては、白ロシア大突破がドイツ軍機甲部隊の機動防御戦術によって初期の突破戦闘が成功せず、ドイツ軍北方軍集団と中央軍集団の合同を許して大規模な分断包囲(二重包囲作戦)に失敗した失点は大きかった。ドイツ野戦軍の戦力低下を果たす事ができなかったのは、ベルリンを巡る英米との進撃競争に極めて大きなダメージだと考えられていた。
 そしてその後も、計画的に撤退していくドイツ軍に翻弄されソ連赤軍の進撃は思うに任せなかった。ロシア人の前には、依然として三百万人の欧州軍が、聖地を守る十字軍のごとく立ちはだかっていたのだ。

 

 

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