■フェイズ十七「アイ・シャル・リターン」

●オレンジ・ビーチ

 連合国軍・南西太平洋戦域軍は、一九四三年十月のポートモレスビー奪回以後、東部ニューギニア地域を順調に奪回する戦闘を続けていた。
 この一連の戦いの半年間に日本軍が受けたダメージは、陸軍二個師団の実質的消滅と二個師団への大打撃、そして膨大な数の艦船と航空機の消耗だった。
 ポートモレスビーの失陥も合わせると、ニューギニア島で失われた日本兵の数は十万人近くに達していた。
 また、連合国軍の「蛙跳び」と言われた日本軍の重要拠点を迂回して無力化する進撃パターンに、機動力をもぎ取られた現地日本軍は全く対応する事ができなかった。自軍の受けたダメージに対して、連合国に与えた損害は極めて小さなものでしかなかったのだ。いや、ニューギニアのジャングルを前に、飢えと病気こそが日本軍の最大の敵だったと言ってもよかった。現地日本陸軍は、飢えと自然の脅威の前に連合国軍と戦う力すら失っていたのだ。
 この事からも、マッカーサー将軍が優れた戦略家だった事が伺い知れる。
 そしてこの戦略は、米大機動部隊がマリアナ諸島から撤退した後も続いた。日本軍が一個師団以上を用いて強固に防衛していたビアク島(西部ニューギニア北部にある要衝)を砲爆撃だけでを行って機動力を奪い孤立化させると、その付近のホーランディアなどの拠点を奪い夏が終わる頃には、西部半島部を除く西部ニューギニアを事実上奪回することに成功していた。
 これにより、何とか送り込まれビアク島を防衛する第三十五師団と第三十六師団の一部を合計した二万人以上の日本兵は、停戦まで同島で陣地に籠もったまま苦しい自給自足を行いつつ過ごすだけに終わる。マッカーサー将軍は、強固と分かると戦略的に重要な場所にあるビアク島すらも蛙跳びしてしまったのだ。

 だが、連合国の側からすると、ニューギニアでの進撃速度は甚だ不本意なものでしかなかった。
 主な原因は、開戦初期の段階で重要拠点のポートモレスビーを失った事に端を発していた。その後の日本軍の連続攻勢の前に各所で戦力不足をきたしたため、反撃スケジュールが大きく遅れていた。そして最初のストロング・ポイントとなるポートモレスビー奪回に手間取った事と、海軍の度重なる敗北により進撃の停滞を余儀なくされ、その都度日本軍の増強を許しと、必ずしも順調な進撃とは言えなかったからだ。
 また、海軍からはニューギニアでの進撃の遅れが西部ニューギニア、ビアク島攻略を遅らせ、本来ならここから陸軍の長距離機による援護がある筈だったマリアナ諸島攻略が失敗した一因であるとまで言われていた。
 日本側からすれば、飛び石攻撃で次々と重要拠点を迂回して迅速な進撃をしているとしか思えないのでおかしな話しなのだが、マッカーサー将軍の思惑からすれば、一九四四年の段階で彼はフィリピンの大地に返り咲いている筈だったと戦後述懐しているので、主に感情面では間違いない見解だろう。

 しかし内心焦りを見せるマッカーサー将軍に、思わぬ幸運が舞い込む。海軍が中部太平洋での戦いに大失敗し、戦争の主導権が向こうから自らの手に舞い込んできたのだ。
 これは敗北によるアメリカ国内での厭戦気分を醸成させないため、どこかで大規模な勝利を得る必要があるとアメリカ政府上層部が考えた事から実現したとも言える。だが、フィリピンを目指すマッカーサー将軍にとっては、この時の変更は幸運以外のなにものでもなかった。
 そして方針変更の物理的な影響として、強力な水陸両用戦部隊(旧式戦艦、護衛空母多数を含む第七艦隊)が完全に自らの手駒となり、また進出しそこねた陸軍航空隊も自らの手元に優先された。これにより無理に西部ニューギニアの要衝ビアク島を攻略する必要も薄れ、このため無力化による迂回という戦略が可能になったのだ。そして勝利を求める政府の強い後押しを受けて、進撃路をフィリピンへと強く向ける事ができた。
 また、海軍の失敗により、陸軍を率いるマッカーサーの発言権が自然に強くなっていた。このため、海軍の攻撃分担になるパラオ諸島に対する侵攻は、当初マリアナ攻略後とされていたスケジュールを変更させ、十月には海軍の全面的協力のもとパラオ諸島侵攻が計画される。
 間違いなく、この時点での戦争主導権が海軍から陸軍の手に移っていた証拠だった。そして自らの失敗の尻拭いのような形で海軍が急ぎ、パラオ侵攻を行わなくてはならなくなったと言えるだろう。
 パラオ侵攻のため、本来グァム島奪回に投入予定だった地上部隊の過半が当てられた事からも間違いない。

 パラオ諸島は、フィリピンの東七五〇キロメートル、カロリン諸島の一部でミクロネシアの最西端に位置する小さな島々の集合体だ。パラオ本島(バベルダオブ島)を取り巻く巨大な環礁には戦前より日本海軍が大きな拠点を建設しており、有望な環礁が存在する事から日本海軍の一大前線拠点として機能していた。
 だが最も大きいバベルダオブ島は、島そのものはグァム島についで中部太平洋上で大きな島なのだが、防衛には適していなかった。大きな飛行場建設もほぼ無理だった。このため絶対国防圏設定後の日本軍は、パラオ諸島でも南方に位置するアンガウル島・ペリリュー島にそれぞれ一個師団を中心とした大兵力を展開して同島を要塞化した。そしてこの二つの島が持ちこたえている間に、聯合艦隊が敵艦隊を撃滅するという、マリアナ諸島と同種の防衛戦略を立てていた。
 何しろパラオは絶対国防圏の要で、日本軍としては何としても渡すわけにはいかなかったからだ。

 なお、パラオ諸島は珊瑚の塊で構成された島が多く、一旦強固な陣地を完成してしまうと、コンクリートで覆われた要塞と同程度の防御力を持つため砲爆撃に対して非常に有効だった(珊瑚はコンクリートの原材料)。場所によっては珊瑚を構成する石灰が作り出した自然洞窟もあり、日本側としても十分な兵力と食料・弾薬さえあれば、単独でも最低一ヶ月は固守可能と考えれていた。現地を守備する司令官は、三ヶ月の持久を部隊に厳命して準備を進めていた。
 そして、ビアク島を迂回したアメリカ軍は、フィリピンに行くためにはどうしてもここを通らねばならなかった。なぜならパラオがフィリピンの前に立ちふさがっており、もし仮に無視したらフィリピンに侵攻した部隊は絶えず背後を気にしなければならないからだ。
 なお、ペリリュー島には、関東軍の中でも精鋭師団の一つ第十四師団を中心に、ソロモン戦域から移動してきた第十七師団から抽出した一個混成旅団など合計三万人近くが展開していた。アンガウル島の方には第十七師団の中核部隊(歩兵二個聯隊)の一個混成旅団を中心に一万二〇〇〇名が守備に就き、双方とも強固な陣地構築をしつつアメリカ軍を待ちかまえていた。そしてこの二つの島が守れないということは、パラオそのものの失陥だと考えられており、これ以外の地域は航空基地のある地域に少数の守備隊が存在するだけになっていた。
 また、この地域の日本軍は、二つの島に住んでいたすべての一般人(原住民含む)をすべて疎開させて完全な軍事要塞化をしている事は、結果として一般人の被害を考えず戦闘が行われる事の多い第二次世界大戦にあって、むしろ珍しい事例だった。パラオ地域が日本に残った最大の理由がここにあると言うのも頷けるだろう。

 そして、フィリピンの足がかりにこれら二つの島に押し寄せたアメリカ軍は、予想を遙かに越える要塞にぶつかり、膨大な犠牲と時間を払う事になった。
 一九四四年十月二十日にパラオ諸島に侵攻したアメリカ軍(第一海兵旅団、第七十七歩兵師団など総数五万三〇〇〇人)は、最初に上陸作戦を行ったペリリュー島で予想以上の抵抗に出会う。
 現地日本軍は、サイパン島よりも徹底した陣地固守の方針で戦いに臨んでいた。戦闘が始まると二度までも上陸を撃退するほど勇戦し、上陸を許してからも予定通り約八百個の洞窟陣地を中心とした半地下式の複郭陣地にこもった長期持久戦に移った。このため上陸二日目まで「オレンジ・ビーチ」と言われたほど海岸がアメリカ軍将兵の血で染まり、海岸にはアメリカ軍の死体が折り重なり、マリアナやタラワ以上の地獄が現出された。
 また、アメリカ軍のパラオ襲来に際して、日本側は規定の作戦にあった「雄」作戦を、かなり規模を縮小した形だったが発動させた。戦力が枯渇しているからと言って、パラオを座視して渡すわけにはいかなかったからだし、現地航空隊司令官の大西中将は、自らの戦力が完全であれば撃退も可能だと考えていた節があり、それ故の一個航空艦隊を投入しての総攻撃だったと考えるのが妥当だろう。
 事実、戦闘初期は日本軍に有利に展開し、戦力さえ続けば撃退も可能だったと考えられていた。

 現地を守備する第二航空艦隊は、アメリカ軍到来と共に積極的な出撃を繰り返し、特に攻撃開始三日目までに護衛空母二隻撃沈、大型空母二隻、軽空母一隻、多数の輸送船を撃破した。さらには上陸部隊への銃爆撃をするなどして、大きな戦果を挙げる。これにより、アメリカ軍の計画は一週間以上遅れ、後方より予定外の補給物資と船団を派遣しなくてはならなくなったほどだ。
 だが、アメリカ軍のパラオ侵攻開始から一週間で、第二航空艦隊の攻撃力が枯渇してしまう。また米侵攻船団を撃滅する予定だった水上艦隊の方は、マリアナでの損害からまだ回復できておらず、特に空母部隊は投入不可能だった。準備ができた部隊から順次燃料の豊富なシンガポール近辺のリンガ泊地に移動して、猛烈な訓練をしつつ出撃命令を待ちかまえて待機していた水上艦隊も、制空権の失われた戦域への突入は自殺行為だとして、戦艦を含む多数の兵力の投入は中止されてしまう。
 わずかに、駆逐艦を中心とする艦隊が、強行補給作戦のために出撃して、そこで発生した小規模な海戦にて、痛み分けと言える戦闘を交わしたに過ぎない。

 そして連合国側にとって戦場が安定化した、侵攻開始四十日後の十二月一日には、アンガウル島にもアメリカ軍が上陸作戦が行われた。だが、ここでもペリリュー島とほぼ同じ情景が再現されて、その後鏡に映したような激戦が戦われる。殻のように閉じこもった相手との戦闘では、戦訓も何もあったものではなく、連合国軍に出来ることは、より多く砲爆撃をたたき込み、戦車を前面に押し立てて進み、火焔放射器で焼き払い、洞窟に爆薬を投げ込むだけだった。この点、スターリングラードなどでの都市攻防戦と性格が似通っているかも知れない。
 なお、これ以後両島では、陣地固守する日本軍をジリジリとアメリカ軍が追いつめていくという不健康極まりない戦闘が数ヶ月の長きにわたり展開された。ペリリュー島は九十三日、アンガウル島は七十三日の組織的抵抗を以て終了した。レイテ戦の混乱時に行われたフィリピンからの小規模な空襲時に、僅かなパラオ本島から増援が行われたりしたが、戦い全体を覆すには戦力が不足していた。損害にたまりかねたアメリカ軍が兵力を交代するスキに残余がパラオ本島に転進(撤退)した他は、現地日本軍守備隊の全滅(玉砕)という壮絶さだった。現地守備隊は、自らの命と引き替えに約束を守ったのだ。
 また、この二つの島で血を流しすぎたアメリカ軍も、あまりの損害の多さにそれ以上他のパラオ地域へ侵攻する事はなかった。そしてこの地域が無力化された後は、近くのウルシー環礁を海軍の拠点に設定して、日本本土目指してのさらなる進撃を続行するようになる。
 また、ここで兵力を消耗し時間をかけすぎたアメリカ軍は、その後の第二次サイパン侵攻とそれに続く筈の硫黄島、沖縄への侵攻に重大なスケジュールに遅れを出す事にもなる。さらに空母機動部隊が大きな損害を受けた事は、フィリピンへの道のりもさらに二ヶ月遅延させる事に繋がるという予想外の事態を招いていた。

 なお、ここでの日本軍の戦いは、マリアナ諸島、硫黄島と並び称される戦いであった。日本側も、昭和天皇以下政府首脳部が、攻防戦の間中気に掛け続けた。僅かな生き残り全員には、日本軍としては異例な事に勲章すら授与されている。敵手である米太平洋艦隊司令長官・ニミッツ海軍元帥も自著『太平洋海戦史』の中で、ペリリュー島の戦闘に相当のページをさき、次のように結んでいる。
「ペリリューの複雑極まる防備に打ち克つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約五〇パーセント)を甘受しなければならなかった。既に制海権制空権を持っていたアメリカ軍が、死傷者あわせて二万五〇〇〇人を超える犠牲者を出して、この島を占領したことは、今もって疑問である」
 さらにニミッツ海軍元帥は、公文書に載せることのできない詩も残している
「Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island・(この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を……)」
 日本軍将兵の勇戦敢闘が、現地の人々の心を打つばかりか敵将をしても賞賛せしめ、それが日米友好にも繋がっていると思えば、彼らの御霊も少しは救われようと言えるのではないだろうか。

 だが連合国は、ここでの苦戦、様々な物語などなかったかのように、マッカーサー将軍の目的地であったフィリピンへと駒を進めつつあった。

 

●バトル・オブ・タイワン

 一九四五年一月十二日、沖縄・台湾方面の日本航空戦力撃滅を意図して、大胆にも日本の防衛線の懐深くに侵入する。
 これこそが、フィリピンを巡る攻防戦の開幕を告げるベルだった。
 これに対して日本大本営は、一九四五年一月十八日に「捷一号作戦」を発令するのだが、まずはこの地域での航空撃滅線を見て、最後の決戦と呼ばれる戦いの詳細に触れていきたいと思う。

 アメリカ軍のフィリピン侵攻の動きは、前年十二月にすでに存在していた。これは一九四四年十二月七日に米機動部隊がフィリピン・ミンダナオ島を激しく空襲した事に端を発する。だがこれは、アメリカ軍にとっては苦戦するパラオへの圧力を少しでも減殺させるための作戦の一つに過ぎなかった。日米開戦に合わせた日を攻勢開始日に選んだ事以外、それほど大きな目的も存在していなかった。
 なにしろこの時期の米機動部隊は、度重なる損傷で《エセックス級》大型空母四隻、《インディペンデンス級》軽空母二隻にまで稼働空母が減っていた。日本のストロング・ポイントと、いまだ健在と考えられていた日本海軍の空母部隊を同時に相手取るのは不可能だと、彼ら自身が考えていたからだ。
 だが、この攻撃は日本側にとっては、ペリリュー、アンガウル地区への支援攻撃が不可能となるばかりか、ミンダナオ地域での著しい兵力の消耗も同時にもたらした。現地に展開していた航空部隊も、約四八〇機の陸海軍航空隊の八〇%以上が撃滅されてしまい、今後の防衛計画の前提すら崩壊していた。
 戦果が全くなかったわけではないが、あまりにも大きな犠牲と言えるだろう。
 なお、ここで大きな転換点は、この攻撃によって日本側はパラオの防衛を事実上放棄せざるをえず、決戦地域をマリアナ、フィリピンもしくは沖縄、台湾などに変更した事だ。
 そして「捷号作戦」がこの時正式に決定された。「陸海軍爾後の作戦指導大綱」の中で「翌年(昭和二〇年)初頭、アメリカ軍主力の進攻に対し決戦を指導しその企図を破摧」するため「決戦の時期を概ね一月以降と予期」し、「空海陸の戦力を極度に集中し敵空母及び輸送船を必殺すると共に(中略)空海協力の下に予め待機せる反撃部隊を以って極力敵を反撃す」というもが告知された。
 「捷号作戦」は、予期決戦海面によって「捷一〜五号」に分類された。大本営はこのいずれに敵が来攻しても、陸海空戦力を総結集して起死回生の決戦を行うよう計画した。

 本作戦は、実施上特に陸海軍の航空戦力を統一運用することが必要であった。だが、聯合艦隊の航空部隊は、「あ号」作戦(マリアナ沖海戦)終了時点で一六〇〇機の約三分の二にあたる約一〇〇〇機喪失という壊滅的打撃を受けており、本格的な再建は一九四五年新春に予想されるアメリカ軍進攻には間に合わなかった。
 なお、捷号作戦準備として、陸軍から第二、第四飛行師団が満州から逐次進出、海軍基地航空部隊としては第二航空艦隊が比島に展開した。決戦予想時までに整備し得る兵力は、海軍一三〇〇機、陸軍一七〇〇機の計約三〇〇〇機と見込まれた。これらの部隊の中には、海軍の新型局地戦闘機《紫電》、《紫電改》や陸軍が大東亞決戦機と呼んだ《疾風》、液冷戦闘機《三式戦》で編成された強力な部隊も多数存在しており、サイパン戦よりも自らに有利と大本営は見ていた。
 だが一部を除いて全般的なパイロットの練度は低く、新鋭機の数も紙上の戦力の域を出ていない部隊も多かった。また兵力の六分の一は既に失われており、連合国対日正面兵力は日本軍の一対二以上と後世では判断されている。
 そうした状況の中、「台湾沖航空戦」と呼称される戦いが発生した。

 アメリカ軍は、フィリピン・レイテ島への上陸作戦に先立って、付近一帯の日本軍の航空兵力の撃滅を図った。制空権こそが本戦争におけるすべての戦いの帰趨を握っているからこその行動だった。
 この時ハルゼー大将隷下の第38任務部隊を構成する強力な空母機動部隊は、十分に戦力を回復させて三群に分かれ、《エセックス級》正規空母七隻、《インディペンデンス級》軽空母三隻、戦艦四隻、巡洋艦十一隻、駆逐艦四六隻という大部隊だった。しかも別働隊である支援部隊だけでも、予備機を搭載した護衛空母十一隻、給油艦三隻という大兵力が控えていた。
 これに対して、沖縄の嘉手納を中心に展開していた通称「T攻撃部隊」と、台湾に陣を構えていた海軍の第二十六航空戦隊(パラオ、フィリピンでの損害から回復するため一時的に後退中)がこの時の日本軍の主体となり、それぞれ好対照となる結果を残すした。
 「T攻撃部隊」は、一部陸軍の雷撃隊(四式重爆「飛龍」)を含めて、戦闘二隊、攻撃(雷撃)六隊からなり、合計約一五〇機の稼働機を擁した文字通りの決戦部隊だった。一方この時の第二十六航空戦隊の主体の一つとなったのが、別の航空隊から転属してきた「三四三空」になる。
 「三四三空」は、軍令部の航空主務参謀・源田 実大佐が、自らが司令となり制空権の奪回を目的として精強な航空部隊の編成を計画。サイパン戦で戦力を消耗していた戦闘三〇一・四〇七・七〇一航空隊を召集・編成し、これに各地から引き抜いたベテランパイロットを補強して、彼らに強力な戦闘機ばかりを約一〇〇機以上を与えた制空戦闘機隊だった。
 同部隊は、マリアナでの戦いが落ち着いた昭和一九年八月二十五日に松山基地で早くも開隊。昭和一九年十二月一日には偵察第四航空隊を編入し、基幹搭乗員に歴戦のベテランを配置して近代的な編隊空戦の実現をめざしたため、鳴り物入りで一九四五年の元旦が空けた頃から台湾へと大挙進出して同地域の部隊の中核となって、フィリピンへの進出の直前だったこの時も訓練に励んでいた。

 米機動部隊の攻撃は、一月十日に沖縄への大規模な空襲によって開始され、のべ五〇〇機による大空襲が沖縄本島を中心に襲った。
 このため、沖縄とその近辺に存在したすべての空軍基地と港湾を襲い、さらに一月十二日台湾に約五〇〇機の艦載機が襲来する。
 これに対して沖縄・嘉手納にあった「T攻撃部隊」は、米機動部隊接近に伴い先手を打って一月十日に夜間攻撃を行い、約一〇〇機が出撃するも五十四機を失った。それでも米空母部隊の去った翌十一日にも薄暮攻撃に二十八機が出撃し、さらに十八機が喪失してたった一度の戦いで壊滅してしまう。しかし損害と引き替えに、空母九隻〜十三隻轟沈の大戦果を報告した。
 まごうこと無き大戦果であり、戦果が事実なら戦争が覆るほどのものだった。
 そしてこの大戦果狂喜乱舞した司令部は、付近航空隊すべてに攻撃を命令すると共に、内地や付近にあった艦隊を引き抜いて追撃を行う命令を景気良く連発する。なおこの攻撃は、十二日に台湾方面に逃走中の敵艦隊を捕捉し、航空戦を中心にして撃滅する事とされた。そうした様は、ブーゲンビルでの誤報問題を全く反省しない振る舞いだった。
 だが、十二日に台湾の北部地域を中心に米機動部隊が大挙押し寄せ、現地航空隊と激しい戦闘に突入する。そしてその後送り狼の形で総司令官有馬少将直率の攻撃が行われた事で、その実情が同少将の目によって確認・報告され、これが陸軍にも伝わって「海軍T事件」として露わになる。
 「三四三空」が中心となって第二十六航空戦隊が戦闘を展開した台湾北部での戦いは、源田大佐の作戦案に従い、偵察機と電探、無線を駆使した航空管制実施による組織的な迎撃が行われた。第一波二八〇、第二波二三〇機の米艦載機隊を、「三四三空」の全力にあたる約一〇〇機、二十六航戦にもとから属している約八〇機、そしてフィリピンへの移動途中だった《疾風》、《三式戦》を抱える陸軍の精鋭戦闘機大隊など、総数約二五〇機以上の戦闘機が迎撃したのだ。
 そして的確な偵察と情報、航空管制によって、約五〇機の損害と引き替えに一五〇機以上の米艦載機を撃墜し、さらに五〇機以上を撃破する事に成功する。
 一度の攻撃で全軍の二割が手もなく失われた事に驚いた米空母部隊は、もともと本作戦が次なる作戦への予防攻撃としての意味合いが強い事から、これ以上深入りする事なく次の目的地フィリピン・ルソン島方面へと転進し、台湾に対するアメリカ軍の攻撃は不十分な結果に終わらせている。
 またこれは、近年まれにみる日本側の空中戦での大勝利だった。だからこそ勝利に乗じる形で午後二時頃から約一〇〇機による攻撃隊が編成された。
 二式大艇から全軍の総指揮にあたっていた有馬少将は、米高速空母約十隻を始めとするほぼ無傷の艦隊を発見し、そのうちの一群に対しての集中攻撃を敢行。攻撃隊壊滅を代償として、大型空母(《フランクリン》)に魚雷一本、爆弾四発の命中を得て攻撃を終了して、「米空母一隻撃沈」の報告(※誤認)と共に米艦隊健在の報告を持ち帰っている。
 そしてこの二つの戦闘の報告は、一九四三年秋頃から増えていた技量未熟による誤報問題の深刻化を浮き彫りにさせた。この時第二十六航戦が例外だったのは、それなりに制空権を握っていた事と何より充実した偵察専門部隊を有していたためで、以後の空中戦では可能な限りこの二つが重視されるという雰囲気が作られていく事になる。
 だが一方で、誤報をまともに調べずにいた海軍中央の多くの者の処分はなし崩しで行われず、ここに日本海軍という組織の様々な膿を見ることが出来る。

 そして、大本営が戦闘初日からかなり控えめになった「台湾沖航空戦」の結果を国民に発表をした翌日、フィリピン・レイテ島へアメリカ軍が大挙襲来する。

台湾沖航空戦総決算(実状)
 日本側損害
航空機:三四〇機(在沖縄部隊機能停止、在台湾部隊戦力六〇%以下に低下)
 アメリカ側損害
損傷艦艇:
CV:《フランクリン》(大破)
CG:一 CL:一 DD:二
航空機:二四三機(母艦内での損失含む)

 

 

■解説もしくは補修授業「其の拾七」 

■フェイズ十八「オペレーション・V1」