■フェイズ二二「地獄の島」


●最後の海戦

 「天一号」作戦。
 本作戦は、特攻主体の総攻撃を行うしか戦争継続の手段が残されていないのなら戦争の幕を引くべきでは、と言う主旨の昭和天皇からの言葉を、意図せずに曲解した海軍首脳部の意志により決定されて水上艦隊を編成、これがマリアナに赴くという形になるだろう。
 なお、アメリカでは、後の戦闘の経過もあってこれを「天」にかけて「ヘブンズ・ワン(天国に一番近いという意味だろう)」と呼んでいた。

 「天一号」作戦の主体となる海軍の状況だが、先にも紹介した通りこの頃日本にはいまだ多数の大型水上艦(戦艦、重巡洋艦)が残存していた。しかし、レイテでの戦闘で多くが損傷し、日本全体の工業力低下から、優先順位を付けて戦闘力のある艦艇から修理しなければならない有様だった。しかも、佐世保は支那大陸からの爆撃があるため安心して使用できないため、その分さらに修理能力が低下しているような状態だった。このため、すでに中途半端な戦闘力しか発揮できない重巡洋艦よりも、ある程度航空機に対して防御力がある戦艦が優先的に修理され、この時も日本海軍が持つすべての戦艦(十一隻)の多くが稼働状態だった。
 ただし防衛任務や輸送任務中により、防空戦艦に改装された旧式戦艦四隻が外地にあって戦力外だった。レイテで数多くの魚雷と砲弾を受けた《信濃》は、いちおうの修理を完了していたが、燃料の浪費を避けるという実に貧乏くさい理由もあって、ドッグ内で改装工事が行われつつも緊急稼働状態になかった。
 また作戦の性格上速力重視となるので、作戦に耐えられる艦艇の数はさらに数を減らしていた。
 そして、アメリカ軍の大規模な攻勢が確実となった六月半ば、呉と横須賀に分散していた兵力の集中が開始され、主力艦隊は横須賀に、残存稼働空母とその護衛艦艇は呉へと集められた。
 以下がその時の艦艇だ。

 第二艦隊(横須賀)(伊藤整一中将)
戦艦:《大和》《武蔵》《信濃》
   《比叡》《榛名》
重巡:《利根》《最上》
   《鳥海》《摩耶》《羽黒》
軽巡:《矢矧》
防空駆逐艦:《冬月》《涼月》《満月》
駆逐艦:《島風》《沖波》《早波》
    《初霜》《秋霜》《清霜》
    《雪風》《磯風》《浜風》
    《満潮》《霞》《響》

 第三艦隊(呉)(山口多聞中将)
空母:《瑞鶴》《葛城》《笠置》
 (艦載機:約一六〇機)
軽巡:《伊吹》《酒匂》《五十鈴》
防空駆逐艦:《若月》《春月》《宵月》《夏月》《花月》
護衛駆逐艦:《桜》《八重桜》《楓》《梓》

 ごく一般的な視点から見れば、大艦隊と言って問題ない規模だった。これが四四年以降のアメリカ以外を相手とするなら、十分以上に強力な艦隊なのは間違いない。現に艦隊規模は、この時の英太平洋艦隊を上回っている。だが、相手が戦時生産がピークに達したアメリカであるため、全体的な戦力比は最前線での戦力比でも一対三以上と見られていた。日本側に一年前泊地に溢れていた聯合艦隊の勢いはなく、ドッグから引き出した艦艇、いまだ訓練途中の艦艇など、根こそぎ集めてこの数が限界だった。駆逐艦は、もう少し数を揃えることも可能だったが、海上護衛を疎かにする訳にもいかなかった。
 なお、大型空母は《赤城》がドッグから出せなくもなかったのだが、修理が終わったばかりの空母には搭載すべき航空機がもはや存在せず、燃料問題もあって出撃は見送られている。
 また、ドッグから急ぎ引き出されてきた艦艇の中に戦艦《信濃》の姿があり、同艦はレイテ沖海戦で大きく損傷した後、突貫工事で三ヶ月で修理を完了させていた。この修理の際に、レイテで派手に壊れた上部構造物の半分以上の刷新が行われた(実際は壊れた高射兵器の撤去と、その代わりとなる量産の簡単な装備の設置)。また他の《大和型》戦艦同様に、日本軍で初めてまともな射撃電探として使えるとされた三二号電探の搭載も行っている。なお、レイテ戦以後の修理に際して一番厄介だったのは、《大和型》戦艦が今までの戦闘で主砲の砲身内筒がかなり摩耗しており、一部が交換しなければならなかった事だ。ただし時間がない事と資材の関係、加えて《大和》は第一次マリアナ沖海戦までに一度砲身内筒の交換を行っているので交換の必要は少ないと判断された。一部の砲身は、状態が比較的良いものはそのままとされた「武蔵」は、一部の射撃精度に問題を抱えての出撃となっている。
 ちなみに、ドッグ入りしていた艦艇の過半が、ブルネイやシンガポールで燃料を飲み込んだままドックで修理していた艦艇が多いので、一回の出撃であるなら燃料問題は何とかなりそうだった。また、修理中の大型艦艇(主に重巡洋艦)からもいくらか燃料が引き抜かれ、駆逐艦などに補給されている。しかしこの事は、世界第三位を誇った帝国海軍は今や帝国そのものと共に滅びに瀕しており、この時横須賀に集められた艦艇の数が象徴してるだろう。

 そして、最後の艦隊を用いて行う作戦だが、基本的にレイテ沖海戦とほぼ同じだった。空母と基地航空隊の傘の下、戦艦部隊がマリアナ諸島まで突進し、サイパン島にたむろする敵攻略船団を自らの砲力を以て撃破するというものだ。このため、各稼働空母は艦載機の七割を戦闘機で固め、それでも護衛が足りないので、戦区ごとに第一、第三航空艦隊が戦闘機の傘をかける事になっていた。
 なお移動に際しては、最初横須賀の艦隊は呉に疎開すると見せかけて、途中転進しつつ空母部隊と合流、事後最大戦速で突進し、敵空母艦載機の襲撃を最小限に止めつつマリアナ諸島まで到達するというものになった。
 つまりは、闇夜と局地的制空権の下を突進する以外、水上艦隊がマリアナに到達できる可能性はすでに存在しないのだと、日本海軍自らが良く認識していた証拠と言えるだろう。
 そして、再び、いや三度計画的な艦隊特攻を行わなくてはならないところに、日本という国家の在りようが出ているとも言える。

 対するアメリカ海軍太平洋艦隊は、圧倒的な生産力で空母部隊こそマリアナ、レイテの打撃から回復していた。しかし、建造に手間のかかる新鋭戦艦については、それほど優位とは言えなかった。内容も《アイオワ級》二隻、《サウスダコタ級》三隻、《アラスカ級》二隻と、全世界から根こそぎ集めてもこれだけしかなった。
 本国のドックでは、一時は建造中止が取りざたされた《アイオワ級》戦艦二隻がレイテ沖海戦以後から建造を急いでいた。だが就役には、まだ半年近くかかる予定だった。再建された第七艦隊には、以前と同じ六隻の旧式戦艦が属していたが、その半数以上がとても戦艦同士の砲撃戦ができる能力はなかった。増援に来たイギリス海軍の太平洋艦隊の戦艦は、新型とは言え十四インチ砲戦艦二隻では、まとめて運用したところで、相手の事を考えるとあまり意味はないという向きが米海軍内で強かった。
 やむなく新鋭戦艦すべて(大型艦五隻)を集めた任務部隊を組み上げて、艦砲射撃任務をこなしつつも、アメリカ軍にとっての災厄の代名詞となりつつある日本海軍の《大和型》戦艦群に備えるという状態に落ち着いていた。
 また、戦艦がこのようにまとめられた背景には、制空権と母艦戦力に対する不安があった。
 作戦開始当初は、大型空母十一隻に軽空母三隻、艦載機数約一二〇〇機という大戦力で始めた。だが、硫黄島から日本本土にかけての予備攻撃で、大型空母二隻が重大な損害を受けて完全脱落した。航空機の総数も、補充を受けてなお一〇〇〇機を割り込む数字に早くも低下していた。上陸作戦と共に始まった「カミカゼ」を始めとする激しい空襲で、アイスバーグ作戦艦隊全体の航空戦力も七〇%程度に低下していた。
 このため、これまでの戦いの経験から限定的制空権のもと突進してくるであろう日本海軍戦艦群を、空母機動部隊だけでは十分に撃退できないだろうと考えられた。作戦開始当初の制空権は圧倒的とは言い難い状況なのは間違いなく、日本本土からの大規模な空襲すら予測される同島の制空権・制海権維持には、威力が不足するのではと言う意見が強かった。
 だからこその高速戦艦部隊の編成だった。
 過ちは何度も犯すものではない。
 そして連合国軍が一九四五年六月二十三日に「アイスバーグ作戦」を発動させ、トラック諸島近辺で発生した比較的大型のタイフーンを追いかけるようにマリアナ諸島に侵攻したのだ。だが、二十四日から二十六日にかけてこのタイフーンは、マリアナ諸島北辺海域から日本本土目指して北上を続けた。当然だが、この海域での航空作戦などできる筈もなかった。台風は日本側の航空攻勢を一時的に活動停止に追い込んだが、一方ではこれを日本人達が本物の「カミカゼ」にするのではとして警戒を強めていた。そう、巨大戦艦なら嵐など関係ないからだ。

 アメリカ人の不安は当たっていた。
 聯合艦隊司令部はこの台風を天佑と考え、マリアナ諸島、トラック諸島などからの気象情報を得ると、既に待機状態に入っていた各部隊にただちに作戦発動を命令した。
 なお、この台風接近のため、作戦には若干の変更が行われた。第二、第三艦隊は共に硫黄島北西海域まで進出するが、二十五日深夜サイパン島に砲撃を行うスケジュールで、第二艦隊が台風を迂回するように一気にマリアナ諸島近辺に接近する。第三艦隊は、第二艦隊に二十六日黎明から航空機の傘をかけられる位置以上には進出を行わず、両艦隊はアメリカ軍の追撃をかわしつつ最大艦隊速度で呉まで遁走するというものになった。
 この日本人の意図は図に当たり、サイパン島侵攻の初期段階での船団護衛のため全く身動きできない連合国の大艦隊は、日本の有力な艦隊が台風が接近しつつある硫黄島近辺まで接近してきてもアクティブな行動に出ていなかった。
 いや、出たくても忙しすぎて対応すべき戦力が少なすぎたと言うべきだろう。「YAMATO」を迎撃するための戦艦部隊すら、最初の艦砲射撃任務後の補給のため出遅れていた程だから相当のものだった。
 なお、アメリカ側の計画に齟齬が出ていたのは、台風通過後の海面状況を軽視していたからだ。高い波のため洋上での補給、上陸作戦の決行はもとより航空機の運用にすら支障が出ており、前後した日本側の航空攻撃が成功をおさめたのも、この要因が大きな役割を果たしている。

 そして二十六日深夜、サイパン島に陣取る日本陸軍部隊による総反抗が決行される数時間前、この戦争で何度目かになる、恐らく最後になるであろう艦隊決戦の舞台が整えられた。
 
 日本側・第二艦隊(伊藤整一中将)
戦艦:《大和》《武蔵》《信濃》
   《比叡》《榛名》
重巡:《鳥海》《摩耶》《羽黒》
   《最上》《利根》
軽巡:《矢矧》
駆逐艦:十五隻

 アメリカ・第五四任務部隊(モートン・デイヨー少将)
戦艦:《ミズーリ》《ウィスコンシン》
   《インディアナ》《アラバマ》《マサチューセッツ》
重巡:ボルチモア級/二隻
軽巡:クリーブラド級/二隻
駆逐艦:十七隻

 艦隊戦の規模としては、後半に戦闘参加したアメリカ軍艦隊を含めると、戦艦の参加数においてなら第二次世界大戦中最も多かった。また日米双方が、持てる新鋭戦艦のすべて投入しているのがその特徴だった。戦闘海域は、日本艦隊が台風の最低迂回進路をとったため、サイパン島西南西約四十三キロメートルを中心とするエリアとなる。
 日本艦隊がアメリカ軍の当初予測襲来ポイントより大きく外れて出現したため、米艦隊は警戒のための分散配置のシフトからの集合が遅れた。そして日米双方とも約四十キロメートルの位置で互いの艦隊を確認した後に、射程距離で優越する日本側の先制攻撃から開始された。
 だが、射距離三八〇〇〇メートル、電探の測距のみで《大和型》戦艦の最大有効射程をもって送り出された砲弾は、おおよそ見当違いの場所に弾着した。
 夜間、荒い海面、遠距離、不正確な情報などさまざまな負のファクターを背負っての砲撃と考えると、極めて妥当な結論だった(ただし快晴で、ほぼ満月の夜だった)。砲撃の稚拙さは、距離三五〇〇〇でアメリカ側が砲撃を開始しても違いはなかった。ただし、アメリカ側の方も状況は悪かった。何しろ日本側の方が早く射撃を始めており、何度も実戦を経験して、それまで彼らの視点からすれば飽きるほど実弾を打ったベテランの砲術員は、修正も非常に素早く正確だったからだ。
 またアメリカ側の方が、砲撃の状態が悪い要因はいくつかあった。
 日本と同様に海面状態は悪かった。砲戦開始距離も遠すぎた。そして補給や艦砲射撃スケジュールの影響で、艦隊が大きく二つに分裂してしまっていたため、艦隊司令部が艦隊の統一コントロールができなかった事も砲撃が集中できなかった。
 しかし最大の原因は、驚くべき事に《アイオワ級》戦艦の最大の長所がもたらしたそのスタイルにあったとされている。
 《アイオワ級》戦艦は、この当時世界で最も新しい戦艦の一つだった。基準排水量四万八五〇〇トンの巨大戦艦であるにも関わらず、三十三ノットの速力を誇る世界最高性能を与えられたスマートな外観の超高速戦艦だった。それでいて、五十口径十六インチ砲という強力な主砲を三連装三基九門装備するという重武装を誇っていた。しかもこの主砲は、ヘビーシェルと呼ばれるそれまでより25%近く重い砲弾を使用して破壊力を増しており、遠距離での破壊力なら日本の四十六センチ砲に匹敵する力を持っている優秀砲だった。
 つまりは、最先端の科学技術を投入した、日本の従来型の戦艦とは一線を画す存在と言って間違いないだろう。加えて、電子戦装備の優秀さについては、今更言うまでもないほどだ。
 だが、《アイオワ級》戦艦に俊足を与える長大な船体は、黒潮渦巻く西太平洋の荒波を渡るには役者不足だった。自らの強力な主砲の爆圧を受け止めきるには華奢で艦幅も足りず、特に遠距離砲撃は常に軍事機密とされたほど酷い命中率しか発揮しないと言われていた。少なくとも、この時の日本艦隊との遠距離砲撃戦でのデータは、通説を十分に立証する成績だった。何しろ日本側が一時的に無視したほどだったのだ。
 また、日本側の戦艦は、すべてが最低一度は戦艦同士の砲撃戦を経験しているのに対して、アメリカ側は《インディアナ》以外は初めてで戦艦乗員として熟練しているとは言えなかった。この見えない要因も、戦闘に強く影響を与えていると見られていた。

 日本戦艦群の砲撃は、当初警戒配置のため三:二で分かれて行動していた米艦隊のうち、数で勝る方に向けられた。こちらは《サウスダコタ級》戦艦三隻で編成された戦艦部隊に加えて、砲撃戦開始までに合流してきた艦隊の過半が加わったものだ。
 約二分〜一・五分に一度の割合(最短砲撃間隔ではなく弾着の間隔)で砲撃が送り込まれるたびに正確さを増していた四十六センチ砲は、約三万三〇〇〇メートル、世界中の戦艦が砲撃を受けた場合危険だと想定した距離で最初の命中弾を発生させた。
 互いの距離は二分で約一・五キロ縮まるので、四度目の射撃が命中した事になる。これは日本戦艦乗員の熟練度の高さと、何とか実用化された対水上電探(三二号電探)の威力だと言えるだろう。
 またその後すぐの砲撃でもさらに命中し、部分的には一八インチ砲弾にすら耐えられるとされた《サウスダコタ級》戦艦の強固な装甲甲板を高い落下角度から簡単に貫き、各艦ごとに敵戦艦を攻撃していた《大和型》戦艦は、戦闘開始十分を待たずして敵戦艦二隻に相次いで大きな損傷を与える事に成功する。
 命中弾を受けたのは、《インディアナ》と《アラバマ》だった。前者が一発、後者が二発の命中弾だったが、斜め上方から飛び込んだ砲弾により、いとも簡単に艦中央部の機関区を打ち抜かれた《インディアナ》は、速力半減によりただちに後退を余儀なくされた。二発のうち一発が必殺の水中弾となった《アラバマ》も、ボイラー区画が一つ破壊され、大量に浸水して速力を大きく減じ、同じく戦線離脱を余儀なくされていた。
 その後も、位置関係から距離がなかなか詰まらないため命中率の悪い《アイオワ級》二隻を半ば無視した形で、日本艦隊は残る「主力艦隊」との距離を詰めていく。距離三万メートルで《比叡》《榛名》が後方を走る小型の戦艦(実際はボルチモア級重巡)への電探射撃を開始し、《大和型》戦艦は残る大型戦艦への砲撃を続行しつつ、強引にサイパン島へと接近しつつあった。
 アメリカ軍側で不運だったのは、《マサチューセッツ》が残余を率いる艦隊だった。重武装でトップヘビー気味な米水雷戦隊は、ただでさえ波が荒くてうまく行動できないのに、この荒い海を我が庭のように行動する日本側の巡洋艦部隊と水雷戦隊の一部に阻止されて、接近はおろか敵よりも多い損害を積み重ねるだけの状態となっていた。荒れた海では、重武装の新鋭艦も形無しだ。
 辛うじて隊列を作っている大型艦は、それぞれワンクラス以上大きな艦艇との殴り合いを強要された。《ボルチモア級》重巡に至っては、巡洋艦では撃破不可能なほどの重装甲も、相手が戦艦ではまるで役には立たなかった。自らが砲撃を開始する距離一万五〇〇〇メートルに詰めるまでに、全艦が戦線離脱か大破漂流という有様だった。そして残る《マサチューセッツ》を急接近しつつ袋叩きにした《大和型》戦艦を先頭にした日本艦隊は、そのままの勢いで事実上の戦線突破に成功してしまう。
 だが、この時点で《アイオワ級》戦艦二隻との距離が二万五〇〇〇メートルにまで縮まり、彼女たちの砲弾もようやく日本戦艦の近辺に落ちるようになった。このため、日本側としてもこの有力な戦艦群を無視する事はできず、進路をやや後方に向けて変じると順次砲撃戦を挑んでいった。
 もっとも、戦闘は長くは続かなかった。
 勝負を決したのは、ヘビーシェルでも四十六センチ砲でもなく、水面下からの攻撃、つまり魚雷だったからだ。
 戦艦部隊よりずっと早く敵大型戦艦の隊列に突撃していた第二水雷戦隊主力は、二隻の戦艦を守る五隻の駆逐艦を数と地の利で圧倒すると、日本側の集中砲撃によって水柱が奔騰する敵戦艦に距離8000メートルにまで接近し、ここで装填されていた残りすべての魚雷を放って遁走を開始した。
 扇状に放たれた九三式酸素魚雷のうち、6%が敵戦艦とのランデブーに成功した。そして二隻合計で五本の魚雷が命中して自慢の俊足を失った敵戦艦は、片方に至っては破壊と衝撃で電路が全てやられ、砲撃すら停止する有様となってしまう。
 そして速力が落ちても砲撃を続けていた残る片方には、日本側戦艦五隻の集中砲火が約八分間続けられ、多数の砲弾を受けて沈黙した。そして近在の戦艦全てを無力化したと判断した第二艦隊司令部は、全艦隊に『集マレ』と信号を送り、激しい火砲の煌めきが見られるようになったサイパン島への最後の突撃を開始した。
 この時の彼らにとって、敵戦艦群は押し通るべきただの障害に過ぎず、倒すべき敵ではなかったのだ。
 なおこの戦いで沈没した米戦艦は、四十六センチ砲弾を少なくとも八発受けた《マサチューセッツ》一隻だけだった。だが戦艦のすべてが中破以上の損害を受けてウルシーに逆戻りするか、酷いものはハワイか本土西海岸のドッグを目指す事になった。要するに全滅だ。その他、アメリカ側の重巡二隻、駆逐艦五隻が撃沈もしくは大破され、その倍の数が大きな損傷を受けて艦隊としての戦闘力を喪失していた。
 対する日本側は、駆逐艦三隻が撃沈もしくは大破し、重巡二隻、駆逐艦三隻が大きな損害を受けていち早く後退を開始している他、特に戦艦は損害の大きいものでも中破レベルで戦闘航行に支障は出ていなかった。
 この日本側の勝利は、《大和型》戦艦三隻という物理的なパワーがもたらした勝利と言えるだろう。戦艦戦においてのみ、日本はアメリカの物量にうち勝っていた。
 まさに「決戦兵器」の面目躍如だ。

 そして突然の乱入者を迎え入れたサイパン島は、血まみれの乱入者に相応しい鋼鉄の饗宴の真っ最中だった。
 
 

●第二次サイパン島攻防戦

 六月二十四日黎明より上陸作戦を開始したアメリカ軍は、日本側が構築したトーチカ砲台群と水際陣地からの激しい抵抗により第一派、第二派が相次いで撃退されるも、その日の夕刻までには海兵師団二個の上陸をほぼ完了した。さらに陸軍第二十四軍団の主力上陸も二五日中に行って、予備の第九十七師団を除く十万人以上の上陸を完了していた。
 さらに日本側が強固に構築した砲台のうち60%近くは破壊したと判定しており、飛行場も完全に沈黙させ、おおよそ八万人の戦闘員がいると見られた同島は、予定通り三週間で陥落出来るものと考えられていた。
 この根拠となっていたのが、友軍の提供する制空権と制海権であり、陸軍と海兵隊がこの島に持ち込んだ多数の兵器の存在だった。
 各師団が持つ戦車四〇〇輌を含む総数二〇〇〇輌以上の装甲車輌の威力は、装備の貧弱な日本軍相手に絶大な効果が見込まれた。欧州での戦いを教訓として組み上げられた、戦車を中心に据えた陣地突破戦術は、水際攻撃に際して損害は少なくなかったが有効に機能した。
 もちろんすべてが予定通りではなかった。台風通過後で波が荒いため上陸スケジュールは遅れに遅れた。サイパン島の防備は、アメリカ軍の予想よりも強固になっているばかりか、兵力量も見積もり以上だと判定が変更された。その上日本側は、可能な限り陣地に籠もったまま迎撃してくる方針らしく、むしろ無理押しした米軍側の損害の方が大きいのは、今後の作戦を考えると大きな不安要素だった。このため、一刻も早く予備兵力を投入し、さらなる増援を持ち込んで圧倒的戦力を展開すべきだとも考えられていた。
 また、第一波、第二波と続けて強襲上陸を行った際に、参加した各海兵大隊は最大50%以上の損害(死傷者合計)を出していた。海兵隊の持つ二十二個大隊(師団所属+独立大隊含む)のうち三つは二日目夜の段階で後方への移送が始められている状態で、海兵軍団全体の歩兵戦闘力は早くも十五%以上低下していた。
 このため、一時的に士気低下すら引き起こしたほどだった。だが、陸軍主力の上陸により前線を交代すると海兵隊は再編成作業に入り、その陸軍主力は戦車部隊をひとまとめにして翌朝黎明からアスリート飛行場奪取を行う計画を立てていた。
 そうした中、暗闇の筈の海上に無数の閃光が煌めき、オドロオドロしい殷々たる雷鳴のような音が断続的に響いてきた。
 またも日本艦隊がやって来たのだ。

 その数時間前、三十二軍司令部には第二艦隊の伊藤中将から牛島司令官あての通信電文が送られていたので、日本軍は連続する雷鳴が何を表すか十分に知っていた。
 史上最大・最強の艦隊による包囲網を突き破って、世界最強の戦艦部隊が自分たちのためにはるばる弧状列島から殴り込みにきたのだ、と言う事を。

 二十六日午前一時丁度、それまで沈黙を守っていた第五砲兵司令部に属する、いや第三十二軍に属するすべての重砲が一斉に火蓋を切った。これには近隣のテニアンにある長距離砲の過半も参加する激しさとなった。
 聯合艦隊が殴り込んでくるより三十分近く早かったが、規定の作戦を覆すわけにもいかず始められた攻撃だったのだが、アメリカ軍が聯合艦隊の突破が成功したという報告を受ける前だったため、奇襲と言って間違いない効果を発揮した。
 激しい空襲と艦砲射撃を生き残った日本軍の重砲、迫撃砲、ロケット砲約六〇〇門が、一斉にアメリカ軍陣地目指して降り注いだ。特にアメリカ軍の恐怖に陥れたのは、海軍が持ち込んだ旧式艦から撤去した二十センチ、十四センチ砲と、比較的近距離から高角度で落下してくる陸軍の巨大臼砲(九八式臼砲)、そして四十センチ口径の巨大ロケット砲、通称「バッフリー・ワッフリー」だった。
 沖合の閃光から日本軍のモンスターが戦線突破したのだとGI達が思いこんだため、この時の恐怖は大きかった。全戦線にわたって降り注ぐ弾雨により、命令も聞かずに壕に篭もる者、逃げまどう者など、それまでの伝聞により誇張された恐怖はここで爆発した。
 何しろほんの五ヶ月前、十万を越える大軍が一瞬にして粉砕されたのだから、現地将兵の恐怖たるや察するに余りあるだろう。
 なお、日本第二艦隊がサイパン島西部中央の沖合に突入したのは、午前零時四十二分だった。そのうえ突入から約一時間は付近一帯に犇めいている侵攻船団の輸送船や、その護衛艦艇などを相手にするのに忙しかった。陸地への砲撃は、三十二軍が準備砲撃に割いた二時間と言う時間のおおよそ後半部分の一部を占めたのみに終わっている。
 だがサイパン島に展開された光景は、まさに地獄の再現だった。
 その様は、レイテ沖海戦と一度目のサイパンでの地上戦を合わせたような日本軍の陸海からの砲撃によって現出されたものだが、この時現地アメリカ軍十万の将兵が受けた砲撃はまさにオーバーキルという名詞が相応しかった。戦艦一隻が七個師団の砲力を持つとする説を信じるなら、三十二軍の砲撃と合計すれば四十個師団以上の集中射撃を受けたようなものだろう。
 これを別の例をあげて表現するなら、簡易塹壕しかない東部戦線の戦場で、ロシア軍一個軍集団の総攻撃を受けたようなものと表現すればよいだろうか。
 なお、特に翌朝黎明の作戦のため開けた場所に集結していた米陸軍の精鋭部隊の損害は酷かった。集中している場所に降り注いだ戦艦部隊の砲弾によって、全軍の三割以上の装甲兵力と一個歩兵連隊が天国への転属を強要された。すぐ側では、彼らへの送り火のように、急造された野戦燃料廠が燃え盛っていた。

 もっとも第二艦隊の艦砲射撃は、開始二十五分ほどで中断しなければならなかった。
 遅ればせながら現場に急行した米第七艦隊が、我が身を顧みず日本艦隊に挑み、これを米戦艦部隊の主力到着と考えた第二艦隊が引き際と判断し、遠距離からの砲撃戦を行いつつ離脱を開始したからだ。
 これは、第二艦隊は先に突破した艦隊を、彼らの視点からの抵抗力の低さから(と当時の第二艦隊司令部は判断していた)、偶然居合わせた空母部隊から分離された分艦隊と旧式戦艦の生き残りと考えていたためだ。この時点で日本艦隊が事実上の撤退を開始したのは、敵の存在を正確に確認できなかった要因も大きいが、先の戦いで大型艦艇の半数近くが電探を破損しており、効果的な夜間戦闘ができないというファクターが大きかった。また黎明から開始されるであろう激しい空襲の存在も忘れてはならないだろう。
 もともとが無茶な作戦であり、むしろここまで巧くいった事こそが奇蹟と言うべきだと考えるべきなのだ。
 しかも日本側が去り際の反航戦で敵戦艦に放った砲弾のうち、十発近くが米第七艦隊所属の旧式戦艦群に命中し(アメリカ軍は七発の命中(炸裂)を確認)、反対に日本側が受けた合計十三発の主砲弾はほとんどが艦隊先頭を走る《大和型》戦艦に集中したため、実質的な損害は小さなレベルで済んでいた。(十二インチ、十四インチ砲が主のため、命中弾のうち七割(九発)が装甲で弾かれている)
 おかげで、日本側が最初の戦闘をあわせても中破レベルの損害だったのに比べ、米第七艦隊は大破二隻、中破二隻という大損害を受けた。しかも大破したうちの一隻はダメージコントロールに失敗し、日本艦隊が去った約二時間後に沈没している。

 もちろん日本艦隊側は、アメリカ軍の状況など一切知らなかった。一部に敵の速力が遅い事や損害が小さい事、水柱が小さい事を疑問に思う者もいたと戦後述懐されたが、戦場でありがちな齟齬をいだいたまま、黎明に現れるであろう米機動部隊からの遁走を続けた。そしてアメリカ軍が索敵を開始した頃には、硫黄島からの航空総攻撃の第二波が開始された事と、危険海域ギリギリまで進出した山口中将の機動部隊との合流に成功していた。
 だが、復讐に燃える米空母部隊は、日本側基地機による激しい空襲の合間を縫って、二度の攻撃隊を午前中の間に送り込み、総数で一五〇機もの艦載機が日本最後の艦隊に襲来する。
 これを待ち受けていたのは、第三艦隊の主力を占める三隻の正規空母に搭載されていた戦闘機群と、硫黄島から応援に駆けつけた約一個戦闘機大隊だった。
 戦力としては、ようやく空母にも配備の始まった《烈風》十二機、《紫電改》(艦載機型)七十二機、《零戦六三型》十八機、陸軍の《疾風》や《雷電》など約三十機だった(※これは編成上の定数で実数はこれより少ないし、基地機には他の機体も存在した)。特に海軍機の場合は、辛うじて生産が維持されている各地の航空機工場が、まとまって送り出せた最後のまともな機体と表現して間違いなく、文字通り最後の母艦航空隊だった。
 それは日本本土で、本土決戦部隊編成のための根こそぎ動員が開始されつつあり、これにより最後の熟練した工員までもが兵隊(主に歩兵)に取られたからだ。この頃日本政府は、他者から見れば愚かの極みだが、彼らなりの愚直な真剣さで無茶な本土決戦を考えるようになっていた何よりの事象といえるだろう。

 そしてこの日本軍精鋭航空隊に挑戦したのが、第一波九十機、第二波六十機の約半数を占めていた《F6F》《F4U》だった。新鋭の《F8F》やジェット戦闘機はアメリカ本土で機種転換の真っ最中だったためこの戦いには間に合わず、研究者やマニアにとっては残念な事に日米最強艦載機同士の対戦はついに実現しなかった事になる。
 そして、総数一〇〇機以上の精鋭戦闘機に待ち伏せされた米艦載機隊は、いまだまともな統制迎撃ができない日本軍戦闘機隊を何とか突破するも、攻撃機隊の戦力はどちらも三分の一以下に激減していた。しかも、全体としての統制ができなかったため効果はほとんどなかった。辛うじて、空母一隻に爆弾数発、戦艦数隻に命中弾少数を認めたと、アメリカ側編隊長に報告させるだけに終わっている。
 むしろ日本艦隊の遁走中に最もポイントを獲得したのは、日本本土近辺を哨戒行動中の潜水艦《アーチャーフィッシュ》だった。水面下からの不意打ちによって、撤退途中の《信濃》への魚雷四本命中という大戦果を挙げているからだ。だが《信濃》は大打撃を受けるも、処置が適切だった事から速力十六ノット、通常航行辛うじて可能という損害で切り抜けている。もちろん判定大破の損害であり、そのまま生まれ故郷の横須賀のドッグに舞い戻っている。
 また、この迎撃に参加した日本側戦闘機の中には、硫黄島航空要塞に進出していた試作の新型機もいくつか実戦参加していた。その中には平成に入って大学生がレストアした機体が飛行して一躍有名になった、エンテ式の独特な形状の《震電》増加試作型一個小隊三機と、ドイツの技術により誕生したジェット戦闘機《橘花》が二機だけだがその姿があったと言われる。たった数機で数十機の米艦載機を血祭りに挙げたと日本側は高らかに発表し、アメリカ側の近距離無線やパイロット達の記録から、戦後ある程度事実だと認められている。しかし、《橘花》の機体そのものはその後地上戦で破壊されているらしく、資料もあやふやなため詳細は明らかになっていない。このため、《伊二十九潜水艦》による日独交流で日本に無事到着した機体《Me262》の一部を、そのまま使用したのだろうと言うのが現代での通説となっている。

 なお日本軍による砲撃開始後のサイパン島では、午前二時より第三十二軍の総力を挙げた反撃が始まった。戦車二個連隊を先頭に押し立てた三個師団を用いた敵海岸堡に向けての突進が、自軍の砲弾が降りしきる中開始されていた。
 第三十二軍の意図としては、アメリカ軍を一度海に追い落としてしまえば、最低でも数ヶ月の時間が稼げ、その間に日本本土では戦力の再編成が行われて、自分たちも次の襲来にも備えられるだろうというものだった。
 このため第三十二軍の攻撃は、ここですべての力を出し尽くすような激しさとなった。師団ごとに三つに分かれて南西部の浜辺向けて突進した第三十二軍主力は、戦車部隊を先鋒にして各所でアメリカ軍の前線を突破し、混乱の中かろうじて戦車部隊を集中させた米上陸軍と、日本陸軍の一個増強連隊(約一〇〇両)の戦車がオレアイの街跡郊外で激突した。
 そしてこの時の戦闘で、太平洋戦線で最大規模の戦車戦が日本側の砲撃戦のさなか発生した。総数二〇〇両以上の戦車が狭い島のさらに狭い平地を舞台にして殴り合いをする事になったのだ。
 ここでの戦闘は、それまでのように日本軍が一方的に撃破されるというものではなかった。M4対M4という、太平洋では極めて珍しい対戦も行われた。他にも日本側の三式戦車も自軍の先頭に立って米装甲車両に襲いかかった事など、日本側にまともな対装甲車両が多数含まれていた事と、「ロタ砲」と呼ばれる歩兵用の対戦車ロケットが配備されていた事などから非常に激しい戦闘になった。そして日本側の有力な対装甲戦力を予期できなかったアメリカ側の前線が一部崩壊し、両者入り乱れての戦闘が黎明近くまで続けられる事になる。
 日本側はアメリカ軍の防衛線を深く突き破り、橋頭堡の半分近くを破壊して作戦成功の一歩手前までいった。だが、反転してきた旧式戦艦部隊(第七艦隊)残余の近距離艦砲射撃によって、海岸部にまで迫っていた部隊が自己犠牲精神を発揮したアメリカ軍の一部と共に吹き飛ばされてしまう。さらにそこを残存戦車すべて(約二〇〇輌)を用いたアメリカ側の反撃が加えられ、攻勢に参加していた第三十二軍主力が大打撃を受けた。

 かくして第三十二軍が描いていた勝利の法則は、あと一押しの所で失敗を余儀なくされるばかりか、自らも攻撃部隊の三割近い戦力を喪失して、夜明け前に作戦は中止された。
 そしてこれ以後は、一部の戦車部隊の機動防御戦以外、次善の策として準備されていた強固な複郭陣地に寄った陣地固守戦を戦わざるを得なくなってしまう。
 だが、日本側の一連の反撃によるアメリカ側の損害も非常に大きかった。
 地上部隊指揮官のバックナー将軍の戦死を始め、上陸していた地上部隊の損害は30%近くに達した。しかも沖合で上陸準備をしていた第七十七師団は、輸送船団で待機していたところを、またも日本艦隊による一方的殺戮の憂き目にあい、師団の半数以上が逃げ損ねた輸送船と共に海没した。また同時に膨大な物資も失われている。
 この一連の戦闘だけで、同地域に襲来していた十三万人の米地上軍のうち三万人が短時間の間に戦死し、一万五〇〇〇人の重度の負傷者を出して一時的に侵攻部隊全体の攻撃力が失われた。それと共に、地上軍を支えるための戦略物資十五万トンが海岸堡の半分と共に失われ、揚陸した装備の半数も破損した。さらに撃沈された二十五万トン分の輸送艦船と共に多数の物資と兵員が何もせぬまま失われ、戦艦部隊の人的損害と合わせると、侵攻艦隊そのものまでが空母部隊を除き二ヶ月は半身不随に追い込まれてしまう。
 通常なら、撤退を考えなければならないダメージと言ってよいだろう。地上兵力量では、侵攻側の米軍の方が劣勢に立たされていたほどだ。
 しかし不退転の決意を持つアメリカ側は、テニアン島侵攻のためマーシャル諸島で待機していた陸軍一個軍団を、急遽サイパンに投入する事を決めた。さらにテニアン島攻略のための別の一個軍団を、東南アジア侵攻のため豪州で待機していた部隊から引き抜いての緊急輸送を取り決めてる。
 しかし三週間後にマーシャルに待機していた部隊が来るまで、サイパン島は日米双方の空襲と、地上での小競り合いだけが続くやや停滞した時を迎え、その間に歴史は大きな転機を迎える事となった。

 

 

■解説もしくは補修授業「其の弐拾弐」 

■フェイズ二三
 「ファイナル・カウントダウン」