■フェイズ二五「ノーザン・フロント」

●極東情勢の激変

 一九四五年八月六日、西欧での戦いには事実上の決着が付いた。だが、いまだ戦い続けている国も存在した。
 言わずと知れた大日本帝国とその交戦国、つまり連合国を構成するとされる五〇カ国近い国々だ。
 しかし、日本とアメリカ・イギリスを中心にした太平洋での戦いも、既に終末期を迎えていた。

 日本本土最後の防壁である、マリアナ諸島、硫黄島では激しい島嶼戦が展開されていた。
 長いところでは、一ヶ月以上も狭い島の一メートルの土地を争う激戦が続いていた。
 だが、日本の軍事力の枯渇から、あと一ヶ月もあれば南洋の島々は陥落もしくは無力化されると見られていた。そして、これらの島々に戦略爆撃機を運用する巨大飛行場が建設されてしまえば、日本本土を守る最後の城壁は取り払われるのは確実だった。
 もちろんここに至るまで連合国、いやアメリカが払った犠牲はアメリカの予測を大きく越えた甚大なものだった。だが、ここを占領してしまえば、戦争には実質的な決着がつくものと誰もが、そう日本人の多くすら考えていた。それは、偵察と嫌がらせのように散発的な爆撃や機雷投下のために日本本土に訪れるB29が、すべてを物語っていた。大本営発表の言う通り日本が勝っているなら、こんな事はあり得ないからだ。
 だが、その一ヶ月という時間、日本軍将兵の必死の抵抗が、単に日本の戦争だけでなく世界を揺さぶってしまう。

 四五年六月四日〜十二日、地中海のほぼ中間に浮かぶマルタ島で行われた連合国首脳の会談以後、ソ連の動きがおかしな方向に流れ出した事が強く影響していた。この時の会談でソ連の指導者ヨシフ・スターリンは、この会議で米英からアジア・太平洋は自分たちで山分けするのでオマエは首を突っ込むなと言われたと解釈したとされるからだ。
 これは、帝政ロシアが日本から受けた屈辱を晴らす事を重要な内政事項だと考えていたスターリンにとって、とうてい受け入れ難たかった。だからこそ、ごり押しで四五年中の対日参戦を米英に受け入れさせたのだが、このスターリンの姿勢は米英にいらぬ警戒感を抱かせた。またソ連を新たなライバルの筆頭と捉えていたアメリカは、別の思惑をもってこれを受け入れていた。
 このため、一九四五年に入ってからの極東情勢は二転三転する事になる。

 一九四四年夏頃のスターリンは、ドイツとの戦いが片付いてから極東での参戦を行い、アジアでの発言権獲得と勢力拡大を図ろうと考えていた。日本が南方に続々と戦力を送り込み、満州を始めとする極東地域の日本軍が、思いのほか弱体であると判明した事が原因だった。そしてスターリンは、スタカフと極東方面軍に対して、満州、南樺太、千島、朝鮮、北海道への進撃準備を極秘に命令した。
 この動きは、一九四五年春に入ると活発化した。シベリア鉄道で極東へと逆流する物資や兵の数が少しずつ増え、北極の氷が溶ける初夏になると欧州から極東に向かう船の数が増えた。海軍歩兵や空挺師団などドイツの戦いにそれ程必要とされない兵力の移動も少しずつ開始された。
 そしてこれらを踏まえての、マルタ島でのスターリンの対日早期参戦発言だった。しかし、実際のソ連軍の動きとスターリンの野望に警戒感を持ったトルーマンは、日本の戦力がソ連に向かう事は様々な意味においてアメリカに有利になると判断し、ロシア帝国が日露戦争で失った利権の復帰を約束して、ソ連の極東参戦を容認した。
 そしてアメリカは、すでに不仲の兆しが強く見えていたソ連の動きを、自分たちに都合の良いように利用しようと画策した。ソ連の情報を様々な裏ルートで日本にメッセージとして送り、次なるライバルの戦力を目減りさせるだけでなく、アメリカ兵の死傷者の数を少しでも減らそうとした。
 また、日本の政治中枢の一部は、中立条約を結んでいるソ連を仲介とした講和に一縷の望みを託していた。これを知っていたアメリカ政府は、アメリカに有利な幕引きに持ち込むためにも、この実体のない望みを断ち切ることも重要だと考え、ソ連対日参戦の情報を伝える一助となった。
 そしてこの効果は劇的だった。
 結果として日本中枢に与えた影響は、原爆を落としたよりも効果があったとすら言われた。
 しかし、ソ連参戦の情報を手にした日本は、当初は無視した。
 何しろ情報源は、どう考えても米英がからんでおり、そのアメリカは今まさに未曾有の大艦隊をもってマリアナ諸島へ再度の侵攻を行おうとしていたのだから、戦力を分散させるための謀略や欺瞞と考えるのが妥当、と言う意見が過半を占めたからだ。
 だが、情報が様々な方面から集まるようになると、その考えも改めざるをえなくなっていた。
 同盟国ドイツから送られてくる外交情報、関東軍からもたらされるソ連国境からの偵察報告、千島列島各地の守備隊がもたらすソ連艦船や兵力の動き、そのすべてが日本への軍事力行使を物語っていた。
 それでもソ連の行動は、米英への政治的付き合いのための脅しや圧力なのではと考えた者の方が多数を占めた。
 いや、日本の政治・軍事中枢は、敗亡しつつある帝国の現状を前に、少しでも有利な停戦への望みをかけてソ連との中立条約に妄信していたと言って良いだろう。
 しかし、この政府・軍部上層部の妄想を突き崩す事件が発生する。

 四五年七月六日夕刻、日本軍最北端の占守島を通過しようとしていたソ連海軍の艦艇と輸送船による船団が狭い海峡を通過した時に事件は発生した。
 現地で監視任務に当たっていた日本海軍の警備艇が、ソ連艦船が馴れない北の海での航海で不覚をとって領海侵犯したのを、形式的な意味で警告行動を行う。
 これが事件の始まりだった。
 普通なら「ああ、ご免なさい」と言う程度で済むはずの事件だったのだが、日本の行動に対してソ連軍艦艇(巡洋艦クラス)が発砲、漁船を改造したに過ぎない警備艇に抵抗する術はなく、『ソ連軍艦艇ヨリ攻撃受ク』という無電を打ち続けたまま撃沈されてしまう。
 この模様は、占守島守備隊からもよく見る事ができたため、陸軍の側からも正確な情報が大本営に送られた。しかも占守島守備隊は、海軍警備艇撃沈後、ソ連軍は島のすり抜ける際に艦砲射撃すら行ったという報告を送った。
 この報告を受けた大本営と日本政府は直ちに緊急会議を招集すると共に、真意を確かめるため、ソ連政府に対して型どおりの抗議を行った。
 だが、ソ連側は単なる事故、偶発事件だと言い張り、そのまま謝罪をすることも日本に謝罪を求める事もなく沈黙した。だが、日本の一部の人間はそうは受け取らなかった。
 当然だろう。

 なお、この頃日本政府は、一九四四年六月の日本本土空襲、四五年三月のパラオ陥落を受けて二度にわたり改造された第三次東条内閣で、首相・東条英機、外務大臣・重光葵、陸軍大臣・東条英機(兼任)、海軍大臣・米内光政という布陣で臨んでいた。そしてこれに、陸軍参謀総長・梅津美治郎、海軍軍令部総長・山本五十六が加わる。
 そして事件の数日後、これらの幹部による御前会議が催された。
 この会議上、ソ連に対する楽観論排除の流れが強くなる。また、御上の意向もあって、外務省はサイパンが保っているうちに英米に対する正面からの停戦を模索する機運が高まり、当面はソ連に対しても和戦両用の構えとする方針が固められた。
 このため、ソ連に対する念のための手当として、北への軍の移動が開始される。
 そして皮肉と言えば皮肉な事に、満州、日本海側、東北、北海道という地域が実質的にB29の活動圏外だった事、アメリカ軍がソ連軍に向かう部隊や物資の流れを積極的に妨害しなかった事もあって、兵力の移動はアメリカに対するものとは比較にならないぐらい順調に進んでいく。中華地域からの移動も、鉄道と徒歩による移動なので問題なく、八路軍(中華共産党軍)も積極的な妨害はしてこなかった。
 そして二ヶ月の間に目標の六割も目的地に配備できればと思っていたものが、移動を開始してみると一ヶ月後の八月初旬には兵力の過半の移動を終えている状態となった。
 これらの兵力の再配置により、四五年六月頃より「決号作戦」として進んでいた日本本土の防衛計画、「礼号作戦」として進んでいた台湾、沖縄方面防衛計画用での兵力移動の半分近くが対ソ戦備計画の「乙作戦」へと転用された。また44年冬から開始されていた中華地域奥地での「一号作戦」の大幅な計画縮小と、戦線の整理を目的とした一部撤退も平行して行われた。
 そして、満州から本土に向かうべく各港湾に向かっていた部隊の多くが、とんぼ返りで満ソ国境に戻っていった。
 華北にあった二個軍(四個師団相当)が満州へと鉄路移動した。朝鮮半島からも、防備が固められつつあった済州島などから三個師団が満州に入った。それ以外にも南樺太、千島列島にさらなる兵力が移動した。また、華北での移動に伴い華南、華中に展開していた支那派遣軍の精鋭部隊も、モンゴル方面からのソ連軍への対処と中華共産党に圧力を加えるべく華北や内蒙古地域に移動を開始する。一部はそのまま華北を通過して、満州へと入った。この結果、華南、華中での占領地域は最盛時の半分以下にまで減少。継続中の一号作戦は実質的に中断され、なし崩し的な支那撤兵のような様相を呈していた。ソ連が来る以上、支那にかまっている場合ではなくなったという本音が現れた結果だった。
 また、戦争が始まってしまえば軍にとって邪魔になる事が分かり切っている満州国境近辺の開拓団の疎開準備も、真実を伏せ別方面への徴用と疎開演習と言う形で、有事の際の疎開準備が進められていった。
 そしてこれらの努力により、たった一ヶ月の間で満州の大地には、数だけは約一〇〇万人もの大兵力が出現する。
 もっとも、大東亞戦争勃発以後の引き抜きで、精鋭師団の多くが南方に転進してしまっていた。近代戦に不可欠な戦車、航空機、重砲の数についても、致命的なまでに減少している関東軍に往年の軍事力はなかった。
 書類上では、三十三個師団以上が揃えらていたが、戦力単位の過半は限定的後方警備に使用できる程度の、いないよりはマシと言う程度でしかなかった。うち八個師団が、四五年七月から開始された根こそぎ動員による部隊で、まともな装備どころか満足な兵数もない民兵程度の新設兵団だった。その他の過半も、装備的には似たようなレベルだったことを例とすれば戦力の程度も分かるだろう。
 関東軍の参謀自らが、「案山子(かかし)的存在」と自虐的に揶揄するしかなかったほどだ。
 わずかな救いは、ギリギリで本土への移動が取りやめられた精鋭師団の一部(第十一、第二十五、第五十七師団など)と、支那、朝鮮から移動してきた師団、混成旅団がそれなりの戦闘力を持っていた事と、国境線各地の要塞にそれなりの数の守備兵力が配置できたぐらいだった。
 だが、もしソ連軍が本格的侵攻を開始したら、四四年に消極的方針に改訂された防衛方針をさらに後退させ、満州平原を完全に放棄し朝鮮半島から連なる山岳部での持久戦闘が関の山と考えられていた。
 だが、この「案山子」は、見事に「案山子」としての大きな効果を発揮する。
 大量の日本軍兵力が満州や華北地域に移動しているという情報は、漏れなくソ連の知るところとなっていた。だが、急速な日本軍増強を知った猜疑心の強いソ連指導部は、ノモンハンでの日本側の決死の戦いの記憶がダブった事もあり、十分な兵力が揃うまで、つまりドイツとの戦いの決着がつき、その兵力が極東に揃うまで満州での戦端は開かないという方針を打ち出したからだ。一方で、何とかして有利な場所で日本との戦争を起こし、対日参戦の既成事実を作り上げて、極東での戦争の果実を得る方針も同時に打ち出していた。
 つまりは、日本側の泥縄式の満州防衛計画が、日ソ限定戦争を誘発したもうひとつの原因と言えるだろう。

 

●オホーツク戦域

 ソ連が戦端を開く事が可能だと考えていた南樺太・千島地域の日本の防衛だが、南樺太はもともとソ連との中立条約があったため、戦争から最も遠い場所と考えられ戦闘部隊もわずかだった。四四年十一月末に、ようやく樺太混成旅団を編成。さらに四五年二月末日に、樺太混成旅団を基幹として第八八師団が新編されたに止まっている。
 しかし四五年七月に、急遽有力部隊の移動が開始される。北海道に司令部を構える第五方面軍は、既存の五個師団以外に満州から関東地方に行く予定だった戦車第一師団を中心に三個師団が鉄道と日本海周りで増援された。南樺太には、帯広にあった精鋭第七師団が、戦車第一師団から先発していた一個戦車連隊と共に横滑りで移動する事になり、八月初旬の南樺太の兵力は約五万人にまで増大していた。
 そして、第八十八師団は国境近辺での徹底防戦、第七師団と戦車連隊は豊原を中心にした機動防御で樺太を守る事になる。
 これに対して千島列島の防衛は、第八九、第九一師団を中心に約五万人が南北に分かれて配置についていた。
 もっとも、アリューシャン列島方面からアメリカ軍の侵攻が予測されていた占守島方面の防備は、ソ連に関係なく以前から重視されていた。
 そして早くから戦車連隊を含む重装備の部隊が配置についていたので、ソ連軍の強襲揚陸能力を考えれば大きな増援は必要ないとされた。一部の新型装備が本土の工場から運ばれた他は、弾薬などの物資が追加で送られた以外大きな増援はなされていない。
 また、それらの兵力よりも重要なのは、海軍ほど消耗していない陸軍航空隊の一個飛行集団が、関東から北海道に送り込まれた事だろう。
 そして海軍も、現地制空権を守るために一連の戦闘で消耗していた「三四三空」を新千歳に再編成も兼ねて送り込み、これによりオホーツク沿岸には総数三〇〇機近い航空機が配備された事になった。これら増強により、少なくともアメリカ軍と戦うよりは分があると見られていた。
 そして、日本軍の北への備えの象徴が海軍だった。
 当時日本海軍は、アメリカ軍の爆撃を避けるため、空母部隊が若干の戦闘力を残したまま舞鶴、新潟などに待避していた。また、燃料不足から呉や横須賀などで防空砲台と化していた戦艦の多くも燃料と多少の時間さえあれば稼働状態が維持されていた。
 このうち状態のよい艦を見繕って艦隊を編成し、日本海北部及びオホーツク海に送り込むべしと軍令部総長の山本五十六が指令をだした(※山本が総長に就任して以後、軍令部の力が俄に強くなっていた)。この命令により、第二次マリアナ沖海戦での傷を癒していた第二艦隊に、七月半ばに本土に何とか南方から帰り着いた護送船団がもたらした燃料が優先的に補給され、慌ただしく出撃していく事になる。
 なお、戦端が開かれれば、日本海に疎開している第三艦隊投入も決定され、これについては万が一戦端が開かれた際にいつでも行動できる態勢を維持するという姿勢のまま現状待機となっていた。
 以下がその編成だ。

 第二艦隊(呉→日本海経由→北海道方面)
 (宇垣纏中将)
戦艦:《大和》《武蔵》
重巡:《利根》
軽巡:《矢矧》
防空駆逐艦:《冬月》《涼月》
駆逐艦:《島風》《朝霜》《初霜》
    《雪風》《磯風》《浜風》
    《霞》《響》《潮》

 第三艦隊(舞鶴)(山口多聞中将)
空母:《瑞鶴》《葛城》(艦載機:約八十機)
重巡:《摩耶》
軽巡:《伊吹》《酒匂》
防空駆逐艦:《若月》《春月》《満月》
護衛駆逐艦:《桜》《楓》《梓》

※他に戦艦八隻、大型空母三隻、他多数が呉を中心に健在だが、修理中か燃料不足もしくは横須賀在泊のため本作戦には参加していない。

 一九四五年八月九日、モスクワ時間八月八日十七時丁度(日本時間二十三時)、モロトフ外相は佐藤駐ソ大使に宣戦を通告する。だが、満州、朝鮮地域は、「正統な」現地政府ならび現地民族の事を考慮し、日本政府を打倒した後に解放を行うとして侵攻しない旨も伝えられた。
 それが、奇妙な戦争の始まりだった。
 そして八月九日午前零時、中立条約がまだ効力を残していた国に対する戦争行為が開始される。
 だがソ連軍の行動は、現地部隊に対しては奇襲攻撃にはならなかった。
 第五方面軍を中心にした現地日本軍は、ソ連が考えていた以上に戦争準備態勢を整え、いつ戦端が開かれてもすぐに行動に移れるような態勢を、連合国内でソ連がドイツに単独で戦争を続けている状態に入ってからずっと続けていた。これは、ソ連が連合国から事実上はみ出して戦争を行いだした時点で、なし崩しに日本との戦争を開始するのではと日本中が恐怖していた故の行動であった。そして、この当時の日本陸軍の特徴の「独断専行」という悪しき習慣の結果でもあった。
 この象徴が、ソ連側の無線動向と、オホーツク、ソ連国境近辺に放たれていたなけなしの偵察機、数少ない電探監視哨が、その頃からソ連軍の兆候を独自にキャッチすると戦闘態勢に移行していたと言う事にもなるだろう。

 戦闘自体は、樺太の日ソ国境で開始される。
 午前一時に国境全線でソ連軍の砲火が火蓋を切り、総数三〇〇門近い重砲が黎明まで日本軍陣地に無尽蔵と言える砲撃を仕掛けた。また、アムール川河口に集結していた艦隊も南樺太に押し掛け、強襲上陸にこそ出なかったが、艦砲射撃を行うなど、大きなプレッシャーをかけていった。制空権を求めた航空戦力の動きについては言うまでもないだろう。
 樺太の日ソ国境に押し寄せたソ連赤軍は、一個独立戦車旅団を先頭に押し立てた三個狙撃師団(+一個砲兵旅団)だった。過半が独ソ戦線に投入されているソ連極東軍としては、自らの手元にある最良の戦闘集団で、その総兵力は六万人に達していた。
 これに対して、防戦に当たった日本陸軍第八十八師団は、南方での戦訓を踏まえて国境線を可能な限り縦深のある野戦要塞化して持久を図ると共に、敵に出血を強いる事になっていた。
 また赤軍は、ウラジオストクと樺太対岸の沿海州にあるソヴェツカヤヴァガニからも、海軍歩兵一個師団規模と一個狙撃師団、そして一個空挺旅団による、南樺太南西部沿岸の塔路と真岡に強襲上陸と空挺降下を予定していた。
 この作戦は、輸送船舶集結の遅れから八月十二日に開始される予定だった。アムール川河口から間宮海峡を南下してきた戦艦部隊も、この支援艦隊だったのだ。
 だが、ソ連赤軍による樺太南部への強襲上陸作戦は、ついに決行される事はなかった。

 八月十日黎明、九日にウラジオストックを出航したソ連軍南サハリン侵攻船団は、日本海上で樺太・千島救援のため舞鶴を緊急出撃して北上を続けていた第三艦隊の偵察機に捕捉されてしまう。それがソ連にとっての破局の始まりだった。
 この時第三艦隊は、空母二隻に正規空母一隻分の艦載機しか持たないため、アメリカ艦隊との戦闘など思いもよらなかった。だが、弱体のソ連海軍しかいない日本海では、海面下からの攻撃さえ考えなければ最強の存在だった。
 司令官だった山口提督も、このソ連艦隊に対して躊躇無く全力攻撃を命令。《烈風》《紫電改(四一型)》《彗星三三型》《流星改》を主力とした二波七十機というほぼ全力で攻撃を行う。
 そして、アメリカ軍に比べて貧弱極まりないソ連艦隊の対空砲火をあざ笑うかのごとく、一方的な戦闘を展開。その後も、日没まで接近しつつ五波にわたる執拗な攻撃を続け、約四十隻・二十万トン分あったと見られるソ連輸送船の過半を大破・撃沈した。そればかりか、護衛の大型巡洋艦も一隻撃沈、一隻大破、駆逐艦など小艦艇の何隻かにも大きな損傷を与えるか撃沈した。しかもその間、艦隊の方では不用意に接近した不明潜水艦1隻(恐らくソ連海軍艦艇)を撃沈した。
 これに対して第三艦隊の損害は、着艦時の破損・失敗を含め艦載機四機損失に過ぎなかった。
 攻撃した側の日本軍パイロットが戦後証言したように、まるで射的大会のようだったと言われるほど稚拙なソ連海軍の防空戦闘によって文字通りの殲滅戦が実施されたのだ。
 近年稀に見る日本軍の一方的な勝利で、犠牲も少なかった事から士気も大いに上がり、第三艦隊は潜水艦と沿海州方面からの空襲を警戒しつつそのまま北上を続けた。
 そしてその北の海では、もう一つの日本艦隊がソ連軍に牙を剥いていた。

 ソ連軍侵攻の際の奇襲攻撃を避けるため、因縁深き択捉島・単冠湾を拠点にしていた第二艦隊は、燃料問題もあって配置後はほとんど動きがなかった。しかし、ソ連軍侵攻開始の報を受けるとただちに単冠湾を抜錨、敵に対処するため艦隊を二手に分けた。この時、艦隊主力は南樺太・亜庭湾の敷香近辺を目指して西進し、分艦隊は千島列島北端・占守島防衛のため進路を北にとった。、
 そして八月十日に《大和》を中心とする第二艦隊主力は、稚内に進出した航空隊の援護を受けながら第八十八師団を細切れに粉砕しつつあるソ連地上軍に対して、同師団からの敵状報告に従って手当たり次第に艦砲射撃を開始した。これに対して、未曾有の巨砲による艦砲射撃など全く予測していなかった現地ソ連軍は、今まで体験したこともない大口径砲によって前衛部隊の半数近くが緊急待避した簡易壕ごと消え去り、東側一帯の部隊が壊滅したた事で軍団全体の突進力も失ってしまう。
 なお、これをある程度具体的に言えば、亜庭湾から二十五キロ以内の陸地にあるソ連赤軍が、約一時間ほどの間に砲撃だけで壊滅したと言うことになる。そして四十六センチ砲の破壊力は、直撃すれば簡易塹壕程度で凌げる存在ではなかったし、日本軍追撃中のため野ざらしの状態で殲滅された部隊が続出しため損害も大きかった。
 この間第八十八師団の残余は、避難民を優先的に後送し、遅滞戦闘を行いながら南樺太の狭隘な部分への戦術的後退を行った。第二艦隊の方は、日本艦隊撃滅に躍起になったソ連空軍を、付近に存在する日本側航空隊との協力でしのぎつつ、陸上での戦線安定化を見届けると、一旦は支援船が来ている石狩湾までの後退を開始した。
 もっとも、ソ連空軍の対水上攻撃は稚拙の一言に尽き、撃墜機多数に対して、命中弾は至近弾すら僅少でしかないと報告された。
 それまでイヤという程アメリカ軍の攻撃を受けた将兵にすれば、『ヘタクソ』と指を指して笑いたくなるような状態だったと言われている。

 一方《武蔵》を主力とする分艦隊は、《武蔵》以下駆逐艦三隻という小艦隊ながら《武蔵》艦長の大胆な発案に従い、現地ソ連軍の攻撃発起点であるペトロハバロフスク・カムチャッカスキーに八月十日深夜艦砲射撃を仕掛けた。同港で侵攻準備していたソ連軍船団に大きなダメージを与えると共に、現地を大混乱に陥れる。
 これに対してソ連軍は、対艦攻撃のための有力な装備がない事、そもそも対艦攻撃の経験がない部隊が過半という状態のため、突如出現した《武蔵》にほとんど何も出来ないまま取り逃がしている。
 要するに、巨大戦艦を相手の戦闘など、ソ連海軍、ソ連空軍共にまともに想定していなかったのだ。
 そして日本艦隊は八月十二日には、第二、第三両艦隊のすべてが合同して戦闘を行える態勢を作り上げていた。
 いっぽう、潜水艦以外有力な海上戦力もないソ連海軍、対艦攻撃のための装備が少なく洋上での訓練が不足するソ連空軍は、何度か攻撃を試みるも決定的な効果はなく、事実上この「大」艦隊をどうすることもできなかった。
 しかもこの時の現地ソ連軍は、突然出現したとしか見えなかった日本艦隊の前に翻弄され、正確な情報をほとんど持っていなかった。
 その具体的な例が、《大和》一隻がカムチャッカと南樺太双方を破壊したと勘違いしていた事と、日本海での惨劇は機動部隊によるものではなく、基地航空隊によるものと誤断していた事になるだろう。
 そしてこの錯綜した情報が、第二次世界大戦最後の海戦を誘っていく。

 北海道・石狩湾に再集結した第二艦隊及び北上してきた第三艦隊は、現地航空隊と合同の総攻撃を企図した。また、これに呼応して増援を加えた南樺太守備隊も総反撃を行う事になり、日本海軍最後の艦隊は沿海州と南樺太に挟まれた狭隘な海域への進撃を開始する。
 これに対して、樺太対岸の沿海州のソヴェツカヤヴァガニ付近に全ての水上艦を集結させていたソ連軍は、残存部隊すべてを用いて南樺太に対する強襲上陸作戦を決定する。そして、現地地上部隊すべてに対して、宗谷海峡に達するまで停止する事を許さないとするスターリンからの絶対命令は発せられていた。
 そして双方の思惑が合致した地域が、真岡と呼ばれる南樺太南西部にある港湾都市であり、その沖合十二キロの場所で双方の艦隊は鉢合わせした。
 日本側は、第二艦隊に第三艦隊の大型艦を加えたほぼ全力で、ソ連艦隊が《アルハンゲリスク(英:ロイヤル・ソヴェリン)》《ガングート》《セヴァストーポリ》と駆逐艦数隻から構成されたものだった。
 また真岡上空では、日本側の航空隊がソ連側が無理矢理送り込んだ空挺部隊と鉢合わせして、激しい戦闘が発生しており、規模はともかく密度と凄惨さにおいて大戦屈指の戦闘がここに発生する。
 そしてこの混乱を助長したのが、第二艦隊旗艦となっていた《武蔵》触雷だった。触雷はソ連海軍が上陸作戦直前に敷設した機雷によるものと見られ、右舷艦首付近を大きく損傷した《武蔵》は戦線離脱を余儀なくされる。そして、日本第二艦隊の統一指揮は、次席指揮官への正式な委譲が成されないまま砲雷撃戦へと雪崩れ込んだ。
 水上で最初に発砲したのは、当然と言うべきか日本側だった。
 距離三〇〇〇〇メートル、電探と光学照準を併用した正確な砲弾がソ連艦艇に降り注ぐ。その後は、三隻の旧式戦艦が守る攻略船団に対して、《大和》以下の日本艦隊が突進するという、南方で何度も発生した戦闘の縮小再生産が北の海でも出現される。
 しかしそれは、アメリカ軍との戦闘とは違って一方的だった。英国から貸与された《アルハンゲリスク》は、距離二万三〇〇〇を切る頃に四十六センチ砲により洋上のスクラップに変化し、《武蔵》が損傷を押して戦列に復帰するとソ連艦隊の統制は消滅した。その後は、レイテ沖での再現に他ならなかった。
 ここでソ連海軍は、三隻の戦艦とその他約十万トンの艦船すべてを失い、強襲上陸する筈だった六千名の兵士を含め一万人以上が殲滅されていた。また、空戦の合間をぬって何とか降下したソ連側空挺兵(実数数百名)は、何の支援を得られないまま守備側の第七師団の一部に追い回され、一部の兵士がゲリラ活動に転じた他は何も成さないまま軍事的価値を失っている。

 その後、何とか維持されている制空権のもと、樺太のソ連赤軍に対して第二艦隊残余すべてが激しい艦砲射撃を行った。また、付近海域に侵入した第三艦隊も、残存機すべてを投入しての制空任務と対地攻撃を行う。
 そして、限定的な制空権と制海権を得ると、豊原近辺での待機状態から解放された第七師団を中心とする約三万人の陸軍部隊が第八十八師団の残余が守る戦線に到着し、戦車第一師団から増派された戦車連隊を先頭に突破戦闘を開始する。
 この攻勢により、ソ連側の戦線が崩壊した。既に軍団司令部が無線標的による艦砲射撃で失われ、指揮統制が一時的に消滅した現地ソ連軍はそのまま潰走状態に移った。日本軍は、数年ぶりに制空権と制海権が維持された戦場で、猛烈な速度の追撃戦を行う事になった。
 そして日ソ間で停戦の成立する九月八日までに、樺太にあったソ連軍主力は、かつての日露戦争の樺太守備隊とほぼ同じ場所で降伏を余儀なくされた。加えて、戦線安定化のためさらに進撃を続けた日本軍は、樺太全島の制圧にすら成功していた。

 いっぽう《武蔵》により出鼻大きく挫かれた千島侵攻部隊は、敵よりも味方(正確には政府中央)を恐れるあまりに無理矢理占守島への侵攻を行った。
 だが、八月十七日に強襲上陸をしかけようとした兵力も予定より遙かに少ない一個旅団程度(約五〇〇〇名)に過ぎなかった。しかも、作戦前に多くの装備を船舶ごと失っているため、揚陸機材も装備も貧弱で兵力も逐次投入するしかなかった。対して、現地を守備する日本陸軍は、アメリカ軍に備えるため日本陸軍の中にあっても優良な状態を維持していた部隊だった。
 水際での戦闘は、日本軍優位に進展した。ソ連軍上陸第一波、第二波は激しい銃砲撃により水際で撃滅されて、ここまでにソ連側は約半数の兵力を失ってしまう。
 その後日本軍の弾薬不足による反撃密度の低下から、何とか橋頭堡を確保した上陸第三波も、突如現れた少数の日本軍機がカムチャッカ半島側の空襲を行って、数日前に《武蔵》が行きがけの駄賃とばかりに焼き払った後に何とか再構築されたデポ(物資集積所)が再度大きなダメージを受けたため後方からの支援と補給を失った。しかも、その翌日の深夜二時半には、現地に駐留する日本側唯一の装甲戦力である第十一戦車連隊主力の夜襲を受けると壊乱状態に陥り、せっかく確保された橋頭堡も粉砕され、兵力の過半を失って占守島から叩き出されてしまう。
 そして、日本側の樺太・千島防衛戦が初戦で見事なまでの成功を収めた頃、世界が大きく回天していた。


 

 

■解説もしくは補修授業「其の弐拾五」 

■フェイズ二六「カーテン・コール」