■フェイズ二六「カーテン・コール」
●日本本土攻撃
一九四五年夏、大日本帝国と呼ばれる国家は断末魔の瀬戸際だった。 かつて、インド洋から日付変更線の向こう側にまで膨脹していた広大な戦線も、大きく縮小していた。縮小した戦線も、マリアナ諸島、東南アジア東端部、ビルマ北部、支那大陸、そしてオホーツクなど数多くの戦線を抱えているが、そのほとんどが防戦一方だった。地区によっては、あと一ヶ月の組織的抵抗ができれば御の字というところも多数存在した。 特に懸案だったのが、マリアナ諸島と硫黄島だった。ここでの戦闘で日本側の勝機が過ぎ去った事は、同地域があと数ヶ月でアメリカ軍最大のストロング・ポイントに変化し、さらに数ヶ月でここを利用するB29によって日本本土が灰燼に帰す事を示していた。 幸いにして今のところ、B29の出撃拠点が補給困難な支那奥地か基地規模の小さなパラオ諸島南部でしかないため、日本本土への圧力は低かった。受けているダメージも、パラオからの機体が西日本各地にせっせと機雷を投下している事を考えなければ、戦略爆撃という視点では日本国民に対する厭戦気分の醸成という要素だけを満たした、壮大な嫌がらせの域を出ていなかった。しかもアメリカ軍が受けている損害も、主に空路を消化する途上での消耗によって通常の許容量を超えていた。 しかし日本の現状は、ドイツの抵抗力が大きかった事、日本近辺での出撃拠点が限られ、生産されたB29のかなりが欧州方面に送られていたからこそ、この状態が現出していたのだ。だが、マリアナ諸島や長距離戦闘機が出撃可能な硫黄島がアメリカの手にわたった時点で状況が一変するのは間違いないと見られていた。 いや、確実と考えられていた。 しかも、日本の生命線である海上交通線は、途絶の一歩手前だった。サイパン、レイテでの勝利がなければ、最重要航路である南方航路が既に途絶していたのは間違いなかった。 だが、戦場で、決戦でいくら勝利しようとも、米潜水艦群の脅威が長期的に減る事はなかった。 これに対抗すべき護衛艦隊と対潜哨戒機群は、南方航路を辛うじて維持するのが限界だった。しかも、この辛うじても、日本本土に帰り着く南方からの商船が、四五年七月の段階で送り出した20%未満だったと言えば状態が分かるだろう。タンカー一隻が無事帰ってきただけで、万歳三唱が起きたほどなのだ。 もちろん、様々な鉱産資源や各種食料を輸送する最後の生命線たる満州航路は、日本海を利用する事で辛うじて安全が保たれていた。だがパラオに陣取るB29が、爆撃ではなく航続距離の届く限りの西日本沿岸や港湾に手当たり次第に様々な機雷を散布するようになると、アキレス腱ではなく直接首筋を締め上げるように日本の海上補給線を根本から破壊していった。 機雷のためだけに廃港になった港湾は、日増しに増加していた。これは、博多や神戸といった巨大港湾も例外ではなかった。関門海峡も事実上機雷で封鎖された。日本の技術力では、アメリカ製の一般的な機雷(磁気機雷など)であっても、有効な掃海作業ができないのだ。 辛うじて裏日本や東北、北海道地域が、機雷からも安全だったため満州航路は維持されていたが、これもサイパンや硫黄島が陥落すれば他と同じ状態になるのは目に見えていた。 つまり一九四五年夏の日本は、まさに敗亡の一歩手前と言える状態だったのだ。
いっぽう連合国軍の方でも、様々な情報収集から日本本土の状態はほぼ正確に掴んでいた。 海軍主導による日本の通商路に対する様々な締め付けと機雷投下により、日本の生産力は急速に休止状態に追い込まれつつあるというレポートも提出されていた。レポートによると、ドイツのような都市無差別爆撃も本土地上侵攻も必要ないと結論されていた。 原料の届かない工場など、ただのモダンアートに過ぎないし、食料を自給できない国家は、戦争継続どころか国家維持すらできないからだ。 そして無差別爆撃をしようが、海上封鎖を続けようが、このまま戦争が推移すれば一九四六年夏には日本の国家体制の崩壊が始まり、その半年後には日本国民の三割が飢餓線を彷徨うようになるだろうと言う結論に変化はなかった。 また一方では、パラオ方面から続けられたB29などによる詳細な偵察により、日本本土の防空体制は、特に夜間が予想よりずっと低い事が判明した。つまり、大量の爆撃機を揃えた低高度飽和爆撃を行えば、これを阻止する戦力は日本側にはなく、簡単に日本本土の工業力を直接破壊でき、無差別爆撃により厭戦気分を醸成できると言う、陸軍航空隊(戦略爆撃兵団)のレポートも提出される。 だが、政治的要素以外に無差別爆撃の意味はないとして海軍が強く反対した。これに陸海軍の対立が再燃して問題をややこしくして、四五年夏に画期的な新兵器開発の目処が立った事で、偵察と機雷投下以外の日本本土侵入は不要と大統領が決断を下すことになる。 だが反対に、陸海軍には、いかなる犠牲を払おうともマリアナ諸島主要部と硫黄島を攻略すべしとの厳命が大統領から下された。画期的な新兵器を効果的に使用するためには、是非とも必要な場所だったからだ。
●原子爆弾
一九四五年七月二十三日、アメリカはついに神の力を獲得した。 そう、原子爆弾が完成したのだ。 ネヴァダ砂漠での実験の成功は、二十億ドルという膨大な資金とアメリカの広範な基礎工業力、そして世界中の優れた頭脳が結集して生み出した、科学的には素晴らしいと表現してよい成果だった。しかし、最新の科学が生み出したものは、「悪魔の兵器」もしくは「神の力」と言わしめる存在であり、それまでの戦争を一変させる強い心理的衝撃と物理的破壊力を持った兵器だった。 破壊力にして、通常火薬の一万五〇〇〇トン分の威力、たった一発で都市をまるごと一つ壊滅させる事のできるこの新兵器は、戦争をすぐに終了させる事ができるのではないかと思われるほどの破壊力を持っていた。 少なくとも、ネヴァダ砂漠での実験をその目で見たすべての人々はそう感じただろう。 なお、枢軸国側がこの爆弾開発を計画的に阻止したという記録がないのも開発が順調だった理由の一つだった。 唯一、枢軸国側の行動で原爆開発を効果的に妨害したのが、日本が純軍事的には嫌がらせでしかなかった唯一の米本土戦略爆撃(?)である「風船爆弾」だ。一九四四年十一月〜翌年四月までに約九千個放たれた「風船爆弾」は、ジェット気流に乗って約三百個が北米大陸に落着。そのうち一つが偶然に原爆製造施設の送電線を故障させ、原子爆弾製造を三日間遅らせたのが戦略的な意味での「戦果」だった。 日本伝統の手工業品である和紙と蒟蒻でできた風船が、先端科学の粋を結集した原爆開発を遅らせたという事件は、戦争というものにこれ以上ない皮肉を感じさせる神の悪戯と言えるだろう。
しかし、せっかく画期的な新型爆弾が完成したその時、すでに戦争は終末段階に入っていた。八月初旬には、欧州か太平洋に数発が配備可能であるにも関わらず、投下場所がなかなか決定しなかった。 なにしろ戦争は終末段階とは言え、日本もドイツもいまだかなりの抵抗を続けていた。しかもドイツは、ジェット戦闘機をかなりの数実戦配備しているので万が一の事態を考えると安易に投入できなかった。日本の方は、自軍の基地と爆弾重量の関係で、B29ですら投下できる場所が日本本土に対しては極めて限られた。そして何より問題だったのは、どうしても原爆を使用しなければならない理由が政治的要素以外に特に存在しない事だった。 だからこそ、事態は大統領に委ねられた。 そしてトルーマンが決断するまでに、ドイツではヒトラーが死亡しドイツとはいつ停戦するのかという状態で使用する理由が消滅してしまい、残る日本への使用が決定される。 また、この頃アメリカ軍は、『オペレーション・コロネット(王冠作戦)』という作戦名称のもと、いよいよ日本本土の前段階である沖縄への侵攻を開始しようとしていた。この戦いは単に日本本土を効率的に攻撃するための前線基地の確保が目的なばかりでなく、日本本土戦侵攻の前哨戦という意味もあり、アメリカ側もかつてない程の戦力を集める予定だった。 だが、マリアナ諸島、硫黄島で思わぬ苦戦を強いられたため作戦が伸びた。作戦は当初九月に予定していたのが、上陸兵力の手当が付かない事と気候的な問題(=台風)が重なって十一月以降に延期されていた。そしてこの間に欧州、日本近辺での国際的政治環境の変化により、結局この作戦は発動されることなく、幻の作戦と呼ばれるようになる。 だが、沖縄に対する攻撃が全く中止されたかと言うとそうではなかった。侵攻の前段階として、また日本に降伏を即す決定打の一つとして、同地域の主要軍事拠点にこの新型爆弾(原子爆弾)を使用する事が決定されたのだ。 新型爆弾は、一度で良いから是非とも人間の上に投下され、世界中のライバルに見せるべき存在だったからだ。
一九四五年八月六日、ドイツと連合国との停戦が成立したその日、ペリリュー基地を離陸したB29「エノラゲイ号」は、多数の陽動機と共に沖縄を目指し、迎撃に現れた日本軍機が陽動機に気を取られている間に、数機の随伴機と共に沖縄本島上空に高々度から到達した。 そして午前八時十五分、投下された原子爆弾「リトル・ボーイ」は、沖縄本島のほぼ中央部で火薬とはまるで桁の違うエネルギーを放出する科学現象引き起こす。 これにより沖縄のほぼ真ん中にある嘉手納にあった、近隣最大規模の日本軍航空基地は瞬時に壊滅する。大西瀧次郎中将以下、即死者五〇〇〇人以上など多数の死傷者と、航空機約一五〇機を含む甚大な損害が発生した。それはまさに、抵抗を無意味とする程の破壊力だった。 「嘉手納基地、消滅セリ」この報告は日本全土を揺るがした。そしてこれを直接的なショックの一つとして、日本政府は停戦へと強く傾く事になる。 そして効果に満足したアメリカは、さらなる第二弾、第三弾の準備を始める。アメリカ本土では、爆撃用の爆弾予算の一部を原爆予算へとシフトした。後は、日本が両手を上げるまで落とし続ければ良いだけなのだ。そしてアメリカは、月産二個の原爆生産が可能な体制が整えられつつあった。 だが、二発目の投下準備していたペリリュー基地は、作戦決行前日の八月八日、突如防空識別圏内深くに識別不明機十数機を確認する。 アメリカ軍が適切に対応する間もないまま、低空から基地上空に侵入した液冷式のフロート付水上爆撃機群は、特攻と思われる自爆を交えた激しい攻撃により、基地施設と駐機していたB29群に大きな損害を与えた。そしてこの爆撃で重要だったのは、恐らく偶然から原子爆弾貯蔵用の格納庫が一部破壊されて、基地中が大騒ぎとなった事だ。そして、この攻撃と攻撃がもたらした混乱によって、第二弾の投下は爆弾の安全と装置の信頼性が確認されるまで一週間延期されてしまう。 そしてその間に日本との停戦が成立し、アメリカが計画していた九州南部(どこかの都市を予定していたと言われる)に対する第二弾投下は遂に行われることはなかった。 さらに幻の第三弾は、日本軍潜水艦の活躍によって、米本土からの運搬に当たっていた重巡洋艦《インディアナポリス》と共にマリアナ海溝奥深くに沈んだと言われている。これが確かなら、原爆の第二、第三の投下を阻止したのが、共に大戦中盤以降苦杯をなめ続けていた日本海軍の潜水艦だったという点が、奇妙な偶然と言うべきだろう。 なお、ペリリュー基地を爆撃したのは、日本海軍が開発した秘密兵器「潜水空母」複数による「潜水機動部隊」だった。この「潜水機動部隊」は、《伊四〇〇型》三隻、《伊二十一型》二隻で編成され、これら五隻から発進した特別水上爆撃機《晴嵐》十三機が作戦に参加している。もう片方の《インディアナポリス》撃沈は、アメリカ軍側の作戦の極秘性から謎が多く、通常では《伊五十八》による戦果とされる。だが一部には、極秘任務に就いていた巨大Uボートが関わっていたなど、奇妙な異説も存在している。
●日本停戦
戦争の時間は、そろそろ終わらせねばならない。 一九四五年八月第二週に入ると、世界中のほとんどの為政者と識者はそう考えるようになっていた。 そしてある種滑稽な事に、一刻も早く戦争を終結させるべきだと考えていたのが、この時世界の半分以上の国力を持っていたアメリカ合衆国中枢部だった。 アメリカが焦ったのには、大きな理由があった。 日本がいまだ絶望的な抵抗を続けているのに、その後ろでチャイナを含む東アジアでの影響力を可能な限り強めようとするソ連・共産主義勢力の蠢動があったからだ。 事実ソビエト連邦は、ドイツといまだ激しく戦い続けているにも関わらず、国際条約を事実上違反までして、四五年八月九日には日本と限定的ながら戦端を開いていた。また、支那内部の中華共産党は、延安を起点に華北地域で勢力拡大を続けていた。しかも七月からの日本軍の大幅な移動によって、日本軍の空白地帯で国民党軍と共産党軍は対立状態を再燃化。すでに一部では、勢力争いによる小規模な武力衝突が始まっていた。加えて国民党は、日本軍の追撃はおざなりであるにも関わらず、共産党を出し抜く事には殊の外熱心だった。なおこの時点での戦況は、アメリカからの援助により戦力と軍備に優れる国府軍が優勢だったが彼ら自信の悪政のため民意がなかった。それに引き替え共産党は、ゲリラ戦が得意で農村部奥地への後退戦術を採っているだけで、まったく油断がならなかった。 以上の事件は、戦争の果実が他人の手に渡ろうとしてた何よりの前兆であり、アメリカにとって英国人のようにブラック・ジョークとして笑っていられる事態ではなかった。 しかも日本との戦争で主要という以上の役割を果たしているアメリカは、すでに太平洋戦線だけで二十万人以上の戦死者(約二十三万人)を出していた。支那の国民党軍、つまり蒋介石には、十億ドル以上の無償支援をしていた。二つの事象は、アメリカから見ても過剰な損失と投資だった。 そして、このままアメリカが日本との死戦を続けている間に、手に入る筈の物をすべてを共産主義者にかすめ取られかねなかった。 しかも、このままドイツ、日本との戦争が推移したら、翌年四月頃にはソ連赤軍が満州に大挙侵攻するのは目に見えていた。 加えて、海軍力のないソ連が単独で日本本土に押し入る可能性はまだ低いが、まったく楽観できなかった。アメリカが日本列島に対する圧力を強めれば、日本の海空戦力そのものがアメリカによって壊滅するだろうから、ソ連の侵攻を遮る者もいなくなると考えられたからだ。自分たちが死山血河の末にトーキョーを占領した頃には、日本列島の北から『同志達』が握手を求めてくるだろうという情景が容易に想像された。 どう考えても、大戦略的にこれ以上アメリカが日本と戦うことに意味は感じられなくなっていた。 そしてここに至って、アメリカは気付いた。 日本列島は、共産主義と大陸勢力の拡大を防ぐための堤防であり、堤防が決壊するればどうなるかは水もイデオロギーも同じなのだ。そして堤防は、早々に自由民主主義によって補強されなくてはならない、と。 アメリカ政府上層部がそう結論したのがマルタ会談の頃であった。そしてこのため自らの圧倒的優位で日本を講和のテーブルに着かせるための軍事的行動が、マリアナ、硫黄島への強引な侵攻と、ここを利用しての日本本土に対する原爆使用だ。それらによって、日本を早期降伏させるのが最終目的であったのだ。
だが、マリアナ諸島でも硫黄島でも、日本軍は善戦を続けていた。アメリカがせっかく敷いた戦争終結への道のりは、日本軍の手によって阻止されつつあった。しかもその間に、欧州での戦いはヒトラーの自然死という予想外のハプニングにより中途半端なまま決着が付きそうだった。しかもソ連は勝手に動き始め、ますますアメリカが戦争を続けなければいけない理由は消えつつあった。 そして事ここに至って、「日本の無条件降伏などどうでもいい。それよりも、共産主義勢力から東アジアで自分たちが得られる利権を守れ」という本音を国家方針とする事を決められた。 この瞬間日本は、カルタゴからガリアへと、現代のローマたるアメリカの都合で変更されたのだ。 かくして一九四五年七月二十六日、アメリカは日本に対して、無条件降伏の実質的空文化と、日本本土に侵攻する意志はない事、国体の護持(天皇の保全)を確約するメッセージを中立国を介して送る。加えて、日本の条件付き降伏を前提とした停戦と、講和会議開催のための水面下の交渉を、日本政府と本格的に開始した。 これは、日本政府を始め日本中枢にとって極めて効果的な一手となった。 アメリカは、日本が最も懸念していた事象を行わないから、条件付き敗北の停戦を受け入れ、講和のテーブルに着けと言ってきたと、無定見で外交音痴とされる日本政府もほぼ正確に解釈したからだ。そして無条件降伏から停戦を経ての講和会議開催への変更、つまり国家存続が確約された上での米英との手打ちは、たとえそれが実質的な敗戦であろうとも、政治戦略的には日本の勝利だと政府の識者達は理解していた。 何しろこれまでは、経緯はどうあれカイロ会談で出された無条件降伏が連合国の前提であった。楽観的に考えても、大西洋宣言に基づく民族による政府の選択による天皇保全の可能性が限界であったのだ。 しかし、事ここに至っても反対論者はいた。日本国内の各所に存在する近視眼的な徹底抗戦派は、ここ一年の皇軍(日本軍)の奮闘が呼び込んだ勝利なのであり、もう一押しすれば対等の講和も可能だと考え、政府首脳にさらに徹底抗戦を促す逆効果にもなっていた。 どこにでも、こういう一方向の視点しか持てない者はいるものだ。 だが、八月六日から始まる国際環境の激変と日本に対する連合国の新たな攻撃が、一部狂信的なまでに抗戦を叫ぶ人々の多くを愕然とさせ、逆に理性的な人々の行動を促進させた。 八月六日朝、沖縄嘉手納基地への原爆投下。同日夜(グリニッジ標準時正午)、ドイツと連合国間に停戦成立。八月九日、ソビエト連邦が日本に宣戦布告。 これらすべては日本の抗戦への希望をうち砕くのに、十分過ぎる破壊力を持っていた。何がどういう順番だろうと、ショックの度合いに変化なかっただろう。 これに比べれば、予測されていた八月初旬のサイパン島から初のB29飛来、八月五日の硫黄島攻防戦開始など些細なことに過ぎなかった。 当時の日本にとって重要だった事は、様々な大事件が一度に押し寄せ、日本人の過半を一種のショック状態に追い込んだと言うことだった。熱しやすく醒めやすいと言われる日本人にとって、ショック療法ほど効果的なものはない。 当時の大本営や陸軍参謀本部内では、呆然とする人、混乱する人、空虚な理論で徹底抗戦を唱える人で溢れかえっていたという逸話がこれを雄弁に物語っている。 そして、八月六日の原爆投下の責任を取って、翌七日に東条内閣が遂に総辞職。さらに翌日には、昭和天皇の内意を受けた新内閣が発足する。これも、日本の政治と軍事を預かる者にとっては大きなショックとなった。 しかも新内閣は、昭和天皇の信任厚い鈴木貫太郎に大命が下った。主要閣僚も外務大臣・東郷茂徳、陸軍大臣・阿南惟幾、海軍大臣・山本五十六という反戦派と天皇に近い人物で構成された布陣で臨んでおり、明らかに早急なる戦争終結を考えた内閣だったことを世の人に知らしめていた。 そして八月十二日、すでに七月頃から中立国で具体的な交渉中だった吉田茂特別代表から、連合国が示した停戦、そして講和のアウトラインが届けられた。 連合国側が提示した、停戦後の講和会議で取り上げる内容の格子は以下の通りだ。 『日本帝国の主権維持の確約。日本帝国、連合国双方の完全停戦。以下、日本の天皇主権廃止と民主化。領土の削減及び割譲と確定。占領地からの全面撤兵。軍備の一方的縮小と大幅な組織改編。戦争犯罪人の処断。以上を停戦に対する日本側への基本要求とする。そして詳細については講和会議上にて決めるも、以下を基本方針とする。 天皇主権廃止に伴う天皇主権から国民主権への移行。前記を定義付ける大日本帝国憲法の民主的憲法への大幅改定。有名無実化した枢軸同盟の解体(※これはドイツにも同様の条件が停戦時に出されていた)。大東亞宣言、同会議の否定の是非。すべての占領地域からの即時撤兵(一部例外を認める)。一八九五年以後取得した海外領土の主権の是非(※南樺太・千島は主権保留、台湾、満州・内蒙古、朝鮮は連合国の占領統治後に改めて主権と帰属を確定)。朝鮮の独立復帰。満州国、内蒙古自治連合政府の管理の連合国への移管(占領統治だが軍政に非ず)。軍備縮小と軍組織改革。戦争を主導した財閥の解体と処罰。戦争を主導した個人の処罰。日本の政治的・制度的民主化実施の約束と実施。全てを監視するための、日本本土への連合国軍の進駐・駐留の承認。そして以上の事を踏まえ、日本が民主国家として再生するのを確認した時点で、正式に外交・通商の正常化を図る』 以上の条件は、「ハル・ノート」どころか第一次世界大戦でドイツに示された内容よりも屈辱的であり、既に交渉が開始されているドイツと同等かそれ以下の内容だった。だが、一九四三年に最初に提示された無条件降伏や、連合国軍に祖国を蹂躙される事を思えば止むなしという考えが広まり、国体や軍、政の独立が維持されるという安心感も重なる。これに様々なショックが加わって、現時点での停戦やむなしという流れが大勢を占めるようになっていた。 また、戦争を無軌道に煽ってきた日本国民全般も、頭上を我が物顔に飛び回る白銀の翼を日常として見るようになっては、一部の人間が唱える徹底抗戦に迎合するのがいかに愚かかを、体感的に理解するようになっていた。 もちろん反対がないわけではなかった。一部新聞は、タチの悪いイエロージャーナリズムのように、それまでの犠牲を振りかざして徹底抗戦を煽った。テロリズムに訴えようとする急進的活動家も後を絶たなかった。急進的な軍の一部ばかりではなく政府内でも、意見の統一が取れなかった。 だからこそ事態は、八月十三日の御前会議に持ち越される。 そしてここで昭和天皇の聖断が下り、日本政府は連合国の提示した停戦合意承諾を決定した。 なお、「天皇の聖断」という政治的威力は、当時の日本人にとって大きな効果を発揮する。軍国主義政策により「神格化」されていた事を、逆手に取ったとすら言われたほどだ。 一時は反乱すら考えていた日本陸海軍の各部隊や組織の多くも沈静化し、さらに停戦発効時の八月十五日正午の玉音放送によって内乱とその後の混乱の発生という最悪の事態を回避しての停戦が発効された。 そして停戦時の象徴が、激戦が行われていた一部の地域での日本軍と連合国軍兵士による停戦手続き後の握手や交歓だった。 停戦を何より喜んだのは、最前線で戦っていた将兵たちで、何も分かっていなかったのが、後方で現実が全く見えていなかったエリート軍人達や、戦争継続を声高に叫んでいた扇動家たちだったと言うことだろう。 もちろん、すべてが丸く収まったわけではない。一部の軍人が指揮統制を離れてクーデター実現のため激発するなどの混乱が、八月十五日から十七日にかけて日本各地や満州、朝鮮などで発生した。この鎮圧のため軍が出動したり皇族が説得に回るなど、日本国内においては必ずしも平穏な停戦だったわけではない。 だが、それでも戦争は終わったのだ。 日本と連合国との停戦の正式発効は、東京湾に入港した戦艦《ミズーリ》上で条文が交わされた一九四五年九月二日正午の事だった。 この頃には、欧州での戦いもようやく終息しつつあり、一九四五年九月八日、丸六年に及んだ第二次世界大戦はここに終息を迎える。
なお、ドイツとソ連、日本とソ連の戦いの行方だが、欧州では八月半ば以後、連合国から暗に後方支援すら受けるようになったドイツ軍とソ連の戦いは継続されていた。だがそれまでに、残存するすべてのドイツ軍の過半が東部戦線へと移動した。そして米英の空襲のなくなったドイツ全土から東部戦線に向けて、ありとあらゆる物資が届けられるようになっていた。ナチスの侵略戦争が、ドイツの自衛戦争へと完全に姿を変えていたのだ。 このため、一九四四年夏以降スチームローラーのような勢いで東欧全土を目指していたソ連赤軍の前進は、分厚い壁に当たったように止まってしまう。一対五まで広がっていた戦力差も、三倍以下に縮まっていた。 しかも、ドイツが押し止めていた戦線西側の東欧各地には、米英仏や各自由政府などの連合国軍が続々と入り込んでいた。九月に入る頃には、米英(連合国)を新たに敵としないのならソ連が戦い続ける理由も消滅してしまう。つまり、欧州での戦争の時間が終わったのだ。 一方、出鼻を大きく挫かれた極東戦線だが、スターリンの指令により欧州から二個航空師団の移動が決まった制空権はともかく、水上艦隊の主力を失ったため、低性能の潜水艦群だけでは制海権の獲得は難しかった。船舶の消耗から、強襲上陸も物理的に不可能となったソ連軍の再攻撃の目処は、全く立たなかった。だからと言って、一〇〇万の大軍が陣地に籠もって待ちかまえると見られる満州に攻め込むには、まったく兵力も物資も不足していた(事実はそうでもないが)。そればかりか、樺太では日本の二隻のモンスター戦艦の猛威によって逆侵攻を受けた挙げ句、島から叩き出されてしまう体たらくだった。このままでは、日本との停戦まで成立させたアメリカ軍が、日本本土に何かと理由を付けて進駐してきたらどのようななる事態になるかは明白だった。 それを見透かしたように、米英は自らの手が功を奏した段階で再度ソ連に対する日独両国との停戦を「要請」し、戦争の痛手が深いソ連としては原子爆弾すらちらつかせるこの「要請」に屈する他なく、九月十五日の正式停戦へと繋がっている。
なお、大東亞戦争での日本に関する総決算だが、軍人・軍属の戦死者が約七十一万人、民間人の死者が海外領土出身者を含めて約八万人の合計約八十万人であった。このうち民間人の死者の過半(約五万人)は船舶関連で、以下空襲、ソ連侵攻、南方での戦災の順で続いている。また、陸軍軍人の戦死者の三分の一以上が支那戦線での戦死者であり、日本にとって支那での約八年間の泥沼の戦いがいかに犠牲が大きかったかを物語っていた。 そして、この戦争で浪費された莫大な戦費こそが、大日本帝国に本当の意味での最後の引導を渡すことになる。 戦後アメリカによる大規模な借款と支援、アメリカ企業の進出による経済効果に伴う税収増大があったにも関わらず、全ては焼け石に水であった。 日本政府は、膨大な国家の借金を「何とかする」ため、国家規模的な計画的インフレを発生させざるをえなかった。そして通常のインフレ速度から考えられないインフレを、日本にもたらす事になる。これは、一九三〇年代初頭に一対二近くだったドルとの交換レートが二十倍近くに膨れあがり、今日においても一対一〇に近い事からも明らかだろう。 それだけこの戦争の傷は深かったというのが、日本にとっての最終決算だったのだ。
つまり戦争の結果は、「ドル」こそが真の勝利者だったという事だ。
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