■フェイズ二七「総決算」

 太平洋における戦いは海軍の戦争で、日本軍の戦いは聯合艦隊の戦争と言われる。
 この言葉に異論を挟まれる方は、それぞれの戦場で戦われた方以外は少数派だと思う。
 これは今日において『太平洋戦争』が使われる事が多く、日本政府の公称である『大東亞戦争』がほとんど使われていないことからもご理解いただけるだろう。
 日本とアメリカの間に横たわる一万キロにも及ぶ大海洋の間には、とてもではないが百万人単位の大軍が展開できる陸地はなかった。戦うには、海を越えなくてはならないからだ。もちろん、日本列島から北と東を見れば、満州やシベリア、中華大陸が存在する。実際、中華大陸では、両軍合わせて数百万が対峙したことになっている。だが、中華民国もしくは中華共産党の主戦法が、中盤以降実質的に後退戦術や焦土戦術、そしてゲリラ戦主体となった事と、日本に与えた影響を加味しても戦争を決定したとは言い切れないだろう。
 やはり、日本とアメリカ・イギリスの世界三大海軍の大兵力のぶつかり合いこそが、太平洋での戦争を決したのは間違いないだろう。
 そして、アメリカという世界一の経済・産業大国を擁する連合国の圧倒的勝利というのが、太平洋戦争を含めた第二次世界大戦での結論になる。
 だが、戦争の一方の主役となった連合国海軍、いやアメリカ、イギリス両海軍の当事者達は、とてもではないが「圧倒的勝利」をしたとは考えていなかった。
 これは、米海軍を率いたニミッツ元帥が、戦後『連合国は確かに日本との戦争には勝利したが、果たして我々海軍はそう言えるのだろうか』という私的な言葉を残している事に象徴される。また個々の「決戦」における双方の損害を見ると、勝者と敗者の関係を間違えそうになる事からも見えてくる。
 太平洋での戦いの総決算を戦場の順序を逆にして戦場と損害表を眺めると、日本が戦争に勝利したようにも見えてしまうと言った研究家もいるほどだ。
 では、まずは主要海戦とそこでの大型艦の損失を見てこの戦争を振り返っていこう。

日=日本 米=アメリカ 
英=イギリス 連=その他の連合国

 ・真珠湾攻撃+ハワイ沖海戦(41・12)
日:損失なし
米:戦艦5(3) 空母1 重巡2
 ※( )内は完全損失した戦艦数

 ・マレー沖海戦(41・12)
日:損失なし
英:戦艦2

 ・東南アジア地域での戦闘(42年春まで)
日:損失なし
連:護衛空母1 重巡2 軽巡他多数

 ・セイロン沖海戦+セイロン島攻撃(42・4)
日:損失なし
英:空母2 軽空母1 戦艦1 重巡2
  輸送船 約十万トン

 ・珊瑚海海戦(42・5)
日:軽空母1
米:空母1

 ・第一次ミッドウェー海戦(42・6)
日:損失なし
米:空母3 重巡2 軽巡他多数

 ・第一次ソロモン海戦(42・8)
日:重巡1
連:重巡6 軽巡1 輸送船 約十四万トン

 ・南太平洋海戦(42・8)
日:損失なし
米:空母2 輸送船 約十万トン

 ・第二次ソロモン海戦(42・9)
日:戦艦2 
米:戦艦2 重巡2

 ・ポートモレスビー沖海戦(42・12)
日:輸送船 約三万トン
米:重巡2 軽巡2

 ・「い号」作戦(43・4)
日:損失なし
米:空母1 輸送船 約十五万トン 他多数

 ・第二次ミッドウェー海戦(43・8)
日:空母2 軽空母1 軽巡1
米:空母1 軽空母3 戦艦2 軽巡1

 ・第一次マリアナ沖海戦(44・6)
日:空母3 軽空母2
米:空母2 軽空母3 護衛空母3 軽巡1

 ・レイテ沖海戦(45・1)
(シブヤン海海戦、サンベルナルディノ海峡海戦、エンガノ岬沖海戦、サマール島沖海戦、レイテ島沖海戦)
日:空母1 軽空母2 重巡4
  他多数(総数十三万トン)
連:護衛空母8 戦艦7 重巡3
  他多数(総数八十五万トン)

 ・第二次マリアナ沖海戦(45・6)
日:重巡1
連:戦艦2 重巡2
  輸送船 約二十五万トン

 ・日ソ戦(45・8)
日:損失なし
連:戦艦3 重巡1 輸送船 約三十万トン

 ・損害累計(前記表記以外も含む)
日:空母6 軽空母6 護衛空母4(7)
  戦艦2 重巡7
 ※( )内は日本陸軍保有分含む

米:空母11 軽空母6 護衛空母19 
  戦艦16 重巡20
連:空母2 軽空母1 戦艦6 重巡7

 以上が結果になるが、こうして列挙してみると驚くべき数字と言う他ない。
 日本側が、初戦から準備不足の連合国側を順番に各個撃破していき、大量の戦時建造艦艇が現れた後もこれがある程度持続された。結果として、日本側による長期的な視点での各個撃破が成立した。そうした損害の累積の結果が、連合国側が失った膨大な艦艇数となった。
 これが列記して分かる、数字上での結論だ。
 だが、日本海軍の示した異常なまでの戦闘力と、戦場での幸運がこれをもたらしたとしても、驚くべき結果と言う他ない。また一方、これだけの損害を受けても、戦争そのものに勝利した連合国側、いやアメリカの国力と物量にも驚かされる。
 ちなみに、日本と連合国の大型艦における損害比率は単純にみても三対一。大戦後半は、戦場での偶然から猛威を振るった《大和型》戦艦群と戦うたびに撃破された戦艦の損害に至っては、七対一という数字にまで開いている。
 これは、《大和型》戦艦が直接撃沈に関わった戦艦の数が十隻以上に達した結果でもある。だが、単純な個体戦闘力の差が大艦巨砲主義として結果的にまかり通ったという事象は、局所的な活躍であったにも関わらず、戦後奇妙な伝説を作り上げてしまう。
 ただし《大和型》戦艦は、何度も破滅的な船団攻撃と艦砲射撃を実施したため(《大和》に至っては五回)、兵器単体としては最も兵士を殺戮した兵器として悪名に近い評価も受けている。
 この代表的なものに、「第二次世界大戦において、アメリカは20億ドルをかけて原爆を製造した。だが、それに似合う大きな戦術的結果は残していない。一方の日本は《ヤマトクラス》3隻を2億ドルで建造し、60万トンの艦船を撃沈して10万人の連合国軍将兵を殺戮している。短期的に見た場合、果たしてどちらが正しかったのだろうか」と、ある研究家が表記している事が挙げられる。

 さて、話がミニマムな方向に流れてしまったが、もう少し大きな視点で見ていこう。
 大東亞戦争(太平洋戦争)の海での戦いは、戦略的な連合国の勝利、戦術的な日本の勝利と言えるかもしれない。これをスポーツに例えれば、日本はトーナメント戦で勝利したが、ペナントレース戦で敗北したと言えるだろうか。では一方で、脇役としてしまった陸での戦いはどうだったのだろうか。
 この戦争において、日本は約五十五万人の将兵を陸地で失い、残り約十五万人が海戦もしくは海上輸送中に失われた陸海の将兵・軍属という計算になる。
 また陸地での戦死者の内訳は、支那戦線での戦死者約二十五万人を除外すると、その残りのほとんどが英米との戦いで失われている。大まかに分けると、ニューギニア島・南方で十万、南洋諸島全体で十万、ビルマで五万、その他五万という数字になる。
 そして、ニューギニアでの戦死者の過半が餓死・病死による戦死であり、本来大量の戦死者が発生するのはこういう時や敗残兵の群と化したときが主となる。むしろ、日本陸軍にとって不本意極まりない、徹底した陣地防御戦で戦死した南洋諸島や、ビルマでの戦死者の多さの方が変わっていると言えるだろう。
 また、開戦以後の支那での戦死者の多くは、初戦での損害を除けば日々の消耗の積み重なりの結果である。このように、戦域ごとで戦死者発生の状況が異なるというのも、実に興味深い事例だ。
 そして陸地での損害以上に無視できないのが、すし詰め状態での輸送中に無為に失われた将兵の数の異常なまでの多さだ。この点、日本側が戦略的には完全に敗北していたと言ってよい。
 いっぽう連合国の陸での人的損害だが、状況がいまだによく分かっていない支那戦線での、数百万と彼ら中華民国や共産党勢力の言う犠牲者を考えなければ、東南アジア・太平洋で失われた将兵の数は日本がこの地域で失った数と大きく違わない約二十五万人になる。そして戦死者のうち十万人以上が、日本艦隊突入による艦砲射撃で失われているので、純粋な陸上戦での戦死者数は日本側の数分の一におさまる。
 この点、連合国側が勝利していると言えるだろう。戦後マッカーサー将軍が、軍事的にも賞賛される所以だ。日本艦隊の突入さえ食い止められていれば、フィリピンやサイパンでの悲劇は防げたのだから。
 そして、米英が日本によって失った将兵の過半は、初戦での敗退時以外を除くと、その過半が艦隊決戦時と強襲上陸戦時、そして各地の陣地攻防戦で発生している。アメリカ政府の公式発表での約七十万人の戦死者の三分の一強の約二十四万、イギリス政府の公式発表での約五十万人の戦死者の一割強の約五万人が日本との戦いで発生した人的損害とされる。こうした単純な数字差から見ても、連合国側の戦略的な勝利が垣間見えてくる。
 だが、もともと人命を重んじる米英の視点から見れば、むしろ大戦略的レベルでは政治的に米英こそが敗北していると見るのが妥当だ。
 国力で遙かに劣るはずの日本に対する大きな人的損害が、特に大戦末期、戦争全体の勝利が見えた段階で大きすぎたため、市民レベルで停戦への大きな呼び水となってしまったからだ。
 これを簡単に示す数字として、開戦から第一次マリアナ攻防戦までのアメリカ軍の戦死者数は約五万人だが、その後の戦死者は一年あまりの間に約四倍も増加している。
 結果論的ではあるが、陣地に籠もったまま戦死した日本軍将兵の献身的犠牲は、無駄ではなかったと言うことになる。彼らの犠牲が、弧状列島を戦火から守り通したのだ。
 また、太平洋での戦いで忘れていけないのが、双方の輸送船舶の損害だ。
 日本は、総排水量約六五〇万トンで戦争を開始し、戦時中に三〇〇万トン以上を建造するも、およそ二〇〇〇隻、約六五〇万トンを失って事実上壊滅寸前にまで追いやらた。
 そして、沈んだ輸送船と共に五万人もの乗組員と一般乗船者が失われ、さらにここに輸送中の陸海の将兵十万人が死者の列に加わる(うち海軍艦艇での戦死者は五万人程度)。まさにこの損害こそが、戦争の帰趨を戦略レベルで決したと言える。
 日本が、戦場では勝ったが戦争には負けたと言われる最大の理由がここにある。
 いっぽうジワジワと攻撃された側の日本は、連合国に対しての効果的な通商破壊作戦は、一時期を除いて殆ど行っていない。
 全軍が熱心に輸送船団を狙った事例も、聯合艦隊が「片手間」として余裕のあった期間に行われたものを除けば、敵侵攻船団や拠点攻撃に対するものがほとんどだ。この点からも、日本は破れるべくして破れたと言えるだろう。
 ここで「もし」という言葉が許されるのなら、南方資源地帯攻略後に日本が計画的に守勢防御体制に入り、海上護衛と海上交通破壊に列強第三位の海軍を全力で使っていたら、戦争の様相は大きく変化していた可能性も高い。
 しかし、連合国に対しても一八〇万トン以上(※ソ連分除く)の船舶を喪失させ膨大な人的損害を発生させた事は、ドイツが撃沈した商船量の八分の一程度ながら限定的効果を認める必要がある。大戦中に何度か発生した敵侵攻船団に対する極めて効果的な戦闘が、連合国の戦争スケジュールを著しく遅らせた事はまぎれもない事実だからだ。
 またこれに関連して、日本停戦時、日本の海上交通が辛うじて維持されていた事も重要だろう。
 南方航路は、潜水艦と遠方まで進出するようになった基地航空機、一度だけ侵入してきた米機動部隊、そして西日本一帯にばらまかれた機雷によって封殺寸前だった。だが結果的には、最後まで維持された。日本の生命線だった満州航路は、停戦時まで途絶する事はなく、日本列島が必要とする鉄鉱石、石炭、各種食料、中間材料(各種粗鋼など)などを輸送し続けた。北支那航路についても、満州同様維持された。そして日本の戦争遂行能力ばかりか、経済、流通そのものの完全な破綻を防いでいる。
 これは、日本が絶対国防圏とした、硫黄島、マリアナ諸島を最後まで守り抜いたからであり、シーレーン維持に関してはフィリピン侵攻を阻止したのが最も重要な要因だ。
 つまり、戦争後半での日本側の形振り構わない防戦と、日本海軍の極めて極端な決戦主義が戦略的環境すら変えてしまった事も、総力戦という事象から全体を眺めるうえでは非常に興味深いと言わざるをえない。日本は、極端なまでの海洋国家であるにも関わらず、国家レベルでまともな海上護衛戦をする事なく長期間の総力戦を乗り切ってしまったのだ。
 そして、こういった事象が随所に見られるからこそ、日米の戦いは海軍の戦争とされるのに、日本の戦いは聯合艦隊の戦争と言われるのだ。
 まさに、『「大和」ト「武蔵」ハ日本ノ誇リ』というわけだ。

 

 

■解説もしくは補修授業「其の弐拾七」 

■フェイズ二八「極東講和会議」