■フェイズ二八「極東講和会議」

 「第二次世界大戦は誰が勝ったのか?」
 当時の情報開示の進んだ今日においてすら、時折専門家の間で交わされる言葉だ。しかし、停戦が発効した当時、国や立場によって見解は様々だった。
 アメリカ、イギリスなど連合国の多くは、枢軸陣営の侵略を阻止し、さらにはファシズム政権すべてを地上から消滅させたとして高らかに勝利を謳った。ソ連は、ドイツの卑怯な不意打ちから立ち直り、見事祖国を奪回したとして勝利宣言した。
 連合国に加わった国の多くも、米英ソに似たり寄ったりの見解だし、客観的に見てもこの戦争での勝者が連合国側なのは間違いないだろう。
 ローマが連合国であり、カルタゴが枢軸国だったのは歴史的にも明白だ。ただローマたる連合国がローマとして認識されにくいのは、今回のローマが最初から二つの勢力により構成されていたため、その後の混乱を呼び込んだからだろう。また敗者が終戦間際にカルタゴからガリアへと扱いが変わった事も、勝者の存在をぼんやりとさせている。
 これに対して、カルタゴもしくはガリアたる枢軸国各国の見解は様々だ。国力差から考えれば、国が残った事こそが「勝利」だとする政治戦略的、統計学的な意見を除外すれば、主観的本音としては極めて少数派になる。さらに「最初はいいところまでいったが、今一歩及ばなかった」とする当事者の軍人たちの一部の意見を除外すると、「負けなかった」という意見が大半を占めていた。
 だが、ドイツ・ニュルンベルク、日本・東京それぞれでの講和会議開催場所が、何よりも雄弁にすべてを物語っているだろう。
 勝者と敗者の存在する講和会議とは、総じて敗者の都で行うものだからだ。

 

 「極東講和会議」

 日本帝国の帝都(首都)東京で、日本を裁くための講和会議が開催された。
 中心となる日本、アメリカ、イギリス以外に代表を送り込んだのは、連合国からソビエト連邦、フランス、中華民国、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、インド、フィリピンの九ヶ国だった。これらの国以外に、オブザーバーとしてタイなど日本との戦争に関わった国々が代表を送り込んでいる。
 講和会議は、一九四六年(昭和二十一年)一月十九日に開催され、一九四六年(昭和二十一年)四月二十六日に条約締結にこぎ着けた。
 なお、一九四六年(昭和二十一年)四月二十九日の天長節(昭和天皇の誕生日)の発表と共に発効された。もちろんこれは、政治的要素を加味して決定された日時だった。しかし、特に天長節に合わせて会議が調整されたのではなく、大筋において最も近い政治的影響力のある日が選ばれたためだ。
 そしてこの講和会議は、日本の国家としての生存をかけた机の上の第二次世界大戦と言われ、約三ヶ月にわたって激しい舌戦が繰り広げられた。

 極東講和会議での主な論点は、民主化、領土の確定、戦争犯罪の処断、軍縮、財閥の解体だった。
 以上が、連合国が自らの勝利を確定させるために、敵国に押し付けなくてはならないヘビー・ファクターだからだ。
 そして、順に日本国の憲法改正(天皇主権から国民主権へ)、軍の再編成(限定的解体)、日本軍の撤兵、日本の軍縮、日本の海外領土の放棄及び帰属の決定(併合地域の独立か日本への存続)、満州国問題、朝鮮独立、日本の戦争犯罪の処断、日本の財閥の解体として細分化される。そしてその後の極東地域の安全保障のガイドラインを敷くことも、最初から決まっていた。
 要するに、自らに噛みついた猛犬を叱り、鎖を付け、然るべき後に餌を与えて自らに忠実な番犬にしようとしたと言えるかもしれない。
 また、事実上の敗戦国である日本の戦時賠償問題が加わるのだが、インドが真っ先に権利を放棄し、中華民国も条件付きで放棄すると宣言したため問題が先送りにされる。この背景には、先の第一次世界大戦でドイツに法外な賠償金を課した事が次の戦争の要因となった同じ轍を踏んではいけないという、連合国側の考えもあった。
 そして停戦受諾に関連して、停戦発効より発動する事になっていた占領地からの日本軍撤兵監視のための各地への連合国軍進駐と、満州地域の連合国移管のための大規模なアメリカ軍進駐が、講和会議に関係なく停戦発効と共に開始されていた。
 なお、講和会議と直接関係はないが、戦前・戦中日本が抱えていた問題は無数にあった。順に、戦争を主導した視野狭窄な軍部(軍中央)、経済を支配した巨大財閥、腐敗した政党政治、貧困を極めた小作農、対立を深めていた労働争議、絶望的な財政赤字、巨大すぎる軍備、軍の暴走を招いた大日本帝国憲法になるだろう。
 これらを列挙してしまうと、当時の日本が軍事力だけが突出した後進国だったことをいやというほど思い知らされる。
 もっとも総力戦というなりふり構っていられない総力戦の中で、なし崩しに解決されつつある問題も多かった。国民すべてに等しく負担を強いる擬似的な国家社会主義的体制を作らなければ、遅れた資本主義国では総力戦を戦えないからだ。
 そして、今まですべての総決算として行われたのがこの時の講和会議であり、日本人は無意識に連合国との無謀な戦争という黒船を用いて自らの態勢刷新と建て直しを図ったとする研究家もいる。

 講和会議は最初から大きく紛糾した。
 最初の議題とされたのが、日本の軍国家化を招いたとされる主権問題だったからだ。
 連合国の中には、昭和天皇の戦争責任の追及と廃位や退位を求める声が強かった。これは、日本から多くの被害を受けた中華民国、オーストラリア、ニュージーランドからの声が強かった。そして、日本側代表のすべてが、猛烈に反論した。
 一時会議はどうなるかと思われたが、連合国(アメリカ)が停戦に際して最初に提示した「大日本帝国憲法の大幅改定に伴う天皇主権から国民主権への移行」という項目、「天皇は日本国の象徴」、「内閣は天皇を補弼する」という憲法改定条文に従う。そして憲法改正と言う方法によって、天皇は日本の「主権者」から「国家の象徴(名目元首)」になることで、紛糾した割には短期間で決着がついた。また、大西洋宣言にもあるように、停戦した相手国の主権を余りにも勝手にする事が憚られたという背景もある。連合国と国際連合の「正義」が疑われてしまうからだ。
 なお、昭和天皇自身は、日本の一部関係者との会話と、日本本土に進駐してきた連合国軍代表(※当時はアメリカ海軍のニミッツ元帥)との直接会談の中で、「私が退位し全責任を取ることで収めてもらえないものだろうか」と言ったと伝えられ、これが双方の態度を大きく軟化させたと言われている。
 また憲法改定により、天皇が形式上持っていた「統帥権」もなくなる。そして、連動する形で現役軍人を大臣とする法律も完全に否定。軍は内閣に従属する組織として憲法上で強く定義され、その他の様々な改革もあり軍の政治的権限は極めて小さなものとされた。これらを「シビリアン・コントロール」と言い、新たな日本語の造語で「文民統制」とされた。
 つまりは、天皇という巨大な政治的存在を用いて、番犬に鎖が再びはめられたと言うことになるだろう。
 次に問題とされたのは、日本の侵略戦争の象徴の一つとされた「大東亞宣言、同会議の否定」だったが、この問題も紛糾した。
 日本側代表(幣原喜重郎、重光葵など)は、英語による同宣言の翻訳を片手に、「大東亞宣言の理念は大西洋憲章、国連憲章と全く同じであり、これを否定するは連合国の連合国たるを否定するも同じ」と熱弁を振るう。そしてインドなどがこれに賛同、日本ばかりか世界中のマスコミにも宣言文書が広く公開された。
 本来停戦条項に従い破棄される予定だったのだが、結局竜頭蛇尾のまま各国の植民地とその独立運動を巡る問題として誤魔化されてしまう。
 もちろん、日本側が同宣言を正式に否定することは遂になく、最終的に「責任」を糾弾される事もなかった。
 この裏には、大東亞宣言が大西洋憲章と同じ、もしくは上回っているからこそ連合国にとって邪魔だったのだ。そしてこれを日本側の口から否定させなければ、日本を侵略者、戦争に対する犯罪者として裁くことが難しかったからに他ならなかった。
 反対に日本は、自らの正義の拠り所を強調する事で国益を守るのが常道であり、結局日本側の正論が勝ってしまった形になるだろう。これを以て、日本の戦争そのものが、政治的勝利だとする識者もいる。
 続いて議論された、日本軍の撤兵についてになる。しかし日本側は、戦闘行動が停止されると同時に行動を開始していた。特に、孤島など孤立した地区、大軍ひしめく支那主要部からの撤退に関しては講和会議開催時点で様々な理由(補給途絶による飢餓もしくは戦中の対ソ戦備)からすでに実働していた。また、列強が強く求めていた占領地域であった各地からの即時撤兵も、輸送手段の優先的確保により実施される事になった。連合国の側も、自軍兵士を撤兵監視に付けなければならないため、自らの動員解除を早期に行うべく日本政府に協力した。
 百万人(※実数は既に五十万程度)の大軍がひしめく支那本土からの撤退も、当初予測された混乱はなかった。アメリカの輸送船舶支援と中華民国の予想外の好意的態度もあって、速やかに実行された。
 一方、会議決定まで日本領、日本権益となっている地域に侵攻していた連合国軍部隊も、日本が認めたもの以外、日本同様に即時撤兵する事も取り決められ、講和会議が公正なものである点が強調された。
 ただし、日本人邦人の各地からの引き上げ問題となると、問題はかなりこじれた。終戦の形が停戦のため、日本軍の占領地域はともかく戦争以前に日本の主権の及んでいた地域では、戦中とあまり変わりなく日本人が暮らしていたからだ。加えて占領地域でも、日本軍は武装解除されたわけではなく戦闘を停止しただけで、実質的な治安維持の担い手であった事も問題を大きくしていた。東南アジアや支那沿岸部では、日本軍こそが現地の治安維持組織でもあったため、各連合国国軍が引き継ぐまでの駐留継続が認められる事になる。
 そして日本側は、ベルサイユ会議までに日本の領土となった地域には多数の自国民が居住しているとして、折衷案を提案する。領土放棄、権利放棄する予定の地区についても、領民保護の観点から連合国側に段階的な撤兵と暫定的な主権の維持、住民保護を要求した。また、主権が保留常態の満州地域からの撤兵と邦人引き上げなども、同様の理由で延期もしくは保留を求めていた。
 これについては、主に支那地域が対象となるため中華民国が強く反対し、ソ連が強く後押しした。だが、会議を主導する米英が、主権国家として日本の要求は当然であると判断した。また日本に代わり統治・治安維持を行える現地組織は他になく(※連合国の直接もしくは間接統治は、満州地域、朝鮮半島地域以外では、日本の旧主権地域では形式上認められていない)、連合国軍部隊が進駐するまでの間の当面の警備のためと、日本側の輸送手段の欠如などを理由に日本側の主張を認める方向にあった。
 だがこの点については、米英が共産主義勢力(ソ連、中国共産党)を強く警戒し、自軍が展開するまで日本を番犬代わりに置いておこうと考えた故の行動と世界的にも見られている。このため、最初の案件とは違った意味で会議が紛糾した。
 結局、アメリカ軍が停戦発効と共に行動を開始していた事、停戦発効時日本とソ連がまだ交戦状態だった事、支那大陸がすでに内乱状態だった事など様々な要因もかみ合ったため日本の主張がなし崩しに通り、次の問題とリンクさせつつ順次撤退を行うと言う方針が示された。
 そして、最大の案件の一つと考えられたのが、日本の海外領土の放棄と併合地域の独立か存続に関する問題だった。
 日本側は、ベルサイユ会議までに日本が得た海外領土は、国際的にも正式に認められた領土であり、降伏ではなく停戦に応じた国家に対しての交渉なき一方的な賠償や制裁としては不当だと訴える事で交渉の口火を切り、これに各国が反論を展開される。
 結局、朝鮮半島、支那各地の租界、居留地の主権放棄は覆らなかった。しかし他の地域では、連合国の監視のもと全海外領土での日本国籍者以外の全市民による国民投票結果を踏まえた上で賠償・割譲とするか帰属の決定を一年以内に行う事が正式に取り決められた。
 また領土問題に類すると考えれていた満州国問題だが、ここでの日本の主権は関東州と南満州鉄道の利権と、日本が正式に他国から買収した以外の過半が無条件に否定された。日本側は、辛うじて正当な日本資産の保全、在留邦人の生存権及び継続的な居住権を約束させただけに終わる。そして当面は、アメリカ主導のもとGHQのによる占領統治下におかれ、三年以内を目指した中華民国への返還が合わせて決定された。満州において、日本が不当に得たとされる土地や資産に関しても、アメリカなど第三国を中心にした調査と法的措置により、正統と認められれば一旦は保持が認められた。
 中華民国は激しく反論したが、日本が条件付き敗北した形での停戦のため、ほとんど覆らなかった。資産の所在をハッキリさせねば、各国が賠償を受け取る事もできないからだ。また中華民国の意見をアメリカが軽視した背景には、戦中の中華民国の消極的な対日戦姿勢があるとされている。

 そして、紛糾した問題の一つに『日本の戦争犯罪の処断』がある。
 しかし、連合国側で国際法を納めた会議参加者の一人インドのパール判事(博士)は、国権で行われた行為について国家、個人の戦争犯罪を問うことは出来ないと断じた。また事後法で裁くことも、法的に不当だと断じる。ほかの国際法に詳しい人々も同様の意見を述べることが多く、これは日本側、連合国側も大きな違いはなかった。
 また日本側は一様に、この十数年にわたる日本の戦争行為はすべて「自衛戦争」であり、ナチスのような計画的ホロコーストは考えたことすらないと訴えた。これは、連合国側が日本の計画的侵略性を正当化する材料にした「満州事変」や「田中議定書」についても同様だった。
 日本側は、「満州事変」こそ現地軍の暴走とその後の追認だったと認めるも、「田中議定書」ついていは全くの陰謀偽書とした。合同調査団による調査でも、日本の主張が立証されてしまう。結果、「田中議定書」を題材とした国家(主に中華民国)が、国際的に大きな恥をかくという結果をもたらした。そしてその後の調査でも、日本に計画的な侵略戦争の証など無かったことが明らかになると、後年不当な軍事裁判をしなくてよかったと、連合国側ですら認めるようになる。支那事変などの計画性についても、随時作られた作戦計画以外存在しないことが証明された。
 一方では、日本の政治、軍事双方での戦略的無定見性をさらけ出す事にもなり、違った意味で日本の評価を下げたのは皮肉な結果でもあった。
 そして、自らの戦争の正義を確立しなければならないと考える連合国側は、戦争を始めた内閣の主要人物や戦争を主導した軍人(東条英機、武藤章など)、戦争中に残虐行為など行ったとされる軍人(松井石根など)、軍需系財閥関係者、右翼思想家などを槍玉に上げて糾弾した。
 これについては、事後法だとして日本側も真っ向から反論した。その上で、連合国側の戦争犯罪も問うのであれば、講和会議とは別に非人道行為に対して国際裁判を開いても良いと訴えた。さらに、連合国による無差別爆撃、原爆使用、支那での邦人虐殺事件、満州、支那での無差別テロ、アメリカ本国での日系人収容、捕虜虐待などを歴史的一時資料すら準備して糾弾する姿勢を強く見せた。
 その後喧々囂々、それこそ喧嘩腰の議論が交わされたが、結局のところパール判事などが言ったように、元々が勝者たる連合国側の勝者故の、近代国家として今まで先例のない無茶な要求であった。戦争相手に対する復讐を前提とした時点、事後法という時点で、最初から大きく歪んでいたのだ。
 けっきょく両者の合同調査団を作って調査を行い、個人レベルで国際法を犯した者に対しての国際裁判が行われることが決められたに止まっている。この点、ナチスの犯罪やホロコーストが大きく取りざたされたドイツでの講和会議と大きく違っている。また、戦前のアメリカ世論を沸かせた「南京大虐殺」問題などで、連合国側(主に中華民国側)の証拠にあいまいなものが多い事などから、双方の水掛け論が続くなど今日においても問題を残している。また後に、国連で正式に戦争犯罪に関する取り決めが作られる大きな原因ともなった。
 そうして会議が進んだが、会議の主導権を握っていたアメリカが唯一全く妥協しなかったのが、戦争犯罪と連動するとされた「日本軍」の再編成と言う名の一時的解体と、民主主義の軍隊としての再編成だった。
 これはアメリカが、日本の戦争責任の多くが腐敗堕落した軍部、主に陸軍の暴走・独走によるものという姿勢を強く取っていたからだ。また、連動して、戦争を主導したとされる軍需中心だった財閥、大企業に対しても厳しい要求を突きつけた。
 そして日本側も、暗にスケープゴート(生け贄)が必要な事を理解していた。
 このため、憲法改定の際に「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という条文を廃止。国防に関しては「日本国は基本的国防権を有する」と始めて、全軍事力が内閣(国民)により統制された。軍組織も、それまでの陸軍(省)、海軍(省)というバラバラの組織ではなく、明治の一時期に存在した「兵部省(英訳は「国防省」)」という組織名を復活させて組織を一元化してしまう。
 この改訂に伴い、外部からの調査も入った形で軍組織内の徹底したパージが行なわれ、軍人の教育制度そのものもアメリカなどが望んだものに近い形で改訂されている。参謀本部も軍令部も解体され、全ての軍を統括する統合幕僚本部が後に設立される。
 教育制度にまでメスが入ったのは、日本軍の幼年学校からの純粋培養によるエリート軍人こそが、軍部独裁、腐敗、そして独断専行の温床だと双方が判断したからだった。
 なお、戦争犯罪人として槍玉に上げられた軍人のうち、最重要とされた東条英機、松井石根が共に自害したため混乱し、結果的に個人の責任追及はうやむやとなった。ただ海外では一部が先走りし、一部の軍人が現地軍や政府のリンチに近い形で処刑や処罰され後に問題を残している。
 また、財閥に対しては、一部肥大化した企業組織の解体と、独占禁止法などの法律を中心として法律上厳しい枷がはめられ、それらに従い実質的な再編成作業が進められる事になる。経営を主導したとされる人々の多くも、第一線から退けられた。
 なお、アメリカが日本軍部にこだわったのは、日本を自らの衛星国とするためには、日本国民に自らの悪を認識させた上でそれを目に見える形で精算する必要があったからだ。
 またこれによって、アメリカ国内世論を納得させるための「敵」が必要であるが、日本そのものをそれに当てることは自らの政策に反するようになったため、必要性の低い日本陸軍を標的としたという経緯がある。また、日本国民にも自分たち以外の誰が悪かったのかを分からせるという効果もあった。
 この時、海軍が標的にされなかったのは、日本の国防に海軍の比重が大きかったからに過ぎない。これは、ドイツでナチスとヒトラーにすべての責任をなすり付けた事に似ているだろう。

 この後は、日本と周辺諸国を交えた軍縮会議の開催を取り決めて、最初に保留されてしまった戦時賠償問題へと議論が移った。
 賠償請求国は、ソビエト連邦、イギリス、フランス、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、フィリピンになり、否定派はインド、中華民国という形だった。
 特に強く賠償を請求したのがソ連だった。
 ソ連は、日露戦争に戻って、日本が帝政ロシアから奪ったすべての領土(主に南樺太)の返還と権益の無条件譲渡(満州利権については中華民国との交渉)を要求した。さらにこれとは別に、ソ連軍に与えた損害賠償として千島列島全域、さらには北海道の北半分の割譲までも要求してきた。
 このあまりにも法外で一方的な要求は、同じ賠償請求国ですら呆気にとられたと言われる。
 そしてソ連の動きに最初に反発した日本以外の国が、形はどうあれ満州の権益を再び外国に奪われる中華民国だった。
 もちろん当事者の日本も、ソ連が両国間で締結した中立条約に違反して宣戦布告した事を理由に、国際法上不当な賠償には応じない旨を伝える。そしてそればかりか、条約違反に関する政治責任を反対にソ連側に追及すらした。
 また、イギリス(+オーストラリアなど英連邦諸国)、フランス、オランダが有していた植民地地域での賠償については、日本がインド同様これらの地域で新たに独立した、もしくは独立予定の国家・政府、もしくは現地住民に対して支払うと明言したため会議を一層紛糾させた。
 そして日本側は、日本が国家もしくは個人として海外に持つ資産すべてを連合国側が返還、保証するのなら、自らが戦場とした地域の国々と交戦が確認された国家に対しての賠償責任には応じるとしたが、それ以外については否定した事も同様の事態を招いた。

 賠償問題に冷静だったのは、最初に蚊帳の外に出たインド、太平洋での戦争にほとんど関係のなかったカナダ、そして実質的な主催者にして議長国だったアメリカだった。
 アメリカとしては、戦争によって経済が崩壊寸前となった日本から在米日本資産没収や戦時賠償などで搾り取るよりも、この地域を自らの新たな盾とするため、むしろ経済再建のための大規模な借款や援助すら考えていた。無駄に反感を買うのは、長期的視点での国益上得策ではないからだ。実際、日本国内で不足する食料・燃料の援助、優先供給などは既に実行に移されているものもあったほどだ。後は、アメリカにとって必要な軍事技術や情報、そして今後継続的に使用できる軍事拠点が幾つか手に入れば良かったぐらいだ。
 故にそう言った事を、水面下で日本側に伝えていた。
 なお、アメリカが水面下での交渉を進めた背景には、大戦中自国が日本人と日系市民に行った強制収容問題や、捕虜・負傷者に対する非人道行為、人種差別行為を不問にして欲しいと内意だったからだとされている。アメリカとしては、アメリカにとって僅かばかりのお金や資産よりも、自らの正義を維持する方がこの時ははるかに大切だったのだ。ここにも、日本が降伏ではなく停戦として戦争を終えた事が効いていた。またアメリカとしては、それまで日本が抱えていた市場が日本国内の市場ともども自らの勢力圏として友好的かつ安定した状態で含まれるのなら、長期的にはアメリカに転がり込む利益は大きいと考えていた。
 そして、支那に大きな利権を有し、インドなど植民地独立問題で大きな爆弾を抱えているイギリスも、これ以上の厄介ごとは抱えたくないため次第にアメリカに同調した。結局、賠償問題については、会議中に合意されたものを除いて各国間で日本政府と交渉を続けると結論が下される。
 このため、今日に至るも「北方賠償問題」など、未解決の問題も存在している。
 そしてこの時点でソ連代表団が席を立ってしまい、講和会議は中途半端なまま講和条約の成立を宣言した。

 そうして数々の問題を議論した極東講和会議は、四月二十九日に「極東条約」を締結して終了した。
 ・・・数々の問題を抱えたまま。

 

 

■解説もしくは補修授業「其の弐拾八」 

■フェイズ二九「戦後ニッポン」