■フェイズ二九「戦後ニッポン」

 日本の主要都市がいまだ復員兵で溢れていた一九四六年五月三日、日本の新しい憲法が公布された。
 新憲法の名は「日本国憲法」。正式国名も「大日本帝国」から「日本国」に改称された。そして、その他各種法整備の改定が同時に行われるか、近日中の改訂が決められた。
 さらに、大幅な軍縮を中心とした日本軍事力の組織の再編成なども、連合国(国際連合)の厳しい監視のもと断行された。
 もっとも新生日本の始まりは、一九四六年一月一日の「 天皇人間宣言(神格化否定の詔書)」によって始まったと考える日本人が圧倒的に多い。
 新憲法は、天皇の意志を追従しただけだと当時は見られていた。さらに形式的とは言え、天皇が自分は神ではなく人間と宣言した事と、その後新日本建設を誓い国民を励まして日本全国をくまなく巡回した事は(日本残留の決まった台湾や南洋諸島にも赴いている)、日本人の心理面に極めて良性の効果をもたらした。
 この事から、戦後ニッポンは昭和天皇によって切り開かれたと言われ、昭和天皇が名君だとされる最大の所以がここにある。
 また同年九月、大日本帝国に属した全海外領土で、自らの帰属を決める国民投票が実施された。これにより、戦後の日本の領土・領域が決する事になっていたからだ。
 投票は、投票に例外はあり得ないとする講和会議上での日本側の強い要望により、朝鮮半島を含むすべての日本の海外領土で実施された。
 十八才以上の男女すべてとされた投票者数は、実質的な日本の属国とされた満州地方を最初から除外したにも関わらず二〇〇〇万人近くに及んだ。
 各地の比率は過半が朝鮮半島地域と台湾地域になり、ここでどのような投票結果が出るかが、日本の海外統治がどのようなものだったかを世界中に知らせるものとなった。そして連合国の多くは、結果を武器に日本を再び叩こうとしており、日本側は自らの内政運営に強い自信を抱いていた。
 まずは結果を簡単に紹介しよう。

 台湾  /日本残留:中華民国=八:二
 関東州 /日本残留:中華民国=八:二
 朝鮮半島/日本残留:独立  =七:三
 南洋諸島/日本残留:アメリカ=七:三

 連合国にとって驚くべき結果だった。
 停戦条件と講和会議において独立復帰が既に決定、実行されつつあった朝鮮半島ですら、日本残留を求める声が過半数、いや圧倒的多数を占めている事は、連合国側にとって由々しき以上の事と受け止められた。
 そして投票の結果は、日本の「植民地統治」が近隣で最も公正で優れた統治だった事を裏付ける何よりの証拠となった。つまり、第二次世界大戦において、連合国が日本を悪のファシズム国家としたプロパガンダが、現地住民によって否定された事に他ならないからだ。
 もちろん日本的独善さに満ちた押し付け統治には、軍国主義時代の皇民化教育など民族自決などの面で負の側面も多々存在した。何しろ、他民族を「日本人」にしてしまうからだ。
 しかし、周辺国の統治が日本以上にどうしようもない事象も、この結果をもたらしたと言えた。そして誰もが、最低限の公平さとそれに付随する安定した社会こそを最も求めていたのが、アジアの現状だったのだ。
 投票に際して、日本側の不正が大量に存在したのだという声も、朝鮮仮政府(大韓民国仮政府)や中華民国を中心に多数上がった。副産物として、投票を主導したアメリカと中韓の関係が険悪になったほどだった。だが、日本政府を閉め出し国連(連合国・主にアメリカ)側が軍隊すら用いて監視にあたった投票に、大規模な日本の干渉が発生する事などありえなかった。
 このため、その後の様々な方面からの調査を呼び起こし、これが最終的に当初予定の極東地図の過半を書きかえる事につながぅていく。
 もっとも、台湾、関東州での投票が日本圧倒的優位になった背景には、停戦後の交流自由化後に流れてきた中華民国人と、投票監視団として台湾や関東州に入り込んだ中華民国の監視員達(+監視兵)の様々な素行と不正が、土壇場で現地住民の中華民国帰属を否定したと言われている。
 また、朝鮮の場合は、わざわざ独立して元の腐敗官僚や特権階級(両班)がはびこる無秩序で貧しい国に戻るより、多少小うるさくとも安定した日本統治のままの方がずっとマシという民衆の意見が根底にあったからだと言われている。現に朝鮮半島では、日本の統治がなくなってから約一年で、早くも懸念されていた悪い兆候が如実に現れていた。それが投票結果に出たと見るのが自然だろう。『犬と豚』を用いて揶揄する話が、いくつも存在する。
 加えて朝鮮半島では、戦後に上海から乗り込んできた李承晩を中心とする仮政府の極めて極端な反日政策の影響も極めて強かった。

 国民投票を踏まえた結果、台湾地区は現地に自治政府を設けるという連合国側の主張を受け入れた上で、自治領としての日本残留が決まる。南洋諸島も、戦場となったり半ば強制的に集団疎開されられた地域での結果はかなり悪かったが、全体としては日本残留を希望した事から、日本がそのまま国連からの委任統治を継続する事が決められる。合わせて、それらの地域からの日本邦人の帰国の必要もなくなった。主権や利権その他も日本に帰属した。ただし、南洋の全ては国連信託委任統治領とされた。
 そしてこの背景には、それらの地域が今すぐには自治独立できる状態ではないという事情があった。そして、現地の非武装化とゆくゆくは独立させるという条文を書き加え、反対の強かったとされたマーシャル諸島だけがアメリカの国連信託委任統治に変更になった他は、国際連合から日本に対する委任統治という形が継承された。
 だが、各国からの反対も強かった。特に台湾の日本残留決定は、中華民国が異常なほど反対した。しかし住民が反対する地域を、民主主義の守護者である連合国が民意に反して統治する事はしてはならないと、アメリカなどがにべもなく対応している。また中華民国が日本からの台湾割譲の根拠の一つとしたカイロ宣言は、明確に明文化されていないとして根拠として扱われなかった。しかも中華民国軍は、戦争中に後退こそすれ台湾に寸土も触れていないのに、停戦国相手に領土要求するなど厚かましい限りと諸外国から見られてもいた。
 以上のような投票結果により、南沙諸島など、日本が軍事力を傘に強引に領土を主張していた地域、支那各地の租界だけが、それぞれの地域に返還される事になった。合わせて、中華中央部にいた約七〇万人もの邦人すべてが、日本への帰国を余儀なくされる。

 一方、戦後の朝鮮半島では、当初独立の準備が整うまで連合国(アメリカ)の委任統治が予定されていた。元日本領から新たに現地民族の国を独立させるのだから、連合国としては当然の措置だった。しかも現地住民は、戦争中日本帝国に積極的に協力こそすれ、ほとんど自力での独立運動をしていないのだから尚更だった。連合国(アメリカ)は、朝鮮半島には再教育が必要だと考えていたのだ。
 その朝鮮半島では、日本停戦と同時に一部で独立宣言などが行われた。だが最初は現地日本軍に否定され、連合国(アメリカ)進駐後も最初は完全に否定された。手のひらを返したような現地住民の行いに、連合国各国からも嫌悪すら持たれたほどだ。
 その後、様々な国際的慣例を全て経た上で、連合国(アメリカ)の圧力によって極度の反日家・李承晩を大統領に戴いた「大韓民国」が新たに建設される事が四六年初頭に決定し、四月には仮政府が成立した(※正式名称「大韓民国仮政府」。一九四八年、大韓民国が正式独立)。
 しかし、ようやく発足したばかりの韓国仮政府は、アメリカなどが求めた自らの新国家態勢を作りよりも、何よりもまず朝鮮半島全土に染み渡っていた日本色を消すことに血眼になった。政府など公の組織からは、日本人ばかりか親日とレッテルを一方的に貼った同族も追放した。自らの仮政府すらまともにできていないのに、である。当然だが、政府運営は最初から機能不全に陥った。
 そして以前とは一八〇度転換したような、反日政策とでも呼ぶべきものを極端化した。その末が、日本人の個人的残留を認めた講和条約を一方的に否定して、朝鮮半島内のすべての在留日本人の即時国外退去を強く求めるに至った声明発表と強制実行だった。
 ここまで至るのにかかった日数は、日本が連合国との停戦に合意してから半年にも満たなかった。ほとんど仮政府最初の業務であり、自身が正式独立するはるか前の出来事だ。
 これに対して日本側は、韓国仮政府の出した条件を受け入れる日本側の条件の一つとして、日本国内に残留した韓国出身者の日本への完全帰化、もしくは完全帰国を韓国仮政府の責任によって行うことを強く要求する。特に、朝鮮民族帰国後の日本への再渡航については、即時強制送還を含めた極めて厳しい態度を伝えてきた。むろん、帰国する日本邦人に対する身の安全の保証など様々な条件が主なものとなる。そしてさらに、もう一つ重大な要求を突きつけた。
 それは、退去する日本人資産すべての保証、韓国国内にある持ち帰ることの出来ないすべての日本資産・日本の資金により建設されたすべての文物のドル立てによる等価購入を韓国仮政府に求めた事だ。
 この金額は、当時の朝鮮半島にとってあまりにも莫大だった。何しろ日本が、自国の税金を多額に投入して、一つの近代国家そのものを建設するほど努力を傾けた結果だったからだ。そして日本人による資産に退去されてしまうと、朝鮮半島内には価値ある資産が激減し、等価購入分を合計するとどれだけ安く見積もっても数十億ドルという韓国にとっては天文学的数字になった。日本の植民地になって全ての利権を奪われたとしても、追いつかないような金額だった。
 当然だが、それを短期的に支払うことなど、朝鮮半島には到底出来なかった。
 このため、韓国仮政府は最初は一方的主張により日本の要求を退けようとするも、実際の国力(軍事力も含む)の差を考えると自身だけでは口先だけで強引に拒否する事はできなかった。さらに、頼りとした日本以外の国(主にアメリカ)からも韓国仮政府の考えが否定されると、事態を国連に持ち込んだ。
 しかし国連も、イギリスとインドがそうであるように、名誉ある独立国家同士として日本の主張はむしろ当然の事として韓国仮政府を相手にしなかった。なお、この時の副産物で、朝鮮半島出身者は旧宗主国たる日本人以上に、国際常識・感覚に疎いと見られるようになる。この流れで、政治的な利用を考えていたソ連すら呆れた程だった。
 そして自身気付かぬままに追いつめられた韓国仮政府は、さらなる強硬論を展開する。朝鮮半島は植民地支配を受けた被害国であり、併合期間の賠償・補償として無償譲渡が当然、むしろ莫大な額の賠償を支払うのが日本の当然の義務だと強く主張し一方的に交渉のイスを蹴り、一時事態が暗礁に乗り上げてしまったのだ。
 この時点で、ようやく国連(アメリカ)が調停に乗り出した。そして、移動可能で正当な日本資産は全て日本帰属並びに日本帰国を認め、固定資産については日本にある程度考慮(格安価格での譲渡)するように要請すると共に、アメリカ、日本が韓国に対する大規模な借款と援助を持ちかける事で何とか決着が付けられた。ただしこれは、アメリカも日本も何かの間違いで朝鮮半島が共産化されては元も子もないための、止むに止まれる決断であったとされる。
 その証拠にアメリカは、自らにとっての新たなフロンティアである満州地域にこそ力を入れるも、朝鮮半島には常に最低限のことしかしていない点が挙げられるだろう。日本も停戦後の手のひらを返したような行いに非常に怒り、朝鮮側の全ての行動を公文書に記載した上で、今日に至るも朝鮮の併合と統治については一度も謝罪していない。
 そして日本人退去の結果、大韓民国(朝鮮半島)では日本人が持ち込んだ資産が一時的にほとんどすべて消え去って国内の富が激減する。また、数十万人の日本人のほとんどは、富裕層であり技術者、役人、軍人、知識階層だった。これら国家の背骨とも言える統制の取れた人的資源が消えることも、朝鮮半島に大打撃を与えた。加えて、格安であっても、以後三十年以上にわたって莫大な外貨を日本に支払わなくてはならなくなった。さらには、この時の韓国側の交渉態度から韓国の国際的評価を建国時から最低のものとし、これがもともと貧しかった朝鮮半島地域の発展を著しく阻害したと同国内ですら言われ続けている。戦後も日本の一地域として順調に発展した台湾と、好対照をなしていると言えるだろう。
 そしてこの「事件」と、停戦発効時の日本本土での朝鮮出身者の暴動鎮圧(※日本は「敗戦国」で朝鮮は「戦勝国」と一方的に解釈し、日本の主要都市各地で朝鮮出身者の多くが暴徒化して軍が出動・鎮圧した事件。通称「三国人事件」)、そして五十一年の「竹島紛争」が原因となって、日本と韓国の関係がいびつなほど悪化した。しかも当事者以外の国がほぼ無関心だった事も手伝って、今日に至るも感情面において両国の関係が完全に安定化されたとは言えない。
 しかも、問題は日韓問題だけではなかった。
 停戦時から起きていた問題の一つに、ソ連・共産主義陣営をバックボーンとする共産党勢力が朝鮮半島北部を中心に勢力を拡大した事があった。これはゲリラ活動や大統領暗殺未遂を含むテロなど、中華動乱が収まるまで大規模に続き、朝鮮半島全土に多くの損害をもたらしている。今日に至るも、「北朝鮮問題」として、ネパールの毛沢東派のようなテロとゲリラ戦が続いている。そしてソ連が韓国政府に誘いを掛けなかったのは、この共産ゲリラへの支援があったためだ。

 いっぽう朝鮮半島と好対照だったのが、日本各地の併合地域以上に重要な国際問題と考えられていた満州国問題だった。
 停戦時、連合国軍南西戦域軍総司令官として、フィリピン・ミンダナオ地域の解放に当たっていたダグラス・マッカーサー元帥が、トルーマン大統領より満州・内蒙古・朝鮮解放軍司令官として任命されたのがその始まりとなった。
 そして早くも四五年八月三十日にマッカーサーは満州の首都新京に空路で到着。彼は、「我々はこの大地に民主主義を建設するために訪れた」と高らかに宣言する。
 そして、いまだ日本と交戦中のソ連、内乱を再燃化させてしまった中華民国双方から強く提案された共同占領統治提案を即座に、断固たる態度で否定。アメリカ一国により、現満州政府と内蒙古政府、朝鮮仮政府の上に連合国最高司令官・総司令部(GHQ=(General Headquarters))を設置する。
 そしてマッカーサー到着と同時に、満州・内蒙古・朝鮮で事実上の独善的占領統治を開始した。しかもマッカーサーは、満州、内蒙古の領土権が認められていた中華民国政府関係者すら入れない徹底ぶりだった。
 だが、連合国軍進駐以前に、日本の有力皇族が先に乗り込んで、徹底抗戦派の多い満州各地の部隊を説得して回るという一幕もあった。この事に象徴される日本側の各種根回しが、この後の満州統治の円滑化を実現したと言える。これは、連合国(アメリカ)に対して積極的に協力することで、何とか満州の利権を保持しようとした日本側の思惑も強く見えてくる。また満州を、ロシア人にもシナ人にも渡したくないという感情が出ていた。日本にとっては、朝鮮半島よりも満州の方がはるかに重要だったと言う事の何よりの象徴だ。

 マッカーサー元帥は、いまだ完全な日本人による統治がなされていた現地に赴任すると、さっそく精力的な活動を開始する。
 彼は、国連を介するという表面的な事象を使い、満州を含む日本の支配権が及んでいた極東地域すべてでの絶大な権限を縦横に駆使していた。
 そして、いち早く占領統治のための膨大な数のスタッフと、太平洋各地にあった米軍部隊を大量に進駐させ、「極東条約」が出されるまでにアメリカ(=マッカーサー)を中心にした間接統治体制を築き上げるてしまう。
 もちろん満州・内蒙古地域は、「極東条約」により三年以内に中華民国への返還が予定されていた。GHQもそのための組織であり、返還するからこそ混乱を避けるために当初は中華民国を入れず米軍の進駐が行われたのだった。
 だが、満州以外での中華民国と中華共産党(中国共産党)の対立が、日本軍が立ち去り始めた四五年七月中頃から再燃化した事で事態が変化し始める。
 中華民国の蒋介石総統は日本との停戦後、現地日本軍が有していた大量の武器、弾薬は、国際法上で自分たちのものとならないのなら、残らず本国に持ち帰るように通達してきた。共産党勢力や各地の軍閥に渡さないためだ。
 一方中華共産党は、日支事変の間に華北地方の農村部を中心に大きな勢力を獲得しつつあった。そして日本と連合国の停戦と同時に、水面下で満州に入り込み共産主義活動を広めた。これに対して中華民国は、地理的な問題から具体的な対応が取れなかった。また共産党は、去りゆく日本軍に軍事顧問や武器横流しなどで水面下で交渉していた。無論現地日本軍のほとんどが、共産主義相手というだけで強く拒絶している。
 また日本軍と日本人が立ち去ると同時に、各地の軍閥がそれぞれの思惑で動き始め、日本軍以外との戦闘行為に発展したり、各地で圧制を敷く事例も多々発生していた。圧制という意味では国民党も例外ではなく、幹部の蓄財を目的とした無茶な徴税と紙幣乱造、資産没収などを行い、彼らが気づかないまま無為に民心を失っていた。
 こうした支那中央部の事象が、アメリカ(マッカーサー)を大いに失望させる事になる。
 感情的には、幻滅と表現して良いだろう。
 そして国民党の悪政が、中華民国と共同の満州統治をついに行わなかった最大の原因だとされる。
 そのような外的要因もあった満州に関する政治的ガイドラインは、日を追うごとに極めてアメリカ的独善さに満ちたものとなっていった。
 47年初頭にはマッカーサー元帥から、今後満州はステイツ同様すべての人々が安心して暮らせる統治システムを維持するため支那中央から独立した環境がよい、という主旨の書簡がトルーマン大統領に送られた事に象徴されている。
 なお、この書簡を送らせた原因には、中華民国の状態や満州国の皇帝溥儀と満州族や漢民族などの旧時代的な側近に失望し、反対に日本人官僚達が作り上げた満州国の先進的な政治・経済システムに強い感銘を受けた事が強く影響している。
 その後の様々な方面からの調査と、世界中にとって(ソ連にとってすら)悪い方向に進んでいる中華情勢、そしてソ連の裏庭という絶妙な地政学的環境から、その後の満州(+内蒙古)は支那中央とは違った道のりを歩むようになっていく。
 要するにマッカーサーは、日本人が自らの理想と欲望すべてを注ぎ込んで作り出しつつあった満州に、自らの祖国の姿を重ねていたと言えるだろう。満州には日本人の手により、新たなアメリカが作られつつあったのだ。これをアメリカが引き継ぐのは、もはや天命と言っても過言ではなかったのではないだろうか。少なくともマッカーサーはそう考えていたと言われている。
 いっぽう占領軍による朝鮮統治は、日本による統治時代に作られた高度な近代教育とインフラが存在し、朝鮮半島出身者の高等教育者も十分な数があるとして、外交と軍備の一部を除く国内行政全般はほとんど朝鮮人に委ねられた。
 しかしこれは、朝鮮人全般が示す非文明人的な態度に、マッカーサーが愛想を尽かした結果だと言われた。日本の役人が消えた後、ここまで酷くなるとは考えなかったのだ。このためか、軍の建設と共産化を防ぐ手だて以外おざなりの指導・統治しか行われず、韓国の低迷を呼び込んだと言う説もある。
 このマッカーサーの考えを代表する言葉として、「日本本土の日本人の精神年齢は十二才だが、フロンティアたる満州にいる日本人は我々に近く、これに対して朝鮮半島住民の精神年齢は十歳児にも達していない」というものがある。要するに朝鮮は、文明国になるための基礎教育すら終わっていない、という事になるだろう。
 この言葉ためか、韓国内でのマッカーサーに対する評価は非常に低く、また祖国に絶望した膨大な数の満州移民が発生する原因の一つになったと言われている。日本本土を出国させられた朝鮮人のほとんどが、そのまま満州に流れたのが象徴的だった。

 マッカーサーを新たな「皇帝」として迎え入れた満蒙地域での日本との関わりだが、大量の占領軍が進駐しても問題は山積みだった。
 同地域には、半世紀にわたって莫大な権益を有し、軍隊を含めて停戦時約二四〇万人もの日本人がいた。軍隊を除いても、現地除隊者を含めた日本人の総数は約一五五万人に上る。関東州租借など、古くからの正統な日本権益も多数存在する。このため国連(連合国)としても、独立国家である日本から無条件ですべてを取り上げてしまうわけにも行かなかった。また、不用意に日本人の退去と権利や利権の剥奪を申し渡すと、現地住民との衝突などの収拾の難しい混乱が予測された。
 もちろん、この地域にネイティブによる近代的な勢力がある程度存在すれば、事情も違っていただろう。
 しかも、それまでの秩序だった満州の政治、経済、社会、軍事システムを組み上げていたのが日本人だったと言う事は、少ないコストと人数で満州の円滑な統治と自ら主導による開発を行いたい考えていたGHQにとって、日本人すべてを追い出すなど各国が何を言おうが、少なくとも短期的にはできない相談だった。せっかく無傷で手に入れた抵当入りの大邸宅から、館を維持する使用人達を追い出して、代わりに野党を招き入れるようなものだからだ。
 だから、取りあえず政治と社会システムの維持・運営に関しては、当面日本人に任せる間接統治の形が継続された。日本列島などへの輸出まで認められていた。一方で約一〇〇万人も存在した関東軍(+秋までに支那から移動してきた日本軍部隊)だけは、太平洋各地から停戦発効と共に移動を開始した連合国(アメリカ)軍部隊の到着と共に、日本に送り返すか現地召集された部隊(実質的には民兵レベルが約三十万人。)に関しては即時解体と一時金を与えた上での帰宅が速やかに行われていった。一方で、停戦後に朝鮮半島や支那本土から流れてきた、強制帰国予定の日本人の数も数万人の単位に上っていると見られている。
 なお、GHQが満州進駐当初熱心に行った事は、中央政府の掌握と並んで、日本軍が建設した軍事システムの掌握と満州国境防備の強化だった。これは中華民国に接する国境側でも例外ではなく、アメリカの満州に対する強い意志を見ることができる。
 その間日本は、「極東条約」によって満州の権益を一度失うが、辛うじて日露戦争で得た地域の権益、各国との正式な売買契約があったものについては、満州国政府が買い上げるという形が後にアメリカによって作られた。現地に居住する日本人についても、現地残留を望む者は日本国籍を捨て新たに現地国籍を取れば既存の正統な資産も生存権もすべて保証するとされた。反対に帰国を望む者は、企業資産、個人資産として認められたすべてをそれぞれの帰国先に持ち帰るか、もしくは残留の場合は在外日本資産とする事が認められている。
 また、関東州の帰属問題は国民投票では日本残留となったが、その後満州地域が国連(アメリカ)主導で自主独立という流れが作られると、そちらの方が良いとする意見が日本人を含めた現地住民の間で圧倒的多数となった。そして、満州国の正式独立と共に満州国に編入され(内蒙古と合わせて東アジア連邦共和国・一九五一年独立承認)、日本が放棄した海外領土で唯一民意の点でソフトランディングした地域となる。
 なお、満州の新たな統治者となったマッカーサーは、そのあまりの独善的な統治のため、現地住民からは「皇帝」もしくは「主上」と影で呼ばれた。しかしその統治そのものは、アメリカ的贅沢さに満ちた民主的なものだったため一般民衆にはおおむね好評で、一部には中華四千年の歴史の中で最も民衆に慈悲深い「皇帝」だったとする者もいる。おかげで、それまで農村部で力を伸ばしていた共産党の入り込む隙間がほとんどなかったほどだ。ワシントン(1ドル札)が、共産主義を駆逐してしまったのだ。
 そして、このマッカーサー統治を揶揄する日本の戯れ歌に「露助つき、日本がこねし大饅頭(大満州)、座りしままに食らう馬司(※マッカーサー・馬司=軍人の揶揄)」というものがある。

 さて、旧日本領土についての話を続けるが、明確には海外領土ではなかったが、停戦時問題となった場所の一つに樺太島がある。
 停戦発効時、日本とソ連は交戦状態だった。
 そして、奇襲に近い形でソ連側が戦争を開始したにも関わらず、日本軍の決死の反撃によって千島列島にはほとんど触れることができなかった。しかも樺太に至っては、ソ連が制空権・制海権を失い、樺太すべてを失う状態で停戦となった。
 このため、日本とソ連の停戦が成立した四五年九月八日以降、ソ連政府は強く日本側の撤退を求めた。
 また、日本停戦の条件の一つが、占領地域からの即時撤退である。このため、本来なら速やかに日本軍はもとの国境線に戻る筈なのだが、ソ連の対日参戦は日ソ中立条約に違反しての開戦だったため、戦後国際問題として日本側が強く抗議した事で問題が複雑化していた。
 日本政府は、この責任問題が明らかになるまでソ連領内からの撤退はとはできないとして、停戦発効後も北樺太にあった日本軍は間宮海峡を挟んでしばらくソ連軍と睨み合った。
 これは、ソ連指導部をして、このままなし崩しに樺太全土を失うのではと思わせたと言われる。
 そしてこの日ソの睨み合い状態は、ソ連がドイツ・日本との正式停戦に応じ、東京での停戦会議に出席することを決めた四五年九月十五日まで続く。そして正式停戦を受けた日本側も、当日から国境線までの軍の撤退を開始し、三日後にはすべての日本軍が北樺太から立ち去っていった。
 ここでようやく、国境線そのものも一九〇五年のポーツマス会議のラインで再び固定化する。
 しかし、日本はソ連と直接陸地で国境を接する形が継続され、またソ連(ロシア)としては日本に二度までも国土に踏み込まれた事は大きな屈辱とされた。
 このため戦後は、必要以上の軍事的圧力を南樺太などオホーツク一円にかけるようになる。結果、日本の軍事力のかなりが長らく同方面に集中され、日本がアメリカを中心とする西側世界の一翼を担う一因となっている。
 そしてすべてが決した時の最終的な日本の領土は、一九二一年のパリ講和条約で定めれた領土から、朝鮮半島と関東州を欠いた形でほぼ収まった。
 だが、日本そのものがアメリカの強い影響圏に一時的であれ組み込まれた事、そしてそのアメリカが朝鮮半島そして満州・内蒙古地域を重要視して強い影響力を行使したため、日本の防衛負担はむしろ大きく軽減している。
 そして政治的に満州・内蒙古を手放せなくなった、新たな『世界の警察官』たるアメリカは、自らにとっての安上がりな利権保持のため、かつてのイギリスのように極東唯一の文明国だった日本に強く依存しなくてはならなかった。
 この結果、アメリカとの大きな共通利害が発生した事で、日本の安全保障は戦前より遙かに改善されたと言われるようになる。

 一方で、日本と旧日本領域以外での東アジア情勢は、日本と支那が振りまいた争乱の火種により大混乱に陥りつつあった。
 その中で日本の影響として問題にされたのが、日本軍が占領地域から立ち去る際、日本軍が軍縮で破棄されるであろう装備の多くを現地ゲリラに「奪われた」と報告した事にあった。しかもインドネシアでは、現地残留を望んだ日本軍将兵の姿がある事も問題視された。
 そして、一九四三年十一月の大東亜宣言時の独立が有効とする国、日本と連合国の停戦成立と共に独立を宣言した国、つまりビルマ、インドネシアの地域で停戦後激しい独立闘争が開始されていたのも重要だった。
 フィリピン、マレーなど日本軍の統治を受けた地域でも、日本の統治の拙さから住民の反抗心が極めて強くなったため、旧宗主国が以前のような統治を続ける事は難しくなっていた。しかもインドシナでは、共産主義勢力による独立運動が起きていた。当然とばかりに、これらの地域を戦前領有していた植民地列強は、日本に責任があるとして強く非難する。
 だが、だからといって日本を再びこれらの地域の政治に深入りさせるなど、様々な理由でできる筈もなかった。日本側も、極東条約締結までの事は、自らの国家政策に従ったまでと開き直っていた。
 そして、既にインドを手放すことが決まっていたイギリスは、比較的穏便に影響力を残しつつ独立させる方向に進んでいく事になる。この点は、すぐに力尽きたオランダも似たようなもので、一人植民地にしがみついたフランスが後に強く非難されるようになった事と対照を成しているだろう。
 また、これらとは別の理由を抱えたのがフィリピンだった。
 一部の大地主・大資産家による従来の独立派と民衆中心の新独立派による争いという、事実上の内乱の火種を抱えてしまった点だ。だが、もともとがアメリカが自ら撒いた種というアメリカ自身の理由によって、あまり日本云々という論調になっていない。
 そして、そもそもフィリピンに強く執着していたマッカーサー元帥が満州統治に熱心だったため、アメリカ寄りの政府と新政府を名乗るゲリラとが内戦を続ける不安定な状態が一九五〇年頃まで続く事になる。

 一方、日本の新たな領土決定と植民地地域での混乱にリンクして各国の足並みが酷く乱れたのが、先にも書いた戦時賠償問題だった。
 賠償を最初から否定したインド地域の各国は、日本政府とのその後の交渉を行う。そこで、対等な関係の上に立つ技術援助と人的交流など、当面お金のない日本が出来る最大限の国家育成の手助けを行い、余裕が出てから借款などの資金援助を行うという方向で円満に解決した。だが、それ以外の国々のほどんどとは喧々囂々の状態だった。
 これも先にも書いた通り、ソビエト連邦は条約違反したとして逆に日本から賠償を請求されており、イギリス、フランス、オランダは自らよりも植民地から独立する勢力に日本が金を払うと言い切っていたからだ。戦争半ばに国家存亡の窮地にまで追い込まれたオーストラリアの反発も強かった。
 また、日本が肥え太らせた満州、台湾が丸ごと自らの手に入るという思惑が完全に外れた中華民国は、思惑が叶わないと分かるにつれて賠償を求める声を強くした。特に、中華地域の九〇%以上の重工業が存在する満州が実質的にアメリカの手にわたって一人で歩みだした事は、中華統一という政治目的も絡んで極めて大きな失望となったため、賠償請求の声も大きくなった。
 その後の中華民国上層部が、感情面で反米・反日傾向が強くなったのも頷けるだろう。
 結果、比較的簡単に問題が解決したのはニュージーランド、カナダ、フィリピンと会議に参加しなかったタイぐらいだった。そして、先に挙げたソ連、イギリス、フランス、オランダ、中華民国、、オーストラリアとの交渉は、簡単には出口に出そうになかった。
 だが、本国の再建を一日も早くしなくてはならない欧州各国にとって、十年後の十億ドルよりも当面の一億ドルの方が有用であるのも事実だった。だから、植民地地域での損害賠償については取りあえず棚上げし、それぞれの国々に直接与えられた損害に対する賠償問題の解決が図られる事になる。これなら比較的少額だし、今の日本から取り立てるのも容易いと思われたからだ。
 そして、これに関してはアメリカが、既に日本には当面賠償を払う資金もなく各種プラントが本格的に再稼働して利益を出すまで数年を要すると結論した事から、日本が持っているが当面必要なく、また価値の高いものによる即物的な賠償で問題解決を図ろうとしていた。
 つまり、どうせ軍縮で廃棄する必要のある兵器、特に優れた海軍艦艇を当面の戦時賠償として充てようとしていたのだ。またこれは、技術ほど価値の高いものはないと言うことでもあった。
 このアメリカのアイデアに乗ったのが、酷く損耗した軍事力の早期再建を考えていたフランス、オランダだった。少し後にイギリス、中華民国が加わる。そして、日本海軍に残存した優良大型艦艇のうち三分の一が賠償に充当されてる事が決まると、艦艇の取り合いが各国の間で行われた。
 なお、ソ連と日本双方の賠償交渉はついにまとまらず、今日においても「北方賠償問題」として年中行事のように喧嘩腰の意見が交わされ、日露(ソ)間の協力関係を阻害しているのは皆様もご存じだろう。

 ではこの節の最後に、日本海軍主要艦艇のその後と、日本の一方的軍縮という条項に従ったあと、新たに誕生した「兵部省」のもと再編成された新生日本軍の一九五〇年次の姿を見て最後に進みたいと思う。


 

 

■戦時賠償艦艇と新生日本軍 

■解説もしくは補修授業「其の弐拾九」 

■フェイズ三〇「そして現代へ」