5.MGSから考える核兵器問題 我々は核兵器の威力が計り知れないものだということは知っているが、それがどれほどのものか知っている人は減りつつある。 恐らくゲームから直接核兵器の威力を実感することはできないだろうし、おそらくテレビや写真からも実感はできない。 ただ、核兵器がもたらす脅威を語りつかなければ、広島や長崎の悲劇を創りかねない。 特に、唯一の被爆国である日本はこの脅威を訴え続けなければならない。 その動機付けがたとえゲームであろうと無意味であるはずが無い。 現在地球上にある核兵器がすべて爆発したとき、それは地球にとって破滅の狼煙(のろし)をあげたことになり、地球の全生物はほぼ100%死滅するといわれている。 核兵器が無くならない限り平和は存在しえないのかもしれない。 上辺だけの平和ではいけないのである。 さらに、MGSに登場する"Metal Gear"は決して現在の技術で不可能でないだろう。 つまり、この世に"Metal Gear"が登場してもおかしくないし、もうすでに"Metal Gear"のような武器が存在するかもしれないし、このゲームが世界の未来予想図を表しているのかもしれない。 あらゆる技術の研究に関しても言えることだが、科学の進歩というのは同時にあらゆる生物への危険性をはらんでいることを忘れないで欲しい。 便利になる分だけ都合の悪い部分が現れる、これは自然の摂理なのかもしれない。 |
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6.MGSから考える遺伝子問題 我々も一度は、スーパースターになりたいと思うことは無いだろうか? この広い世の中、メジャーリーグで活躍できるような子供や一流企業に就けるぐらいの頭脳を持つ子供 など、他の子供より優れた子供を持ちたいと思う親もいるかもしれない。 そんな願いが近年のうちに遺伝子操作で可能になるかもしれない。 ただ、そんな夢のような話が可能になるはずが無いと思っている人もいるだろう。 しかし、この目まぐるしい遺伝子工学の発展がその夢の可能性を示唆しているようにも思える。 1997年のクローン羊ドリーの誕生が事の根幹をなし、将来この実験が善に向くか悪に向くかは分からないが、再びこの誕生についての論争が呼び起こされるときがくるだろう。 現在でも遺伝子治療は優性思想につながるのではないか懸念されている。 ただ、遺伝子で受け継がれるものが全てでない。 前にも述べたが、遺伝子で受け継がれるのは生物的な情報に過ぎない―人種、性別、顔貌、体形・・・・・・etc。 これらがすべて人を形成しているだろうか? その問いの答えは「NO」である。 人は考える頭脳を持ち、感じる心を持ち、性格によって様々な行動が決定しうる。 また、育つ環境により、人は何度も変わっていく。 だからこそ、優性遺伝子や劣性遺伝子なんていう考え方が間違っていることは頷けるし、有能なスポーツマンの遺伝子でスポーツマンの子供が必ずしも生まれるというわけでもない。 重要な事は遺伝子では受け継がれないものを後世に伝える必要がある。 それが何か、今ひとたび考えて欲しい。 さらに、クローン人間の研究には危険な問題もはらんでいる事を知ってほしい。 人間のクローン技術が成功したら、次のような事が可能である―(ES細胞の利用により拒否反応の無い)臓器移植、不妊治療、白血病の治療・・・・・・etc。 ただ、このことは倫理的問題や宗教的問題を含み、技術的にも現段階では人への応用は難しい。 また、クローン技術の規制に対して、どこに線引きすべきかが問題となる。 ノーベルが発明したダイナマイトも最初は工事現場での岩盤破壊という名目で生み出されたものが、最終的には軍などでの爆薬や地雷に利用されるようになってしまった。 クローン技術も医療だけでなく、軍事利用される可能性があり、クローン兵士の登場も否定できない。 そして、簡単に同じ人間を大量に創り出すことができることができるようになれば、人間はモノのように扱われるようになるかもしれない。 クローン技術というのは、まさに諸刃の剣なのである。 |
7.MGSから考える戦争問題 2001年9月11日、世界に多大な恐怖と衝撃を与えた―――そう、ハイジャックされた航空機が世界貿易センターに激突し、多くの死傷者を出した事件が起こった日である。 最初、この事件の映像をテレビで見たときは「映画の特殊効果か?」と疑うほどのものだった。 それ以来、世界では悲痛なニュースが流れ続けた。 その後起こったイラクでの報復に対して、アメリカはこの報復を正当化した。 しかし、この世に正当化される"善"という名のつく戦争は存在しない。 どの国でも人を殺せば殺人者は殺人罪という罪で罰せられるが、戦場で大量の敵兵を殺した兵士は自国で称えられる。 同じ人殺しなのにこれほど扱い方が違うのはなぜだろうか? これほどの矛盾は存在しないのではないだろうか? その事件から約2ヵ月後、2001年11月29日にMGS2が発売された。 そのゲームの最後には、"我々は未来に伝えなければならないことがある"とある。 アメリカは何度も"テロに屈しない"といい続けて、戦争を始めた―――"我々が未来に伝えなければならないこと"はテロに屈しないということなのか?戦争を繰り返して平和を手に入れようとすることなのか? それは決して違う。 我々が伝えなければならないことは"武力では何も解決しない"、"戦争で何も利益を生まない"、"戦争で生み出されるのは憎悪と死傷者だけである"ということではないだろうか? MGS2の発売はそうした願いをこめてあると言えるだろう。 今もなお、世界の各地では戦争や紛争は止むことはなく、毎日のように誰かがその犠牲になっている。第2次世界大戦では日本も同じように死傷者を多く生み出し、戦争による痛みを知ったはずである。 ただ、街中で銃撃戦や砲撃の音が聞こえることはなくなったせいか、戦争に対する危機意識というものが薄れていくように思える。 さらに、人の痛みを感じない者が増えつつある。 戦争の危機意識の希薄化はそうした人に痛みを自分の痛みとして省みないことに繋がるのかもしれない。 戦争の悲惨さ・残酷さは残された建築物や記録テープから窺い知れるが、その痛みを直接窺い知ることまではできない。 それでも、我々は戦争を止める必要がある。 それが我々の未来への義務なのかもしれない。 |
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