気を散らさずに行なうこと
はっきりした気持ちというのをわかりやすく言うと、なあんだ、そんなことか、と思うことなんだよ。はっきりした気持ちと言うのはね、気を散らさずに行なうことがはっきりした気持ちなんだ。

どうです?もう少しくわしく言えば、執着から解脱して、つまり雑念、妄念、邪念から心を放して、気持ちを使うのが気の散らさない心なんだ・・・・・・と詳しく説明されると、かえってわからなくなっちまうだろ。

人間が心を使うとき、気が散っていることぐらいいけないことはないんであります。なぜ気が散るといけないかというと、気が散れば心のまとまりがくずれてしまう。

ノイローゼにかかったり、神経衰弱にかかったり、精神病の一歩手前に入っちまうのは、この気の散りすぎが原因なんですぜ。頭のなかは線香花火みたいに、パッパッパッパッ、いろんなことを考えてますわ。水鳥の足に暇なきありさまと同じように。そうなるとね、心本来の力も分裂してしまうからだめなんです。

心というものが、まるで花魁(おいらん)のはなかんざしみたいに、あるいはまたカニの手みたいに食い物に、お金に、女に、煩悶のことに、心配事に、あるいは何かとエトセトラ。そうすると、たとえば百の心がここに十、ここに十、ここに十、ここに十、ここに十、ここに十となると、残るところは四十だろう。百の心を与えられていながらボルテージが下がっちまうから、わずか四十だけの力で人生を生きるべく余儀なくされたら、神経衰弱にもなればノイローゼにもなるよ。

百貫目持ち上げられる力を与えられていながら、六十貫だけ他へ使っちゃって、持ち合わせている力が四十貫になっちゃったら、目の前に百貫の物が出たときはどうする?わかりきったことなんだよ。

聞いてて、「ばかげた話だなあ、そんなことぐらいは、俺は生まれたときから知っている」というような顔をしている人はいやしないか。けれどよく考えなさい。いま現在、己(おのれ)のこころがどっかにひっかかっていやしないか。

お集まりの諸君の顔見てると、一心に聞いてる人と、なかには何かを思い出しちゃって気がそわそわとしているものがある。出がけにガスの栓をしてきたかしらんとか、電気ストーブのスイッチひねってきたかしらん、なんてことを考え出すと、もう私の話なんか聞いてる気になれないもん。話をしながらしばしばあなた方の顔を見てると、ああ、この人は私の話とピタッと結びついているわというのと、でないのは、すぐわかるんですよ。

とにかく、こころがまとまってないんだ。しょっちゅう、ちらかっちゃってるんだから。ちらかってたらば、心の力、働きはそれはもう哀れ惨憺たる状態になってしまうんだ。ばらばらになっちゃってるもの。

あなた方も、よくこういう人を見受けやしない?私なんかのべつ見せられているけれども、たくさんの仕事や、ややこしい事件に直面すると即座に面食らっちまって、さながら釘づけにされたように手も足も出ないウロチョロ組になっちゃう奴がいる。

中村天風述 『成功の実現』 日本経営合理化協会出版局 より抜粋

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