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大塩の乱関係論文集目次


「大塩平八郎と大阪天満成正寺」

成正寺住職 有光友信 1995.10.25

◇禁転載◇

成正寺の開山は増長院日秀聖人で、慶長九年(一六O四)三月の創立である。

開山日秀上人は、身延山十八世妙雲院日賢上人の高弟で、専ら京洛の地に伝遺せられ、 歌道に堪能で、豊臣秀吉の知遇を受け、京都伏見墨染寺を開山し、大阪に停住の地と して成正寺を建立した。共に身延山直末である。(後の大塩と成正寺の関係に結ぴ付く)

大塩平八郎の先祖は、駿河今川家の一族であったが、今川家の滅亡後は徳川家康に仕え、 大塩波右衛門義勝と言った。小田原合戦の時、家康の馬前で敵将を打ち取り、その勲功 によって弓を拝領した。義勝は尾張徳川義直の家臣となり、代々徳川家に仕え、名古屋 自壁町を本拠とした。これが大塩の本家であって、今なお拝領した弓を家宝としている。 身延山直末大光寺を菩提寺としている。

本家の大塩波右衛門義勝の末子が大阪に出て町奉行組与力となったのが大塩六兵衛成一 と言う。菩提寺を本家の縁故で、同じ身延山末の成正寺とした。

成正寺には享保九年(一七二四)以後の新寂帳が現存し、この中には大塩家の戒名が十 九人記載されてある。また「諸屋敷宗旨改帳」も二冊現存し、大塩家に関する記載があ り、大塩家が成正寺の檀家であったことが証明されている。

募碑についても、大塩家に関するものが現在九基あり、外に旧大淀区の南浜墓地に二基、 北区末広町蓮興寺(現日蓮本宗)に三基ある。

大阪大塩家の歴代と墓碑現存地

  初代 大塩六兵衛成一
         墓(成正寺)
  二代 大塩波右衛門
         墓(成正寺)
  三代 大塩喜内
        墓(南浜)
  四代 大塩左兵衛
        墓(成正寺)
  五代 大塩助左衛門
        墓(南浜)
  六代 大塩政之丞成余
        墓(成正寺・南浜)
  七代 大塩平八郎敬高
        墓(成正寺、蓮興寺)
  八代 大塩平八郎後素 号中斎
        墓(成正寺)
  九代 大塩格之助尚志
        墓(成正寺)
大塩家墓碑については、大塩の乱(後に記述)により、成正寺墓地にあった墓は 廃墓としてすべて土中に埋蔵されていた。明治三十年になって、「中斎大塩先生墓」 が本堂正面左側に建立され、大正五年になって「大塩格之助君」が大塩先生の墓の左 側に建立された。

又、本堂正面右側には、大塩平八郎の筆による、祖父「大塩成余之墓」並に父「大塩 敬高之墓」が建立されたが、昭和二十年三月十三日大阪大空襲により本堂、庫裏等 と共に大塩家関係の墓碑も損傷した。戦後、昭和三十二年になって「中斎大塩先生墓」 並に「大塩格之助君」の墓を元の場所に復元し、「大塩成余之墓」並に「大塩敬高之墓」 も修復し、大塩の乱直後に埋蔵された四墓の墓を墓地整埋中に発見し、修復をして成正 寺墓地に大塩家墓所としてまとめて安置している。

さて、大塩平八郎は、寛政五年(一七九三)一月二十二日大阪天満与力大塩平八郎 敬高の子として天満四軒屋敷(今の造幣局官舎敷地内)に生れた。しかし四国阿波に 生まれ塩田家から大塩家に養子として入ったという説もある。

平八郎は幼名を文之助といい、諱は初め正高、のちに後素、号は中斎と云う。 七才にして父、八才にして母を失い、祖父母によって育てられる。文化三年十四才の 頃与力見習として出仕し、二十才にして与力の職につく。

大阪には当時、東町奉行所と西町奉行所があり、二名の町奉行が摂津・河内・和泉・ 播磨を管轄していた。町与力は町奉行のもとで東西奉行所にそれぞれ三十騎が配置さ れ、下級に同心五十人を指揮して市中(兵庫・西官等を含む)の司法・行政の任に当っ ていた。

大塩平八郎は文化三年(一八○六)頃東町奉行所与力見習いとして出仕し、文化八年 (一八一一)頃には定町廻役としで勤め、目安役・証文役、吟味役、極印役、唐物取 調定役などを歴任、それぞれの役の筆頭を勤め、その清廉潔白な勤め振りと、有能な 手腕、又学に裏付けられた果敢な実行はよく世の知るところであった。文政十三年 (一八三○)に辞職を願い出、家督を養子格之助に譲った。

大塩は在職中に三大功績といわれる三つの事件を解決している。

その第一は文政十年(一八二七)のキリシタン逮捕事件で、さのという女性が吉凶禍福 を占い、信仰を進め多額の金品を詐取し、関係者一同が召捕られた。これを大塩が担当、 詰問の結果キリシタンの教えをきぬという女性から習い、そのきぬときぬの師匠の京都 の陰陽師豊田みつぎも逮捕され、取調べによって水野軍記という教祖が浮び、つぎつぎ に軍記の門弟が検挙された。当時異端的な思想や秩序の枠を破る宗教、又キリシタン に対する禁教政策として処断された事件であった。

次に第二は、文政十二年(一八二九)の奸吏糾弾事件で、西町奉行所の古参与力・弓削 新右衛門が数名の岡っ引きを使って、盗賊と通じて盗みの手助けをしたり、賄賂をむさぼ るなどの悪事を働き市民を苦しめていたのを、奉行所内の粛正という難事件に異常な決断 でのぞみ、弓削新右衛門に詰腹を切らせた事件です。

第三は、文政十三年(一八三○)の破戒僧処分事件で、大塩は警告を無視して悪行を続け た破戒僧数十人を捕え遠島処分にした。第二の事件と共に官紀の粛・僧風の革新に見るべ きものがあったとされている。

与力の職を辞職した大塩は、以後は専ら陽明学者として洗心洞塾で道を講じた。門人には、 近隣農村の豪農・地主層とその子弟、与力・同心並にその子弟、そして近隣諸藩の藩士、 又は医師、文人等がいた。

大塩の主著として「洗心洞箚記」があり、大塩自身の言葉と王陽明はじめ中国の儒者の思想 について解説されている。又、外に「古本大学【舌リ】目」「儒門空虚聚語」等がある。

大塩中斎の学問・思想については、「太虚」「良知」「孝」と三綱に統一されている。太虚 は実在論であり、良知は認識論で、孝は道徳論ということが出来る。太虚は字宙の根本本体 であり、絶対なるものである。良知とは心の本体であり、人に先天的に存在しているもの。 良知を致して、太虚に帰す。即ち心、善にして、宇宙の本体に帰す、我と天地万物とが一体 である悟境に入り、それによって国家・社会・人生に天地万物一体の仁を為すと説いている。 又大塩は「知行合一」を実践的指針としている。大塩の乱、乱後の大塩に対する評価を次号 につづけます。


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