Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.7.6訂正

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「大塩平八郎の決起と乱の影響 そしてその評価」

成正寺住職 有光友信 1996.1.1

◇禁転載◇

 前回大塩家と成正寺の関係、大塩平八郎の与力としての活躍、大塩の学問・思想 について書いてきました。

 さて、大塩平八郎は天保八(一八三七)年二月十九日に、一党七十五人が大塩邸に火を放ち、向いの朝岡宅に棒火矢を打ち込み、「救民」と書いた旗を立て、「天照皇太神宮」「湯武両聖王」「東照大権現」「八幡大菩薩」などと書かれた旗が二旒、今川家の紋所の五七の桐に二つ引きの旗を押したて、大筒・棒火矢や炮碌玉を使って与力同心の屋敷を焼き払って決起・拳兵したのが「大塩の乱」といわれている出来事です。

 そのころの大坂は、又政治と社会はというと、大坂は江戸・京都とともに三都とよばれ、「天下の台所」として知られていた都市でした。江戸は人口の半ばが武家で政治都市、京都は伝統を誇る町衆の文化都市、大坂は全国と結ぴついた商業と加工 業の産業都市であり、元禄期には、諸国から大坂の蔵屋敷に運ばれてくる米や持産物の取り引きと、周辺の綿作など農村経済の発展に支えられて繁栄し、豪商は金融上で大名を支配するほどの経済力をもっていました。しかし、時代とともに大坂の経済は少しずつ変化していき、大坂市場をボイコットして江戸へ直送する新興商人や藩の専売制など、幕藩制の流通機構に変化があらわれ、又江戸周辺の経済発展がすすみ、江戸と周辺農民との間に独自の経済圏が形成されて、大坂に影響を与えるようになってきました。

 大坂の町方の住民については、実に借家層が多く、船場では八〜九割が借家住居をしており、天保の飢饉では施米を受ける対象となっている。大坂周辺の村々も同じような情態で、農村でありながら飯米を購入する貧農層が多く、大坂径済の低迷する変動の影響は摂河泉播の村々にも深く与えていました。

 一方そのころの政治と社会については、大塩平八郎が与力・学者として活躍した文化・文政・天保の時期に将軍の座にあったのが十一代徳川家斉(一七七三〜一八四一)です。家斉は天保八(一八三七)年に将軍職をその子家慶に譲ったのちも大御所として実権を握っていたので、この時代を大御所時代と呼ばれています。老中首座の水野出羽守忠成などは大御所の家斉や大奥に取り入って権勢を専らにし、人材を登用するのに、大名・旗本等が他人をおしのけて官職につこうとする猟官運動を奨励したため、賄賂が公然と横行しました。忠成の収賄は世人の注目をあつめているのでした。

 大塩平八郎は、天保八(一八三七)年二月十八日、幕閣にあてた建議書(一九八四年静岡県韮山の江川文庫より発見、「箱根山麓豆州塚原新田で発見された大塩平八郎関係書状類」一九九○年に『大塩平八郎建議書』として公刊)の中で初めに水野忠成を槍玉にあげて批判を展開し、不正無尽など十項目にわたって構造汚職の実態を天保八年二月十九日の決起する一日前に江戸の幕閣にあてて送っております。このことに関しては今後の研究が期待されます。

 このような天下の台所であった大坂の低迷。官財界癒着の政治を背景として大塩の乱は勃発しました。

 大塩平八郎は、挙兵の前日二月十八日、門弟たちを使って近在の農民達に向けて檄文を配布しました。檄文は大塩の心血を注いで書き上げた二千字を超える長文で、加賀絹の袋に入れ、袋の表書には、「天より被下候村々小前のものに至迄へ」と書か れてあり、
まず「四海こんきういたし候はゝ、天禄ながくたゝん、小人に国家をおさめしめば、災害并至」と天下の人民が困窮した原因を〃小人〃が政治をとりしきり、金・米を取りたてる手段ばかりに奔走している。米価はいよいよ高騰し、大坂の奉行や諸役人は「万物一体の仁」を忘れ、得手勝手な政治を行っている。つまり江戸へ廻米し、天子のいる京都へ廻米しないばかりか、五升、一斗ぐらいの米を買いにくる者を召し捕ったりするなど言語同断のことであります。

 又大坂の金持ちは、大名などに金を貸してその利息、扶持米などを莫大に掠め取り、裕福な暮しで、昨今の天災で苦しむ人を見ても救おうともしない、茶屋へ大名の家来をさそって、高価な酒を湯水同様にのみ、役者などと遊楽にふけっている、奉行や役人たちもこれらを取締ることもせず、堂島の相場いじりぱかりをしています。こういうことはゆるされないことです。

 大塩はこのようにのべて、「蟄居の我等最早堪忍難成、湯武の勢孔孟の徳はなけれ共、無拠天下のためと存じ血族の禍をおかし、此度有志のものと申し合せ」諸役人や大坂市中金持ちの町人共を誅殺し、金銀銭米を分散配当するので、困窮者・難渋者は大坂市中に騒動が起ったと聞けぱ即刻かけつけよと決起をよびかけました。

 大塩の決起は、天満に火災ありと知って駆けつけた農民たちや、味方に引き入れた市民たちを含め三百人ばかりになっていました。

 大塩勢は高麗橋・今端橋を東へ進み東横堀を渡って南に進み、平野橋東詰で奉行所側と銃撃戦となり、大塩勢は離散して百余人となり、淡路町を西へ堺筋あたりで最終の決戦となって、大塩勢は総崩れとなり、ついに四散してしまいます。ときに午後四時頃で決起以後わずかに八時間余りで終決します。

 乱直後より、幕府・奉行所の大塩勢に対する探索は厳重になり、大勢の者が処罰され、二十二人が遠島になり、屋久島・種子島・天草・五島・隠岐・壱岐・佐渡等に島流されています。事件参加者の子供で男子は十五才になると島へ送られていました。

 大塩平八郎と格之助は天保八(一八三七)年三月二十七日油掛町美吉屋五郎兵衛方に潜伏しているところを発見され、放火して自決しています。その後大塩父子等二十人が磔、その他の処刑者は七五○名に及んでいます。

 大塩の乱そのものは一日にして終決してしまいますが、そのあたえた衝撃は大きく、つぎつぎに大塩の思想と行動に刺激を受けた事件が続きます。天保八(一八三七)年六月には越後柏崎で「生田万(いくたよろず)の乱」又大坂とは目と鼻の先の能勢に起った百姓一揆があります。この一揆は「徳政大塩味方」と称して同年の七月三日に起っています。

 天保八年中、大塩の乱の直接の影響を受けた騒動・一揆の予告張札等は七件で、一揆・打こわし・騒動等は百十七件に達しています。

 大塩の乱についての評価は様々あります。儒者や武家の中にはいち早く交遊関係をとりつくろい、乱を非難して距離をおこうとした人もあります。今でも伝来の家を乱によって焼かれこの事件に親めない人もいるでしょうし、又一方で「大塩はん」 「大塩先生」と語りつぐ雰囲気があります。

乱当時に大塩平八郎を召し捕った者に褒美として銀百枚を与えるという触れに対して、民衆が「たとえ銀の百枚が千枚になろうとも、大塩さんを訴人されようものか」という記録もあり、又「金のほし、銀のほし、東の奉行いんでほし、大塩さんが出 てほし」というような大塩の登場を求める声が出てきている。現在でも梅田地下街で美化を口実に新聞売り場とかが強制整備されたときに、壁新聞が張り出され「大塩平八郎はおらんのか」というのがあり、今も大阪の中には大塩像が生きているようであります。

  (完)

 


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