Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.8.12
2001.6.26修正

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大塩の乱関係論文集目次


「中 斎 逸 話」

『大阪朝日新聞』1906より




大阪朝日新聞 明治三十九年四月二十日  

「大塩中斎先生」

編輯長足下
湧き出づる潮の如く、燃え上がる焔の如く、その主義を以て、その学術を以て、苟安腐敗、蛆虫のやうなる大阪の吏輩を氣死せしめ、偸安恬逸の中より一世を覚醒したる東町奉行所の与力の隠居中斎先生大塩平八郎の人物を想い来らば、惰眠を貪り易き春の日永にも、意気森然人をして毛髪為に竪つの感念に堪えざらしめ候

今月二十日は、さしも威名の凛然たりし中斎先生が、暴乱の二字を以てその事迹を抹殺せしめらるゝに至り靱油掛町に割腹の屍を焼瀾せられし天保八年の春三月二十七日より数えて正に七十年前の懐古の跡と相成申候、この時この際感想の一層深きものあるは、読者と倶に頷かせらるべしと存候

中斎先生の六十年祭には、大阪の有志相謀り、霊位を天満東寺町成正寺なる先塋に設けて薦事を修し、遺墨遺品を書院に陳じて今昔の感を寓し紀念として『中斎先生の墓』を先塋の次に建立致候

『人随無事醉明時、柔脆心膓如女児』を謡ひて、摂州甲山の頂より遥かに大阪の空を睥睨せし 中斎先生が満幅の不平は如何ばかりに候ひしぞ、ふびんや町奉行跡部山城守は、先生が憂世の声には聾にて候ひし 青年二十六、始めて与力となりて政刑の吏務を取り、二十七歳にして忽ち吟味役に挙げられ、邪をくじき、奸をあばき、吏輩は襟を斂め民人は刷新の日を翹望致し候、先生一日菓子一折を同僚の目の前に突きつけ意味ありげに笑をかくしつゝ、御同役はお菓子が好きだから事務の処理が容易に捗らぬと警告致候、蓋を開けば餡と砂糖にはあらで黄色に光る物が一杯詰めてあり候

先生は此筆法を以て今の何とやら婆のやうな妖巫を磔し、与力弓削新左を闕所に処し、贓財三千金を窮民に撒きちらしたるなど、何れか快心の挙に有之間敷哉、三十七歳にして吏務を子に譲り、高踏勇退与力の隠居として隠然吏民の間に其の重きを為せし面目態度は、今更ながら想いやられ候

即ち中斎先生の身後七十年の今日有志の間に、その紀念会の計画有之候ひしが、愈二十日午前十時より、右成正寺に於て追薦を営み、江湖同憂の士と共に往をしのび今を弔し候趣に御座候

中斎先生の逸聞に就ては、此の場合多々御覧に入れ度材料有之、回を重ねて更に御意を得度存候、敬具(某)

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「天声人語」

 七十年前大塩平八郎氏は人民の怨氣天に通じ飢饉や地震が流行すると云つたが、今年は亦どうして斯う地震が多いだらう台湾、伊太利今度は亦米国の番となつて居る大塩ではないが造物の神が怒つて此罪悪世界を打ち壊すつもりではあるまいか、去りとは恐ろしい事である

▲処が此の地震が官海にもあるから面白い。警視庁にも大地震があつた、是は原内相の大骨折で結構な地震であつたが、其の原内相は地震の結果を面白いと思つてか今度は松岡農相の椅子に及ぼして居ると云う説がある

▲松岡農相は此の間は都築君に睨まれ、今亦此の地震の親方から睨まれて居る、地震が米国に押し渡つたと同じく大分騒がして居るらしい

(後略)


大阪朝日新聞 明治三十九年四月二十一日  

「中斎逸話」(一)

▲中斎大塩平八郎の七十年紀念に就いてはその忌日に当る二十日の紙上に編輯長宛の書柬にて其趣旨は略盡されてあつたが、その逸話に至りては当年九十三の高齢に躋られた田能村直入画伯の直話ほど、興味饒きものはあるまいと思ひ、画伯を訪うて親しく其談話を聴取することを得た。

▲画伯は宮内省御用の絵画を謹写して、すでに畏き辺りへ上つられたが、宮方よりの御下命があつて揮灑に維れ日も足らぬ昨今成るべくは来客を謝絶して、京都の画禅堂を去り、今は某地に仮寓して居らるゝのを押して面会を申込んだのであつた。

▲外ならぬ大塩先生の事といふので、画伯は欣んで小生に接し、夕暮の氣の急く折をも憚らず、詢々として倦まざる快談に、膝の前むを忘れしめ、火鉢を囲んで深夜までその物語を続けられた。

▲小生『突然御邪魔致しましたのは、外でも御座りません、実は御承知の明日(二十日)は大塩先生の七十年忌に当りまして、有志者が天満の成正寺で紀年会を致す筈で──先年六十年祭の節にも先生(直入画伯)の御出でがありましたので、此度も何か直き直きに御話を承りに上がりました』

▲画伯『大塩先生の紀念といふ事に就きましては、大阪の団扇堂といふ扇屋の主人が、以前から縁故があつて、何でも一つ大阪に紀念碑が建てたいといふ話で、此の間亡くなつた鹿田の主人(松雲堂静七氏)も六十年祭の時の発起人で、先生の墓だけは成正寺へ建てる事が出来ましたが、右の紀念碑はツイその儘になつて仕舞うて……その節も私に碑文を書ひて貰いたいとの頼みもあり、段々先生の事蹟を書いたものも見ましたが大抵は出てあるし、別に変つた事柄も無いが、先づ私の覚えて居る話で余り世間には伝はつて無いと思う事柄を書いて、ホンの草稿だけをこしらへて見ましたが、その草稿も引越の時分に入れ処を失い一寸手元に見当りませぬ』

▲生『ソレは残念でござります、今度の紀念会に就きましても、何かその様な書き物が欲しいのですが、兎に角そのお書きになつた逸事と申すのは、如何やうな事柄でござりましたか』

▲画『イヤその節も団扇堂の話しには、建碑と言ても主たる発起人を定めねばならぬがといふ話であつたが、それには大塩先生の伯父分に当るといふ吹田村の神主(宮脇志摩)の孫が、今日歴然として居るといふから、先づ此の人を発起人として、扨建碑の費用は何程かゝるものかと聞くと、その時分に先づ五百円もあれば十分であらうと言うた、それ位の賛成者を得るのは六ケ敷はあるまいと話した事で……』

▲生『さて伺いたいのは大塩先生の逸話でござりますが……』

▲画『その大塩先生の血族といふのは右の吹田の何某──名は一寸思ひ出せぬが、それは伏見の薩摩邸に居つた岡本節香堂といふ老人が、吹田の何某は右の大塩先生の縁者であるといふことを話したので、その節香堂といふのは京都の御幸町仏光寺の辺に居る人で……この薩摩邸といふ事が、中々不思議な訳合である、といふのはドウも妙な話もあつたもので、その以前に大阪の薩摩邸に留守居か何かをして居つた石原源之助と申す老人が、或時──左様維新早々の頃でもあつたかな──不図出合つた機みに私に向つて、先生、アノ大塩平八郎といふ人は全体何ういふ容貌であつたと尋ぬる、ハア変な事を尋ねらるゝが何か心当りでもござるかな。イヤ実はあなたの御話を窺うた上でといふ。ソーだな大塩先生といふ人は先づ背恰好のスラリとした、凛とした風采で、鼻は高い方、眉は少し釣上つたといふ風で、頭が少しオデコといふやうな形であつたがと話すと先生は丁と横手を打つて、さては拙者の目利も違ひはござりますまい、大きな声では申されぬが、その大塩平八郎といふ名前の老人−只今のお話に能く似た様子の老人を確に藩(鹿児島)の方で見受けましたが、といふ』(好)


大阪朝日新聞 明治三十九年四月二十二日    

「中斎逸話」(二)

▲小生『大塩先生の薩摩落は耳新しう承ります、しかし大塩先生ともあらう人が、たとひ事が敗れたにせよ、ヤミヤミと自爆して真黒々の黒燻りでは跋が善過ぎます。勿論豊臣秀頼公を始め、失意の人の末路が薩摩へ落ちたとの話は、格別珍しくもありませぬが……」

▲直入画伯『左様さ、ところが一つは薩摩といふ国がアノ通り幕府の眼の届かぬ処としてあつたから、穴勝何とも云えないし、今の話の薩摩の大塩平八郎といふ老人が、伏見鳥羽の合戦が済んでから京にも上り、東洞院蛸薬師東の処に、誰れ憚らず『大塩平八郎』の表札さへ出てあつたのを見て知つて居るとも言ひました。』

▲生『いよいよ出でゝ愈不思議な訳で、ソーなると乱逆呼ばゝりをされた大塩先生が 翻つて官軍の急先鋒ともなられたやうな事になります。ソレならば今日迄に何とか其の様な噂が世間に廣まりさうなものでしたのに。』

▲直『私も其の後氣をつけてこの一件を調べたいと思うて居たが、その話はふッつり断れて了うて、何の手がゝりもなく今に不思議の裡にあるやうな次第……それからソノ爆発して死なれた当時の模様に就ても一くだりの話がある。』

▲生『それを承りませぬと、大塩生存説の根拠が立ちません。』

▲直『ソレは大塩先生がお若い時分に江戸修行をなされた途中に、箱根あたりで盗賊が二人捉つたと言ひます、二人とも今や殺されうとした処を、別に人を殺したといふでもなし、先生が扱はれて一命を助けられたお慈悲が心魂に徹して涙を流し、大塩先生の名を聞いて其の徳に感じ入り、今日の御高恩は他日屹度御目にかける時機が御座りませう、と言てそのまゝ立別れたが、此の両人は其の後立派な真人間に立返り、大阪表へ上りて蔭になり日向になり大塩先生の御身の上を守つて居つたと言ひます、更紗屋(みよしや五郎兵衛)の方で、あの通り真黒になつた死骸が二つ出たといふのに、何となく思ひ寄せられるやうな事にもなつて来ます。』

▲生『それが事実となりますると小説以上の面白味が出来まするが、それよりも先づ伺ひたいのは、あなたの大塩塾をお罷きなすつたのは何時頃でござりましたか。』

▲直『私は大塩騒動より三年前──酉、申、未と、左様天保六年未のとしに竹田が亡くなつたから、俄に国元へ立帰つたので、その為今日迄生き残つた次第で、その頃私は槍術の初段を免許されて、先生が大そう私の槍をお褒め下さつて、その免許状に添えて形の絵巻を遣はす筈ぢやが、間に合わぬから後日の事にすると仰しやつたまゝ、右の次第で国へ帰つたものだから……』

▲生『それでは故人になられた、田結荘千里さんとは、同じころの御学友でござりましたか。』

▲直『千里−あれは私より二つ三つ年上で、私同様塾長であつたのだが、これも或る事情で、命を全くする事になつた、それが又妙な次第で……』(好)


大阪朝日新聞 明治三十九年四月二十三日    

「中斎逸話」(三)

▲小生『田結荘千里さんから一度、大塩先生のお話を聞きましたのは、十数年前の昔となりましたが、アノ方が騒動の時分に、無事であつたと申すのは、何ういふ訳でござりましたか。』

▲直入画伯『それは後に聞いた話であるが、千里の親は医者であつて、その病家廻りの不在に母親が、明日は墓まゐりに是非附いて来るやうにとの言付であつた処が、千里が言ふには、折角の事でござりますけれど、明日は大塩先生の学校で陽明祭りがあるから何を打捨ても不參する訳には參りませぬとキッパリ断つたが、母親は承知せぬ、あすの墓まゐりは家の大事な勤めではないか、先祖の御法事を外にして親の言を用ひぬか、如何にお師匠さまの仰でも、その方はお断り申せ、大塩先生とても先祖のまつりをおろそかにして迄も出席せよとは仰せられまい、ときびしく言ふ、千里も是には返す言葉もない、父親も帰つて来る、同じく留める、千里も遂に我を折つて先生の方は遂に不參した。陽明まつりといふのは表向、実は門人を呼集める手段、且は世間の聞えを憚りて、さう触れ出したので、それが旗揚の期日であつたといふ話。さういふ訳で千里はその場合に外れたと言うて居つた。』

▲生『それで学校の方で千里さんと同じく塾長をつとめたと仰しやつたが、学校は何ういふ組織になつて居つたのですか。』

▲直『学校といふのは、大塩先生の屋敷内で丁度今の造幣局のところに、昔は權現さまと言て家康公の立派な霊屋があつて、そのイバラ垣一重を隔てゝ先生の屋敷がある。今でも思い出すのは学校からその垣越しに權現さまの庭が見える、その庭に丹頂の鶴が飼うてあつた、私の若いころ生きた鶴を見たのはそれが始めで物珍らしく思うた。それで先生の屋敷つゞきがアノ瀬田済之助──門人の──の地所があつて、そこから続けて建てゝあつたのが、旧塾、中塾、新塾と、コー三つに分けてあつたもので、その旧塾といふのが 子供の学校で、大抵素読ばかりを教へる、その塾長が即ち私と久保田金次との二人、次の中塾は、格之助さんと中村貞助とで受持ち、新塾には、湯川民太(名は幹、字は用譽、洗心洞箚記などに跋を書いた人)と千里とが塾長をして居つた、その湯川といふのは紀州新宮辺の者であつた。この三つの塾の外に尚一つの新々塾があつて、これは先生の直支配のやうになつて居つたその掛額には『学孔孟黌』と大きく書いてあつて、それに学則の掲示もあつた。それが又何うしてアノ騒動に持出したものか、今に額とも京の寺町仏光寺の西村弥平と云ふ老人が保存して居ると聞いた。』

▲生『そして大塩先生の学問の系統は何ういふ風になつて居りますか、江戸修行の事は承りましたが。』

▲直『先生の学問は元と中井(竹山)から出たので、篠崎(小竹)とも師友の関係があつた。私が篠崎に可愛がられたのも、竹田との交際があつたからでもあるが、一つはこの好みもあつたので……それから先生も非常に可愛がツて下さるし、格之助さんとは若い同士の事でもあり、よく話も合うた。』

▲生『その格之助といふ人は、何ういふ風采の人でござりましたか。』

▲直『先生の瘠形とは違ひ、格之助はプツプリ太つた質で、さのみ圭角のない人で、先生は始終、倅は愚直であると言て居られた。ソノ格之助が騒動の時には本町橋の方から進んで行かうとしたので、先生は總大將として最初天満橋を渡り、お城へ向ふ計りごとが破れ、橋を切て落されたので、天神橋へ廻り、天神橋も同様で、それから難波橋から船場へ進み、本町橋の格之助の手と連絡する積りが、平野町で敗軍となつたから、格之助も引返して、兼ての申合ひ通り小舟で一旦更紗屋方まで落延びられたと聞いて居るそしてアノ討手に向うた坂本鉉之助の血統は、今の海軍大学校長をして居る坂本俊篤君といふ人−たしか陸軍中將と覚えて居ますが……。』(好)


大阪朝日新聞 明治三十九年四月二十四日    

「中斎逸話」(四)

▲小生『大塩先生に御在塾の間には、いろいろの珍らしいお話が……。』

▲直入画伯『或時コーいふ事が在りました、正月といふので塾中の障子の張かへがあつた、ところが経師屋が間に合はぬので、先生も非常に困つて居られたのを見て、よろしい私が引受けますと言つて請負うた。旧塾の弟子に幸ひ天満の紙屋の小供が居つたので、それを相手に三十何枚といふ障子を残らず洗うて、見事張かへて正月の間に合はせた、すると先生は大そうお喜びなすつて、これはお世話であつた、お前は画をかくから、御褒美にこれを進ぜると、下さつたのが美濃紙一帖。こんな嬉しいことは無かつ、た、アハゝゝゝゝゝ』

▲生『それは怪しからぬお手柄でござりました。』

▲直『それから又私の名前に就て、序にお話したいのは、私は元来実名を「癡」といふのであつたのを、先生が「癡」も餘りぢやないか、俺が一つ佳い名を選んでやらうと仰しやつて、命けて下さつたのが、名は徳懋、字は彰民といふので、これはご承知の通り書経の語である、尤も画の方では、今に「癡」で通して居ります。』

▲生『ソシテあなたが二度目に御上阪なさつたのは何時頃で。』

▲直『天保六年に帰国して、再び上つたのが竹田の七回忌−丑年で天保十二年に上つて、法事を口縄坂の淨春寺で営みましたが、大塩先生とウマ合の岡田半江さん、この人は竹田にも先生にも親しい間柄であつて、前にも申した篠崎(小竹)さんとも親交があり、私は此二人に先生からのお引合せで非常に引立てられ−その頃は小虎といふ号を用ひて居りましたが、篠崎さんの如きは、小虎さんチトお遊びにお出でなさい、私の方へは諸方から書の頼みが多いから、あなたを引合せて上げませう、養父にも師匠にも別れて嘸お頼りが少いでせうと言はれてよく遊びに參りまして、篠崎さんの書をかかれる時の手伝をして、墨を磨つたり何かして、非常にお世話に成りました、半江さんも同様の恩誼があります。その時分に篠崎さんの綽号は「油〆め」とよく人が申しました、「油〆め」の男が大そう肥え太つて居るやうに、ドツシリとした体で入られたからでした。』

▲生『何うでございませうか、一つ大塩先生の肖像を願へませんでせうか。』

▲直『イヤ私は若い時には、肖像をかくことがヒドイ好きで、少々自慢で画いたのでしたが、久しく画きませんので、熟く目をつぶつて憶ひ出して画かぬと、何分今生き残つてゐるのは、私一人だから苟めに筆を下すことも出来ませんが、一つ画いて見ることに致しませう。私がソノ国へ帰つて居る時分に、大阪表から大塩騒動の事が聞えた時、皆が寄つてたかつて大塩平八郎といふ人はドンナ風の人ぢや、格之助は、誰は、とそれはく喧しいことで、イヤお話するより画いてお目にかけませうと、毎度画いて見せた事で、自分ながら能く肖て居つた積りでした。』

▲生『大塩先生の騒動は、予定よりも一日早めに事を挙げられたといふ話を聞いて居りますが。』

▲直『それはアノ平山(助次郎)等の返り忠で東町奉行跡部山城の耳に入ッたが、その晩に奉行所に当直をして居つたのは大塩門人の瀬田(済之助)と小泉(淵之助)の兩人であつたから、奉行は早速兩人を呼出した、兩人はソレと感付き腰の物をガタンと大きく刀架へかける音をさせて、実は小脇に隠して奉行の目の前へ出やうとすると、襖の影からヌッと現れた小泉は、這入るが遅し、その場で斃され、瀬田はその晩に命からがら遁げ延びて天満橋を一筋に川崎へ逃げて帰り事の露顕を逐一報告したので、今は猶予ならずと、逆寄せと極められた事柄は、世間に知れ渡つて居る通りです。』

▲生『ダンダン承はりまして、深夜までお邪魔致しました、ドウカ唯今の肖像のところを宜しくお願申して置きます。』

▲直『宜しうございます、マアお話しなさい毎ばん十時にならねば寢みはしませぬ、それでは御免下さい。』(好)


大阪朝日新聞 明治三十九年四月二十五日    

「中斎逸話」(五)

▲大塩騒動の事は、さまざまの記録によりて伝へられてあるが、茲には是れ迄余り世人の耳目に触れなかつたと信ずる他方面の新材料に依て、田能村直人画伯の談話の後に附け加へることゝした。

▲前のは生ける人の生きたる話、これは中斎の友人たる京の猪飼敬所の手柬中に現れたる数節、彼此參照し来るも、亦趣味なきにあらずと考へる。

▲敬所よりその門人たる伊勢の津藩士平松健之助(楽斎、大塩の塾へも入りし人)へ宛て、大塩騒動の後数日、認めやりし中に左の一節がある。

▲これにかぶせて、同三月二日附にて、同じく平松へ宛てたる手柬には、
大阪朝日新聞 明治三十九年四月二十六日

「中斎逸話」(六)

▲大塩騒動に次で、同じ年の秋七月三日に、又候能勢騒動といふのが起つた。これも猪飼敬所の手柬にて、その事情を知ることが出来る。日附は七月二十八日、宛は同じく平松楽斎。 ▲晴天の霹靂、大塩の鉄砲の音に、近畿の諸侯の遽てさ加減といふものは無かつた、割鷄牛刀と敬所が笑つたのも面白い。それからも一つ、その翌天保九年の六月十四日附の手柬で、同じく平松宛のに大塩、山田屋事件の結論といふやうなのがある。 ▲罵り得て骨を刺すの感あり、粉飾政略の役人果して何の顔ぞ、飢饉の最中に、祇園町の練物をさせて、京畿の米を關東へ廻すやうなことをすればこそ、大塩の肝癪玉も爆発したるなれ、恐ろしや恐ろしや、敬所の此の手柬個人あてのものなれば無事にて済みしやうなものゝ、これが表沙汰とならば、如何な憂き目に逢ひしやも知れず。七十年前の大塩中斎を追想するにつけ、くだくだしき長談義に亙りしは、編者の偏にお詫をするところである。(好) (畢)


大阪朝日新聞 明治三十九年四月二十七日

「中斎逸話」(補遺)

▲大塩中斎の逸話に就て、徳島市富田本中の丁の塩谷依信氏より左の書状に接した ▲中斎の家系は略世間に知られてあるが、宮井といふ人の考證には定めて耳新しいことがあらうと、取る手遅しと啓き見れば ▲果然、既知の事実に照して大に新材料を得たことを感謝する、尚又兵庫の耕堂生氏より二十五日付左の消息に接した

▲小生は猪飼敬所の門に従游せし弗措渡辺先生(丹波篠山の儒臣)に聞けることあり、敬所一日窮民救恤の便宜にもと、種々の野草を摘み取りて粥を炊くことを試み、後之を中斎に振舞ひ、その意見を聞かんとの旨を通ぜしかば、中斎は時に取ての好方便なりとし、早速一僕を具し京に登りて其の粥を賞味し、且窮民をして之に效はしむべしと打悦び、頓て暇を告げて立去らんとする時、僕を顧みて食膳の事を問ひしに、僕も草粥を食せりと答ふ、中斎怫然容を正して曰ふ、予の草粥一椀に甘んじ、京師を遠しとせずして来る、畢竟救恤の資を求めんと欲するのみ、而も奴僕は之に異なり、敬所より之を見る、遠来の客人に非ずや、せめて常食を供して可なりと氣色常ならざりしも、既にして色を直して立帰れりと、弗措先生敬所方に書生の折柄此の状を目撃せられたりと聞く云々(好)


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