天保年中、大阪町奉行の属吏に、大塩平八郎なる者あり、和漢の書に通じ又武
芸に達せり、時に連年穀実らず、細民飢餓に苦めり、平八郎自ら蔵書を売りて
貧民を救ひ、且上書して救助の典を請ひしが用ひせれず、豪商輩も亦賑恤に意
なきを憤り、乃ち其子格之助・同僚瀬田・小泉・渡辺・庄司等数十人と、摂津・
河内・和泉・播磨の貧民を駆り集め、救民を名として乱を起し、救民の二字を
記したる旗を樹て、総勢五百余人、火を建国寺・天満等に放てり、城代土井利
位、兵を発して之を天満橋に拒ぐ、平八郎は難波橋を渡り、隊を分ちて二とし、
益火を市中に放つ、町奉行跡部良弼も亦部下を率ゐて之を拒ぎ、其一隊を平野
町に破り、又一隊と堺筋に戦へり、時に阪本鉉之助なる者、奮進して賊の一将
梅田源左衛門を殪せり、是に於て賊勢挫け、平八郎等四散せり、既にして平八
郎父子、染工三好屋某の家に潜み匿ると告ぐる者あり、利位兵を遣はして捕へ
しむ、平八郎父子、火を縦ちて自焚せり、此役市中兵火に罹るもの、一万八千
二百余戸あり、世俗之を大塩焼けといふ、大阪有名の乱なり、
【図 大塩焼ケ 略】
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