中斎を言へば、必ず静区を思ふ、静区と中斎と到底絶つベからざる関係ありて存す、是を以て中斎に次いで静区を論ぜざるを得ず、
静区、姓は宇津木、名は靖、字は共甫、矩之丞と称す、静区は其号なり、後又名を竣、宇を東cに改むといふ、彦根藩老職某の次子にして、実に詩人岡本黄石の実兄たり、幼にして越前某寺の義子となりしも、十七歳の時に至りて慨然として曰く「大丈夫、士太夫の家に生まれ、自ら激昂して以て一世に馳聘すること能はず、碌々として、俘屠氏に終へんや」と、遂に辞し去りて京都に寓し、傭書以て自ら給すれども、貧困殊に甚しく、冬日衣を重ねず、食【食善】或は欠くることあり、人或は之れを憐んで衣を贈るも、敢て受けず、時に頼山陽中島棕隠の文名、京師に喧し、困りて往いて学ぶ、
嘗て陸象山集を読み、其自立の説を見、嘆じて曰く「儒者当に此の如くなるべし」と、是に於て専精覃思、之れを学ぶこと年あり、
会々大塩中斎が姚江の学を大阪に唱ふるを聞き、即ち往いて之れと心理を論じ、頗る其説に服し、竟に弟子の礼を執るに至れり、
中斎平生高く自ら標置し、人に於て許可する所なし、独り、静区を待つに朋友を以てし、敢て之れを弟子視せざるなり、
静区洗心洞に居ること数月にして将に去りて四方に游ばんとす、行くに臨んで中斎名刀一口と金十両とを贈り、深く属望する所あり、静区乃ち中国及び鎮西に歴游し、遂に長崎に寓し、生徒を教授す、生徒六七十人あり、居ること八月にして僕友蔵を従へて郷里に帰省せんとし、復た大阪を経て中斎を訪ふ、時に二月十七日の黄昏なり、
斯時に当りて中斎は方に乱を作さんとしつゝありければ、其夜静区に告ぐるに密謀を以てして其加盟を促がせり、静区乃ち其乱民の為たるなからんかを述ベ、且つ加盟の諾否は熟考の後明夜に至りて答へんことを約し、翌日筆を援いて一書を草して云く、
然者私儀先達而小倉表より申上候通、雨天勝に候得共、日積大体十七日夕刻大阪安治川へ着船仕、四ヶ年以前出立之砌師弟之契約仕候平八郎魔身に入り候哉、存外之企有之、大阪町奉行を討取其外市中放火致し候而御城をも乗取可申抔と企候謀反にて私荷擔可致□申強て申聞候に付、種々諌言致し候得共、申出候事返さぬ気性故容易には承知も仕間敷奉存候、
乍去此儘見捨帰り候ては武士道不相立其上斯の如き大望相明し候事故、生きては返し申間敷、乍去荷擔仕候得ば第一に御家の御名を穢し、忠孝の道に背き、師を見捨ては義理立不申、無拠一命を差出し、今夜平八郎始め徒党の者共へ、篤と利害を申聞、忠孝仁義相立候様仕度奉存候、何共重々御前様万端宜敷奉願候、
是迄厚き御慈愛を蒙り、私帰国も無程と御待も被下候儀と奉存候得者、猶更帰国難忘事未練の者と思召も恥入候仕合に御座候、
斯る時節に乗り合せ候は私武運に尽候儀と奉存候、様々具に申上度候得共、何れ即日様子は御地へ相知れ可申候間不申候、
大阪騒動と御承知被下候へば、矩之丞義は相果候義と被思召被下候、最早時刻に可相成心急ぎ荒増申上候、余は御察奉願候、以上
二月十八日 宇津木矩之丞
然れども中斎之れを容るゝこと能はず、十九日の早暁、静区書を友蔵に託して郷里に達せしむ、友蔵共に去らんことを請ふ、
静区曰く、「賊余に注目す、逃避するに地なし、汝は妙齢なれば、賊必ずしも意を留めず、宜しく速に去るべし」と、友蔵乃ち共に死せんことを請ふ、
静区曰く、「余、汝と皆死せば、天下誰れか我れを以て乱民賊党となさゞるものぞ、即ち辱、君父に及ぶ、罪これより大なるはなし、汝果して能く書を郷里に達し、我母及び兄弟をして吾が義に死するを知らしめば、即ち汝の我れに報ゆる所以のもの厚し」と、
会々大井正一郎等数人刀を提げて来たる、静区従容として頭を伸べて之を受く、時に年二十有九、最も惜むべしとなす、
静区学実行を以て先となし、論議を貴ばず、初め朱子を以て宗となし、後象山姚江を主とす、
其弟子を教ふる極めて巌なり、門人岡田恒庵あり、長崎の人、今尚ほ生存して、医を業とす、是れ即ち当時の僕友蔵なり、
静区の詩集一巻あり、題して浪迹小草といふ、岡本黄石の刊行する所に係る、其中琅々誦すべきものあり、今左に三首を掲ぐ、
詩は反りて中斎に優れり、巻末に「贈別於子栗択言」の一文あり、云く、逢坂関 斜陽古関路、渺渺客心悲、 故国残山
、前途老樹危、 一身甘棄物、多病遇清時、 可笑水雲跡、仍将書剣随、 海楼 茫茫千万里、豪気箇中横、 山向中原断、潮通異域平、 生涯佩一剣、海内任孤征、 天地容微物、臨風恥聖明、 客中除夜 沾沾潜思逐清塵、苦学何時始立身、 二十六年将盡夜、三千余里未帰人、 寒燈照影痩相顧、凍筆写情愁更真、 韓子辛勤廬未有、何堪客裏又迎春、
然れども中斎が乱をなすに当りて静区之を非として加盟せず、断然反抗して、師弟の義を絶ちしと見え、彼れを呼ぶに賊を以てせり、
抑々静区が中斎に反抗せしは、大義名分を重んずるが為なり、
彼れ中斎が挙を以て叛逆となせり、故に之れに与みするは不忠不孝なりと思惟し、肯て加盟せざりき、
今日よりして之れを見れば、中斎が挙必ずしも然く不正不義なるにあらず、固より乱をなすといふことは宜しからず、
然れども幕府の圧制に対して起るは、是れ義憤なり、即ち人民を助けて強者に敵するなり、即ち上の不正不義に対して鬱屈せる下情を達するなり、中斎は决して天皇に向って乱をなすにあらず、唯々幕府の暴虐に対して起るものなり、幕府は一時天皇の権を奪掠せるものなり、之れに向つて中斎が義憤を洩すも何ぞ必ずしも咎むるに足らんや、
然るに静区之れを呼ぶに賊を以てす、其識見の狭小にして倒逆せるものあるは遺憾なりとす、然れども彼れが人生の大節に臨んで死を决して毫も惑はず、気象凛として千秋を貫くものあるは、称揚せざらんとするも能はざる所なり、