Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.10.9
2001.5.18修正

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大塩の乱関係論文集目次


「宇 津 木 静 区」

井上哲次郎 (1855−1944)

『日本陽明学派之哲学』冨山房 1900より
(底本 1908刊 第6版)



改行を適宜加えています。

第三篇 大塩中斎及び中斎学派
第二章 宇津木静区

中斎を言へば、必ず静区を思ふ、静区と中斎と到底絶つベからざる関係ありて存す、是を以て中斎に次いで静区を論ぜざるを得ず、

静区、姓は宇津木、名は靖、字は共甫、矩之丞と称す、静区は其号なり、後又名を竣、宇を東cに改むといふ、彦根藩老職某の次子にして、実に詩人岡本黄石の実兄たり、幼にして越前某寺の義子となりしも、十七歳の時に至りて慨然として曰く「大丈夫、士太夫の家に生まれ、自ら激昂して以て一世に馳聘すること能はず、碌々として、俘屠氏に終へんや」と、遂に辞し去りて京都に寓し、傭書以て自ら給すれども、貧困殊に甚しく、冬日衣を重ねず、食【食善】或は欠くることあり、人或は之れを憐んで衣を贈るも、敢て受けず、時に頼山陽中島棕隠の文名、京師に喧し、困りて往いて学ぶ、

嘗て陸象山集を読み、其自立の説を見、嘆じて曰く「儒者当に此の如くなるべし」と、是に於て専精覃思、之れを学ぶこと年あり、

会々大塩中斎が姚江の学を大阪に唱ふるを聞き、即ち往いて之れと心理を論じ、頗る其説に服し、竟に弟子の礼を執るに至れり、

中斎平生高く自ら標置し、人に於て許可する所なし、独り、静区を待つに朋友を以てし、敢て之れを弟子視せざるなり、

静区洗心洞に居ること数月にして将に去りて四方に游ばんとす、行くに臨んで中斎名刀一口と金十両とを贈り、深く属望する所あり、静区乃ち中国及び鎮西に歴游し、遂に長崎に寓し、生徒を教授す、生徒六七十人あり、居ること八月にして僕友蔵を従へて郷里に帰省せんとし、復た大阪を経て中斎を訪ふ、時に二月十七日の黄昏なり、

斯時に当りて中斎は方に乱を作さんとしつゝありければ、其夜静区に告ぐるに密謀を以てして其加盟を促がせり、静区乃ち其乱民の為たるなからんかを述ベ、且つ加盟の諾否は熟考の後明夜に至りて答へんことを約し、翌日筆を援いて一書を草して云く、

    

其夜の深更に及んで死を决して、中斎を諌め、其挙の非なるを痛論す、

然れども中斎之れを容るゝこと能はず、十九日の早暁、静区書を友蔵に託して郷里に達せしむ、友蔵共に去らんことを請ふ、

静区曰く、「賊余に注目す、逃避するに地なし、汝は妙齢なれば、賊必ずしも意を留めず、宜しく速に去るべし」と、友蔵乃ち共に死せんことを請ふ、

静区曰く、「余、汝と皆死せば、天下誰れか我れを以て乱民賊党となさゞるものぞ、即ち辱、君父に及ぶ、罪これより大なるはなし、汝果して能く書を郷里に達し、我母及び兄弟をして吾が義に死するを知らしめば、即ち汝の我れに報ゆる所以のもの厚し」と、

会々大井正一郎等数人刀を提げて来たる、静区従容として頭を伸べて之を受く、時に年二十有九、最も惜むべしとなす、

静区学実行を以て先となし、論議を貴ばず、初め朱子を以て宗となし、後象山姚江を主とす、

其弟子を教ふる極めて巌なり、門人岡田恒庵あり、長崎の人、今尚ほ生存して、医を業とす、是れ即ち当時の僕友蔵なり、

静区の詩集一巻あり、題して浪迹小草といふ、岡本黄石の刊行する所に係る、其中琅々誦すべきものあり、今左に三首を掲ぐ、   

       逢坂関  斜陽古関路、渺渺客心悲、  故国残山、前途老樹危、  一身甘棄物、多病遇清時、  可笑水雲跡、仍将書剣随、     海楼  茫茫千万里、豪気箇中横、 山向中原断、潮通異域平、  生涯佩一剣、海内任孤征、 天地容微物、臨風恥聖明、       客中除夜  沾沾潜思逐清塵、苦学何時始立身、  二十六年将盡夜、三千余里未帰人、  寒燈照影痩相顧、凍筆写情愁更真、  韓子辛勤廬未有、何堪客裏又迎春、
詩は反りて中斎に優れり、巻末に「贈別於子栗択言」の一文あり、云く、

文中吾夫子とあるは中斎の事ならん、 静区が区々として中斎の学を弁護するを以て之れを観れば、其尊信の深かりしこと、以て想見すべきなり、

然れども中斎が乱をなすに当りて静区之を非として加盟せず、断然反抗して、師弟の義を絶ちしと見え、彼れを呼ぶに賊を以てせり、

抑々静区が中斎に反抗せしは、大義名分を重んずるが為なり、

彼れ中斎が挙を以て叛逆となせり、故に之れに与みするは不忠不孝なりと思惟し、肯て加盟せざりき、

今日よりして之れを見れば、中斎が挙必ずしも然く不正不義なるにあらず、固より乱をなすといふことは宜しからず、

然れども幕府の圧制に対して起るは、是れ義憤なり、即ち人民を助けて強者に敵するなり、即ち上の不正不義に対して鬱屈せる下情を達するなり、中斎は决して天皇に向って乱をなすにあらず、唯々幕府の暴虐に対して起るものなり、幕府は一時天皇の権を奪掠せるものなり、之れに向つて中斎が義憤を洩すも何ぞ必ずしも咎むるに足らんや、

然るに静区之れを呼ぶに賊を以てす、其識見の狭小にして倒逆せるものあるは遺憾なりとす、然れども彼れが人生の大節に臨んで死を决して毫も惑はず、気象凛として千秋を貫くものあるは、称揚せざらんとするも能はざる所なり、


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